高校生の清深(佐津川愛美)の両親が交通事故死した。その知らせを受け、東京で女優を目指していた姉・澄伽(佐藤江梨子)が実家に戻ってくる。母の連れ子で血の繋がらない兄・宍道(永瀬正敏)とその妻・待子(永作博美)と暮らしていた清深の生活は、澄伽に引っ掻き回されていく。
 澄伽は美人でスタイル抜群だが、わがままでやりたい放題、目的の為には手段は選ばない。しかし演技の才能は皆無だ。でも本人は自分には才能があると思い込んでいて、チャンスが巡ってこないのは他の奴らに見る目がないからだ!と愚痴を垂れる。客観的な視点が潔いくらいにないし、新進気鋭の映画監督に自分を売り込む手紙に「監督の作品はまだ見たことがありませんが」と平気で書いちゃう無神経さ。でも自分にがないがしろにされるのは耐えられない。「オレがオレが」な人で、他人がどう思っているかは眼中にないのだ。彼女は女優になることにとりつかれているように見えるが、そうではないだろう。本気で女優になりたい人なら映画なり舞台なりをもっとちゃんと見て勉強するだろう。彼女はあくまで自分を見て欲しい、注目されてちやほやされたいのであって、自分の表現を見て欲しいわけではないのだと思う。兄に無理を強いるのも妹を虐げるのも、「私をかまえ!」というジェスチャーなのだ(女優になりたいというのは、華やかで注目される職業について女優の他に具体的なイメージがなかったんじゃないかと。世界せまそうだもんなー)。
 対して本当に「とりつかれている」のは妹・清深の方だ。彼女は姉の無茶っぷりを題材にホラーマンガを描くが、それがバレて家族は村の笑いものになる。しかし姉に苛められようが家庭が崩壊しようが、彼女はマンガを描かずにはいられない。本当に才能がありこの物語の主役であるのは、一見姉の影のように見える清深なのだ。華やかな姉と地味な妹との愛憎劇である以上に、見られるもの対見るもののぎりぎりのバトルでもあった。澄伽が清深に最後に放つ一言は、見られるものとしての意地なのかもしれない。しかし彼女はこういう方法でしか見られるものにはなれないのだ。しかも自分が意図したのではない見られ方でしかない。
 映画の原作は芥川賞候補にもなった本谷有希子の戯曲。本谷は女優から劇作家に転身したそうだが、だから見る者、見られる者双方のあり方と滑稽さが毒をもって描かれるのかもしれない。澄伽みたいな自称女優の卵な困った人、多分身近にもいたんだろうなぁ。見られることには自意識過剰なのに、実際どう見られているのかということに関しては無意識過剰。加えて兄嫁・待子の自意識の薄さが姉妹とは対照的だった。演じる永作の演技が鬼気迫る気持ち悪さだったということもあるが。