かつてノーベル賞候補にもなった天才物理学者のボリス(ラリー・デヴィッド)は何もかも嫌になり自殺未遂を起こす。結果、妻も家も職業もなくし、今はNYの小さなアパートで一人暮らし。ある日、家出娘のメロディ(エヴァン・レイチェル・ウッド)を渋々助けたことがきっかけで、彼女はアパートに居つき、とうとう結婚してしまう。皮肉屋のボリスにしては上々の結婚生活だったが、メロディの母親が押しかけてきたことで暗雲漂い始める。監督はウディ・アレン。
ウディ・アレン、NY捨てたんじゃなかったのかよ!とつい突っ込みたくなる本作は再び、監督の古巣NYが舞台。帰郷したのが原因かどうかはわからないが、あっけらかんと楽しく生きる勇気が沸いてくる。本作が監督作通産40本目だそうだが(脚本自体は70年代に書いたものだそうです)、節目にふさわしい作品ではないかと思う。主人公ボリスは、アレンが今まで自分で演じてきたようなシニカルなペシミスト。アレンは監督に徹したほうが、作品のバランスが取れるような気がする(個人的には、本人主演の作品でも大好きなものはいっぱいあるのですが)。
久しぶりに会話が軽妙なアレン作品で、とても楽しかった。ボリスはいつものウディ・アレン役的なキャラクターで、ちくちく皮肉にしゃべりまくる。それと噛み合っているのかいないのか分からないメロディの受け答えもおかしい。ボリスと比べるとメロディの方が常識人(というか一般人感覚を持っている)な気もするが。この2人のやりとりに、ボリスの友人やメロディの母親が絡んで話はどんどん転がっていく。まさかこの人がこんな風に!という方向に皆が転がっていくのだが、「まさか」なその人の姿の方が、ずっと楽しそう。自分はこういう人だ、という思い込みを一度外してみた方が人生面白くなるかもしれない。メロディの母親のようにものすごい飛躍をされるのはちょっと困るかもしれないけど・・・。またメロディの父親のある「気づき」については劇場内爆笑。この、バーでの一連のシーンは、相手とのやりとりが爆弾投下までのカウントダウン状態で大変盛り上がる。
ボリスは人生は無意味だ、運命などありえないと考えるし、メロディにも生きることの無情を説く。しかし意味や運命がなくても物事は動いていくしなるようになる。アレン自身がこの結論に実感持てるようになったのかなという気もした。ボリスがメロディの前であることを告白され、それを受け入れるシーンは、ある境地に辿り着いたようなボリスの表情とあいまって、いつになく胸に迫る。これは年齢差カップルだからこそ成立する味わい。近年のアレン作品で、「胸に迫る」ってあまりなかったんでよけいぐっときた(笑)。
ウディ・アレン、NY捨てたんじゃなかったのかよ!とつい突っ込みたくなる本作は再び、監督の古巣NYが舞台。帰郷したのが原因かどうかはわからないが、あっけらかんと楽しく生きる勇気が沸いてくる。本作が監督作通産40本目だそうだが(脚本自体は70年代に書いたものだそうです)、節目にふさわしい作品ではないかと思う。主人公ボリスは、アレンが今まで自分で演じてきたようなシニカルなペシミスト。アレンは監督に徹したほうが、作品のバランスが取れるような気がする(個人的には、本人主演の作品でも大好きなものはいっぱいあるのですが)。
久しぶりに会話が軽妙なアレン作品で、とても楽しかった。ボリスはいつものウディ・アレン役的なキャラクターで、ちくちく皮肉にしゃべりまくる。それと噛み合っているのかいないのか分からないメロディの受け答えもおかしい。ボリスと比べるとメロディの方が常識人(というか一般人感覚を持っている)な気もするが。この2人のやりとりに、ボリスの友人やメロディの母親が絡んで話はどんどん転がっていく。まさかこの人がこんな風に!という方向に皆が転がっていくのだが、「まさか」なその人の姿の方が、ずっと楽しそう。自分はこういう人だ、という思い込みを一度外してみた方が人生面白くなるかもしれない。メロディの母親のようにものすごい飛躍をされるのはちょっと困るかもしれないけど・・・。またメロディの父親のある「気づき」については劇場内爆笑。この、バーでの一連のシーンは、相手とのやりとりが爆弾投下までのカウントダウン状態で大変盛り上がる。
ボリスは人生は無意味だ、運命などありえないと考えるし、メロディにも生きることの無情を説く。しかし意味や運命がなくても物事は動いていくしなるようになる。アレン自身がこの結論に実感持てるようになったのかなという気もした。ボリスがメロディの前であることを告白され、それを受け入れるシーンは、ある境地に辿り着いたようなボリスの表情とあいまって、いつになく胸に迫る。これは年齢差カップルだからこそ成立する味わい。近年のアレン作品で、「胸に迫る」ってあまりなかったんでよけいぐっときた(笑)。