マルコ・ベロッキオ監督作品。イタリアに独裁政権を築きファシズムという言葉を生んだムッソリーニ。若き日のムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)はイーダ(ジョヴァンナ・メッツォジョル)と出会い、イーダはムッソリーニを精神的にも経済的にも支える。やがて2人の間には息子が生まれるが、ムッソリーニには既に正妻と娘がいた。支持率を集めつつあるムッソリーニにとって、イーダの存在はスキャンダルの火種。周囲はムッソリーニからイーダを引き離し、ついに精神病院に閉じ込めてしまう。
 イーダの存在は最近まで知られていなかったそうだ。本作がどの程度史実に基づいているのかわからないが、「愛の勝利」という題名は皮肉だ。イーダはムッソリーニの為に人生を棒に振ってしまったように見える。イーダは自分をムッソリーニの妻であり、息子はムッソリーニの息子だと主張し続けるが、狂人扱いされるばかりだ。自分の言うことを誰も信じなくないという恐怖は、全然ジャンルは違うが最近見た映画では『アンノウン』でも描かれていた。集団から「正しさ」を強要されて自分が正気であるという意識の拠り所が無くなっていくのが非常に怖い。しかし彼女は自分の主張を曲げない。医者から、今騒ぐのは危険だ、退院したいなら普通の人の振りをしていろと忠告されるが、彼女は妥協しない。
 イーダの頑固さ、意思の強固さには時に辟易する。ムッソリーニもとんだ貧乏くじを引いたもんだな・・・と思わなくもない。そもそもイーダはムッソリーニのどこに惚れたのだろう。明確には描かれないもののこの映画の中では、イーダが演説する若き日の(当然まだ無名な)活動家ムッソリーニに一目ぼれし、半ば強引にアプローチしていく。イーダが惚れたのは、神は存在しないとぶち上げ、体制に反旗を翻す、華々しい男だ。イーダは「普通の人生になんて満足できない」と洩らす。彼女はムッソリーニは自分を劇的な、非日常的な世界につれて行ってくれる存在と見ていたのではないか。彼女がムッソリーニに固執するのは、彼に対する愛だけではなく、普通でいたくない、特別な存在でいたいという執着のようにも見えた。
 映画を見るシーンがしばしば出てくる。ドラマ映画もあるしニュース映画もある。イーダにとってムッソリーニは恋人であり息子の父親という身近な存在、かつ自分をも「ムッソリーニの妻」特別な存在、映画の中に出てくるような存在にしてくれる人だった。しかしムッソリーニはどんどん有名になり、彼女とは関係なく特別なスクリーンの中の人になってしまう。イーダはスクリーン上の彼を見るしかなくなる。そして最後、車中のイーダが映画の観客を見るようにカメラ視線を送る。彼女がついにスクリーンの中の人となったかのように。この車に乗るまでの一連のシークエンスは彼女の妄想のようにも思えるのだが。