2011年、イタリア・トスカーナ州シエナで、4年前に起きたイギリス人留学生殺人事件の控訴審が始まる。事件を映画化するために現地を訪れた映画監督トーマス(ダニエル・ブリュール)は、スキャンダルとしてもてはやすマスコミに違和感を感じる。監督はマイケル・ウィンターボトム。実際に起きた事件を元にしているそうだ。
 容疑者は被害者のルームメイト。共に美人だが被害者は真面目な清純派、加害者は華やかで奔放というキャラ付けがマスコミによりされていく。その方が世間にはウケるからだ。そして容疑者サイドに対する関心が募り、被害者や遺族のことは忘れられていく。トーマスはそれに反撥を覚え、彼女たちの真実をつきとめ映画に取り入れようとする。
 しかし本作、トーマスによる真相・真犯人の追求メインにしたミステリ仕立てなのかと思っていたら、どんどん意外な方向へ転がっていく。次々と怪しげな人物が現れ、トーマスがダンテ『神曲』を作品に取り入れようとしていることもあり、幻想的な雰囲気になっていく。更に、トーマスが執筆スランプ中かつ薬物依存症という事情も加わり、彼の見聞きしたことが段々信用できなくなっていく。事件についてトーマスが調べたこと全てが彼が見た夢だったのではという気もしてくるのだ。
 とは言え、事件の裁判の結果とはまた別として、真実は当事者にしかわからないことだろう。映画化しようとストーリー付けした時点で、それはフィクションになってしまう。当事者が死んでいる以上、真実はわからないままだ。トーマスは実在の「彼女」を誠実に映画化しようとするが、それは、彼が関わっていない以上、出来事の結末を描けないということなのだ。モデルに誠実であればあるほど、明確なストーリーは消え、結末はあいまいになっていく。
 ウィンターボトム監督は実在の人物や出来事を元にした映画をしばしば製作している。そのウィンターボトムが本作のような作品を撮るというのは意外でもあった。自戒か贖罪みたいなものなのだろうか。