ベルサイユ宮殿近くの森に暮らすホームレス・ダミアン(ギョーム・ドパルデュー)は、若い母親ニーナと幼い息子エンゾに出会う。ニーナとエンゾもまたホームレスだった。ダミアンの元で一夜を過ごしたニーナは、エンゾを残して姿を消してしまう。ダミアンはやむなくエンゾと暮らすことになるが。監督は本作が長編映画デビューとなるピエール・ショレール。なお主演のギョームは2008年に急逝している。
 予告編だけ見ると、泣かせる子供映画、もしくはダメ男再起映画のように見える。確かに半分はその通りだ。しかし残り半分に監督のリアリズムを見た感がある。ホームレス人口が多いフランスらしい作品かもしれない。日本映画だったらここで絶対客を泣かせる方向にもっていくだろうなというところで、感情を抑制する、また他の方向へすっともっていく。
 本作が単純な感動ものにはなっていないのは、人間は変われるということと同時に、人間は変われないということも示しているからだろう。そして、そのどちらも否定はされない。そういうふうにしか出来ない人間もいるし、それは彼らの選択なのだ。本作ではホームレスを「恵まれない人」「かわいそうな人」と一括りにはしていない。デミアンのホームレス仲間も出てくるが、「家」があり「生活」がある。「自分で選んだんだから自分のせいだろ」という安易な自己責任論にもしていない。ニーナのように、なし崩しにホームレス状態にならざるをえなかった人もいるし、デミアンのように、世捨て人的に生活することを選んだ人もいて、それぞれが別々の生活者として捉えられている。彼らは政府の福祉に全く頼りたくないわけではないだろう。ただ、ニーナのように年齢不十分(フランスでは25歳以下だと生活保護を受けられないらしい。映画内の情報によれば子供がいる場合はOK)だし、政府の福祉プランを受けることもできるが、無理やりプランに合わせられて、彼/彼女が個人として扱われないという認識らしい。彼らがどういう状態を「生きている」と見なしているか垣間見えるところがあった。
 予告編からはわからないのだが、ニーナに割かれている部分が結構大きい。彼女はもう一人の主人公と言える。息子への愛はあるが自分の生活をなんとかしないとどうしようもないという部分がちゃんと描かれているので、単に「未熟でダメな母親」という造形にはなっていない。「こういう人もいるがこういう人もいる」という視線があり、その視線がそれぞれに突き放すでもなく、近すぎるのでもなく、一定の距離をおいている。登場人物に対してフェアだし冷静だ。何かを振りかざして主張、という作品ではない。
 エンゾはニーナとダミアン、そしてダミアンの実父と義母という複数の親的な存在を持つことになるのだが、彼がこの先どんなふうに成長していくのかということが、すごく気になった。彼は、エンゾの為に定職につき「まっとうな」生活をすることを決意したダミアンに対して、「森には戻らないの?」とたずねる。森での生活はエンゾにとってなにものにも換えがたい記憶なのだろう。で、その記憶と、その後のデミアンの行動との兼ね合いを、彼の中ではどのようにつけられているのかというところが気になる。デミアンの行動は客観的に見ると無責任といわれそうなものなのだが、エンゾにとっては愛着のある人のままなのではないか。だから、デミアンの父・義母との間にいまひとつ距離感があるのではと思う。しかし第三者からすると、親として責任を果たせそうなのはデミアンの父・義母なのだ。周りから見た理想的な親と、子供本人が愛する親とは一致しないとこともあるなと思った。そのことをエンゾが受け入れられる時はくるのだろうか。