第10回東京フィルメックス、ジャン=ピエール・メルヴィル特集にて鑑賞。脱獄したギャング・ギュ(リノ・ヴァンチュラ)は「妹」マヌーシュ(字幕では妹なのだが作品解説では情婦。どっちだ?)の手引きでマルセイユに身を潜めていた。しかしマルセイユの顔役ポールから、プラチナ輸送車の襲撃をもちかけられる。プラチナ強奪には成功したものの警官2人を射殺してしまったギュは、パリから追ってきた刑事の計略にはめられ、逮捕される。しかも彼が仲間を密告したという噂まで広まっていた。ギュは裏切り者の汚名をそそぐ為に再度脱走を図る。監督はジャン=ピエール・メルヴィル。1966年の作品で、これがメルヴィルにとって最後のモノクロ作品となった。
 冒頭に、「ギュの仁義は映画製作者の道徳とは異なる」云々の但し書きがご丁寧に出てくるのだが、これは本気のものなのか何かに対するエクスキューズなのか。ただこの但し書きによって、ギュに対して映画を見る側も一定の距離間が出来、安易なヒロイズムにおぼれない、冷静な視点が生まれていると思う。いわゆる任侠映画みたいなものなのだが、ウェットさが最低限に抑えられている。登場人物の感情を過剰に表現することはなく、本来の意味でのハードボイルドな語り口だ。音楽すらほとんど使われていない(いわゆるサウンドトラックはない。バーの中で音楽が演奏されている、という形での使い方のみ)。
 ギュの仁義は、映画内でも言及されているように、当時からしても少々古臭いものであり、若いギャングたちには小バカにされている雰囲気すらある。逆に過去を知るギャングたちからは尊敬を得ているし、敵である刑事からも一種の敬意を持たれている(ラストの刑事の振る舞いがいい!)。ギュのかっこよさは、同時にこっけいさでもあり哀しさでもある。ギュがもう若くないというところがさりげなく描かれている(冒頭の列車に飛び乗ろうとするところなどモロにそうだ)のも、それを強調していたと思う。若いやつにはわからないかっこよさ、と言ってしまうとなんとなくかっこいいが、普遍性を持たないかっこよさは自己満足とそう変わらないだろう。
 映像的にもストーリー的にもシンプルな作品だと思うが、シンプル故に強い。主演のヴァンチュラの顔力が強烈というのも、映画が際立っている一因だと思う。いわゆる二枚目ではないが妙に引力がある顔だ。この顔だからギュというキャラクターが嫌みなく成立している。
 ・・・となんだかとっても感銘を受けたかのように書いているが(いや本当にいい作品だと思っているんですけど!)、何度も睡魔に襲われたことをここに告白しておきます。モノクロ字幕の映画を久しぶりに見たら脳みそが適応するのに時間かかるみたいで・・・。