6才のメイソン(エラー・コルトレーン)は母オリヴィア(パトリシア・アークエット)と姉サマンサ(ローレライ・リンクレイター)と暮らしていたが、母が大学への復学を望み、祖母の住むヒューストンへ引っ越す。離婚してアラスカへ行っていたという父メイソンSr.も顔を見せるようになった。少年とその家族の12年間を描いたドラマだが、主要キャストを変えずに、本当に12年間かけて撮影したというとんでもない作品。監督・脚本はリチャード・リンクレイター。
 主要キャストが入れ替わらないので、登場人物の加齢はごくごく自然。かなり時間の流れの省略は大胆だが、演じる俳優が交代した場合のような違和感がない。時間の流れに、俳優の変化ではなくて風俗(ゲーム機の世代交代とか、ハリーポッターなどのその時期の流行もの)の移り変わりの方ではたと気づくというほどだ。
 演じる側にとっても、自分の加齢がそのまま登場人物に投影されるわけで、俳優本体と役柄とのシームレスさが興味深かった。自分の加齢をまざまざと刻まれるのはきついんじゃないかなという気もするが、こういう体験はなかなか出来ないだろうし、俳優にとっては面白かったのだろうか。製作側は先が見えなくてひやひやだったろうけど・・・。ただ、一貫して同じ俳優が演じていることの本作における効果がどの程度なのかは、正直わからない。脚本演出がしっかりしているから、途中で子役から大人の俳優に代っても、それで見劣りするとは考えにくい。どちらかというと、一度こういう撮り方をしてみたかったから撮った、という側面の方が大きいんじゃないかな。
 パトリシア・アークエットに徐々に皺が増え、たっぷりとした二の腕を披露している姿や、イーサン・ホークの白髪の増え方、体の緩み方には、なんだか感動してしまった。リンクレイター監督は、この2人に信頼されているんだろうなぁ。だからというわけではないが、主人公よりもむしろ、徐々に「老い」に近づくこの2人の方に視線がいった。私の年齢の問題もあるだろうけど、大人の(外見ではなく言動の)変化の方が子供の変化より、おっ!という気分になるのだ。
 リベラル派だったメイソンSr.が再婚した女性は、ガチガチの保守層(おじいちゃんがメイソンの誕生日にライフル、おばあちゃんは聖書をくれるようなおうち)だが、それでも意外とうまくやっていたりする姿には、この人、遅まきながら大人になったんだなぁと感慨深くなった。人生はタイミングだ、みたいな言葉が出てくるが、オリヴィアと結婚していた時にその「大人」さを得ていたら、2人は離婚しなかったかもしれない。また、オリヴィアが再婚相手と毎回同じような雰囲気で破局するのにも、苦笑いしてしまう。それが悪いというのではなく、人生ってこういうもんだよなと思えるのだ。
 終盤、大学生となったメイソンが同級生の女の子と語らうシーンがあるが、そこで本作のテーマそのものみたいな言葉が出てくる。えっここまでやっといてそれ言っちゃう?と少々興ざめだった。言わなくてわかるけどなぁ。