独身者は強制的にとあるホテルに送り込まれ、45日以内にパートナーを見つけなければ動物に変えられ森に放たれるという社会。妻と別れたデビッド(コリン・ファレル)はかつて犬に変えられた兄同伴でホテルに送られたが、ある出来事に耐えられず森へ逃げ出す。そこでは独身者たちがゲリラ組織を結成しており、デビッドは彼らの保護を受ける。組織の1人である近視の女(レイチェル・ワイズ)と恋に落ちるが、独身者のゲリラでは、恋愛は禁止されていた。監督はヨルゴス・ランティモス。
 監督の前作『籠の中の乙女』は、独自のルールが敷かれている家庭という密室を描いた奇妙な作品だったが、本作もまた、特殊ルール下の奇妙な世界。独身者には社会的な価値がなく、カップル(異性同性は問わない)として社会を構成しなければならないというのは、個人的にはまあそこそこ死にたくなる世界である。かと言って、独身者ゲリラに入ったら入ったで、カップルであること、特定の個人と恋愛をすることは許されない。どちらの社会も生き方を規定されているという意味では同じなのだ。滑稽だが、そのルールの極端さはどうにも怖い。
 デビッドがホテルに送られる際に色々問診を受けるのだが、その際にセクシャリティも聞かれる。ヘテロセクシャルかホモセクシャルかの選択は出来るが、バイセクシャルという選択肢はない(数年前に廃止されたというセリフがある)。また、靴のサイズを聞かれるのだが、端数のサイズはない。中途半端、曖昧なものは排除していく、あれかこれか、という世界なのだ。カップルが成立するかどうかという基準も、何となく好感が持てるといったものではなく、客観的に明らかな共通項(近視だとか鼻血が出やすいだとか)がないと、カップルだということにならないらしい。一方、独身者ゲリラの中では、セックスはもちろん、2人でダンスをすることも禁止されている。とにかく極端なのだ。人間はそもそもあっちかこっちかで割り切ることが出来ない、曖昧な存在だと思うのだが、本作ではその人間独特の曖昧な部分が否定されている。こういう社会だったら、人間やめて動物になる方がまだしも気楽っていう人もいるだろう。
 奇妙で笑ってしまうシーンも多々あるのだが、笑った直後にぞわりと寒気がする。デビッドが最後に直面する事態も、それやるの?!どうなの?!と迫ってくる。でもそれをやってしまうと、結局逃げ出した社会における「こうであれ」というものにまた従うことになるのでは。