バレエダンサーのニナ(ナタリー・ポートマン)は『白鳥の湖』のプリマドンナに抜擢される。しかし彼女は、純真で繊細な白鳥は得意だが、妖艶な「悪」の黒鳥を演じるのは苦手だった。なかなか上手く踊れず追い込まれていくニナ。更に、彼女とは対照的にセクシーで奔放なリリー(ミラ・クニス)が代役に選ばれたことで、役を奪われるという恐怖に襲われる。監督はダーレン・アロノフスキー。
 こんなに主人公がびくびくしている映画は、久しぶりに見た(というか見た覚えがない・・・多分何か見てると思うのだが思い出せない)。ニナは強いプレッシャーにさらされている。舞台監督からの「もっと奔放に、セクシーに」という要求や、母親からのプリマドンナとして成功しろ、よい娘であれという要求。また他のダンサーからの嫉妬。ニナはそれらにいちいち反応してしまう。彼女にとっては世界全てが自分を脅かすものであり、同時に、自分を反映するものだ。自分の中の恐怖を自分を取り巻くものに投影してしまう、それによって更に恐怖が引き出されるという悪循環。鏡のモチーフが多用されているのもそのためだろう。物語は徐々に、一人称ホラーとでもいいたくなる領域に入っていく。彼女の中で起こっている・ある意味完結していることなので、周囲が手助けをすることもできないのだ。
 また、最近のアメリカ映画では珍しいくらい、我のないヒロインだった。ニナは完璧に踊ろうとするものの、そもそも自分がどういうふうに踊りたいのか、どうなりたいのか、何を持って完璧なのかというビジョンが乏しいように思った。彼女がなろうとするのは舞台監督が要求する彼女、母親が要求する彼女で、彼女自身がそういうふうになりたいのかどうかはよくわからない。必死で彼らの要求に応じようとする姿は痛々しいくらいだ。
 ニナはテクニックはあるが、プラスアルファの何かに乏しく、自分でもそれが分かっている。彼女の姿が痛々しいのは、彼女が天才ではなく、本人にもそれがわかっているからだろう。だから舞台監督の「恋愛しろ!セックスしろ!」という的確なのかとんちんかんなのかよく分からないアドバイスにも一応従ってみてしまうし、愚直に「自分を変えよう」とする。しかし前述の通り、そもそも変える自分がない人なのでどうにもならない。完璧な踊りを目指して精神と肉体を追い込んでいく様は監督の前作『レスラー』にも通ずるものがある。しかし、『レスラー』では主人公が自分のベスト状態、どうなりたいかという明確なビジョンがあったけど、ニナにはそれがなく、漠然とパーフェクトを目指す。そもそもパーフェクトなんてあるのか?という疑問が付いて回るので辛い。
 本作、母と娘の関係が非常に生々しく怖かった。ニナの母親は彼女を出産する為にバレリーナとしての道を諦めた。母親はニナにバレリーナとして大成してほしいと願い、過保護なくらい彼女を心配する。が、同時に、彼女に自分よりも成功してほしくないとも思っている。無意識にニナの脚をひっぱるので始末が悪い。そしてニナは、大成してほしいという要求、大成してほしくないという要求どちらにも(これまた無意識に)応じようとしているように思える。相反する要求のどちらにも応えようとするのだから彼女が壊れていってしまうのも当然だろう。その「いい子」さが哀しいし、「いい子」から脱却した彼女がたどる道がまたやりきれない。