1950年代後半、ドイツの検事長フリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウス)はナチスの戦争犯罪の告発に執念を燃やしていた。ある時、数百万人のユダヤ人を強制収容所送りにしたアドルフ・アイヒマンに関する情報が、アルゼンチンから届く。バウアーはイスラエルの諜報機関モサドと接触、アイヒマン逮捕を狙うが、ドイツの捜査機関内にもナチスの残党がおり、バウアーの妨害を図る。監督はラース・クラウメ。
 似た題材の映画として、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』が記憶に新しいが、物語内の時系列としては、本作、『ハンナ・アーレント』『顔のないヒトラーたち』ということになるのかな(『ハンナ・アーレント』は長期にわたる話なので全体をカバーするような形になるのかもしれない)。どの作品でも、主人公は政府や司法から、また国民から非難・攻撃される。皆、上向いてきた国内情勢に水を差すようなことをしたくないし、不愉快な過去と向き合いたくはないのだ。現在のドイツを見ると、第二次大戦時の反省が徹底されているというイメージなのだが、すぐにそういう状態になったというわけでは全然なく、バウアーのような人たちが粘り強く取り組んできた成果ということなのだろう。
 TV出演したバウアーが、ドイツの何を誇るべきかと若者に問われた際の言葉が印象に残った。バウアーは、土地や森は元々そこにあったものだから我々が誇ることではない、ゲーテもニーチェもアインシュタインもすごいのは彼ら個人だから我々が誇る事ではない、我々が誇れるのは自分達が親や子供に何をできたかということだ、というような話をする。バウアーにとってはナチスの犯罪を暴き、自国で司法の裁きを受けさせる(バウアーはアイヒマンを捕えるだけでなく、ドイツで裁判を行うことが重要だと考えた)ことが、国を愛することであり誇るなのだ。しかし、周囲は彼を(国の)裏切り者扱いをする。これが辛くもどかしい。愛国心て何だよ!と叫びたくなるのだ。
 バウアーはユダヤ人で収容所に送られた体験を持つ。執拗なナチスの残党狩りはその復讐だろうと揶揄する人もいるが、バウアーにとっては一度ナチスに屈した(収容所から出る代わりにナチスに従うという)ことへの後悔からの行動であり、今過去と向き合うことが自国の未来につながると信じてのことである。アイヒマン逮捕の顛末は史実通りで、本作の後味は苦い。しかし、本作の約十年後が舞台である『顔のないヒトラーたち』でも描かれたように、バウアーのような人が再び立ち上がるところに、ドイツという国の希望があったのではないかと思う。