昭和19年、広島市江波から20キロ離れた呉の北條家の周作(細谷佳正)の元に嫁いできたすず(のん(能年怜奈))は、新しい環境に慣れないながらも日々の生活をこなしていた。戦争が進むにつれ物資は更に乏しくなり、日本海軍の拠点である呉は大規模な空襲に襲われる。原作はこうの史代の同名漫画。監督・脚本は片淵須直。
 私は数年前から本作に関わる片淵監督のコラムを読み続けていたので、取材と製作にどのくらいの時間と労力がかかっているか事前にわかっていたということもあるが、作品としての好き嫌いはともかく、一見の価値はある作品なのは間違いないだろう。当時の実際の地理、生活の様子、天気、更に呉港内の戦艦の有無等出来る限り調べたそうで、情報の量と密度がとんでもないことになっている。数年にわたって調査した内容がほんの十数秒に反映されていくという、大変な豪華さだ。正直な所、そこまで綿密な調査をしなくても「それらしい」絵は作れるだろうし、綿密な取材をしたからいい映画になるとは限らない。実際、さほど取材をしなくてもいい作品を作れる作家もいるだろう。ただ、片淵監督は実際に自分で調べ、確認したことを積み重ねて構築していくタイプなのだと思う。
 本作、何より凄まじいのは、製作側の記録すること、記憶することへの執念だ。鬼気迫るものがある。おそらく最初からこのテンションだったわけではなく、取材を重ねる過程で使命感が生じてきたのかもしれない。本作は太平洋戦争中の話だが、当時を実体験として知っている人は当然徐々に減っていく。また、原爆が投下される前の広島市内の様子を記憶している人もどんどん少なくなり、街自体が燃えてしまった為に資料も乏しい。広島の風景は当時を生きた人の記憶の中にのみあり、その人たちが死んでしまうと、もう残らない。それを何とかこの世に留めようとした結果が本作とも言える。だから、極力具体的に、正確に記すのだ。それを実写映画より更にフィクショナリーなアニメーションでやるというところに痺れる。が、アニメーションでないと成立しない作品だと思う。
 すずが結婚する前に既に戦争は始まっているのだが、彼女の日常は急には変わらない。最初はそれなりに食料もあるし、何だかんだで長閑に生活している。ただ、その瞬間も彼女が戦争と無縁というわけでは全くない。そもそも呉には軍港、軍事工場があり、彼女の夫も義父も軍事工場勤めだ。一家(だけではなくおそらく近所の人たちも)の生活は、戦争によって成り立っている。すずは無自覚ではあるのだが、日常の生活と戦争は地続きで、誰かのことではなく自分のこと、自分も加担していることなのだ。そしてはたと気づくとその真っ只中にいて身動きが取れなくなっている。その過程は一見長閑だが、ふと息が詰まりそうになる。
 すずはぼんやり長閑な人で、何か失敗したり責められたりしても、困ったように笑う。そんな彼女が怒りを露わにし慟哭するシーンが1か所だけある。彼女の怒りは、自分達がやってきたのは「そんなこと」だったということ、蔑ろにされたということに対してであり、また自分達も誰かを蔑ろにしてきたことに対するものでもあったのではないか。そして、こういうことになっても容赦なく日常は続き、悲惨さも苦しみもいずれ日常に回収されてしまうということに対してではないか。