3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『未来のミライ』

 4歳のくんちゃん(上白石萌歌)は、生まれたばかりの妹に両親の関心を奪われ、ご機嫌斜め。ふてくされて小さな木の植わった中庭に出るたび、不思議な世界に迷い込む。そんな彼の前に、10代の少女が現れる。彼女は成長した妹・ミライ(黒木華)だった。原作・脚本・監督は細田守。
 『バケモノの子』があれもこれもやろうとして収集つかなくなっていたのをふまえたのか、今回は一つの家族とその家の子供に焦点を当て、おそらくあえて家庭の外の世界は描かない。くんちゃんは幼稚園に通っているのでおそらく幼稚園での友達はいるはずだし(○○君のおうちで遊ばないの?みたいなセリフは出てくるので)、ご近所さんもいるだろうし、親にとっても保護者同士の繋がりや仕事上の繋がりもあるだろう。そういうものはほぼ排除された、かなりクローズドな世界観だ。児童文学的な(中川李枝子『いやいやえん』を思い出した)雰囲気で、実際、くんちゃんが中庭に出るとすっとファンタジーの世界に移行していく流れには、これが子供視点の世界かもしれないなと思わせるものがあった。唐突と見る人もいるかもしれないが、子供の世界ってこのくらい躊躇なくあちら側とこちら側を行き来するものじゃないかなと。
 とは言え、作品としては今回もいびつさが否めない。くんちゃんと両親、ミライちゃんの関係を横糸に、縦糸として母親の子供時代、そして曾祖父の青年時代という、家族の歴史が織り込まれるのだが、この縦糸があまり機能していないように思う。未来のミライちゃんが登場する意義もあまり感じない。そもそも4歳児に一族の歴史を意識させようというのはなかなか無理があると思う。子供であればあるほど、「今ここ」に意識は集中するだろう。
 また、くんちゃんがある危機に陥った際、自分が「ミライちゃんのお兄ちゃん」であることが「正解」とされる。確かに「正解」は「正解」なのだが、これをもってアイデンティティとされるのはちょっと違うんじゃないかなと違和感を感じた。肉親との関係性だけによって個人が成立するわけではないだろう。4歳児であるくんちゃんの世界は両親と妹で構成される小さなものかもしれないが、電車が好きなくんちゃんや自転車に乗れるようになったくんちゃんという側面も大きいわけだし。
 毎回異なる一定層の地雷をぶちぬいていくことに定評がある細田監督だが、今回も間違いなく一定層の地雷に触れていると思う。相変わらずコンテ、作画のクオリティは素晴らしい(幼児の動きの表現にはフェティッシュさすら感じる)のでアンバランスさが悩ましい。ストーリー、脚本は自分でやらない方がいいんじゃないかな・・・。監督として職人的なスタンスに徹した方がバランスのいい作品に仕上がりそう。当人は作家性を出していきたいんだと思うけど、そんなに作家性の高い作風じゃないと思うんだよな・・・。
 なお、これも相変わらずだが女性の造形はいまひとつだけど男性の趣味はいいよな(笑)。モブ美少年にしろひいおじいちゃんにしろ無駄にクオリティ高い!ひいおじいちゃんなんてキャラクターデザインがイケメンかつ中の人もイケメンでずるすぎだろうが!




『砕かれた少女』

カリン・スローター著、多田桃子訳
 高級住宅地にある邸宅で、少女の遺体が帰宅した母親によって発見された。母親はその場にいた血まみれの少年と鉢合わせし、乱闘の末、彼を刺殺してしまう。捜査担当になったジョージア州捜査局特別捜査官のウィル・トレントは少女の父親・ポールと面識があった。遺体を見たポールはこれは娘のエマではないと断言する。遺体は誰なのか、そしてエマはどこにいるのか。ウィルは地元の警官フェイスと組んで捜査を開始する。
 凄惨、かつタイムリミットが刻一刻と迫るタイプの事件で緊張感は強い。その割には話があっちに行ったりこっちに行ったりする印象があり(犯行を複雑にしすぎな気が・・・)、いよいよ終盤というところでちょっと集中力が途切れてしまった。各登場人物の造形に膨らみ・背景があり、行動原理に不自然さがないのだが、その造形の膨らませ方が仇になっている気もする。ディスクレイシア(読字障害)を抱えているウィルには虐待を受けていた過去もあり、本作の事件の背景にあるような事象は、単なる事件の背景以上の意味合いを持ってくる。彼には婚約者や仕事のパートナーもいるが、彼の背景・過去について分かち合えるわけではなく(当人もそれを望まず)孤独であるように見える。その孤独さが事件の解明につながってくるというのが皮肉だ。

砕かれた少女 (マグノリアブックス)
カリン・スローター
オークラ出版
2017-04-25


罪人のカルマ (ハーパーBOOKS)
カリン スローター
ハーパーコリンズ・ ジャパン
2018-06-16


『カメラを止めるな!』

 映画の撮影隊が山奥の廃墟でゾンビ映画の撮影をしている。そこに本物のゾンビが襲来。監督の日暮隆之(濱津隆之)は大喜びで撮影を強行するが、スタッフは次々にゾンビ化していく。監督・脚本は上田慎一郎。映画専門学校ENBUゼミナールのワークショップ、「シネマプロジェクト」第7弾として製作された作品。
 いかにも低予算、自主制作風の画質の悪い映像で始まり、これこの先どうなるんだろうなー大丈夫かなーと思っていたら、後半戦がすごかった。ゾンビ映画であってゾンビ映画ではない!ネタバレを避けようと思うと非常に表現しにくいのだが、前半戦/後半戦構成で、前半戦の解説が後半戦で行われると言えばいいのか。あの時のタイミングの不自然さ、意図がわからない演出などには、そういう理由があったのか!と唸り、爆笑した。解説として納得できるということは、脚本が良くできていて伏線に齟齬が少ないということだろう。前半のみだとさほど面白くない(30分以上の長回しという驚異的なことをやっているのだが、映画ファン以外にはあまりフックにならないよな・・・)というのが難点なのだが、これが後半への振りになっているので、ちょっと退屈だなと思っても、なんとか持ちこたえてほしい。パズル的な面白さがあり、内田けんじ監督の『運命じゃない人』あたりが好きな人ならはまるんじゃないだろうか。逆に、こういう「答え合わせ」的演出は野暮だという人には今一つ届かない気がする。
 後半の面白さは「答え合わせ」だけでなく、映画に限らず何かを製作する時の苦しみと喜び、そして父親の悲哀がよく描かれている所にもある。勝手なクライアント、無責任なプロデューサー、無駄にプライドの高い俳優やちゃっかりとしたアイドルなど、少々カリカチュアしすぎなきらいはあるが、「仕事」として監督業をこなす日暮が振り回されていく様はおかしくも哀しい。そんな「速い、安い、ほどほど」で作家性など皆無な日暮だが、いつもの雇われ仕事だったはずだが、ある瞬間からスイッチが入って、その範疇を越えていく様にカタルシスがある。また、彼が仕事を受けた動機は姑息といえば姑息なのだが、父親が成人した娘にいい恰好出来るのってこれくらいかもなぁと苦笑いをしてしまう。だからこそ、彼と娘が同じ方向を見て走り出すことに泣けるのだ。
 自主制作や不出来なアート系作品にありがちな内輪ノリや自己満足的な演出があまりなく、普段映画をあまり見ない人が見ても面白いように作っているのも良い。基本自主制作なので、予算故のビジュアルのチープさは否めないが、チープでも作品としてチープに見えないように工夫されていると思う。自主制作ということを言い訳にしない志の高さ(公開されてからの監督を始めスタッフ一同の営業努力も凄まじいし、ちゃんと黒字にしようという意思が感じられる)。

運命じゃない人 [DVD]
中村靖日
エイベックス・ピクチャーズ
2006-01-27


『BLEACH』

 幽霊を見ることが出来る高校生・黒崎一護(福士蒼汰)は、ある日巨大な悪霊「虚(ホロウ)」に襲われる。死神と名乗る少女・朽木ルキア(杉咲花)に助けられるが、彼女は重傷を負ってしまう。虚を倒す為、ルキアは死神の力を一護に渡す。一護は死神代行として虚との戦いに巻き込まれていく。原作は久保帯人の同名漫画、監督は佐藤信介。
 大人気漫画の実写化であり、原作の性質上キャラクターを立てる、魅力的に見せることが非常に重要なはずなのだが、本作はそこが今一つぱっとしない。主人公である一護を始め、登場人物それぞれがそれぞれの意思をもって動いているという感じがしなくて、ストーリー展開上のタスクをこなすために動かされている感じがした。原作のビジュアルイメージを再現しようとしているのはわかるし、この部分で失敗しているわけではないと思うので、かなり勿体ない。
 一護の行動原理は母親の亡くし方によるもので、それは冒頭に提示されているにも関わらず、今一つ自然な流れに感じられない。俳優の演技が一本調子で(福士は身体は動くが、決して台詞回しが上手いわけではないのでなかなか厳しい)一護が単純すぎるように見えてしまう。また、序盤、死神代行になるまでの展開がやたらと早いのも一因かもしれない。他にも、この展開になるんだったらその前の展開いります?(ラストのルキアの選択とか)という部分が多くてストーリーの組み立てに色々ひっかかった。原作に全く忠実というわけではないので、もっとアレンジしてしまってもよかったと思う。説明と省略の配分がどうもうまくいっていない気がした。多分続編を造りたいんだろうけど、この路線ではちょっと厳しいのでは・・・。
 ただ、アクションはそこそこ見応えがあり、楽しかった。CGとの組み合わせも違和感がない。特に恋次役の早乙女太一の動きはとてもよかった。身体能力の高さが明白で、動きと止めのメリハリがしっかりしている感じ。



『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』

内田洋子著
 ヴェネツィアのある古書店の棚揃えに感心した著者が店主に修行先を訪ねると、代々本の行商人だったという意外な答えが返ってきた。トスカーナ州のモンテレッジォという山村では、村人たちは何世紀にもわたって、本を担いで行商に回り、生計を立ててきたのだという。この話に強く惹かれた著者はモンテレッジォ村に向かい、村と行商人たちの歴史を辿り始める。
 村民の多くが本の行商をしている山村、というと何だか小説の設定のようなのだが、実際にそういう村があり、毎年ブックフェスティバルも開催されているのだと言う。モンテレッジォは非常に過疎化した村なのだが、その時期だけは帰省者で人口が増えるのだとか。村出身者の強い郷土愛と、本の行商人たちの村であるということへの誇りが感じられるエピソードがたくさん。本好きの人が多かったから本の行商が始まったというわけではなく、山村ゆえに売れる農産物などもなく、出稼ぎの当てもなくなった時に苦肉の策で日本で言うところのお札みたいなものを売り始めたのがきっかけなんだとか。苦肉の策の商売が、書店は敷居が高くて入りにくいという庶民のニーズに段々沿うようになっていき、やがて文字=知識を運ぶことへの誇りと使命へとつながっていく。読書家ではないが売れ筋がわかる、質の良さをジャッジできるという商売人としての目が培われていくという所が面白い。また、当時の庶民層が意外と読書意欲が強かった(地域差はかなりあったようだが)というのも意外。専門的な歴史研究書というわけではないが、読み物として面白いし、物体としての本が好きな人にはぐっとくると思う。



『クレアのカメラ』

 映画会社で働くマニ(キム・ミニ)はカンヌ国際映画祭への出張中、上司のナム社長(チョン・ジニョン)から突然解雇を言い渡される。帰国を考えたものの航空券の交換ができず、カンヌを観光するうち、パリから来た女性クレア(イザベル・ユペール)と知り合う。ポラロイドカメラあちこち撮影しているクレアは、偶然ナム社長と、同行していたソ監督(チョン・ジニョン)の姿も捉えていた。監督・脚本はホン・サンス。
 時系列はバラバラに組み立てられており、1つの人生のようでもあるし、平行世界に複数いるマニの人生のようでもある。断片的なシーンがこまかく繋がっていくのでうっかりスルーしそうになったけど、よく見ていると季節がいつのまにか真夏から冬に変わっている。夏に出会ったクレアと冬になっても一緒にいるけど、これは2人が友人付き合いするようになったということなのか、夏の2人と冬の2人は別ものなのか。私は前者だといいなと思ったけど、どうとでもとれる微妙な見せ方だ。ラストもいつ、どこへ向けた作業なのか、明言はされない。余白が大きくて色々と想像を掻き立てられる。マニが「正直ではない」と評されるのも、一見こういう話に見えるけど実はこんな話だったかも、でもどちらでもないかもというあやふやさと呼応しているように思う。
 余白の大きさは、マニとクレアがそれぞれの母国語ではない、英語で会話をしていることからも生まれる。2人は英語を話せるがネイティブ並というわけではなく、わりとぎこちない。使える言語表現が限られ、細かいニュアンスがお互い伝わらない。言葉にされない部分が大きいのだ。
イザベル・ユペールはフランス人だが、本作中では不思議なことにマニよりも異邦人ぽく見える。彼女が演じるクレアという女性は正体不明感があり、非日常を感じさせる。彼女の媒介によって、マニも人生の新たな局面に向かっていくように思えた。
 ホン・サンス作品では混ざりたくない酒の席がしばしば出てくるが、本作ではソン監督が泥酔し、かなりみっともない振る舞いをする。彼が(その時はそれほどお酒は入っていないが)マニにする説教は、年長男性が若年女性にしがちな的外れ説教のテンプレ的なもので、大変イライラする。何を着るとかどんなメイクをするとか、貴様に関係ないわ!ホン・サンス作品に出てくる映画監督は本当に人としてはろくでもないなー。マニが何も言い返さないので見ている側としてはイライラが更に募るのだが、彼女が傷ついて嫌な思いをしているのは明らかにわかる。ホン・サンス、自戒を込めてのシーンなんだろうか・・・。

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2014-02-22


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『ジュラシック・ワールド 炎の王国』

 崩壊したテーマパーク「ジュラシック・ワールド」のあるイスラ・ヌブラル島では、火山活動が活発化していた。テーマパークの運営者だったクレア・ディアリング(ブライス・ダラス・ハワード)と動物行動学者のオーウェン・グレイディ(クリス・プラット)は生き残った恐竜たちを救出しに向かうが、火山の大噴火が起きる。監督はJ・A・バヨナ。
 ちょっとネタバレっぽくて恐縮だが、邦題サブタイトルの「炎の王国」はなんと前半のみ!しかしバヨナ監督がジュラシックシリーズという素材をいかに自分のフィールドに引きずり込んでいくかという試みにも思えて、なかなか面白かった。前半は今までのジュラシックシリーズを継承した、フィールド上での移動を中心とした恐竜たちとのアクション。そして後半はまさかのゴシックホラー的舞台へと移動する。予告編は後半要素をかなり控えめにしたものなので、いいミスリード。冒頭、海中シーンから始まるというのも意外性があると共にかなり怖くて(何しろ暗いので)わくわくした。
 バヨナ監督といえば『永遠のこどもたち』を撮ったホラー畑出身の人で、特に暗がりの使い方、室内の演出は上手いなという印象がある。何かがそこにいる、という匂わせ方、気配の作り方は本作でもばっちり。かなりわかりやすく怖がらせてくれる。ホラー演出としてはわりとベタというか王道中の王道で、いわゆる「後ろ後ろー!」シチュエーションが最近珍しいくらい多用されている。
後半の舞台装置や展開には、これジュラシックシリーズでやらなくてもよかったのでは?という声もありそうだが、美術のクオリティの高さもあり、恐竜と場所の組み合わせの意外さが個人的には楽しかった。後半は舞台の性質上、中~小型恐竜中心に活躍するのだが、これも楽しい。ブルーのファンは必見だろう。
 これまたホラーの定番らしく子供が登場するのだが、単に怖がり・叫び要員かと思っていたら、結構なキーパーソンだった。なるほどこの世界設定であれば・・・という、シリーズの設定を象徴するような存在なのだが、それ故に基本設定が含む気持ち悪さみたいなものが滲む。恐竜よりも火山噴火の方が恐ろしく、恐竜よりも人間の執着の方が気持ち悪い。

ジュラシック・ワールド[AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2018-03-27


永遠のこどもたち [DVD]
べレン・ルエダ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-05-09


『憂鬱な10か月』

イアン・マキューアン著、村松潔訳
 “わたし”は逆さまになって母親のおなかのなかにいる。美しい母親と詩人の父親は別居中だ。そして母親は父親の弟と浮気をしており、2人で父親を殺そうとしているらしい。
 巻末の解説でも言及されているように、胎児版ハムレットという一風変わった作品。ストーリーの主軸はハムレットのパロディだが、他のシェイクスピア作品からの引用も多々ある。語り手の“わたし”は胎児で外の世界を自分の目で見ているわけではないが、母親と父親や義弟との会話や周囲の物音、体を通して伝わってくる母親の感情から、外の世界のことをある程度知ってはいるし、冷静に周囲を観察している。語りが全く子供っぽくなく、思慮深さと成熟を感じさせる、どうかすると両親や叔父よりも全然大人な考え方をしているところがおかしい。とは言え音や皮膚感覚のみで世界を感知するには限界があり、本人大真面目なのに時々妙な誤解の仕方をしているあたりはユーモラスだ。彼の周囲で起きている事柄はありふれた安いメロドラマでありサスペンスなのだが、胎児の目と、彼のしごく真面目でもったいぶった語り口を通すことで、新鮮かつ陰惨だが滑稽な味わいになっている。

憂鬱な10か月 (新潮クレスト・ブックス)
イアン マキューアン
新潮社
2018-05-31


ハムレット (岩波文庫)
シェイクスピア
岩波書店
2002-01-16


『オールドレンズの神のもとで』

堀江敏幸著
 私の一族の頭には小さな正方形の穴が空いている。一生に一度、激しい頭痛と共に無名の記憶がなだれ込んでくるのだ。祖父の言葉を手がかりに、私は「色」呼ばれる現象に思いを馳せる。18編の小説を収録した短編集。
 これまでの著者の短編小説集とはちょっと色合いが異なる。抑制された語り口はいつも通りだが、幻想的な色合いが濃い。そしてどの短編も、どこか死の匂いがする。特に表題作はその傾向が顕著だ。一度終わった世界、更に縮小し終わりつつある世界を描いているように思えるし、言及されている内容からすると明らかに震災以降の世界と呼応している。失われたものの記憶の受けてが“私”の一族なのかもしれないが、彼らには自分たちが受け取ったものが何を意味するのか正確にはわからない。読者にはその記憶はあの時代のあの場所、あの出来事だと察しが付くのだが、その歴史は儚く失われていく。世界の黄昏を感じさせる、陰影深い作品集。

オールドレンズの神のもとで
堀江 敏幸
文藝春秋
2018-06-11


堀江 敏幸
新潮社
2018-07-28




『正しい日、間違えた日』

映画祭に招かれたものの、予定より1日早く到着してしまった映画監督のハム・チュンス(チョン・ジェヨン)は、観光名所で魅力的な女性ユン・ヒジョン(キム・ミニ)と出会う。チュンスは彼女をお茶に誘い、更にお酒も入っていい雰囲気になるのだが。監督はホン・サンス。
原題の直訳だと「今は正しくあの時は間違い」という意味になるそうなので、邦題とはちょっとニュアンスが異なる。ただ作品を見ると、どちらの題名もちょっとそぐわないかなという気がしてきた。男女の出会いを2通りの展開で描いた作品で、前半でパターンA、後半でパターンBというような2部構成になっている(A、Bという章タイトルは付けられておらず、私が便宜上そう呼んでるだけ)。
 酔った男女のかけひきって、見ていてこんなにいたたまれないものだったっけ?と見ながらむずむずが止まらない。チョンスは明らかにヒジョンに好意があるが、いい年齢の大人の言動とは言い難い。「かわいい」の連呼なんて泥酔した大学生じゃあるまいし・・・。世間の噂によれば、彼はモテて女癖の悪い人らしいので、成功体験からくる言動なんだろうけど、よくこれで口説き成功してきたな!とは言えヒジョンもやぶさかではない感じだし、成功していると言えばしている。
 とはいえこのいい雰囲気は長くは続かない。AパターンでもBパターンでも何かしらに腰を折られ、険悪か険悪でないかという違いはあれど、2人の人生はすれ違っていく。AとBのどちらが正しくてどちらが間違いかなど、結局わからないのだ。どちらも間違いとも言えるし、交わらない運命だとするならどちらも正しい。曖昧さ、どうともならない儚さと滑稽さが余韻を残す。
 それにしても、ホン・サンス監督作に登場する映画監督は、大概クズ味がひどいな・・・。映画監督として評価はされているが、特に女性関係での脇の甘さや失礼さ(でもそこそこモテるところがイラっとする)は自虐ギャグなんだろうか。

ヘウォンの恋愛日記 [DVD]
チョン・ウンチェ
紀伊國屋書店
2015-06-27


ターンレフト・ターンライト 特別版 [DVD]
金城武
ワーナー・ホーム・ビデオ
2005-03-04


『バトル・オブ・セクシーズ』

 1973年、女子テニス世界チャンピオンのビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は女子の優勝賞金が男子の8分の1である等、テニス界の男女格差に異議を唱え、仲間と共にテニス協会を脱会、女子テニス協会を立ち上げる。元男子世界チャンピオンのボビー・リッグス(スティーブ・カレル)は男性優位主義を主張。彼女に挑戦状をたたきつける。監督はバレリ・ファリス&ジョナサン・デイトン。
 ショットのつなぎ方による、ビリー・ジーンとボビーとの対比の強調が印象に残った。2人とも動作としては同じことを(例えばベッドに座る等)しているのだが、置かれている状況・背景は全然違う。お互い試合に挑むわけだが、ビリー・ジーンが背負っているものは自分の人生だけではない。女子テニス界の命運、そしてテニス界のみならず世界中の女性の未来が彼女の肩に乗っているのだ。それを理解してしまった彼女のプレッシャーは大変なものだったろう。ヘルドマン(サラ・シルヴァーマン)が「運命よ」と言うのだが、歴史が動く瞬間の当事者になってしまったのだ。だからこそ、「一人で行くわ」と戦いに挑む彼女の姿には凄みがあるし、試合後、ロッカールームでの彼女の振る舞いが胸に刺さりまくる。
 一方、ボビーにとってこの試合はスポンサー収入の為、ギャンブルの為、そして離れていった妻の心をつなぎとめる為の手段だった。しかし、ビリー・ジーンの本気にあてられるようにボビーの表情が試合中、徐々に変わっていく。プロとして真摯さには真摯さをもって応じなければならず、そこに性別は関係ない。対人関係の基本であるが、これがいかにないがしろにされてきたことか。
 ビリー・ジーンが戦う性差別や偏見は、ボビーのようなあからさまな形ではなく、テニス協会のジャック・クレイマー(ビル・プルマン)のような、一見紳士的な形で現れる。これは未だにそうだろう。冒頭、クラブにビリー・ジーンとヘルドマンが押しかけるシーンでのやりとりが象徴的だ。彼らは社会的な強者で、ボビーのように自ら矢面に立つ必要がない。旧来の社会が彼らを守っているのだ。ビリー・ジーンはそこに切り込み、エンドロール前の字幕でわかるようにその後も切り込み戦い続ける。その勇気と覚悟が現在に繋がっているということに、やはり胸が熱くなる。
 ビリー・ジーンとマリリン(アンドレア・ライズボロー)の恋の高揚感や、それに対して罪悪感を覚えるビリー・ジーンとマリリンとの自由さを巡る会話もいいのだが、ビリー・ジーンの夫ラリー(オースティン・ストウェル)の振る舞いは更に印象深い。彼女にとっての一番は僕でも君でもなくテニスだという言葉には、彼女への深い理解と尊重が込められている。こういう愛はなかなか得難い。

スタンドアップ [DVD]
シャーリーズ・セロン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2011-12-21


ウィンブルドン (創元推理文庫)
ラッセル・ブラッドン
東京創元社
2014-10-31


『IQ』

ジョー・イデ著、熊谷千寿訳
 ロサンゼルスに住む青年アイゼイア、通称“IQ”は、持ち込まれる様々なトラブルを解決する探偵。腕は抜群だが報酬は金銭とは限らず、羽振りがいいとは言えない。ある事情で大金が必要になった彼は、腐れ縁のドラッグディーラー・ドットソンの紹介で、大物ラッパーからの依頼を受ける。その内容は、自分の命を狙う殺し屋を突き止めろというものだった。
 語り口が非常に生き生きとしており、かつクール。黒人版シャーロック・ホームズとでも言いたくなるIQの現在の仕事と、なぜ彼がこの仕事をするようになったのかという過去のいきさつが交互に語られるが、そのいきさつがIQの人柄と直結している。彼の倫理観や責任のあり方がいじらしくも凛々しい。目茶目茶努力家で真面目なのだ。その真面目さには彼の兄の影響が大きい。IQにとっての兄がどのような存在だったのかが過去パート全編を使って描かれていると言ってもいいくらい。また、いけすかないジャイアンキャラとして登場するドットソンの意外な側面が見えてくる所も(彼の作る料理は本当においしそう!)面白い。とことん噛み合わないしお互い好感を持っていない(笑)ホームズとワトソン的なノリだ。アメリカでは既に続編が出ているそうだが、ぜひとも日本でも翻訳してほしい!なお表紙のデザインが作品の雰囲気とばっちり合っている。

IQ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ジョー イデ
早川書房
2018-06-19


沈黙のセールスマン (ハヤカワ・ミステリ文庫)
マイクル・Z. リューイン
早川書房
1994-05





『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』

マイクル・ビショップ著、小野田和子訳
アメリカ南部の街に住むスティーヴィ・クライは数年前に夫を亡くし、2人の子供をかかえながらライターとして生計を立てている。ある日タイプライターが故障したので修理に出したところ、戻ってきたタイプライターは勝手に文章を打ち始めた。その内容はスティーヴィの不安や悪夢、そして夫の死の背景を匂わせるものだった。スティーヴィは徐々に現実と虚構の区別がつかなくなっていく。
現実と虚構の区別がつかなくなっていくのはスティーヴィだけではなく、本作の読者もだ。これはスティーヴィの実生活なのか、彼女が書いた文章なのか、はたまたタイプライターが勝手に書いた文章なのか、タイプライターが書いたとスティーヴィが思い込んでいるだけなのか。各レイヤーの区別はあえてつきにくいようになっており、語りの信憑性は揺らぎ続ける。自分の意識を信じられなくなっていく怖さがじわじわ這い上がってくるメタホラー。そしてサル。なんでサル?と思っていたけどタイプライターとサルってそういうことね!


虚構の男 (ドーキー・アーカイヴ)
L.P. デイヴィス
国書刊行会
2016-05-25


『パンク侍、斬られて候』

 超人的剣客の流れ者・掛十之進(綾野剛)は、新興宗教はら振り党の脅威が迫っており、自分はそれを止められると大見得を切り士官を企むが、黒和藩の筆頭家老・内藤(豊川悦司)にそのハッタリを見抜かれる。しかし内藤は掛を起用し、はら振り党の脅威を逆手に取ろうとしていた。原作は町田康の小説、監督は石井岳龍。脚本は宮藤官九郎。
 ぱっと見、派手でキッチュな変格時代劇といった雰囲気だが、何しろ原作が町田康だから一筋縄ではいかない。爽快は爽快かもしれないが何もかも投げ捨てた後の爽快さとでも言えばいいのか。しかし、所々面白いシーンはあるものの、これ原作小説は面白いんだろうなぁ・・・という感想に留まってしまう勿体なさが拭えなかった。
 勿体なさの大半は、本作のテンポの悪さからくるものだと思う。宮藤官九郎は、長編の構成はあまり得意ではないのではないか。約45分×12回前後というフォーマットの、連続ドラマのテンポでの方がポテンシャル発揮していると思う。ナレーションを駆使したメタ演出も裏目に出ているように思った。おそらく原作の文体や、メタ構造を用いた表現をなんとか再現しようとしているのだと思うが、映像作品としてこれが正解なのかというと微妙。ひとつひとつのシークエンスがとにかくダレがちなので、実際の尺よりも体感時間が長く、全編見るのがかなり辛かった。全体を2倍速くらいで見るとちょうどいい気がする。
 綾野の身体能力はやはり素晴らしいのだが、本作のような面白方向に振り切った「超」アクションだと、逆にそのすごさがわかりにくい。この点も勿体なかった。そもそもアクションが出来る俳優を起用しなくても、本作の場合問題ないんだよな・・・。役者としての面白さが発揮されていたのは豊川。えっこの人こんなに面白かったっけ?!と新鮮だった。ぬめっとした色気とどこか気持ち悪いオモシロ感がとても生き生きとしている。本作、概ねテンポが悪いのだが綾野と豊川の掛け合いのシーンだけはやたらとキレが良かった。


生きてるものはいないのか [DVD]
染谷将太
アミューズソフトエンタテインメント
2012-09-21


『女と男の観覧車』

 1950年代のコニーアイランド。遊園地内のレストランで働くジニー(ケイト・ウィンスレット)は回転木馬操縦係の夫ハンプティ(ジュム・ベルーシ)に隠れ、海水浴場の監視員ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)と浮気をしていた。そんな折、マフィアと駆け落ちし音信不通だった、ハンプティと前妻の間の娘キャロライナ(ジュノー・テンプル)が現れる。キャロライナは組織の情報を警察に漏らした為、マフィアに命を狙われていた。監督はウディ・アレン。
 観覧車に乗るシーンはないが、ジニーとハンプティの住家からは観覧車が良く見える。この住家、元々は遊園地内の施設だった部屋をハンプティが改装したもので、遊園地が良く見渡せるし、夕方はネオンサインが差し込み、室内の雰囲気がその都度変わっていく。この部屋の美術と室内での撮影が非常に良く、おり、室内に差し込む光の変化が登場人物の変化とリンクしていく。外の光が変わることで、一気に場がしらける、魔法が解けてしまう瞬間が残酷だった。
 こてこてのメロドラマかつ男と女のすったもんだで滑稽ではあるのだが、同時に残酷。夢を諦められずに人生の軌道修正が出来ない人ばかり出てくる。ジニーは元女優で芽が出なかったものの、未だに芝居の道を諦められない。ミッキーと一緒にどこか別の場所に行くことを熱望しているが、ミッキーにはそんな気はない。彼もまた劇作家を目指しているがどうやら言葉ばかりでフラフラと行き先定まらない。ハンプティはジニーとの夫婦関係も、キャロライナとの親子関係も上手くいくと夢見ている。キャロライナを夜学に通わせ彼女が教師になれば万事丸く収まると思い込んでいる。彼らの夢は遊園地の安い華やかさと同じで、どうにもはかなくうすっぺらい。一番ふわふわしているように見えたキャロライナが、何だかんだで地に足がついているように見えてくる。そんな大人たちの横でまともにケアされない、ジニーの連れ子の処遇がいたたまれなかった。

カフェ・ソサエティ [Blu-ray]
ジェシー・アイゼンバーグ
KADOKAWA / 角川書店
2017-11-10


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