少女ヴィオレッタ(アナマリア・バルトロメイ)は、母親が多忙な為に祖母に育てられていた。写真家の母親のアンナ(イザベル・ユペール)は落ち目であることに焦りを感じ、ヴィオレッタをモデルにし、挑発的なポーズをとらせた作品を発表する。作品は評判になり、母の関心をひきたい一心でヴィオレッタはモデルを続けるが、アンナの要求は次第にエスカレートしていく。母親が娘のヌードを撮影しスキャンダルを巻き起こした写真集『エヴァ』の被写体であったエバ・オネスコが自身の体験を元に監督を務めた作品。ヴィオレッタ役のバルトロメイが撮影当時10歳だったことでも話題になった。
 当事者がつくっているからか、順番に一つずつ見せていこうというような作り方で、ちょっとまだるっこしさを感じてしまった。特に母娘の愛憎が噴出していく後半は、もっと追い込んでよ!って思ってしまった。丁寧といえば丁寧な作り方なんだけど。当事者の記憶に沿ったつくりということか。
 ヴィオレッタが被写体をつとめた作品も、アンナの普段のよそおいも退廃的で自身の美意識が確立されている人なんだということがわかる。しかし、一旦スタジオの外に出てしまうとその装いは大分浮いている。世間からは乖離した、ちょっとイタい人(カフェでも周囲はちょっとひきぎみだったし)扱いだったのかな。
 アンナはヴィオレッタのことを彼女なりに愛してはいるのだが、その愛は若く美しかった自分を愛するような、自己愛に近い愛で、写真も自身のポートレート代わりに思える(実際、ヴィオレッタがモデルを拒否した時には自身の少女めいたポートレートを撮る)。ヴィオレッタが自分とは違う一個の人格であるという感覚は薄いのだ。
 アンナの世界は自分の作品の周囲で完結しているのだが、ヴィオレッタは一応学校にも通っているのでそうもいかない。モデルとしてこなれていけばいくほど、 同年代の(小学校中~高学年くらいか)少女たちの中では浮いてしまう。ヴィオレッタ自身、自分をどこに置けばいいのか、そもそも自分がどうしたいのか戸 惑っているように見えた。ヴィオレッタ自身は、内面は元々そんなにとんがった少女ではなく、年齢相応に同級生と遊びたい。しかしそれはアンナにとっては「なんで平凡になりたがるの」ということなのだ。
 オネスコは少女モデルとしての体験、母親の行為を虐待と捉えているのだろう。本作を作るには葛藤も深かったと思うが、そこそこ作品と距離をおいた、わりと感情抑え目の仕上がりになっていると思う。ただ、本作で当時10歳のバルトロメイがセクシーなポーズを取り、それが趣旨でないにせよそういう側面を持ってしまうということに対しては、どう考えているのかな、自分がさせられたことと同じと捉えられてもやむない面もあるのでは、とちょっと気になった。もちろんオネスコともユペールとも深く話し合った上での演出なんだろうけど。