マンガ家の麻子(小泉今日子)は愛猫サバを亡くし落ち込んでいた。アシスタントのナオミ(上野樹里)はマンガを描けなくなった麻子のことが心配でたまらない。そんなある日、麻子は一匹の子猫とめぐり合い、グーグーと名づけて買い始め、徐々に元気を取り戻していった。しかし今度は麻子の身に重大な事件が起きる。
 監督は犬童一心。男性の中には、心の中に乙女が住んでおられる方が往々にしていらっしゃるが、監督もその一人ではなかろうか。スクリーンの中がきらきらしすぎて疲れた・・・。そして監督の中の乙女は大島弓子作品が大好きなのだ。そして大島弓子本人のことも好きすぎるに違いない。その愛が、本作を微妙なものにしていたように思う。
 本作の原作マンガは事実を下敷きにしたエッセイ風の作品であり、デフォルメされてはいても、主人公は実在する大島弓子ご本人、そして大島の飼い猫たちだ。対して本作の主人公であるマンガ家の麻子は、もちろん架空の人物であり大島弓子ではない。しかし原作を読んだ人は多かれ少なかれ麻子=大島として見るだろう。更に、麻子という架空の漫画家が執筆する架空の漫画原稿が出てくるが、これは大島弓子が執筆した実際に出版されている漫画を使用している。ここでもまた麻子=大島なのだ。主人公の名前を変えて完全にフィクションとしている以上、大島の他作品をそのまま投入してしまう、しかも具体的な内容に触れてアニメーションまで作ってしまうというのはどうなんだろうと思った。
 そのへんの、キャラクターとモデルとの線引きが中途半端で、見ていてひっかかる。監督が麻子の背後に自分が愛する(おそらく多分に美化された)大島を見ている分にはいいのだが、それを観客にも強要する必要はないだろう。いや強要するつもりはないのだろうが、愛がいきすぎていて、結果的に強要しているというか・・・。監督にとっての大島弓子(とその作品世界)は、こんなに美しくリリカルでセンシティブなものなのねというのはとってもよくわかったが。
 また、見ていて苦痛になるほどではないのだが、コメディぽいシーンが若干滑り気味なのが気になった。もうワンテンポ早く/遅くカット切ればもうちょっとなんとか笑えたかも、という微妙なシーンが多すぎたと思う。全体的にもたついていた。切るべきところを勿体無くて切れなかったのか。犬童監督は手堅い作品を送り出しているだけに、愛で目が曇ったか?とつい勘ぐってしまった。
 主演の小泉今日子は「ちょっとかわいい中年女性」というポジションにいよいよはまってきた。彼女が好演する一方で、上野樹里はいまひとつ冴えない。役柄的に割を食った感じ。やれば出来る子なのにねぇ・・・。勿体無い使い方だ。また森三中の起用は賛否両論だったが、私は映画のはし休め的な存在になってくれたんじゃないかと思う。コメディ寄りのシーン(空き地での殺陣とか)をやると、流石に上野がやるよりも面白いし笑いのテンポがわかってるなという印象。
 一つ、意外なほど実感を持って迫ってきたのは、ガンの告知を受けた麻子の心境だ。彼女が落ち込むシーンはもちろん、遺言書を作り医者にグーグーのことを頼むシーンには、家族(夫子供)のいない女性が死と向き合うってこういう感じだよな、自分の後始末を自分でつけなくちゃならないんだよなと、妙にしみじみとした。もっとも、演出が上手いというより、私が自分の死を意識する年齢になったということだと思うが。