新天地アメリカへ、デンマークから移住してきた元兵士のジョン(マッツ・ミケルセン)は、故郷から妻子を呼び寄せた。しかし駅馬車に乗り合わせた2人組に妻子を殺され、怒りのあまり2人組を射殺してしまう。そのうち1人は一帯を牛じる悪党デラルー(ジェフリー・ディーン・モーガン)の弟だった。復讐に燃えるデラルーは、犯人を差し出さないと代わりに町民を殺すと保安官を脅す。監督はクリスチャン・レブリング。レブリングって『キング・イズ・アライブ』の人か。確か『キング~』も荒涼とした風景が舞台だった。あれは灼熱の砂漠地帯、本作は西部の荒野だけど。
 昔ながらのオーソドックスな西部劇を北欧の俳優が主演し北欧のスタッフが製作するという、背景を知るとなんだか不思議な作品。色合いが冷ややかで明暗のコントラストが強いあたり、なんとなく北っぽい(ようするに寒々しい)感じだ。なんで今こういう作品を?と思わなくもないが、西部劇の需要って一定数あるんだろうなぁ。私が見に行った時はほぼ満席で年配男性が特に多かった。
 スタンダードな西部劇だろうとは思うのだが、いわゆる「めちゃめちゃ強い流れ者が他所からやってきて悪者をやっつけてくれた、めでたしめでたし」という話ではないところには、勧善懲悪が成立しにくくなった時代ならではアイロニーを感じた。デラルーはもちろん悪人というポジションで、確かに町を恐怖により支配し卑怯なやり方で金を稼いだりしているわけだが、妻子の仇討とは言え怒りに駆られて殺人をしたジョンもまた、悪人であるとも言える。また、町の人々にしてもジョンをスケープゴートにし、嵐が過ぎ去るのを待つという態度は、善と言えるのかどうか。昔の西部劇ならヒーローが助けるべきヒロイン的な立場のマデリン(エヴァ・グリーン)も強かで転んでもただでは起きない。
 全員悪党と言えば悪党、善人は死んだ奴だけだ、みたいな世界だ。特に、保安官を筆頭に、弱いままで何もしないのは悪、とまでは言わなくても卑怯だ、という考えが作品の底辺にあるような気がした。そのせいでスカっとはしないし、見ている側も当事者として巻き込んでくる(呑気に正義の味方を待望できない)感じがした。「流れ者ヒーロー」って救われる町の人にしてみたらヒーローだけど、ヒーロー当人にしてみたらいい迷惑だってことかもしれない。
 なお、形式としてはスタンダードな西部劇なのだが、今このフォーマットで撮ると、登場人物がかなり記号的に見える。ジョンの妻子なんて、殺されるためだけに出てくるようなもんだもんなぁ。