1980年代の台北。賭場の手入れから逃げた少女シューアン(ワン・アン)は、手当たり次第にいたずら電話を掛ける。そのうちの1本を取ってしまった小説家イーフィンは、シューアンの言葉に動揺する。イーフィンの夫である医者や、その友人の刑事、逃げるシューアンを撮影した少年やそのガールフレンドにまで波紋は広がる。監督はエドワード・ヤン。1986年(日本公開は1996年)の作品だが、この度デジタルリマスター版が上映された。
 ショットのひとつひとつに、うわー80年代ぽい!と懐かしさになりきらないもぞもぞするような、落ち着かなさを感じた。かっこよさを狙いすぎている感じがしちゃうのかもなぁ。むしろ80年代を通過していない人の方が素直にかっこよさを享受できるような気がする。
 シューアンはオリーブを読んでいそうな雰囲気の少女だし、カメラ少年のガールフレンドはシンプル派のシューアンとは対照的に聖子ちゃんカットとガーリーなスカート姿。部屋のファンシーグッズのダサ感がまた懐かしい。ファッションやインテリア等風俗(町の映画館のポスターの中に、多分深作監督の『里見八犬伝』があって、おおう・・・ってなった)面だけでなく、映画のショットそのものとか、間合いの取り方とかが、こういう雰囲気の作品が頻発した時代があったよなぁと感じさせる。なぜ感じるのかはよくわからない(映画製作の技術面に詳しい人ならわかるのかも)が、無人の部屋でカーテンが揺れるシーンは黒沢清っぽいし、対人シーンのショットや人の移動の見せ方はなんとなく相米慎二作品ぽいなという印象を受けた。これは私だけの思い込みかもしれないが。
 シューアンには大した悪意があったわけではないし、何かを起こしてやろうという意図も希薄なのだが、彼女のいたずら電話が他人の運命を狂わせていく。シューアン自体はそのことを全く知らない。また、イーフィンもシューアンやカメラ少年やそのガールフレンドのことは知らないし、本来ならお互い接点は生まれないような人たちだ。シューアンのいたずらにより彼らに影響が出るが、それでも接点らしい接点は生まれないまま。この「関係なさ」が冷ややかで、妙にぞっとさせられる。
 では直接の知り合いどころか、ごく親密な関係であろうシューアンとその夫の間はどうなのかというと、お互いに思いやりはあるはずなのにかみ合わず、シューアンは別居を望む。2人の話し合いは、意思の疎通がなされているとは言いにくい。シューアンの言わんとするところは夫によく伝わらず、夫の気持ちもシューアンには伝わらない。シューアンの使う言葉は職業柄、多分に文学的、というか行間を読ませる類のものだが、夫の言葉はもっと額面通りだ。お互い使う言語が違って、嫌い合っているわけではないのに噛み合わない。
 近くにいる人同士でも、それぞれぽつんと存在しているような、ひとりぼっち感が強く感じられた。それがさびしいというわけでもないが、作品をひんやりとさせている。