カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
中世らしきブリテン島に暮らす老夫婦、アクセルとベアトリス。2人は離れて暮らす息子に会いに旅に出る。2人は色々なことを忘れているような気がしていた。そして村の人々も、物事をすぐに忘れてしまうようだった。6世紀~7世紀ごろを舞台とした時代小説かと思いきや、どうやらアーサー王伝説を下敷きにした部分もあるらしく、徐々に伝説や魔法の世界の色合いが強まっていく。著者の作品はしばしば、あるジャンルの形式をとりつつ、そこからはみ出していく、あるいは別のジャンルに移行していくような構造をしているが、本作も同様。過去作だと『わたしたちが孤児だったころ』の作りに近いように思った。終盤でどんどん別の領域に入っていく感じがするところと、登場人物の記憶がそれぞれ食い違ってくる、穴のあいた部分が出てくるところが、そう思わせるのかもしれない(そして終盤のぶん投げてるっぽさも・・・)。記憶は本作の大きなモチーフだ。アクセルとエリザベスの記憶はしばしば食い違う。深く愛し合う2人であっても見ている景色は別である、愛し合っているということ自体がお互いの認識違いかもしれないという意識の曖昧さが、不安を高める。もしかすると、2人は記憶をなくすことでかろうじて共に居続けられたのかもしれないのだ。そして記憶は、個人のものだけではなく集団のものでもある。記憶をなくすことの功罪についての問答は、現代の戦争責任問題にも通ずるだろう。忘れるしか解決法はないのか。だとすると、歴史には何の意味もないことになってしまう。かといって歴史を(善意によるものでも)ねつ造してしまうのも危険だが。ブリテン人とサクソン人の対立を背景にした、記憶をめぐるやりとりには、不穏な空気がまとわりつく。