2016年の南アフリカでは、テトラバール社が開発した警官ロボットの導入により、治安は格段によくなっていた。警官ロボットを開発した技術者ディオン(デブ・パテル)は、自分で学習し判断できる人工知能を独自に開発し、スクラップ予定の機体の一つにインストールしようとする。しかしロボットをギャングのニンジャ(ニンジャ)とヨーランディ(ヨーランディ)、アメリカ(ホセ・パブロ・カンティージョ)に奪われてしまう。ニンジャたちはディオンを脅してAIをインストールさせ、「チャッピー」(シャルト・コプリーがモーションキャプチャーで演じた)と名付けて強盗を手伝わせようとする。一方、ディオンをライバル視する技術社ヴィンセント(ヒュー・ジャックマン)は、チャッピーの存在を知り抹殺しようとする。監督はニール・ブロムカンプ。
 SFとしては色々と設定に齟齬がある、正直粗いというのは否めない。AIをインストールされ起動してすぐにチャッピーが見せる動作が、既に赤ん坊のようなものだというのはおかしいのではないか(インストールされたばかりだったら、そもそも「赤ん坊のような動き」自体が学習されていないんじゃないかと思う)とか、途中で作中技術レベル設定がいきなり上がりすぎ(「ヘルメット」が万能すぎる・・・)とか私も気になったくらいだから、SFに造詣の深い人にとってはもっと色々とあるのだろう。
 しかしそれでも、本作にはSFマインドを感じる。ブロムカンプ監督の『第9地区』もそうだったが、今と地続きのちょっと先の未来、という感触がしっかりしているように思うのだ。ずっと先、ではなくてほんのちょっと先、な感じのとらえ方がいい。また何よりも、どこまでが人間なのか、という肉体を巡る定番の問いをど直球で扱っていて楽しかった。最後の展開も、そっちか!という感じ。『第9地区』のラストを考えると、ブロムカンプの中ではこれが正解なんだろうなぁ。
 ディオンはチャッピーを生み出して「教育」し、ニンジャとヨーランディもチャッピーを育て、特にヨーランディは愛情を注ぐ。3人がチャッピーに「こうであれ」と望む姿はまちまちだ。ディオンにとっては人間のような知性=言葉を解し芸術を解することなので、チャッピーにも絵本を見せたり絵の描き方を教えたりする。彼はチャッピーにクリエイティブであれ、と望むのだ。一方ニンジャはチャッピーを強盗の道具として使おうとする。しかし、誰にとってもチャッピーはまるっきり思い通りになるわけではなく、思惑からずれていってしまう。意思を持つ、人間らしいとはそういうことなのだと思う。
 ところで、どこまでが人間なのか、という問いの答えとしてある姿が提示されるが、最後に作られる「あれ」にああいう顔がついているというのは、ちょっと興ざめだ。そこから解放されてこそじゃないの?