3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ショコラ 君がいて、僕がいる』

 1897年のフランス北部。小さなサーカスで職探しをしていたベテラン道化師のジョルジュ・フティット(ジェームス・ティエレ)は黒人芸人ラファエル・パディーヤ(オマール・シー)と出会い、彼と名付けコンビを組むことを思いつく。ショコラと名乗るようになったラファエルとフティットは一躍人気芸人となり、パリの劇場と専属契約を結ぶ。スターとして名声を手に入れた2人だが、ショコラはギャンブルにおぼれていく。監督はロシュディ・ゼム。
 ちょっとストーリー展開の起伏がゆるくてだらだらしているかなぁ・・・。淡々としていると言えば聞こえはいいのだが。もっとも、そんなにエモーショナルに盛り上げる類の話ではないというのも確かだ。なんとなく、白人と黒人の感動バディもの的な雰囲気を漂わせた宣伝だったが、実際の所はバディになりきれなかった哀しみの方が濃くにじむ。
 フティットとショコラの芸は、今見ると明らかに人種差別意識があるものだし、当時はそれが普通だった。フティットはショコラとコンビを組もうと思うくらいなので黒人に対する嫌悪感はないが、真に同等だとは思っていなかったのではないか。そもそも差別意識にも無自覚だったろう。作中でも描写はあるが、愚か者役がフティットで、黒人が白人の尻を蹴る芸であっても、芸として完成されていれば笑いは起きる。ただ、役割の入れ替わりという発想がフティットにはなかった。彼はショコラを一人前の芸人にしようとしてはいるのだが、その前提として2人は対等であるという認識がいまひとつなく、だからショコラに彼の熱意は伝わらなかったのかもしれない。
 一方、ショコラはスターとして振舞うようになるが、彼に求められるのは依然として「白人に尻を蹴られる黒人」役で、フティットと対等な芸人だからでもアーティストだからでもない。これはショコラの技能・才能とは関係ないことだ。白人と同等のアーティストとして振舞えば、彼に才能があろうがあるまいがブーイングを受ける。ショコラはこの理不尽に打ちのめされていく。彼に出来ることやりたいことと、世間が彼に許すことがどんどんずれていってしまうのだ。万国博覧会の(悪名高い)「野蛮人」展示をまのあたりにする様は痛ましい。黒人としてのアイデンティティも、芸人としての自覚も中途半端なまま、どんどん崩れていくのだ。
 とは言え、苦しむのはショコラだけではなく、フティットにはフティットの苦しさがある。あるシーンで彼はゲイであることが示唆されるが、彼はそれをオープンにすることはできないし、公的にパートナーを持つことも出来ない。彼はおそらくショコラを愛しているが、相手が同性である、黒人であるという二重のタブーとなってしまう。生まれる時代を選ぶことは出来ないが、生まれた時代による運不運というのを痛感せずにはいられない。

『虐殺機関』

 世界の紛争地域で鎮圧任務についていたアメリカ軍特殊部隊のクラヴィス・シェパード(中村悠一)大尉に、あるミッションの為チェコに向かえという指令が下る。ターゲットはジョン・ポール(櫻井孝宏)なるアメリカ人言語学者。世界の紛争の影には常に彼の姿があるというのだ。現地に赴いたシェパードは、ジョン・ポールと懇意にしていたチェコ語教師ルツィア・シュクロウポヴァ(小林沙苗)に近づく。原作は伊藤計劃、監督は村瀬修功。
 伊藤計劃作品3作の映画化企画の一環として製作された本作だが、製作中にスタジオが倒産、何とか新会社を立ち上げ完成にこぎつけたという経緯があるので、とにもかくにもちゃんと完成してよかった。公開時期が結構延びてしまったが、それも納得できるクオリティで更にほっとした。特にキャラクターにしろ諸々のガジェットにしろ、デザイン面が良くできていたと思う。キャラクターのビジュアルが、それぞれの民族の差異を感じさせるもので、これは日本のアニメーションでは珍しいのではないかと思う。シェパードと同僚のウィリアムズは共にアメリカ人だが、ウィリアムズの方がより顔の凹凸がはっきりとした骨格で、いわゆる白人男性の風貌。シェパードはつるっとしておりアジア系っぽい。ルツィアの方がシェパードよりも顔の骨格のめりはりがあるんじゃないかなというくらいで、彼女は全身の骨格も結構しっかりとしている。いわゆるアニメの女性キャラクターのような華奢さは感じさせない(むしろシェパードの方が軍人としては華奢に見えるくらいだ)。
 また、人工筋肉を使ったアイテムのデザインがユニークさと不気味さ(有機的な部分がおそらくそう思わせる)を醸し出していて面白い。飛行機内のシートベルトにも生き物の肉体が絡みつくような雰囲気があるが、作中の人たちにとってはそれが普通だから、全員無反応という所にシュールさを感じる。また、投下用ポッドやコンタクトレンズ(デバイスを直接目に装着するからか)が使用後に液化する様には、なるほどこれが軍事用ってことね!と妙にわくわくした。
 原作を読んだ時も思ったが、映画でより強く感じたのがシェパードのナイーブさ、若々しさだ。アメリカの軍人、しかもエリートがこんなに揺さぶられやすくていいのか?というくらい簡単にジョン・ポールの言葉に心乱されてしまう。ジョン・ポールが使う「言葉」の特質はあるものの、軍人メンタリティとはそれに対して「だから何だ」と(良くも悪くも)返せるようなものではないかと思うが。シェパードは作中何度も軍人としては珍しく文系大学出身であることをからかわれるのだが、言葉の使われ方に対するセンシティブさがある。
シェパードのルツィアに対する思い入れは少々説明不足ではある。とは言え、彼が見ない、感じないようにしていたものと対面しつつもジョン・ポールが見ている世界とは別の世界を見ている人が彼女だったのかもしれない。作中、最も強く逃げないキャラクターは、彼女なのだ。
 終盤、セリフとモノローグで一気に処理してしまったところがちょっと残念なのだが、そもそも言葉量が多い原作なんだよな・・・。各人がそれぞれの思想を垂れ流すタイプの小説は、こういう部分が映像化に不向きなんだろう。それにしても、ジョン・ポールの理屈は原作が書かれた当時はそれを言っちゃあお仕舞よ、的なものとして捉えられていたと思うのだが、今やその理屈に準じるようなことをあけっぴろげに言っちゃう政治家が出てくるようになったんだもんなぁ・・・。建前の崩壊とは恐ろしい。映画の製作が遅れたことで期せずしてよりタイムリーになってしまった感がある。

『狩人の悪夢』

有栖川有栖著
人気ホラー作家の白布施と雑誌の企画で対談した有栖川は、京都・亀岡にある彼の自宅を訪問することになった。しかし有栖川が泊まった翌日、白布施の亡きアシスタントが住んでいた家で、右手首のない女性の死体が発見される。
待ってましたよ!な火村&アリスシリーズ最新長編。作中、アリスのサラリーマン時代にインターネットが既に普及していたことにあっさりとなっていて(本シリーズは23年続いている。アリスはプロ作家になる前はサラリーマンだった設定)、長期にわたるシリーズを続けていく秘訣を垣間見ましたね・・・。1人の男の人生こそが最大の謎だった前作『鍵の掛かった男』と比べると、今回はオーソドックスな謎解きもの。仮説→反証、仮説→反証し推理の範囲を狭めていく。まどろっこしく感じられるような重複(というか反復か?)描写もあるのだが、終盤の推理の為にはこれが必要だったんだなと腑に落ちる。ただ今回は犯人特定に至るまでの推理過程はもちろんなのだが、最後の一手である、どうやって犯人に告白させるかという部分の方に目がいった。
(以下若干ネタバレになるかもしれないが)今回の推理には明確な物証がない。最後の推理はある人物の口から語られるのでシリーズ中でも珍しいパターンだと思うのだが、犯人にはこの人物によって追求されるのが一番堪えるということが、(「だから堪える」と文章上明記されるわけではないのだが)真相解明と共にわかってくる。この部分、動機を含めて二重の意味での謎解きになっているのだ。加えて、火村はこういうことをこの人物にさせるのかという、キャラクターの側面を垣間見た感もある。著者の近年の作品は、規定の枠の中でどういうマスの埋め方をしていくかという技巧的な(しかもすごーく地味かつ地道な)部分に特化している気がするが、今回はこう来たか・・・。しかしあとがき読むと「まだ新しいことがやれそうな気がする」的なことをさらっと言っているので恐ろしいかつ頭が下がります。

『アメリカン・ブラッド』

ベン・サンダース著、黒原敏行訳
元ニューヨーク市警のマーシャルは、犯罪組織への潜入捜査を終えた後、証人保護プログラムの下で暮らしていたが、地元の若い女性の失踪事件を追い始める。同じころ、チンピラのトロイは麻薬カルテルのボスであるレオンから資金を奪おうとしていた。一方、組織は殺し屋「ダラスの男」をマーシャルを始末するために差し向けていた。
現代のアメリカが舞台だが、どこか西部劇を思わせる。マーシャルの独特の行動規範と流れ者っぽさにはそんな雰囲気があるし、バニスターも来ては去っていくという男だ。マーシャルの「得意技」も西部劇由来だろう。各章が主要登場人物の名前になっており、視点が入れ替わりつつ物語が展開していく。マーシャルが捜査官だった頃のエピソードも徐々に明かされ、何が彼をこのような行為に駆り立てるのかわかってくる。一方で、バニスターの背景も見えてくる。2人とも、ある出来事により一線を越えてしまった人たちなのだ。2人が死闘へと突き進んでいく中、トラウマをかかえつつも冷静さを保ち職務を全うしようとする、女性警官ショアのパートが印象に残る。女性である、ということによるキャラ立てや役割分担みたいなものがされていない書き方もよかった。

『特捜部Q 吊された少女』

ユッシ・エーズラ・オールスン著、吉田奈保子訳
 コペンハーゲン警察の未解決案件専門部署・特捜部Qに電話がかかってきた。電話の主は退官直前の警官。どうしても話したい事件があるというが、カール・マーク警部補は多忙を理由に電話を切ってしまう。後日、この警官、ハーバーザートが退官式で自殺する。彼は17年前の少女ひき逃げ事件を追っていた。跳ね飛ばされた少女が木に逆さづりになったまま絶命したというその事件に、ハーバーザートは憑りつかれ、妻子にも愛想を突かされていた。マークたちは捜査を開始する。
 シリーズ6作目。相変わらずとても面白いし、カール、アサド、ローセの関係性の変化も見所。作中でカールが、アサドやローセと出会ってもう7年かと思い返すくだりがあり、作中時間そんなに経過していたのか!と驚いた。そりゃあカールも丸くなるよなぁ・・・。今回はとある事情でアサドやローセのトラウマが呼び起され、彼らの過去が垣間見える。アサドは依然ガードが堅いのだが、ローセのトラウマは結構深刻そうで、今後のシリーズにも影を落とすのではないか。
 愛する者を愛ゆえに直視しない、見なかった振りをするという状況が異なる形で何度か現れており、特に子供に対する期待が入り混じった親の「見ない振り」は辛い。また本作の事件の背景に新興宗教団体が現れてくるのだが、ある種のカリスマは薬にもなりうるが毒になる可能性の方が高いのかもしれない。「彼」がそんなに魅力的でなければ事件は起きなかった、あるいはもっと単純に解決されていたかもしれない。「彼」の磁力みたいなものにより、どんどんミスリード要素が増えていくのだ。巻き込まれた方はたまったもんじゃないどころか、大きな悲劇が見えてきてやりきれない。

『沈黙 サイレンス』

 17世紀、キリスト教が禁じられ信者が弾圧されている日本で、ある宣教師が棄教したという噂がポルトガルに届く。その宣教師の弟子である若い宣教師ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は真相を確かめる為に日本への密入国を試みる。中継地のマカオで、遭難していたという日本人漁師のキチジロー(窪塚洋介)を案内人にし、ようやく日本にたどり着くが、日本でのキリシタン弾圧は2人の想像を超えるものだった。原作は遠藤周作の小説『沈黙』、監督はマーティン・スコセッシ。
 3時間近い長尺の作品だが、見ている間はあまり長さを感じなかった。今更ながら、スコセッシってやっぱり映画作り上手いんだな・・・。私は彼の監督作はあまり好きではないのだが、本作はとても面白かったし、自分にとって2017年のベスト入りしそうな作品だった。スコセッシがキリスト教信仰について真剣に悩み、考え続けた結果生み出されたことがよくわかる。映像も美しい。空の空撮や、霧に包まれた山海の美しさ等どこかエキゾチックな雰囲気もあり、昔の日本映画にオマージュを捧げるようなシーンも(夜の海を小船で行くシーンとか、あっこれ見たことあるけど何だったっけと気になった)。主なロケ地は台湾だが、さほど違和感はない。原作では長崎近辺が舞台だったと思うので、もうちょっと南下した土地の雰囲気になっている。そのせいか、全体的に空気がしっとりとした感触。また、音楽は抑制されており、冒頭とエンドロールで虫の声と風や波の音だけが響く様が印象に残った。「沈黙」というのは、言葉が聞こえない・人の中に入ってこないということであって、世界自体には音が満ちている。人間が繰り広げる物語は過酷なのだが、それを取り巻く風景は依然として美しくしいのだ。
 信仰心の篤いキリシタンたちは踏み絵を踏むことを拒み、拷問され、処刑されていく。また、ロドリゴが信仰を守っている限り彼らも信仰を貫こうとするのだと、キリシタンを弾圧する大名・井上(イッセー尾形)は「お前(ロドリゴ)が彼らを不幸にしている」と言う。井上の言葉はロドリゴの隙につけこむ詭弁(そもそも彼らを迫害することにしたのは幕府、大名だし命令を下しているのは井上だ)なのだが、ロドリゴはその言葉に揺さぶられてしまう。そもそも、元々キリスト教がなかった土地で布教をすること自体、一種の暴力的な行いとも言える。通訳の武士(浅野忠信)は「お前たちが来なければ(農民たちは)こんな目に遭うこともなかった」と言う。それは言いがかりなのだが、ロドリゴは反論できない。信仰は弱い者を支え、救済する為のものだったのに、彼らを却って過酷な目にあわせてしまう。では何の為の信仰なのか。踏み絵を踏んだら棄教者としてキリスト教会からは蔑まれるが、そこまで強いることが教会に出来るのか。最初は信仰と正義に燃えていたロドリゴだが、自分達の信仰が日本のキリシタンたちを救ったのか、また日本で土着化した信仰はキリスト教として正しいと言えるのか、自信を無くしていく。
 一方、キチジローはキリシタンだが信仰を捨てなかった家族のようにはなれず、何度も踏み絵を踏み「転ぶ」。彼の信仰はもろくいい加減なように見える。しかし、その度にロドリゴを追い、聖職者としての赦しをこうのだ。そのしつこさにロドリゴは嫌悪感も示すが、切実に信仰と赦しを必要としているのは、キチジローのように「良き信徒」になりきれない心の弱い人たちではないのか。一貫して揺るがない信仰、その果てとしての殉教を求めるのは、弱い人たちを切り捨てることになりかねないのではと思えてくるのだ。
 終盤の「その後」のエピソードは、ロドリゴが教会に所属する神父ではなく、個人として神と向き合い続けた結果であるように思う。個人対神という構図が大元にある以上、教会から離れても彼はクリスチャンであり続けたと言えるのではと。ただそれだと、教会の存在意義とは何かという疑問が出てきてしまうが・・・。こういう作品を、クリスチャンであるスコセッシ監督が撮った(そもそも原作小説に強く感銘を受けたということ)ということがとても面白い。

『タンジェリン』

 クリスマス・イブのロサンゼルス。娼婦のシンディは留守にしている間に恋人が浮気したと知り激怒、浮気相手の女を引きずり出すと意気込む。仕事仲間のアレクサンドラはシンディをなだめるが、今夜クラブのステージで歌うことで頭がいっぱい。2人はシンディの恋人とその浮気相手を探して町を行ったり来たりする。監督はショーン・ベイカー。
 全編iPhoneで撮影したことで話題になっている作品だが、そこばかりクローズアップされるのは、ちょっと違うんじゃないかなと思った。本作、スタンダードな娯楽映画として見られるようにかなり配慮されていると思う。意外とドラマ部分に注力しているのだ。特に、キャッチーな(ベタと言ってもいいくらい)音楽のはめ込み方のテンポの良さ、シンディとアレクサンドラの丁々発止なやりとり、下世話なもめごと等、キャッチーな要素が多い。特に音楽と動きのテンポを合わせることをかなり意識している。編集もキレがよくもたつかない。本編中、シンディもアレクサンドラもずっと移動し続けている、動き続けているのだが、動きに音楽が乗ると楽しい、見ていて気分が乗ってくるという単純なことをきちんと踏まえている。なんにせよ、映画を見る側を楽しませようという意欲が旺盛で、インディペンデンスである、低予算であるということを言い訳にしていない。低予算の割に音質、音の調整具合がいいことも、「映画」っぽさを支えている。監督が自分の手腕に酔っていないというか、作品に対して一定の距離感を保ち続けている感じ。
 シンディ、アレクサンドラを筆頭に、トランスジェンダーの娼婦たちのネットワークが描かれるが、トランスジェンダーという要素ばかり取り沙汰されると、トランスジェンダーと言っても色々な層の人がいるだろうし、更にトランスジェンダーの娼婦というくくりでも色々な人がいるだろうしな・・・とやや戸惑う。作中で出てくるトランスジェンダーの人たちがちょっと一様だなという印象だった(いわゆる"立ちんぼ”の娼婦たちのネットワークなので似たり寄ったりになるということかもしれないけど、皆が皆かしましいわけではないだろう)。トランスジェンダーという要素よりも、社会的な保障がなく、非常に不安定な立ち位置の人たちの話という要素の方が大きいのではないかと思った。シンディたちにしろ、常連客のタクシードライバーにしろ、仕事は不安定だしお金もなさそう。ちょっとしたトラブルが起きると一気に生活が崩れていきそうな怖さがある。彼らは表面上にぎやかでエネルギッシュだが、その下には大きな不安を抱えており、陰影が深い。

『パリ、恋人たちの影』

 ドキュメンタリー映画作家のピエール(スタニスラス・メラール)の才能を信じ、共に製作を支える妻マノン(クロティルド・クロー)。しかしピエールは若い研修生エリザベットと浮気していた。エリザベットはある日、マノンが浮気相手といるところを目撃し、ピエールに妻が浮気していると告げる。監督はフィリップ・ガレル。
 ガレルの作品では大概、カップルが浮気したのしないの(まあ大体する)で揉める、というかほぼそういう要素のみで出来ている気もする。あらすじだけ聞くと結構な下世話さだが、実際に見てみるとそうでもない。下世話な話をやっているのに違いはないが、見せ方が下世話ではない。また修羅場の当事者たちは至って真剣で、それを茶化すような意図もないからだろう。
 ピエールは自分が浮気していることを棚に上げてマノンを責め、エリザベットに対しても何も責任を持たないし自分からは何も決めないというクズ感漂う男性だが、彼の行動に対して「ひどいもの」と定義したナレーションがいちいち流れるので、あ・・・やっぱりクズ認識でいいんだ・・・という安心感が得られ、映画を見ている側のクズに対するイライラ感が緩和されたように思う。ピエールのクズさは、すごくひどい男とか卑怯な男、あるいはDVをはたらくといった明瞭なものではなく、カップル間、夫婦間でついやってしまいがちなことなのだと思うが、だからこそ性質が悪い。彼の八つ当たりやいじわるを、マノンもエリザベットも、自分が悪いんだろうと考えてしまう。浮気相手と別れた後のマノンが、ピエールの機嫌を窺うようなそぶりをする、それにピエールが更に機嫌を損ねるという流れがなかなかにげんなりするものだった。お互いにセックスだけのつもりだったエリザベットとの仲も、彼女が本気になってしまったことでバランスが崩れる。エリザベットをうっとおしく思いつつも別れず、マノンを憎みつつも彼女が浮気を続けていないかつい尾行してしまう(しかもバレる)ピエールの弱さが、徐々に際立ってくる。
 葬儀で再会したピエールとマノンは、最初は距離がありよそよそしい。しかし、新作映画のネタの話になると、急に距離が縮まってくる。この夫婦の間にはもちろん愛があったのだろうが、仕事=映画への情熱、それを共有する同士愛みたいなものの方がむしろ長続きしているのかもしれない。マノンは若い頃、「ピエールと一緒に仕事をすることが喜び」だと言って母親からは少々呆れられる(確かに若いなぁという感じはする)のだが、あながち嘘ではなかったのだ。

『エゴン・シーレ 死と乙女』

 1910年、美術学校を退学したエゴン・シーレ(ノア・サーベドラ)は仲間と「新芸術集団」を結成。妹ゲルティのヌード像を描き続けていた。さらに褐色の肌のモデル・モアの肖像画で注目を浴びる。敬愛するクリムトから赤毛のモデル・ヴァリを紹介されたシーレは製作に励むが、スキャンダルを起こしてしまう。監督はディター・ベルナー。
 第一次正解大戦末期のウィーンで病に倒れたシーレと妻エディットの元をゲルティが訪れるというシーンから始まる。そこから過去に遡り、時々現在の病床のシーレのエピソードに戻るという構成。シーレの人生の終盤から遡るという構成は悪くはないのだが、時代転換のタイミングが唐突で、切り替えがぎこちないように思った。切り替えの起点となるキーみたいなものがいまひとつ見つからない。これだったら、若い頃から晩年へと時間順でもよかったんじゃないかなという気もする。
 シーレは16歳の妹をヌードモデルにしていたが、妹との絆は少々深すぎ、危うい。冒頭、裸のゲルティとシーレがじゃれあう姿はセクシャルなものとして意図されていると思う。また、ゲルティはシーレが新しいモデルとしてモアに夢中になると強く嫉妬するし、シーレはシーレでゲルティがいざ結婚しようとすると猛反対する。ゲルティの結婚相手が自分の友人であることも、ゲルティが妊娠していることも許せないのだ。まだ結婚は早すぎる!21歳までダメ!って言うけどじゃあ16歳でヌードモデルさせるのはいいのかよ・・・と突っ込みたくなる。お互いに強い執着心を持っており、結局ゲルティは最後までシーレにつきあう。
 シーレはモアにもヴァリにも執着し、特にヴァリとは仕事上の頼りがいあるパートナー的な関係である様子が見て取れる。実際のヴァリは17歳の少女だったようだが、本作のヴァリは年上の女性風で、モアやエディットよりはぐっと頼りになりそうだし「ちゃんとした」大人っぽい。しかし、シーレの彼女たちに対する執着や愛情は、あくまでモデルというオブジェクト、セックスできる対象に対するもので、彼女らにそれぞれ別個の意思と欲望があるという意識があまりなさそうだ。ヴァリとエディットに「そりゃ怒るよね・・・」とため息つきたくなるような提案をする(史実だそうだ)のも、人間の心の機微が今一つわかっていないからかも。
 また、彼のスケッチにはゲルティより更に若そうな少女のヌードもあるのだが、相手の属性をあまり考えず描く対象としてしまう傾向がありそう。彼の作品には多分に性的な要素がある(本人は美術だと主張しておりそれはその通りなのだが、セクシャルな視線はあるだろう)から面倒なことに・・・。少女に告発されるエピソードは史実だそうだが。自分の行為が相手にとって、また社会的にどういう意味を持つか等考えずに製作に打ち込むというと芸術家肌っぽく聞こえるが、巻き込まれたり尻拭いをせざるを得なくなった側は大変だろう。作中のシーレはとにかく自分のこと、自分の芸術のことしか考えない人として描かれている。「新芸術集団」の仲間が創作を止めた時に激怒するのも、彼に才能があったからというより、自分が理想とする芸術家像からずれたからで、ゲルティの結婚に怒るのと同じなのだ。

『エリザのために』

 医師のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は、イギリス留学を控えた娘エリザ(マリア・ドラグシ)を学校に送っていくが、いつもは学校の前まで送るところを手前で下した。しかしエリザは学校へ向かう間に暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったがショックを受け、留学の可否を決める試験に挑めそうもない。何としても娘を留学させたいロメオは、ツテとコネを駆使して裏取引を図る。監督はクリスティアン・ムンジウ。
 現代のルーマニアを舞台にした作品だが、もうコネと賄賂と汚職の世界!現代の韓国映画を見ているとコネ社会である様子がしばしば揶揄されているが、ルーマニアはそれ以上のように見える。良くも悪くも社会がこぢんまりとしていて、便宜を頼みやすいし頼まれやすい。断りたくても断れない空気があるんだろうなぁ。ロメオは民主化に失敗した母国に失望し、エリザをイギリスに行かせようとしているそこにしか未来への希望はないと考えているのだ。彼のなりふりかまわなさは、自国への絶望の反映でもあり、それがなんとも辛い。
 しかしそれ以前に、ロメオがエリザの話をちゃんと聞かない所が気になった。彼女が本当に留学したいのか、何をやりたいのかは、語られることがないしロメオがそれを尋ねることもない。また、暴行を受けてショックを受けているはずの彼女への対応が雑すぎないか。試験がどうなるかよりも、まず他に心配することあるだろ!と色々突っ込みたくなる。ロメオは頭では娘が傷ついているとわかっているのだが、どういう心情かというところはあまりぴんときていないようだ。娘のために必死なのは十分わかるのだが、娘がそれによってどういう心情になるのか、彼女のその後に精神的にどういう影響があるかは、あまり考えていないように見える。
 ロメオは悪い人間ではないし医師としては誠実と評されているが、妻や娘、また愛人に対しては独善的な面が見られる。彼のやることは概ね「よかれと思って」なのだが、その「よかれ」を決めるのは自分であり、相手とちゃんと向き合っていないのだ。妻に対しても愛人に対しても娘に対しても、彼女らには彼女らなりの指針があり人生があるということが、いまひとつ呑み込めていないようで、何ともいらいらする。本作における時代や国を越えて普遍的な部分は、この鈍さではないかと思う。ああこういうお父さん(だけじゃないけど)いるわ・・・というげんなり感がつのるのだ。

『未来を花束にして』

 1912年、ロンドンの洗濯工場で働くモード(キャリー・マリガン)は夫サニー(ベン・ウィショー)と幼い息子と暮らしていた。女性参政権運動活動家の同僚の代理として、公聴会で証言したモードは、自分達が置かれている環境に疑問を持ち始める。WSPU(女性社会政治同盟)のリーダー、エメリン・バンクハースト(メリル・ストリープ)の演説を聞いたモードは、活動に加わるようになる。監督はサラ・ガブロン。
 モードは最初、過激な政治活動には同意できず、公聴会でも渡された文面を読むだけのつもりだった。しかし、名前を名乗り話し始めると、彼女自身の生い立ちや暮らし、彼女の見聞きしてきたものが口からあふれ出す。妻でも母でも使い捨てられる労働力でもなく、自分はモードという1人の人間として語れるということに気付くシーンでもあったと思う。
 舞台となった当時、多くの女性には暴力をふるわれたり勝手に体を触られたりしたら怒って抵抗していいのだ、自分の体を他人に勝手に使わせてはならないのだという発想・概念が希薄だったのだろう(モードの職場では工場長がセクハラ、パワハラをしておりモードも少女時代に被害にあっていたことが示唆されるが、それに対して何か反抗するわけではない)。男性側は言うまでもなく、そういう概念は持っていないだろう。バンクハーストたちが女性の権利を唱えても、今までそういう概念がなかったものを提示しているので、話が通じないしそもそも相手に聞く気がない。法律の範疇で活動できるにこしたことはないが、法律自体が女性の権利という概念がない状態で作られたものであり、法律が守る人間の中に彼女らは往々にして含まれない。
 WSPUの運動には窓ガラスを割ったりポストを爆破したりという暴力的なものもあるのだが、聞く気がない相手に話を聞かせるにはガラスを割って暴動を起こし、怒りを示すくらいしか出来ない。まずは自分達にもそれぞれ発したい言葉がある、考えがあるとわからせる所から始めないと駄目なのか!とげんなりするが、それをやり続けた人たちがいるから、今の私たちの自由と権利があるわけだが。
 サニーはモードのことも息子のことも愛しているが、モードがWSPUの活動を始め自分の考えを隠さなくなると、彼女を追い出し息子を取りあげる(当時、離婚した場合女性に親権はなかったようだ)。モードがサニーの考える妻・母ではない面を見せることが、彼には我慢できないのだ。おそらく当時の平均的な男性像なのだろうと思うが、見ていると憎しみがつのるね・・・。

『マグニフィセント・セブン』

 利益の為なら手段を選ばない悪漢バーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)に支配されたローズ・クリークの町。夫をボーグに殺されたエマ・カレン(ヘイリー・ベネット)は賞金稼ぎのサム(デンゼル・ワシントン)に用心棒を依頼する。サムが集めた仲間は、ギャンブラーのジョシュ(クリス・プラット)、スナイパーのグッドナイト(イーサン・ホーク)、グッドナイトの相棒で暗殺者のビリー(イ・ビョンホン)、ハンターのジャック(ヴィンセント・ドノフリオ)、流れ者のメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、アメリカ先住民族の戦士レッドハーベスト(マーティン・センズメアー)。7人のガンマンたちは町を守る為、多勢に無勢の闘いに挑む。監督はアントワーン・フークア。
 『七人の侍』『荒野の七人』のリメイクだが、黒人、更に東洋人やメキシコ人、フランス系カナダ人、ネイティブアメリカン等民族が入り混じっている所は現代的だし、今リメイクするならこうだろうな、という(歴史的考証は別として)納得感はある。サムがリーダーであったり、レッドハーベストを意外と皆フラットに受け入れている所など、あまりシビアな時代考証はしないからね、そういう作品だからね、という目配せのようでもある。また、グッドナイトはビリーに対して「白人のルールを教えてやった」と言うが、彼とのパートナーシップはフェアであるように見えるし親密そうでもある。サムが馬に乗って町に入った時に町民が一瞬固まったり、酒場の人達があからさまに嫌な顔をしたりというシーンもあるのだが(南北戦争の話も出てくるし)、ひどく迫害される描写はない。
 脚本はそんなに精緻ではない、というかとにかくキャラクターを揃えて後は銃撃、爆破、銃撃で転がしていく感じの大雑把さ。しかし主演の7人が出そろった様を見ると、もうこれでいいんだなという気分になってくる。特にデンゼル・ワシントンのデンゼル・ワシントン力がさく裂しているというか、「悪い奴絶対殺すマン」としての説得力がありすぎる。全然死にそうな感じがしないので最早卑怯なレベルだし、(弱者の側に立つ)正義のアイコン的である。彼にボーグを倒す個人的な理由がある所は『七人の侍』や『荒野の七人』と異なるが、デンゼル・ワシントンが演じたからこの理由が付随してきたようにも思う。「やった方は忘れてもやられた側は絶対忘れない、許されると思うな」というスタンスに説得力があるのだ。
 他の出演者でも、イ・ビョンホン演じるビリーのナイフを使ったアクションがやたらとかっこよかったり、相棒であるグッドナイトの弱弱しさと哀愁がイーサン・ホークのお家芸的だったり、ドノフリオ演じるジャックのちょっとクレイジーな強さだが女性に対しては紳士的(おそらくこの7人の中で最も紳士的)な所がチャーミングだったりと、キャラクターと俳優のはめ込み方がよかった。そしてとにかく全員セクシーである。いやーフークアいい趣味してるな!撮影楽しかっただろうな!ストーリーや全体の構成は正直大分ゆるいと思うが、出演者が魅力的なのと、抗争シーンにガンマンの対決というよりも戦争映画的な迫力があって、許せてしまう。
 何より、町を代表して戦いに挑むエマの佇まいがいい。『七人の侍』でも『荒野の七人』でも特定の女性が存在感を示すことはなかったので、これも今のリメイクならではの演出か。最後も、これは彼女の、彼女の町の闘いなのだと明確に示すものだったと思う。

『映画は絵画のように 静止・運動・時間』

岡田温司著
19世紀末に誕生した映画は、絵画や彫刻からどのような影響を受けてきたのか、そして映画の中に絵画や彫刻はどのように取り込まれてきたのか。メディアを飛び越えて反響しあうイメージを考察する。
映画も絵画・彫刻も見る側の視線を捉える、そして映画/絵画側から見る側に対して向けられた視線がある。視線をどうコントロールするか、という点では映画も絵画・彫刻は共通していると言える。では何が大きく違うのかというと、本作のサブタイトルにもあるように運動と時間だろう。絵画も彫刻も当然運動しないが、映画は運動を映し出し、時間をコントロールするものだ。その差異は大きい。映画の中に絵画や彫刻が出てくると何となく目がいってしまうのは、(元々絵画や彫刻に興味があるからってのもあるが)それが運動しない、静止しているものだからという面もあるのだろう。映画は瞬間の連続だが、絵画も彫刻も瞬間のみを記録する。そもそも絵画や彫刻には時間という属性がないと言った方がいいのか。本作の題名は『映画は絵画のように』だが、読んでいるとむしろお互いのお互い「ではない」部分の方に目が行く。映画ファンとしては、第Ⅲ章「メランコリーの鏡」、第Ⅵ章「静と動のあわいの活人画」が面白かった。特にⅥ章は、なんだこのメタ構造!と笑っちゃうような映画監督の拘りを感じる。
 

『有頂天家族 二代目の帰朝』

森見登美彦著
天狗の赤玉先生の跡継ぎである“二代目”がイギリスから帰国し、天狗の世界も狸の世界もざわつき始めた。赤玉先生と二代目とは犬猿の仲、かつ赤玉先生の愛弟子である弁天と二代目の間も険悪だった。赤玉先生のお世話係である狸の矢三郎は天狗同士の騒動をなんとかやりすごそうとするが、狸の世界でも覇権争いが起こっていた。
アニメ化に伴い読んでおくかと手に取ったが、1作目より更に読みやすい。基本的な設定が既にわかっているからというのもあるが、構成、文章の技術が上がっていると同時に、いい意味で入れ込み過ぎない(ように見える。実際はまあ大変だったんでしょうが・・・)スタイルに収まっている。スペクタクル的な見せ場が減っている(今回は前回ほど狸が化けない)と同時に、家族の情愛がよりするっと自然な形で表れているように思う。日和見な狸たちの騒動は愉快でおかしいが、血のしがらみや恨みつらみから逃れられない姿はどこかもの悲しくもある。矢三郎たち一家の「仇」にも、そこまでこじらせることなかったのに・・・という哀れさがあるのだ。それはともかく、二代目と弁天が出そろった所で、そもそもの元凶は赤玉先生じゃないのか?!という気がしてならない(笑)。

『特捜部Q Pからのメッセージ』

 未体験ゾーンの映画たち2017にて鑑賞。未解決事件を扱う特捜部Qに新たに依頼された案件は、海辺で見つかった瓶の中に「助けて」と書かれた手紙が封入されていたというもの。手紙は7~8年前に書かれ文字は劣化しており、唯一の手がかりは差出人の頭文字「P」だった。原作はユッシ・エーズラ・オールスンの同名小説。監督はハンス・ペテル・モランド。
 このシリーズは原作がどれも結構なボリュームなのだが、映画化作品は1作目も2作目も本当によくまとまっていて感心する。大体2時間以内で収まっているのだ。話の運び方の要領が的確でさくさく進むし、情報の整理が上手い。今回は1作目に通ずるような嫌なシチュエーション、嫌な話ではあるのだが、話の展開にスピード感があるのでストレスはそれほど感じなかった。なお、前作見ていなくても大丈夫だが、マークが前回の事件で精神的にボロボロであるという部分だけ踏まえておくといいかも。
 マーク(ニコライ・リー・コス)とアサド(ファレス・ファレス)の関係がまた一歩前進している。マークはアサドに対していまひとつ信頼感を示さないが、ちょっと心を開いてきている様子がわかる。今回は信仰が大きなファクターになっている。無神論者であるマークは、神の存在を信じるアサドを理解できないし、信心深い事件関係者の行動原理も理解できない。それでも、それはそれとして黙認しようという所までは譲歩するのだ。アサドが敬虔なクリスチャン(キリスト教系新興宗教なので厳密には違うのかもしれないが・・・)から自宅への入室を拒否されるシーンがあるのだが、アサドは何も言わないし、マークはむっとしつつ堪える。アサドにとっては理不尽な仕打ちだが、彼は他人の信仰、信条を極力尊重する。それが彼にとっての正しさであり、処世術であるのかもしれないと思った。
 とは言え、本作での事件のファクターである信仰、というよりも信仰への絶望感は理不尽で恐ろしい。理屈による説得は通じず、相手の行動原理もこちらの理解を越えている。元々信仰自体は邪悪なものではないはずなのだが、それが屈折したことで邪悪さを生み出してしまったという構図がやりきれない。
 今回はこれまでの特捜部Qによる単独捜査という側面よりも、警察組織で捜査しているという側面の方が前面に出ている。おお警察ものっぽい!とこれはこれでうれしくなる。半信半疑だった警官たちが、マークとアサドの熱意に感化されて必死になっていく様もいい。また、ローサの地味な活躍ぶりも生きている。彼女を若いアイドル的な女性キャラクターにはしていない所は正解(そもそも原作でもいわゆる「かわいい女性キャラ」ではないし)だろう。

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