1906年、アルヌーヴォー文化花盛りのパリ。ココット(高級娼婦)たちが社会的な地位を持っていた時期でもあった。元花形ココットのレア(ミシェル・ファイファー)は、元同業者で友人のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)の息子・シェリ(ルパート・フレンド)を預かる。シェリは19歳にして放蕩の限りを尽くし、母親を困らせていたのだ。レアはつかの間の恋人のつもりでシェリと生活を共にするが、いつの間にか6年の月日が流れていた。そしてシェリに結婚話が持ち上がる。原作はコレットの小説、監督はスティーヴン・フリアーズ。
 フリアーズ監督の作品は全部はみていないのだが、見た限りではさくさく話が進んで見やすいという印象がある。暗い話でもあまり湿っぽくならない気がする。少なくとも本作に関しては、直球メロドラマでありながらあまり甘ったるくならず、意外とドライだ。情感の盛り上がりをあまりひっぱらずすぱっと切るところがいい。
 女性が主人公、主な登場人物もシェリ以外はほぼ女性(特にもう若くはない、元ココットの女性)の作品だ。そして女性たちが大変しっかりしている。主人公であるレアは、美貌も教養も兼ね備えた女性であり、自分でひと財産を築き、それを運用している。独立した女性という存在は、おそらく当時では珍しい存在だったろう。「ココットは同業者以外の女性と友達になれない」とレアはいうのだが、他の女性とは別の存在、一般女性からは理解できないという立ち居地だったのだろうか。
 独立した人間であるレアと対比すると、シェリはなんとも頼りない。彼のとりえは美貌と体だけのように見えてしまう。若者を甘やかしたい女性、甘えたい男性、という構図に収まっているうちはいいが、独立した人間同士で恋愛しましょう、という段になると、シェリの甘ったれ具合が露呈してしまう。大人同士で恋愛するとなると、当然相手の嫌な部分も見えてくる。しかしシェリはそれを許容しない。彼が求めるのはあくまで完璧なヌヌーン、どんな自分でも受け入れてくれる優しい女性なのだ。で、自分には欠点は多々あるわけである。全くフェアではない。
 レアは、シェリを甘ったれのままにしてしまったのは自分の責任と考え身を引くのだが、そのレアの思いをシェリが受け止められなかったというところが、悲恋たるところかもしれない。
 ミシェル・ファイファーをスクリーンで見るのは久しぶりな気がする。さすがに年をとったなとは思うが、本作の役柄にはその加齢した部分こそが必要だったろうし、いい年のとりかたではないかと思う。声が色っぽい。また、キャシー・ベイツのわかってる感溢れる演技には笑った。自分の立ち居地を心得ている人だと思う。ファッションにしろインテリアにしろ、当時の風俗が色々と描かれていてコスチュームプレイ好きには楽しいだろう。レアの部屋着やドレスが東洋風味なところに当時の流行が垣間見える。