1970年代のフィンランド。恩赦により出所したレイラ(カーリナ・ハザード)は、就職先として紹介されたヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン)の牧師館を訪ねる。頼まれた仕事は、盲目のヤコブに代わって手紙を読み、返事を代筆すること。行く場所もなく、渋々引き受けるレイラだが。
 牧師館のある林といい、湖を背にした古い教会といい、風景が素晴らしかった。ロケ地探しは大変だったろうと思う(今のフィンランドは都市化が進み、このような風景も少なくなったそうだ)。郵便配達夫がやってくる道など、見ているだけで向こうから何かがやってきそうでわくわくする。登場人物ほぼ3人、セリフもさして多くないミニマムな映画なのだが、人間の周りに様々な気配が感じられて、閉塞した感じがしないのが良かった。
 ヤコブは手紙に綴られた苦しみを読み、差出人のために祈ることを使命としている。レイラはそれが気に食わない。彼女は神を信じない人なのだ。ヤコブが「わたしたち」というところを、レイラがいちいち「わたしは違う」と訂正していくところはおかしいのだが、彼女の頑なさが垣間見える。面倒くさい人だなーと思うと同時に、彼女には頑なになるような理由、神も祈りも役に立たないと思う理由があるのだなと窺える。レイラは神はもちろん、他人も信用していないように見えるし、人と打ち解けようという意思もない。常に仏頂面で、人と生きていくことを諦めているようにも見える。しかしヤコブは常に彼女へ丁寧に接する。お茶のカップを置く位置に、2人の相手に対する距離のとり方、その変化が象徴されている。律義にすぐそばに席をセッティングするヤコブも、律義に距離を離すレイラも、どちらもどことなくユーモラス。
 ヤコブは自分でも、自分のやったことは本当は自分の為だったのではないか、本当は人助けなどできないのではないかと悩む。しかし、彼は自分で知らないうちにレイラの命を助ける。この助けるタイミングの際どさと、ヤコブ自身はそれに気づかないままなところになんだか心うたれた。ものすごく決定的な行為というのは、案外自分では気づかないものではないかと。それは、最後に読まれるある手紙にしてもそうだ。手紙の主は、その手紙がどういう結果をもたらしたのか、まだ知らない。ヤコブの行為は、確かに自己満足といえば自己満足だ。ただ、彼の言葉、行為に助けられた人がいないとはいえない。そのわずかな可能性の為に行為を続ける(ないしは可能性など考えない)ことが、信仰に近いようにも思った。
 レイラ役のカーリナ・ハザードの演技が素晴らしい。彼女がタクシーに乗って行き先を聞かれた時の表情にはっとする。ずっと他人を拒むようないかつい顔をしていたのが、この時はいかつさが剥がれ落ちているのだ。