1976年、ルネ・アリオ監督により『私、リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という、19世紀に実際に起こった事件を題材とした映画が撮影された。映画に登場する農民たちは、実際にロケ地近郊に住む素人の人たちだった。30年後、当時助監督だったニコラ・フィリベールは、再びロケ地であった村を訪れ、当時出演した人たちへのインタビューを試みる。出演者たちへのインタビュー、『私~』撮影の際に残された資料、そして『私~』本編の映像を交えたドキュメンタリー。
 インタビューの部分、ショットのつなぎの間が微妙に長い。この間が、時間の流れを感じさせる。映画に使われるのはごく一部だが、その向こう側にはもっと長い時間、多くの人たちの時間が流れていると感じさせる。過去の映像と現在の映像を交互に見せるだけで時間が流れたことは感じられるが、この間があることで、今正に時間が流れているという印象が深まる。映画の向こうに、映画を見ている私たちには見ることが出来ない、出演者たちが過ごしてきた人生があるという手ごたえを感じるのだ。
 『私~』は陰惨な殺人事件を扱っているものの、出演者達は皆懐かしそうに撮影のことを語る。実際の事件に関してフィリベールは特に考察を述べることはない。それは彼の役割ではなく、『私~』に出た人たちの役割だ。映画に出たことでものの見方が変わったという人もいる。そして映画をきっかけに人生を大きく変えた人もいる。主役を演じた青年(当時)のその後の人生、そして共演者たちとの再会には、思わずぐっときた。あの内気そうな青年がこんなに・・・!と他人事ながらほっとするのだ。出来すぎなようにも思えるが、こういうことが実際にあるのがドキュメンタリーのミラクルなのではないだろうか。
 さて、本作はかつて撮られた映画が中心にある、そしてその出演者達が中心にいるドキュメンタリーであるが、それは同時にかつて映画のスタッフであったフィリベールも本作の内容に関わるということだ。このことが、本作における監督の視線にブレを生んでいるように思える。これまでのフィリベール作品は、対象との親密がありながら常に一定の距離が保たれており、視線にブレがなかった。しかし本作では、フィリベールが撮る主体であり、撮られる対象の一部でもある。ドキュメンタリーは常に客観的であれとは思わないし、完全に客観的なドキュメンタリーはありえないとも思う。ただ、本作ではフィリベール自身がどこまで踏み込んでいいものか考えあぐねているように思えるのだ。対象も自分も突き放しきれないというか、距離感が曖昧で、見ている側も居心地が悪い。いっそもう一歩踏み込んでしまえばよかったのにとも思う。ラストのある「秘密」を公開するならなおさら。もし踏み込まずに留まるのなら、あのラストは蛇足だと思う。