FBIの創設に携わり初代長官を勤めたエドガー・J・フーヴァー(レオナルド・ディカプリオ)。老いた彼は回顧録作成の為、自らのキャリアを筆記者に語り始める。監督はクリント・イーストウッド。素晴らしかったです。オスカーノミニーから外れたのが非常に残念。
 フーヴァーの伝記映画のようであるが、そこから一ひねり、二ひねりとツイストをきかせてくる、ある意味いびつな作品でもある(ラストの、構造上予想はされたある反転は本格ミステリのような味わいもある)。ストーリーはフーヴァーが筆記者に語った内容ということになっているが、回顧録の内容として絶対に口にしないであろうエピソードも出てくる。時間軸が行ったりきたりするだけでなく、オフィシャルな自伝としてのストーリーとプライベートな思い出としてのストーリーが混在してくるのだ。この為、構造に不思議な捩れが感じられる。(この映画においては)彼自身がかなり捩れた人物とも言える。彼が正義だと思っていたことが、やがてそうは見なされなくなってくる。テロリストの暴力と戦う為に自らが発した言葉が、最後には全部自分に返ってくるというのも皮肉だ。
 フーヴァーは仕事に関しては有能だし先見の明もある。自ら言っているが、相手の本質を見抜く力がある。しかしこれが仕事抜きになると、人間関係スキルの低さが露呈する。後に腹心の秘書となるヘレン・ガンディ(ナオミ・ワッツ)と出会うとあっという間に結婚を申し込みどん退きされる。また、クラブで世慣れた社交界の女性達と世間話的な盛り上がり方は出来るが、いざ誘われるとあたふた退散してしまう。女性に対する性的な関心がないというのも一因(本作ではフーヴァーは“隠れゲイ”として描いている)なのだろうが、公私にわたるパートナーであるクライド・トルソー(アーミー・ハーマー)に対しても、それはあんまりじゃ・・・という振る舞いがあり、空気読めないにもほどがある。人の弱みを握るなど損得判断はできるが、人の心の機微はわからないのだ。ちょっとアスペルガー症候群ぽい側面もある。数十年に渡る物語なのに身近な人間がごくわずかしか出てこないのは、仕事以外での人付き合いの不得手さのせいかもしれない。
 さてトルソーとの関係だが、フーヴァーが人前で自分はゲイであると認めたことはまずないだろう。彼がことさら「男らしく」振舞うのには、母親の存在が大きく影響している。母親は「出来のいい息子」「男らしい息子」を欲している。薄々息子が女性に興味がないと気付いているが「女々しい息子なんて最悪」と先手を打つ。母親の要求によりマッチョに、強い男として振舞わざるを得なかった息子、という姿が本作では描かれていく。しかしそれは、自分の一部を殺していくことだ。母の死の直後、母のドレスとアクセサリーを身に当てる姿はあまりに痛々しい。監督であるイーストウッドといえば、かつてはアメリカ映画の男らしさのアイコン的な俳優でもあったと思うが、そういう人が本作のような作品を撮ったということには、何か感慨深いものを感じる。
 ツイストのきいたいびつな作品、と前述したが、本作はいわゆる伝記映画のようであるがそうとも言えず(1人の男を描いていることは間違いないが)、アメリカのある時代を写し取った作品でもあり、そして最終的にはメロドラマである。1人の人間が愛に辿りつく、愛を自覚するまでの長い長い道のり・・・というあまりに王道、古典的なラブストーリーをここにきて撮ってしまうイーストウッドはやはり何か、すごい。