ヴィオレット・ルデュック(エマニュエル・ドゥヴォス)は、母にも夫にも愛されないという想いを抱き続け、徐々にそれを書き記すようになる。憧れていたシモーヌ・ボーヴォワール(サンドリーヌ・キベルラン)に原稿を見せたところ文才を認められ、1946年に処女作『窒息』を出版。サルトル、カミュ、ジュネらに賞賛されたが、女性が生と性を赤裸々に書いたことで社会には受け入れられず、ヴィオレットは焦りを募らせていく。監督はマルタン・プロヴォ。
 表現することでしか救済されない、それをやらずにいられない人と言う点で、監督の前作『セラフィーヌの庭』と通ずるものがある。ただ、セラフィーヌの作品作りはアウトサイダーアートに近く、彼女は「世間」へはそれほど目を向けていない。生活も世間とは距離を置いた、ある種の世捨て人みたいなところもあった。しかし本作のヴィオレットは「世間」の中で生きる人(小説家になる前は戦時中なので闇屋をやって金を稼いでいた)で、加えて世の中、ことに母親に認められたくてしかたがない。私生児として生まれた彼女は、母親に望まれなかったという傷が癒えず、ずっと母親からの愛情を求め続けているのだ。しかし、自身の体験と向き合いそれを赤裸々に綴っていく彼女の文学は、世間にとって口当たりのいいものではないし、もちろん母親が彼女の文学を認めることはない。女性としての彼女は、世間が求める女性像とは異なる。かといって、世間の口に合うような表現は彼女にはできない。
 ヴィオレットはボーヴォワールを愛する、というよりも執着するのだが、それは母親や男/女たちから得られなかった愛情を求めているようにも見えた。ボーヴォワールがヴィオレットの思いに応えることはない。しかし、共感と理解はある。本作の裏面には、ボーヴォワールの思いがあるとも見られる。ボーヴォワールは言うまでもなく文壇で高い評価を得ており、著作も売れ、しかも見るからに知的で洗練されている。ヴィオレットとの共通点はないかのように見える。ただ、2人の間にあるものは愛情や友情ではないかもしれないが、文学を書くもの/読み批評するものとしての絆がある。ボーヴォワールはヴィオレットにとっての読者であり文学の理解者であり、指導者・支援者に最後まで徹する。その一線を越えることはない。それが彼女が通す筋なのだろう。
 ボーヴォワールが母親の死に対する思いを漏らすと、ヴィオレットはそれに共感を示す。自分も母親がいなくなったらどうすればいいかわからないと。ボーヴォワールはヴィオレットのその言葉を聞き、なんとも言えない表情をする。母親に対する恨みつらみを綴ってきた彼女でもそういうことを言うのか、あるいは、彼女と自分とに共通の感情があったということにか。終盤、ヴィオレットはついにベストセラーを出版する。ラジオでボーヴォワールは「私は(世間に)受け入れられなかったが彼女の作品は世の中に受けいれられた」と言う。この時のボーヴォワールはどういう心情だったのかと、ずっと考えてしまった。