ある冬の日、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)は怪我をしひどく汚れた衣服で路上に倒れていた女性を助ける。その女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は「自分は色情狂(ニンフォマニアック)だと告白し、自らの半生を語り始める。子供の頃から自分の性器の存在を意識してきたジョーは15歳の時にジェローム(シャイア・ラブーフ)相手に処女を捨て以来、奔放な性生活を送ってきた。ジェロームと再会した彼女はやがて彼と結婚するが、ある日性感を無くしてしまう。性感を取り戻す為、彼女は更に過激な世界へ足を踏み入れていく。監督はラース・フォン・トリアー。
 ジョーが性感を失うまでがVol.1、危険な世界に足を踏み入れていくVol.2の、2部に分けて公開された。2部合わせると4時間近い大作になる。私はフォン・トリアー作品のファンというわけではなく、映画としてはすごいかもしれないが気に食わん、という気持ちを『奇跡の海』以来一貫して抱いてきた。しかし『アンチ・クライスト』では、あれそんなに腹立たないかも・・・?と思い始め、『メランコリア』では長すぎてかったるいが面白くないわけではない、という気持ちに。そして本作だが、結構面白かったしトリアー作品の中では一番、見ていて嫌な気持ちにならなかった。主人公であるジョーの生き方が、いわゆる世間のスタンダードからは逸脱しているかもしれないが、一貫して彼女自身が「こうしよう」と思って行動しているものだからかもしれない。セックスに「溺れる」とか「堕ちた女」とかいう感じではないのだ。
 彼女は上司に(性生活が周囲で噂になり)カウンセリングを受けろと言われる。依存症克服の会(アメリカの小説や映画でよく出てくる、断酒会みたいなやつ。同じ問題を持つ人が集まって、それぞれ自分のことを皆の前で話す)に参加し、それなりにセックス絶ちを試みるが、彼女はある時、「私は色情狂、私は私が好き」と言い放つ。彼女のセックスは欠落を埋める為のものとは思えないので依存症はちょっと違うのだが、世間的にはセックス依存と同じように見られる。そこに対するNoであり、理解は求めない、好きなようにやるという意思表明だろう。彼女のセックスは、あくまで彼女主体なのだ。
 本作のセックス表現は公開前に煽られていたほどには過激ではない(むしろ笑ってしまうようなシチュエーションが多い)。また同時に、見ていて興奮するような類のものでもない。とは言っても本作に対して「セクシーではない」という批判は的外れだろう。そこを楽しませる為の映画ではないのだ。セクシャルな感覚はジョーのものであって、観客に向けられたものではないという姿勢が一貫しているように思った。
 本作、語り手である女性=ジョーと、聞き手である男性=セリグマンの対話劇という一面もある。ジョーの、聞き手によっては荒唐無稽である話に、博識なセリグマンが合いの手・ツッコミを入れる(しかしそのツッコミが同時にボケでもあるというおかしさ)ようにも見えるのだ。しかし、対話のように見えていただけに、最後の展開にはあっけにとられる。何を聞いていたんだ!今までの4時間オール伏線か!