ロサンゼルスオリンピックのレスリング金メダリスト、マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)は、デュポン財団の後継者ジョン・デュポン(スティーブ・カレル)から、ジョンが出資するレスリングチーム「フォックスキャッチャー」へスカウトされる。ジョンは変人だったが、マークとの間には一種の信頼関係が生まれていた。しかし、同じく金メダリストであるマークの兄デイブ(マーク・ラファロ)がチームに加入することになり、3人の関係は大きく変わっていく。1996年に起きた実際の事件を映画化。監督はベネット・ミラー。ミラー監督は『カポーティ』といい『マネーボール』といい本作といい、実話ネタが好きなのかな。
 冒頭、マークの生活に窮している感じ、特に食生活の貧しさからして鬱々とした気持ちになってくるのだが、要因は変わっていくものの鬱々はどんどん強まっていく。とにかく緊張感が途切れず、息苦しい。ジョンの願望の強さ、思い入れの強さの圧と、それに彼自身が見合っていないという現実のきつさが見ている側も圧迫していくのだ。
 ジョンは自分を尊敬されるべき「何者か」でありたいと強く願っており、周囲にもそのように見せようとする。が、その振る舞いは裏付けがないだけにイタイタしくて見ていられない。母親の前で披露される茶番劇は、直視できないレベルのいたたまれなさだった。彼の言葉は空疎で手ごたえがない。「よきアメリカ国民」でありたいというのも抽象的すぎる。そもそも彼自身に、具体化できる中身があるように見えないのだ。そういう人が何を言っても借り物の言葉に聞こえるだろう。饒舌ではないが的確に相手に届くデイブの言葉とは対称的だ。ジョンがやっているのは、「何者か」であるシチュエーションをお金で買っているというだけなのだ。子供の頃、母親が自分の「友達」にお金を渡すのを見ていたく傷ついたと言うのだが、自分が母親と同じことをしているという自覚がない。これは不思議でもあるし、何か痛ましくもある。
 ジョンとマーク2人とも、「何者か」であろうとするがそれに手ごたえが持てないところ、保護者的な存在(ジョンにとっては母親、マークにとってはデイブ)が偉大すぎ、コンプレックスがあるというところを持っている。それが2人の間に、かりそめではあっても絆を生んだのかもしれない。また、2人とも言葉が相手に届かない(冒頭、マークが小学校で行うスピーチへの反応がいたたまれない・・・)。相手とのコミュニケーションが成立しないのだ。ここも、言葉でもボディランゲージでも相手をしっかりつかむデイブとは対称的だ。デイブとマークの間には、マークの側に複雑な思いがあるにしろ、言葉を飛び越えた意思の疎通がある。ジョンはそこに嫉妬しているようにも見えた。デイブの雄弁さにも、デイブとマークの関係性にも。それが悲劇に繋がっていく。
 ラストは、こういう形で「アメリカ」を背負うことになるのかとやりきれなく、皮肉にも思えるだろう。ただ個人的には、皮肉ではあるが、お先真っ暗という印象は受けなかった。少なくとも彼は、それまでよりも少し自由になったように見えた。