2D・日本語吹き替え版で鑑賞。2のストーリーの流れをそのまま引き継いでいるので、2を未見の方はぜひご覧になってからどうぞ。ウッディやバズと遊んでいたアンディは17歳となり、おもちゃたちはおもちゃ箱にしまわれっぱなしだった。更にアンディが大学進学の為家を出ることに。ウッディたちは屋根裏部屋にしまわれるはずだったが、手違いから保育園に寄付されてしまう。アンディの元に帰ろうとするウッディをよそに、また子供と遊べると喜ぶおもちゃたちだったが・・・
 西部劇、アクション、SFなど各ジャンルのおいしいところを総取りしてぶっこんだ冒頭10数分が、映画の喜びに溢れていてとても楽しい。これはぜひ大画面で見ることをお勧めする。ジャンル縦横無尽な展開には、映画ファンも小さい子供も心捉まれるのでは。まさかトイストーリーであんな大規模な爆発シーンを見られるとは。
 しかし以降は、ぐっと大人なドラマが展開される。2でも示唆されていた、いつまでも持ち主と一緒にはいられないというおもちゃの運命が、いよいよ現実のものになるのだ。本シリーズのうっすら怖いところは、おもちゃを主人公にしながら、おもちゃは大量生産品であり消耗品であるということを前提にしているところだ。いくらでも代わりはいるし、壊れたり流行おくれになったりすると捨てられる。彼らにとって「ただ一人の私」というものは、作られた当初は存在しないわけだ。
 彼らを「ただ一人の私」とするのは、持ち主であるアンディの存在だ。アンディのおもちゃであるということが彼らのアイデンティティとなっており、だからこそウッディは必死でアンディの元に帰ろうとする。アンディのおもちゃであるということは、少なくともウッディにとっては、子供と遊ぶ為に存在するというおもちゃの目的を超えたものになっている。しかしもう一つ、彼らを「ただ一人の私」とするものがある。それはおもちゃ仲間との関係だ。だからバズは「一緒にいなきゃダメだ」と主張し、クライマックスで手を握り合うおもちゃたちの姿が胸を打つ。彼らの逃避行は、全て「ただ一人の私」であろうとする為とも思える。
 ところで、ウッディたちが寄付されてしまった保育園がまさかの管理格差社会(笑)なのだが、おもちゃにとっての「良い遊び」「いやな遊び」に言及されている。もちろん、乱暴に扱われ壊されてしまうのだが悪い遊びであり、乱暴な子、おもちゃの認識がよくできていない幼児は遊び手として不人気だ。しかしそうだとすると、世に溢れている幼児向けのおもちゃは全て不幸になる為に生まれてきたということか?それはちょっとおかしくないか?
 さて本作はもちろんおもちゃたちの物語なのだが、最後、この物語は人間であるアンディの物語としても収束する。映画冒頭が、大きくなったアンディによって反復されるところで一番感動してしまった。おもちゃたちは、アンディの一部を付与された存在なのだ。アンディが置いていくのは子供時代の自分でもあるのだが、それは決して失われたということではないと思える。