瀬戸内海にのぞむ港町、牛窓。日本でも有数の牡蠣の産地だが、牡蠣工場は今では6軒に減り、過疎化による労働力不足で海外から出稼ぎ労働者を迎える工場も。想田和弘監督による“観察映画”第6弾。
 何で“工場(こうば)”って言うのかなと思っていたら、作業工程を見ていると本当に“工場”っぽい!養殖している状態から獲ってくるだけでなく、出荷できる状態にするまでに結構な作業が発生している。特に牡蠣の殻をむく作業の流れるような動き(“むき子”と呼ばれるむき手によるもの。作中で出てきた会話によると、一人前のむき子になるのに半年くらいかかるらしい)や、1日の作業を終えた後のむき場の後片付けの手順の、アナログなのにシステム化されている様、またむき子の席がそれぞれ自分用にカスタマイズされている様子など、あっ工場だ!って感じがしてすごく面白い。工夫の積み重ねで現行のシステムになったんだなってことが見て取れるのだ。
 また、牡蠣工場の人たちは中国から出稼ぎに来ている人たちをまとめて「中国」「チャイナ」と呼んでいて(カレンダーに「中国くる」とか書いてある)、ちょっと大雑把というか脇が甘すぎないかとハラハラしてしまったが、現地の当事者にとってはこういう感覚なんだろうな。一人一人の名前もよく把握されていないみたい。中国人は日本語が話せず、日本人は中国語が話せないという状況で一緒に仕事をするわけなので、どうやって仕事のやり方を教えるんだろうとこれまたハラハラする。言葉が通じないなら一つ一つ実演して見せるしかないわけで、双方伝えよう/読み取ろうと必死。異文化コミュニケーションの基本を見た気がする。特に若い中国人男性2人が、工場の人たちの動きをそれこそ観察して、見よう見まねで参加しようとする姿が印象に残った。観察するだけじゃなくて、その作業がどういう意味を持つのか、次はどういう作業が必要なのか想像して動いている様子がすごくよくわかる。
 牡蠣工場を営む人たちの仕事ぶりや、牛窓の町や港の様子を眺めるお仕事映画・ご当地映画的な楽しみはもちろんあるのだが、そこからどんどんはみ出てくるものがある。牡蠣工場はどこも後継者不足だが、これは漁業に限ったことではない。一次産業はきついから若者がやりたがらない、というよりも、きつい分だけのリターンがない、そもそも(ある程度の規模でないと)生活できるレベルになりにくいから人が集まらないということだろう。産業全体にお金が集まらず、より安い労働力をベトナムや中国から求めるようになる。しかし中国やベトナムの労働力も、国内の経済力が上がれば当然値上がりしていくだろう。そうしたら更に安い労働力を求めるという、きりのなさ。そもそも、牡蠣工場の経営者たちですら、「好きじゃないと無理」と断言するくらい厳しいようだ。一次産業の賃金ていつのまにこんなに安くなったんだろうなぁ。買う側としては安くて品質が安定した商品の方がいいけど、その安さの理由を追っていくとこういうところに辿りつく。かといってじゃあ全体的に価格を上げましょう、ということは(経済の仕組みそのものが変わらない限り)出来ないだろう。
 また、牡蠣工場の経営者の中には、東日本大震災で被害を受け、放射線の影響で工場の再開も望めず、宮城県から移住してきた人もいる。本作がフォーカスしているのは、地方の小さな町の暮らしだが、その背後には日本全体、そして世界全体の問題がある。自分の周囲のことをきちんと見ていると、自然とそれをとりまく世界のことへと考えが至る。(本作に限ったことではなく)身の回りのことに注目し続けるのは、決して内向き視線とかではないのだ。もちろん、近くのことから遠くのことへと広げていく、想像力あってのことではあるが。