3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『台北ストーリー』

 不動産会社で働くアジン(ツァイ・チン)と稼業の布地問屋で働くアリョン(ホウ・シャオシェン)は幼馴染で、過去に色々あったらしいが何となく関係が続いている。昇進を控えたアジンだが、勤務先が大企業に買収され解雇されてしまう。渡米したアリョンの義兄を頼って、2人でアメリカへ移住しようとも考えるが、アリョンはなかなか踏ん切りがつかない。監督はエドワード・ヤン。4Kデジタル修復され、待望の日本公開となった。1985年の作品。
 80年代、日本と同じく好景気に沸く台北が舞台。冒頭、アジンは念願のマンションを購入する。徐々に内装が整うマンションの室内は、当時の「ちょっとおしゃれな単身者の住まい」風で、うーんこれは仕事も私生活もぶいぶいゆわせてゆく系の調子良好な都会人たちの話なのかしら・・・と思っていたら、アジンがいきなり失職するし再就職なかなかしないしで、むしろ調子悪くなっていく話だった。なんとなく続けていた青春時代の名残、モラトリアム期間が、とうとう霧散していくようなはかない味わいがある。
 アジンはアメリカへの移住を望むが、台北での生活に具体的な支障があるわけではない。今の生活に行き詰まりを感じており、環境を変えたいのだ。アリョンは彼女に、結婚しても移住しても何かが変わるとは限らないと言い放つが、確かにその通りでもある。ただ、アリョンはアリョンで今の自分の生活に所在なさを感じている。アリョンが少年野球のエースとして活躍し周囲からも期待されていたらしいという話が何度も出てくるが、今の彼は野球選手ではない。彼の人生のピークはあまりにも早く来てしまった。アリョンはアメリカへ行ったり日本へ行ったりもしているみたいだが、やはり自分の居場所を掴みあぐねている。継いだ稼業にも向いているとは思えないし、同年代の起業家たちのように貪欲にもなれない。アリョンのふらふらとしているうち、なんとなくここまで来てしまったがこの先どこへいけばいいのかわからないという状況は、身につまされるものがあった。2人はもし結婚したとしても、アメリカに移住したとしても、どこへも行けない気持ちのままだったのではないか。「どこか」「いつか」などないと断念するしか、今ここから抜け出す方法はないのかもしれないが、それがちょっときついのだ。
 好景気が背景なのに、アジンとアリョンの周囲は金に困っているという話ばかりだ。世間の景気と自分の景気は違うという所も、なんだか身につまされた。アジンは父親の借金のとばっちりをずっと受けているし、アリョンは安易に人に金を貸してしまいトラブルになる。アジンが母親に金を都合した後のシーンが印象深い。アジンはすぐにその場を立ち去るが、母親は帰り道がわからず往生している。アジンには母を案ずる余裕がないのだ。2つの世代の間にはっきりと断絶がある(子は親を、親は子を最早理解できない)のに、親子の関係は切ることができないというもやもやを、アジンもアリョンも抱えているように見えた。



『パリが愛した写真家 ロベール・ドアノー〈永遠の3秒〉』

 フランスの国民的写真家、ロベール・ドアノーの人生と作品を追うドキュメンタリー。パリの街並みやそこで生きる庶民の姿を撮影し、ヴォーグやLIFEでファッションやポートレートの仕事もしたドアノー。彼の家族や親しかった人たちの言葉、また彼を撮影した映像等から構成される。監督はドアノーの孫娘であるクレモンティーヌ・ドルディル。
 ETVで放送されるドキュメンタリー的な、わりとあっさりとした口当たりの作品なので、既にドアノーの生涯や作品についてある程度知っている人には特に新鮮味はないかもしれない。しかし、家族の話やドアノーの映像(晩年はTV番組等にもそこそこ出演していたようで、動画が結構残っている)からは、彼の人柄が感じられ、なかなか面白かった。
 現在、彼の作品の管理は2人の娘が行っているそうだが、事務所には元々アトリエ兼住居(娘たちもここで育った)だった物件をそのまま使っている。父親とその仕事、ここでの暮らしに対して、いい思い出がいっぱいあるんだなと何となくわかる。若い頃のドアノーは、広告写真やカード用の写真のモデルに妻子や親戚を使っていたという話は何かで読んだことがあったのだが、モデルを務めた当人たちから当時の話を聞くことができる。とにかく写真、写真で家族総出で手伝っていたらしいのだが、それが嫌だったという話は出てこないし、家族も結構楽しんでいたようだ。かつてモデルを務めた親戚や知人友人一同が集まって当時の写真を見るという「モデル会」みたいな集まりの様子が映されるが、皆当時の思い出話に興じて、実に和やかだし楽しそう。
 ドアノーは反権威主義で、仕事の上ではすごく頑固なところもあったようだが(かつての仕事仲間が、仕事の内容によっては何かと理由をつけて出てこなくなるので困ったと話している)、基本的に、一緒にいて楽しい人だったのではないか。仕事仲間の話からしても、あまり相手を威圧するところがなく、感じのいい紳士という風。ドアノーは著名人ポートレートの仕事も(おそらくLIFE誌の依頼で)多数手掛けており、個展でいくつか見たことがあるが、どれもいい写真だった。写真撮影の中でも特に人間を撮影する際には、撮影する側の人柄によって作品の出来がかなり左右されるような印象がある。撮影技術の高低はもちろん影響するだろうが、人対人の仕事である、という側面が強いように思う。
 ドアノーと言えば、「パリ市庁舎前のキス」が本人の名前よりも有名なくらいだが、この作品が知られるようになったのは撮影当時よりも大分後、1980年代になってからだという話が面白かった。キャッチーさを先取りしすぎたわけだが、当時のパリでは路上でキスするような習慣はなかったそうで、ドアノーの作品によってパリの「恋人たちの街」としてのイメージが定着したという側面もあるようだ。それだけキャッチーだったってことだよなー。なお、ドアノーは文才もあって、自身による随筆はなかなかいいのでお勧め。本作中には、ドアノーと付き合いがあった文学者たちの名前も出てくる。私が大好きなブレーズ・サンドラールとの共同仕事の話も出てきてうれしかった。


『ワイルド・スピード ICE BREAK』

 キューバでバカンスを過ごしていたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とレティ(ミシェル・ロドリゲス)。ドミニクに正体不明の女(シャリーズ・セロン)が接触し、ほどなくしてドミニクはファミリーを裏切る。女の正体はサイバーテロリスト・サイファーで、自分の計画にドミニクを引き入れたのだ。FBIを休職中のホブス(ドウェイン・ジョンソン)はファミリーを招集しサイファーを阻止しようとする。上司であるミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)は、彼にかつての敵であるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)と協力しろと命じる。監督はF・ゲイリー・グレイ。
  ファミリーという言葉がしばしば使われ、ドモイニクと仲間を繋ぐものでもあり拠り所となっている。今回はそのファミリーをドミニクが裏切るという、意表をついた展開だ。では何の為ならファミリーを裏切る、裏切らざるを得ないのか?という所で、更にファミリー、家族というものが浮かび上がってくる。また、ドミニクと仲間たちによるファミリー以外にも、血縁による家族=ファミリーも複数描かれ、正にファミリー映画。そして、ファミリーが一つの岐路にたちまた変化していく兆しも感じさせる。このファミリー、地元の「仲間」的な共同体賛歌には若干憧れ若干反感覚えというスタンスで見ているが、本作ではショウの「家庭の事情」が垣間見られたのは愉快だった。
  相変わらず車の大量消費に拍車がかかっている。元々カースタントが見所だったシリーズだと思うのだが、最近のシリーズ作はカーアクションの「アクション」の意味合いがちょっと変わっちゃったんじゃないかというか、車での対決ってそっちかよ!という突っ込み待ちになっている気がする。本作、どうも自動運転がある程度導入されている世界という設定のようなのだが、事前説明なくそういう要素がいきなり出てくるので、ちょっとびっくりした。車は大量に出てくるけど、それほど愛着を感じない使い方なので、車好きが作るカーアクション映画とは違うんだろうなぁ・・・。ただ、キューバのパートではヴィンテージカーっぽい車体が揃えられていて楽しい。
 ストーリーも設定も相変わらず大味なのだが、派手なアクションパートとキャラクターのやりとりで見せるパートとのメリハリが、これまでよりもついていたように思う。今までは、派手なアクションが続きすぎて却って眠くなってしまったのだが、今回はそういうことがなかった。新キャラクターである青二才捜査官リトル・ノーバディ(スコット・イーストウッド)の投入によって、今までいまひとつ置き所が中途半端だったローマン(タイリース・ギブソン)が活きてきたように思う。ボケに対してツッコミではなく更にボケで応じるというボケのラリーで楽しませてくれる。

『野生の樹木園』

マーリオ・リゴーニ・ステルン著、志村啓子訳
カラマツ、モミ、マツやクルミ、リンゴ等、身近な樹木について綴られる随筆集。一篇一篇が集まって、1冊の本が樹木園のようになっている。樹木の植物としての特質、その樹木が人間にどのように利用されてきたのか、神話や文学作品の中でどのように言及されてきたのか、そして著者自身の樹木との関わりの思い出。文章はくどくなく控えめなのだが、樹木に対する親密さが感じられる。自分にとって親しい存在を紹介するという、実体験に即した文章なのだ。私は植物にはそんなに詳しくはないが、樹木の傍にいると落ちつく感じはよくわかる。眺めているだけでも、なんとなくほっとするもんね。どこの国でもこの感覚は変わらないのだろうか。イタリアは日本と植栽がわりと似ている(ただ、馴染みのない樹木も登場するが)からかな。

『ニック・メイソンの第二の人生』

スティーヴ・ハミルトン著、越前敏弥訳
警官殺しの罪で懲役25年を言い渡されていたニック・メイソンは、同じ刑務所に収監されていた暗黒街の大物、ダライアス・コールとの取引により5年目で出所する。取引内容は、携帯電話が鳴ったら必ず出てどんな指示にも従うこと。何の為なのか、自分がこの先どうなるのか見当もつかないまま、メイソンは指示に従わざるを得なかった。
著者の『解錠師』は面白かったが主人公の脇が甘すぎる(主人公がとても若いからってのも一因だが)のが気になった。本作の主人公であるメイソンはもっと年長だし世の中のことをよりわかってはいるが、やはりどこか脇が甘い。その状況で家族に会いに行くなんて、弱点をさらしているのと同じだぞ!と突っ込みたくなる。メイソンは妻と娘に会いたい一心で取引に応じるが、妻子にとっては彼はトラブルの元凶であり、関係回復なんて望むべくもないんだよね・・・。理性ではわかっていても一抹の希望にすがってしまうメイソンの姿がどうにももどかしかった。先の展開が気になり読み飛ばしてしまったが、時制の前後の仕方があまりスムーズでなく、意図的なものなのか単に雑なのかちょっとよくわからなかった。また、コールの計画は、その目的を知ってしまうとメイソンを引き込む必要ってあんまりなかったんじゃないかな・・・。何かもっとてっとりばやい方法ありそう・・・。

『服従』

ミシェル・ウェルベック著、大塚桃訳
2022年の大統領選を控え、投票所テロが起こり報道管制がしかれたフランス。極右国民戦線のマリー・ルペンを破って当選したのは穏健イスラーム政権だった。ユイスマンスの研究者である大学教授の「ぼく」は学長が変わったことで退職をよぎなくされる。
イスラーム政権がフランスで誕生するというなかなか思い切った設定だが、イスラーム政権による政治そのものというよりも、政権が、政治が大きく変化していくのに、国民であるはずの自分が当事者のような気がせず、妙だと思ってもなんとなく変化を見過ごしてしまう、そして受け入れてしまうという無気力感に強い現代性を感じた。今現在のフランス大統領選が引き合いに出され再注目されている作品だが、むしろ今の日本の空気感に通ずるものがある。「ぼく」は自他共に認めるインテリではあるが、自分の知力(と言ってもこの人あまり頭良くない感じなんだけど・・・)でこの世界に太刀打ちできるという手ごたえは全く感じていないようだし、詭弁のような説得にもなんとなく流されてしまう。自分で考えることにもう疲れてしまっているようでもある。国内情勢の変化が彼の年齢上の変化、いわゆる中年の危機と重なっているのも一因か。ゆらぎながら手探りを続けるよりも「服従」してしまった方が楽なのだ。ただ、彼が流されっぱなしなのは、彼が男性だからというのも大きな要因だろう。新しい政府の方針の上では、男性である彼は改宗さえすれば、ぱっと見大きな不利益を被ることがない。「ぼく」がずっと気にしているのは自分の下半身事情だもんな・・・。自分が損をすることがなければ(他の立場の人が不当に扱われたり不利益を被ったりしても)それまでの主義主張は結構簡単に手放してしまうものだというところに、いやーな気持ちになる。そしてウェルベックは相変わらずいけすかないインテリ男の造形が上手いなー。ちょいちょいぶん殴りたくなるタイプである。

『バーニング・オーシャン』

 メキシコ湾沖約80㎞に位置する石油掘削施設「ディープウォーター・ホライゾン」。2010年4月20日、技師のマイク・ウィリアムズ(マーク・ウォルバーグ)は勤務シフトに入り、同僚らとヘリコプターで施設に到着した。しかし海底油田から天然ガスが逆流、引火して大火災が起きる。マイクら作業員たちは被害を食い止めようと奔走しつつ、なんとか脱出しようとする。監督はピーター・バーグ。
 実際に起きた事件が元になっているが、ヒューマンドラマ方向にはもっていかず、ディザスタームービーに徹している。主役は人ではなく炎。何しろ海上のある種の孤島で大火災、しかも石油掘削所だから燃料がなかなか尽きないという、人間にはなすすべがない状況だ。視点が人間に近づきすぎないことで、炎の圧倒的な力がより際立っていた。こういう施設で火災が起きるとどうなるか、という災害の進み方みたいなものにひきこまれた。当然なんだけど、爆発が起きれば物が飛んでくるわけだよね・・・。
 この災害が天災ではなく、ほぼ人災であるというのがやりきれない。ストーリーの端々で、ここで別の選択をしていれば事故は起きなかった、あるいは起きたとしても規模をもっと小さくできたのではないかという運命の分かれ道が示唆されるのだ。運不運はどうしようもないが、コスト削減の為にテストを軽視したり、メンテナンスを怠ったりしたことの積み重ねで取り返しのつかないことになってくる様には、あー・・・とへたりこみたくなる。技師たちはそれなりに頑張っているのに、親会社の方針で全部ひっくり返されちゃなぁ・・・。でもこういうのって下請あるあるだよなぁとどんよりとした。マイクが言うように、コスト面の余裕のなさはいざと言う時のリカバリー能力を奪っていく。人員にも物資にもある程度余裕があることが、安全確保に繋がっていくというのは、どの現場でも同じだろう。
マイクは絶望的な状況の中でも、自分の知識と技術をフル活用し、同僚も自分も助かろうと全力を尽くす。彼の行為は、客観的には勇敢で英雄的なものに見えるだろうし、よくある「実話もの」だったら、彼をヒーローとした感動ものとして描くだろう。しかし、事態を乗り切った後の彼の振る舞いにはっとした。同僚の家族を見て動揺しまくりまともな対応はできず、一人になると泣き崩れる。ああ全然平気じゃなかったんだよなぁと、彼が受けたダメージ目の当たりにした気がした。

『イップ・マン 継承』

 1959年、香港。詠春拳の師父として地位を築き、周囲からも尊敬されるイップ・マン(ドニー・イェン)は妻ウィンシン(リン・ホン)と息子と暮らしていた。しかし、息子の通う小学校を立ち退きさせようと、英国人フランク(マイク・タイソン)の手下が執拗な嫌がらせをしてきた。学校を守ろうとするイップ・マンだが、息子が巻き込まれてしまう。そして彼の妻もある問題を抱えていた。監督はウィルソン・イップ。
 『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』に続くシリーズ三作目。
本シリーズはどれも美術が素晴らしいのだが、本作もセットも衣装も素晴らしい!第二次大戦後、好景気で沸く香港の街並みは、建物に繊細さとどこかヨーロッパ風でもある異国情緒(イギリスの影響だろうから複雑ではあるけど)があって美しい。また、イップ・マンの自宅のインテリアの作りが細やか!ほどよくお金があり、かつきちんと手を入れて暮らしている雰囲気が出ている。ウィンシンの衣装も、どれも華美ではないがおしゃれで楽しい。 こういう所に予算を割いて映画を作れるって、やっぱりいいものだなとしみじみとした。
前2作では自分の拳を確立しようと模索していたイップ・マンだが、本作では「詠春拳の師父」としての地位は盤石で、がつがつしていない。弟子に稽古をつけるシーンも作中にはない。いわば「あがり」の状態だ。だからこそ、息子の学校が安全であるよう手を尽くすといった、地域活動みたいなものに専念できるわけだろう。ただ、これから同じ道でのし上がってやろうという野心に燃える人にとっては、イップ・マンの余裕は癇に障るものでもあるだろう。息子の同級生の父親で、同じく詠春拳の使い手であるチョン・ティンチ(マックス・チャン)がイップ・マン宅を訪問した時の表情には、屈託が滲んでいる。そりゃあ、同じ流派で腕も劣らないと自信があるのに、何で自分だけって思っちゃうよなぁ。とは言え、チョンは野心家だが拳に対しては彼なりのまっすぐさがあり、イップ・マンとお互いのまっすぐさをぶつけ合うクライマックスは爽快だ。マックス・チャンがやたらと色気を垂れ流す(ドニーについては言うまでもなく)ので、ちょっとくらくらしてくるが。
 カンフーアクションはもちろん見応えがありとても愉快。拳法で戦うという部分は毎回同じではあるのだが、今回はこういう風にしてみよう、みたいな新鮮味を出す為の工夫が感じられる。エレベーターからの階段経由の一連のアクションは、階段で「踏みとどまる」足の描写をいちいち入れるあたりが面白かった。
 本作、カンフー映画ではあるが、同じくらいの注力度で夫婦の愛と絆が堂々と描かれており、なんだかぐっときた。イップ・マンのある局面での選択は、王道アクション映画だったらやらないんじゃないかというものなのだが、彼にとっては、もう一方の方がもっと大事なのだ。また、ウィンシンも、イップ・マンにとって拳がどういうものなのか、よく理解している。詠春拳をふるうのはイップ・マンだが、その道はイップ・マンとウィンシンが一緒に戦い、守ってきたものだと明言するような作品だった。2人が並んで歩いていく後姿に、つい感動してしまった。ここまで真向から夫の妻への愛を描くカンフー映画って、なかったんじゃないかなー。

『人生タクシー』

 政府から映画監督としての活動を禁じられたジャファル・パナヒは、テヘランの町でタクシー運転手をしていた。ダッシュボードに設置されたカメラには、教師や海賊版ソフト業者、交通事故に遭った夫婦、そして監督の姪ら、様々な人たちを映し出す。監督・脚本はジャファル・パナヒ。
 『これは映画ではない』の延長線上にあるような、フェイクドキュメンタリー風の作品だが、今回は舞台が移動しつつ話が進むので『これは~』のような閉塞感はない。人の出入りが頻繁で案外風通しがいいのだ。タクシーの乗客たちは皆好き勝手によく喋るのだが、パナヒ監督の境遇を知っている乗客は「あっこれも映画にするんでしょ?!」とあれこれ聞いてきたりもする。
 また、学校の課題でドキュメンタリー映画を撮っているのだという姪が、イラン国内で上映できない映画の条件を読み上げると、パナヒが「読まなくていいよ」と朗読をやめさせる。確かに、もう耳にタコができるくらい言われただろうしな・・・。姪は、なぜそういう条件が定められているのかは考えていないようで、「上映できないシーンは入れなければいい」「上映出来ない部分があるなら、変えればいい」と言う。それが映画=フィクションということなのだと言わんばかりだ。彼女は、自分が撮影していたゴミ拾いの少年が、映画として少々都合の悪いことをすると、彼にやり直しをさせる。その時点で「ドキュメンタリー」って何だ?という疑問が沸いてくるが、映画の演出と言えばそうも言えるし、何より彼女らの国で上映できる映画にする為には、そのシーンを「訂正」しなければならないのだ。しかし、「訂正」したら零れ落ちてしまうものもある。
 映画ってどんなものなんだろう、とふと考えてしまうシチュエーションがいくつも重ねられており、やはりこれは映画についての映画でもあるんだろう。「映画」と「記録」の線引きは出来るものなのか、トライし続けているように見える。パナヒが今現在映画制作を禁止されていることを忘れそうになるが、彼が急にそわそわし出し、車を出て行った理由がわかると、さっと体温が下がる。そういう世界があって、そういう世界で映画を作り続けるというのは、こういうことなんだと。

『〆切本』

左右社編集部編
作家に〆切はつきものだが、その〆切に苦しめられる話ばかり94篇を集めたアンソロジー。日本の作家に限定し、テーマの性質上随筆が中心だが、これ他国のものも集めると面白いだろうなぁ・・・。わざわざ〆切について書くくらいだから〆切が迫って苦しむ作家が殆ど。期日が迫っているのに頭に何も浮かばない、時間に余裕があるうちはさっぱりやる気にならず期日が迫ってようやく着手など、作家ならずとも「あるある!」と握手をしに行きたくなるようなエピソードが目白押しだ。ただ、現代の作家の〆切話はそれほど過激ではない。皆わりとちゃんとしている。いわゆる「文豪」の方々のエピソードの方がスケールが大きいというか、(お金と時間に)おおらかで文士がある意味甘やかされている時代があったんだな・・・と世知辛い気持ちにも。特にすごいなと思ったのは内田百閒。そ、その本末転倒な資金繰りは何だよ!その時間で原稿書けよ!まあ百閒の場合、このエピソードに限らず、よくこの人生活できてたよなーという話がいっぱいあるけど・・・。

『インヴィジブル・シティ』

ジュリア・ダール著、真崎義博訳
ブルックリンのスクラップ置き場で、全裸で髪をそり上げた女性の死体が見つかった。記者のレベッカは遺体が警察ではなく黒衣の男たちに引き渡され、検死もされていないらしいことに驚く。被害者は正統派ユダヤ教徒のコミュニティに所属するユダヤ教徒だった。レベッカは真相を探ろうとするが、閉鎖的なコミュニティの壁にぶつかる。
ユダヤ教徒のコミュニティの特異さや、その中で生きる女性たちの複雑な心情が描かれるものの、こういったコミュニティを全否定しているわけではない。外部からはわかりにくい安心感や支え合いの姿勢があることにも言及されている。とはいえ、女性にとっては生き方の選択肢が極端に少ない世界ではあるよな・・・。レベッカは記者としての気概で事件を追っているのはもちろんなのだが、実はもっとプライベートな理由がある。レベッカ自身がユダヤ系であり、ユダヤ教徒だった母親は彼女が幼い頃に家出をして以来音信不通なのだ。彼女の中では、死んだユダヤ人女性の背景を調べることが、自分の母親の背景を知ることに重ねられている。母親への愛憎をひきずりながら事件を追うレベッカの姿はどこか危うい。そんな彼女のルームメイトであるアイリスの、ほどよい距離感を保った寄り添い方が印象に残った。

『ウインドアイ』

ブライアン・エヴンソン著、柴田元幸訳
「彼」は子供の頃、自宅の窓のうち1つだけ、外側からはそこにあるのが見えているが、家の中からはどこにあるのかどうしてもわからないものがあると気付く。その窓に近づこうとした妹は姿を消したが、母親は「彼」に妹などいないと言う。妹の存在も窓の存在も、自分にはわかっているのに周囲からは否定されるという表題作を始め、軒並み不吉で禍々しい短篇集。表題作のように、自分の認識しているものを他人は認識していない、ないことにされるという恐怖がしばしば描かれる。また、自分の意識や体が何者かに乗っ取られていく、むしろ明け渡してしまった方が楽なのではという、自我も身体の輪郭もあやふやになっていくというパターンも度々現れる。人間の意識、感覚の曖昧さ、不確かさが一貫して描かれており、読んでいると自分の足元がゆらぐような気分になった。確たる自分などというものはなく、何か別のものと置き換えられても何も変わらない、自覚も起きないのではないかと。あからさまではないが、じわじわと嫌な感じがしのびよってくる。1編1編は短いのだが、よくこれだけトーンの揃った嫌な話を書くな!と感心する。

『はじまりへの旅』

 森の中で、独自の教育方針に基づいて6人の子供と生活しているベン・キャッシュ(ヴィゴ・モーテンセン)。毎日のトレーニングと勉強により、子供達はアスリート並の体力を持ち、6か国語を喋れるようになっていた。ある日、入院していたベンの妻レスリーが死んだという知らせが入る。レスリーは仏教徒で火葬を希望していたが、カソリックである彼女の両親は土葬しようとしていた。ベンは妻の遺体を取り戻す為に子供達と旅に出る。
 アメリカ北西部からニューメキシコまで、2400キロのバスでの旅は、楽しそうでもあり過酷そうでもある。森の中から殆ど出たことのない子供達にとってはカルチャーショック、かつベンも子供達も資本主義の世の中には強い反抗心を持っているので、珍道中ロードムービーとしても楽しい(資本主義・物質主義への反抗の仕方が子供っぽいが・・・)。一家が移動に使っているバスの内装が、キャンピングカーのようにベッドやソファーがしつらえてあって羨ましくなってきた。
 楽しい映画ではあるのだが、色々と問題もあると思う。ベンの教育方針は、古典的自由主義に基づき、超リベラルなはずなのだが、現代の中に置くと遅れてきたヒッピーのようでもある。アナーキーを突き詰めて逆にステレオタイプ的な、古典的な型にはまってしまっている(資本主義の否定、宗教の否定といったような)。ベンが若かった頃のリベラル像のまま現代に至っているようにも見え、一種のパロディのようだ。ベンは非常に頭がよく教養豊かで、子供達にどの分野であれそれなりに教えることが出来る。しかし、子供の自主性を尊重しているようでいて、教育方針はベンが良かれと思っているものでありそれ以外の選択肢がない。子供が反抗すると自分を論破しろと言うのだが、どの子も口が達者というわけではない。言葉で説明するのが難しい子もいるし、ベンは知識も豊富で口も達者だから無茶ぶりだろう。同等に扱っているようでアドバンテージが全然違うというずるさ。
 長男と次男は、この不自然さにうすうす気づいてはいるのだが、彼らにとってはモデルとなる「大人」の選択肢が父親しかないないのだ。これは結構きついと思う。色々な大人がおり、色々な考え方があるということを体感できないから。ベンがなまじ頭が良くてカリスマ性があるので、いくら「自由」で個人を尊重すると言っても、子供達は父親の支配下から逃れられないのではないかと思う。レスリーの死は全てがベンのせいというわけではないが、森での生活の影響であることは否めないだろう。元々弁護士として働いていた人なので、社会との繋がりが絶たれた生活を続けることは、やはり辛かったのではないか。本作、そのあたりの掘り下げが少々甘く、ベンに優しすぎな気がした。

『夜は短し歩けよ乙女』

 大学の後輩である「黒髪の乙女」(花澤香菜)に片思いしている「先輩」(星野源)は、「なるべく彼女の目に留まる」作戦、略して「ナカメ作戦」を敢行するが外堀ばかり埋まっても一向に彼女との関係は進展せずにいた。ある晩、披露宴の二次会から町に繰り出した乙女は珍事件に巻き込まれていく。原作は森見登美彦の同名小説。監督は湯浅政明。
 いやーこれは素晴らしいな!私が思うアニメーションの楽しさ、喜びに満ちている。背景(空間)もキャラクターもフォルムが伸び縮みし自由自在。こういう自由さがいいんだよ!原作では四季を通した連作集だったと思う(読んだのが大分前なので記憶が・・・)が、映画では一晩の出来事に圧縮されている。これは賛否が分かれるところだと思うが、私はとてもいいなと思った。空間やキャラクターのフォルムが自在に伸び縮みするアニメーションの方向性と、時間が伸び縮みするストーリーとが上手く合っているのだ。ふわーっと何かに夢中になっている人(乙女は冒険に夢中だし、先輩は恋で無我夢中だ)の中では、時間も空間もねじまがる。主観度がすごく高いと言えばいいのか。なお脚本は劇団ヨーロッパ企画の上田誠が手がけているが、力技ではあるが一点に向かってどんどん盛り上がっていく高揚感があった。
 原作の黒髪の乙女は、いわゆるモテそうな女子とはすこしずらしているようでいて、真向から「女」度の高い女子にひいてしまう男子にとっては、ちょいユニークかつ攻めすぎていなくてちょうどいい、まあこういうのがお好きなんでしょうねぇ!という一見あざとくない所があざといキャラクター造形だったように思う。映画では花澤が演じることで、かわいいが言動がよりフラットであざとさが軽減されているように思った。花澤の声質の効果もあるが、演技もあまり「かわいい」に寄せず、むしろ酒豪であったり性別関係ないニュートラルな気の良さ(実際乙女は老若男女に対して態度があまり変わらない)が感じられる演技になっていたと思う。
 また、先輩役の星野源は、キャラクターとしてはザ・星野源みたいな嵌まり方だし演技もこなれている。プロ声優ではない出演者としては、パンツ総番長役の秋山竜次も予想外にいい味わいだった。声優、俳優総じて、出演者のキャラクターへのはめ方が良かったように思う。
 ちなみに、私にとって本作は『ラ・ラ・ランド』よりも全然楽しいミュージカル映画だった。歌がすごく上手いというわけではないところが逆にいい。また、古本市で乙女がビギナーズラックにより掴んだ本は、私のお勧め本でもある(今は復刊され題名一部変わっている)。乙女お気に入りの絵本『ラ・タ・タム』も好きだったなぁと懐かしくなった。古本市パートは、実在の本の書影があちこちに出てくるので読書好きは見てみてほしい。原作者の名前ももちろん出てくる。

『午後8時の訪問者』

診察時間終了1時間後、診療所の玄関ベルが鳴った。医師ジェニー(アデル・エネル)は玄関に向かおうとした研修医を、業務時間外だからと制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が発見され、警察が診療所の監視カメラを確認しにきた。録画された映像の中には、彼女が診療所のベルを鳴らす姿があった。責任を感じるジェニーは、少女の身元を判明させようとあちこち聞きまわる。監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
ジェニーが診療所のドアを開けなかったのは、診療時間が過ぎていたからということもある。しかし同時に、研修医に対して自分がここのボスであるということを示したかったからでもあると、彼女自身が漏らす。もし彼女が一人で残業していたら、ドアを開けたかもしれないのだ。彼女の行動は強く責められるものではないだろうし(実際の所、業務時間終了後いつまでも診察を受け付けていたら仕事として維持できないだろう)、少女が死んだのは直接的には彼女のせいではない。しかし、ジェニーにとっては医師という職業を仕事として割り切るのかどうか、自分の迷いに突き刺さる出来事になってしまったのだと思う。彼女は大学病院(研究センターのようなものか?)への就職が決まっていたのだが、自分の人生を大きく変える決断をしてしまう。これはぱっと見衝動的なのだが、ずっと迷っていたものが噴出して踏ん切りがついたと言うことなのだと思う。
少女の死に対するジェニーの責任感、少女の名前を知る事への執念は少々行き過ぎ、警察にもたしなめられるほどだ。しかし、その責任感を失くしてしまっては自分はおしまいだ、これをちゃんとしておかないと人としてダメだ、というような焦燥感に突き動かされているようでもあり、彼女が医師という仕事に対して保持し続ける矜持のようにも思えた。匿名の誰かではなく、名前のある個人の為に自分は働いているし、誰でも名前を持った存在として扱われるべきなのだと。ジェニーは往診にも駆けずり回るが、徐々に患者の信頼を得ているように見える。彼女が、個人対個人として相対するようになったからではないか。
あの時、あの場でこうしていれば、ああしていればという後悔に突き動かされる人たちの物語でもある。自分の行動を悔いているのはジェニーだけではない。皆、魔がさすというか、ちょっとした倫理観のゆらぎ、嫉妬や欲望により、判断を誤ってしまうのだ。そしてその判断が誤っていたということは、後からでないとわからない。これがどうしようもなくやりきれない。

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