作家の清水(西島秀俊)は、海辺のリゾートホテルで妻・綾(山田サユリ)と過ごしていた。編集者である綾は近郊の作家を訪問し日中は不在だったが、作家業がスランプの清水は暇を持て余していた。ある日、初老の男・佐原(ビートたけし)と若い女性・美樹(忽那汐里)のカップルに興味を引かれた清水は、彼らを観察するようになる。原作はハビエル・マリアスの小説。監督はウェイン・ワン。冒頭、東映のロゴを見てからウェイン・ワンの名前を見ると、何か変な感じ。本作は洋画になるのだろうか邦画になるのだろうか。
 清水が佐原と美樹とを観察するが、2人を見ているというよりも、そこに何かしらのストーリーを重ねて創作しているように思えた。何かを「見る」ということは、「見る」のみではなく見る側による意味づけが必ず伴っている。清水が作家であることが、意味づけという側面をさらに加速していくのだ。彼が見ているのは自分の中にある物語であって、佐原や美樹そのものではないのかもしれない。覗き見をすることで清水の筆が進むのも当然のことなのだ。
 清水は佐原とも美樹とも、ことさら交流しようとすることはない。彼の欲望はあくまで「見る」ことにある。そして佐原もまた「見る」男だ。彼と美樹とは愛人関係のようではあるが、佐原の喜びは美樹に触れることではなく見る、そして記録することにある。それは清水が小説を書くことと、どこか通じるものもある。佐原と清水は表裏のようにも見えてくるのだ。しかし、見ることによって自分の中の物語(妄想ともいうが)を紡ぐことは、見る対象とのコミュニケーションにはならない。見ること/見られることは、お互いの絆にはならないのだ。見られる側は、やがて見る側から去っていく。
 清水と佐原が出会い、清水が佐原と美樹をのぞき見するようになる、そしてある事件が起きるという大まかな流れはあるものの、個々の要素の繋がりは非常に曖昧だ。どれとどれが同一線上の出来事なのか、だんだんわからなくなってくる。夢の中でまた夢を見ているような感覚だ。作中の出来事の大半は清水が佐原と美樹を見て想像した物語で、その物語の中の清水がまた別の物語を想像して、というようにも見えた。あえて曖昧なままにしてあることで、作家の頭の中はこんな感じかなという雰囲気が出ている。
 主演の西島もたけしも、本作の雰囲気には合っている。2人とも俳優としてはどこか曖昧でキャラクター性がはっきりしない、内面がない(だから見る側がいかようにも想像できる余地がある)ような雰囲気があるからか。