角田光代著
野々宮希和子は不倫相手・秋山丈博の家にこっそりと立ち入る。どうしても秋山夫妻の赤ん坊を見たかったのだ。自分に向かってほほ笑む赤ん坊を見た希和子は、衝動的に赤ん坊を連れ去り、母と娘として逃亡生活を始める。薫(本名は秋山恵理菜)と名付けられた子供は、希和子を母親と信じて成長していく。2011年に映画化(成島出監督)もされた。私は映画は公開時に見たけれど、原作小説である本作はなぜか読みそびれていて、今回ようやく読んだ。映画は力作だったけど、原作も面白い。原作の方が構成がよりストレート(映像と活字というフォーマットの違いによるところも大きいが)で、一気読み度が高かった。希和子は子供が欲しいと切望し、薫(恵理菜)に母親として愛情を捧ぐ。自分に実の赤ん坊さえいれば、自分が母親だったならという思いがだだ漏れしていく様にはさほど関心を引かれなかったが、この人はどうしてこうなっちゃったのかな、という意味では関心を引かれた。母親にならなかった自分ではだめなのか、なぜだめなのか、という部分が、作中では(希和子の一人称なので)言うまでもないことにされている。でも読んでいる側としては、その言うまでもないことこそが知りたいのだ。後半は育った薫=恵理菜の一人称パートだが、彼女に対してもまた、この人はどうしてこうなっちゃったのかな、と考え続けさせられる。もっとも、恵理菜の場合は希和子よりも自分を客観視できているので、彼女自身にも自覚がある。映画と比較するとそこは際立っているし、秋山夫妻の弱さも恵理菜の客観性あってこそわかってくるのだ。母性云々というよりも、「なぜ私なんだ」という答えのない問いを問い続ける人たちの苦しみを描いた作品だと思う。たまたまあなただった、ということにどう納得すればいいのか。