3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『劇場版 黒子のバスケ LAST GAME』

 ウィンターカップで優勝し念願の全国制覇をした誠凛高校バスケ部。黒子テツヤ(小野賢章)と火神大我(小野友樹)は2年生になり、夏のインターハイが終わる頃、アメリカのストリートバスケチームJabberwork(ジャバウォック)が来日。強烈な強さを見せつける一方で日本のバスケを馬鹿にする彼らに、黒子と火神、そしてキセキの世代と呼ばれた選手たちがドリームチームVORPAL SWORDS(ヴォーパル・ソーズ)を結成し試合に挑む。原作は藤巻忠俊の大ヒット漫画の続編『黒子のバスケ EXTRA GAME』。監督は多田俊介。
 何かあらすじ書いているうちに空しくなってきたんだけど、とりあえずすごい強くて悪い奴(本当にあっけらかんと悪くて背景説明とかほぼないあたり潔い。90分尺なのでこれで十分だと思う)が来る、バスケで勝負、というシンプルさ。とは言えシリーズのボーナストラックにして真の完結編的作品なので、やはり単品で見るのは厳しいだろう。逆に、個々のキャラクターの成長を見ることが出来るので、原作ないしはTVシリーズを見てきたファンには十分満足できる内容だと思う。少なくとも私はすっごく楽しかった。
 見ている間ずっと、あージャンプっぽい!ジャンプのバトル漫画っぽい!(というか実際ジャンプの漫画なんだけど)という強烈なジャンプ臭のようなものに襲われ、自分の体にジャンプ成分が染みついていることを再確認する羽目に。ジャンプ的な対戦もの、キャラクターの立て方のお作法を踏まえつつ、妙に地に足がついた部分もあるところが本シリーズの面白さだったと思う。根っこにある「バスケが好きか」という部分がブレない。ジャバウォックと対戦するのも、「日本の」バスケを馬鹿にされたからではなく「(上手い下手関係なく)バスケをする人」を馬鹿にされたから、というニュアンス。真面目にやっている人を馬鹿にしない、好きなことは(才能の度合いと関係なく)一生懸命やるといい、というシンプルな所が踏まえられているあたり、いい少年漫画だと思う。
 原作(とTVシリーズ。原作を最後までアニメ化しているので)は週刊少年ジャンプ連載の人気作品としては例外的なくらい、引き延ばさないきれいな終わり方をしている。番外編とも言える本作は蛇足では?とも思ったのだが、本作のラスト、いや蛇足ではないな、これが本当の完結編だなと深く納得した。文字通り「黒子のバスケ」の話であり、彼のバスケが周囲をどのように変えてきたかという話を最後までやったんだなと。
 なお、キャラクター人気に寄るところが大きい作品と思われがちだが、作画面ではキャラクターの一枚画の美麗さを見せようという意図はあまり感じない。あくまで試合の中での動きで魅せたい、そこにキャラクターの魅力が一番発揮されるはずという姿勢が感じられた。

『モアナと伝説の海』

 モトゥヌイ島で生まれ育った少女モアナ(アウリー・クラバーリョ)は、いずれは村長である父親の跡を継ぐよう教えられ、外洋に出ることは禁じられてきた。ある時、島の作物に異変が起き、周囲の海から魚が姿を消した。かつて世界を生んだ女神テ・フィティの心が、伝説の英雄と言われたマウイ(ドウェイン・ジョンソン)に奪われて闇が生まれ1000年が経つ、その闇の影響だとモアナの祖母は教える。モアナはマウイを探し出し、テ・フィティの心を元に戻そうと、父親の反対を押し切り海に出る。監督はジョン・マスカー&ロン・クレメンツ。
 2D字幕で鑑賞。アニメーションとしての質は当然高く安心して見られる。マウイの入れ墨がちょっと懐かしいカートゥーンのように動き回る演出は素晴らしかった。また、海の底の世界がなぜかギラギラにドラッギーで、これはこれで愉快。ロード・オブ・ザ・リングの竜の巣を思い出してしまった・・・。また『マッドマックス 怒りのデスロード』へのオマージュがあると聞いていたが、なるほどこれか!と笑ってしまった。確かにオマージュ捧げたくなる、というか一度やってみたくなるシチュエーションだもんなぁ。
 マッドマックスオマージュがあるくらいなので、モアナはいわゆる「プリンセス」的な造形の少女ではない。ラプンツェルもアナもエルサも今までのプリンセスとはちょっと違う方向付けだったが、本作では更にその路線が進められ、むしろアンチプリンセス的な含みが持たされているように思う。モアナ自身「プリンセスではない(村長の娘だから)」と明言するし、ディズニープリンセスの「お約束」を揶揄するようなジョークもある。特にマスコット的動物の可愛くなさは、これはグッズを売る気がないということなのだろうかと心配になるくらい。
 モアナは早い段階で、次期村長になることが決められているが、それを嫌がっているわけではなく、むしろ積極的に引き受けようとしている。しかし同時に、海に惹きつけられてやまない。村も家族も愛しているし自分の仕事への意欲もあるが、海へ憧れはそれとは別物として、彼女を掻き立てていく。この造形がとてもいいなと思った。現状に不満足というわけではないが、どうしても他の世界に心が向かってしまう人というのは、一定数いるだろうし、周囲からは理解されにくいだろうなと思う。
 また、モアナは不得意なこともあるが出来ることも多い(村での仕事はよくこなしているみたいだし、学習意欲も高い)。加えて戦闘力もあるところも、行動的なヒロインとしてはポイントが高い。マウイとの関係に、性的な要素が薄く恋愛関係に発展しなさそうなところもいい。マウイはモアナに船を操る技術を教えるが、立場は対等であくまで「相棒」的だ。マウイはやはり、モアナとは別の世界の人で時々ひょこっと姿を現す存在なんじゃないかと思う。
 

『キングコング 髑髏島の巨神』

 発見された謎の島へ、環境探索の為の調査遠征隊が派遣されることになった。調査の中心となるのは長年未知の生物を研究してきたビル・ランダ博士(ジョン・グッドマン)。研究者たちの案内役として雇われた傭兵ジェームズ・コンラッド(トム・ヒドルストン)とヘリの誘導を行う軍人ブレストン・パッカード(サミュエル・L・ジャクソン)を中心に、一行は島に上陸しようとする。しかし、島の上空でな巨大なゴリラに襲われ、ちりぢりになってしまう。監督はジョーダン・ボート=ロバーツ。
 これまで何度もリメイクされたり他作品にゲスト出演してきたキングコングの最新版。直近だと2005年のピーター・ジャクソン監督による『キングコング』があるが、私はこの作品が全然面白くなかったので、今更キングコングって・・・と少々ひきぎみだった。しかし面白い!すごく楽しい!盛りが良すぎる日本版ポスターは全然嘘じゃない、むしろ本国版よりも内容に即していて素晴らしいということがわかった。アバンの時点で、太陽や目のアップを多用したキャッチー、ともするとあざといショットを多用しておりこれはなかなか楽しそうだなと思っていると、早い時点からどんどん派手な絵を披露してくれる。なお今回、爆音上映で見たのだが、爆音 上映が本当によく合うので、極力大きな画面、大きな音で見ることをお勧めする。
一応トム・ヒドルストン主演作ということになるが、主役はあくまでコングを筆頭とする巨大生物たち。大きいものばばーんと登場してどーんと大活躍!というシンプルさ、そしてそれをさほど邪魔しない人間たちという、人間が分を弁えている内容がいい。人間ドラマなどさほどなくて構わないのだ。一応主役らしきコンラッドは、知恵と経験を披露してはいるものの、さほど活躍するでもない。パッカードは何しろL・ジャクソンが演じているからクレイジーではあるのだが、こちらもいつものL・ジャクソンほど無敵かつクレイジーではない。説教もしない。ただ、本作はベトナム戦争直後(現地からアメリカ軍が引き上げていくタイミング)という時代設定なのだが、パッカードが戦場でこそ生きている実感を得られるタイプの人で、新たな敵を発見して生き生きとしてく様はなかなか面白かった。部下の弔い合戦と言ってはいるが、戦っていないと死んじゃうタイプの人なんだなぁと。人間側のドラマとして一番気になったのは、第二次大戦中に島に辿りついたマーロウ(ジョン・C・ライリー)とグンペイ(MIYAVI)の数十年間ですね・・・。そこ何とか垣間見せてもらえませんかね!まさかライリーが日本刀振り回す姿にあんなにぐっとくるとは思わなかった。
 コングと人間側とに下手に友情や愛情が芽生えない(と私は見た。あれは小動物をつぶしちゃったらかわいそうね、くらいの感じなんじゃなかろうか)ところもいい。人間とは全くの別物だからこそ怪獣は魅力があると思う。


『わたしは、ダニエル・ブレイク』

 大工として働いてきた59歳のダニエル・ブレイク(デイブ・ジョーンズ)は心臓を患い、ドクターストップにより働くことができない。国の援助を受けようとするが、複雑な仕組みやインターネット上でしか申請ができないという規則によってままならない。そんな折、同じく援助を拒まれ難儀していたシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と出会い、彼女と子供達を手助けするようになる。監督はケン・ローチ。
 本作のパルムドール受賞については、悪くはないが受賞するほどではない、またケン・ローチか等々の反論もあったが、確かにパルムドールにしては小粒ではあるだろう。しかしそれ以上に、今こういう作品が必要なんだ、正に現代の作品として立ち上がっているのだという、監督と、本作を受賞作に選んだ選考委員の強い意志を感じた。正直、本作見るまでは今更ローチが受賞なんて随分保守化してるなー等と思っていた。申し訳ない。ケン・ローチ監督の怒りと反骨精神がみっしりと籠っている、かつ適度なユーモラスさもあって小粒だがタフな作品だった。なお監督の作品としては、イギリスでの興行成績は相当いい部類だったそうだが、本作のような作品が集客するということは、ダニエルに共感する人が大勢いるということだろう。
 ダニエルが苦戦する公的支援申請は、いかに申請者を振るい落とすか、そして振るい落とされ方が申請者の選択である体裁にするかという部分に注力しているんだろうなぁとげんなりするものだった。お役所仕事による無駄の多さ、融通の利かなさというよりも、戦略的に煩雑に、切り捨てるための理由を用意しているのだろう。最早不条理コメディのようだ。また、オンライン申請のみというシステムには驚いた(日本はまだそこまでじゃないですよね)。パソコンに不慣れな層は最初から振るい落とされてしまう。働いていたらパソコン位使えるでしょということかもしれないが、ダニエルのようにそういうものを使わない仕事の人だっている。何だか申請や審査の過程で、申請者のプライドをどんどん削いでいこうとしているみたいなのだ。まだ努力が足りない、真剣さが足りないって、じゃあどこまでやればいいんだよ!と叫びたくなるし、そもそも基本的な生活・生命を左右する援助は真面目・不真面目の別なく受けられるべきなんじゃないのと思う。
 ダニエルはシステムのおかしさの一つ一つに声を上げるが、苦境から抜け出すのは難しい。しかし彼が声を上げることで、同じように声を上げる人や、彼に手を差し伸べる人は出てくるだろう。ダニエルはおかしいと思ったことにすぐ声をあげるのと同様、困っている人がいるとためらわず手を差し伸べる。そして自分自身、周囲にも結構助けを求める。頼めば、皆結構助けてくれるのだ(ダニエルの隣人の若者たちのタフさと軽妙さが救いになっていた)。こういうちょっとした手助けをためらわないことが、ひいては多くの人を支えるようになるかもしれない。苦境を他人事にしない想像力が求められているのだ。わたしも、ダニエル・ブレイクだと思えるかどうかなのだろう。もっとも、現状そのくらいしか出来ることはないだろうというところが辛いのだが・・・。
 経済的に追い詰められ、自分を切り売りしていくしていかざるを得ない時の消耗感とか、どうしようもない感じが迫ってきて辛い。ケイティがバスルームの掃除をしているシーンはやりきれないし、フードバンクのシーンでは泣いてしまった。追い詰められるというのはこういうことなんだよなぁと。そして、(当人の責任・能力の有無に関わらず)人はこんな追い詰められ方されていいはずないのだ。これを防ぐのが福祉の役割のはずなのに(なお、作中のフードバンクは民営)。


『タレンタイム 優しい歌』

 マレーシアのとある高校で、音楽コンクール「タレンタイム」が開催されつことになった。ピアノの弾き語りで出場するムルーは、彼女の送迎役になった耳の聞こえないマヘシュと恋に落ちる。オリジナル曲をギターの弾き語りで披露するハフィズは、母が末期の脳腫瘍で入院中。二胡奏者のカーホウは、何でも一番になれという父親からのプレッシャーに苦しみ、成績優秀なハフィズがカンニングをしたと嘘をついてしまう。監督はヤスミン・アフマド。
 ロミオとジュリエット的な恋愛、難病、同級生への嫉妬や家族問題等、ベタに泣かせてきそうな要素がてんこ盛りなのだが、不思議とそういう印象を受けない。一歩間違うと下品、通俗的すぎになりそうなところを、品よく踏みとどまっており、ベタだがとても瑞々しい。要素がトゥーマッチなのにそう感じさせないところが、面白いと思う。風通しがいいのだ。マレーシアは多民族、多宗教の多文化国家で特に都市部は様々な文化が入り混じっているようだが、その様々加減が本作に現れているように思う。
 群像劇であり、ムルーとマヘシュの恋愛が中心にあるのだが、強く印象に残るのは様々な家族の姿だった。ムルーの両親は父親が英国人、母はムスリムのマレーシア人で、結構裕福層な家庭だ。そしてとても仲がいい。特に父親と娘たちがダンスを披露しあう姿、足を「挙手」する父親の姿等には、通り一遍の「仲の良さ」演出ではない手応えがある。こういうやりとりが日常的で、関係性が密である様子がよく伝わるのだ。
 一方、マヘシュの家は父親が亡くなっており経済的には厳しいながらも、やはり家族仲はいい。しかし母親はある事件が起きたことで心を閉ざし、更にマヘシュがムスリムのムルーと恋に落ちたことに激怒する(マヘシュの家はヒンドゥー教)。また、ハフィズと母親の間には強い絆があり、ハフィズは本当に献身的なのだが、母親は自分が苦しむ姿を見せたくはない。お互いに愛情はあるが、それゆえに苦しんだりすれ違ったりする。基本的に、仲が険悪な家族は描かれていない為に、そのすれ違いが一層際立つのだ。また、仲がいい家族であっても、親は親、子供は子供であり、子供は保護される存在だが、同時に親子それぞれ独立した人格だという部分は踏まえられており、安心感があった。

『パッセンジャー』

 入植先の惑星を目指し、5000人の乗客を乗せて地球から飛び立った宇宙船アヴァロン号。目的地に到着するまでの120年間、乗客は冬眠装置で眠り続けるはずだった。しかし、エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが予定よりも90年近く早く目覚めてしまう。このままでは目的地を見ることなく寿命を終えてしまうのだ。2人は状況を打開しようとするうち、惹かれあっていく。監督はモルテン・ティルドゥム。
 本作、ネタバレせずに感想を書くのがすごく難しいんだけど、ちょっと頑張ってみる。このネタバレ部分のせいで、賛否が大きく分かれると思われる。また、ネタバレ部分のせいで、映画の前半と後半はジャンルが違うんじゃないのというくらいの捩れを起こしているのだが、個人的には面白いと思った。前半はスタンダードかつどちらかというと端正なSFなのだが、中盤以降、何でもありになってくる。いきなり盛りがよくなるというか闇鍋が始まるというか・・・。
 宇宙船内のデザインがちょっと昔の洗練されたSFという雰囲気で、懐かしいのにスタイリッシュで美しい。SF考証として正しいのかどうかわからないが、こういうシーンを作ってみたい!というやる気が感じられる部分が多く、ビジュアル面での楽しさは大きかった。バーテンロボットの下半身が「省略」されている所とか、この辺は(宇宙船メーカーが)あんまり注力しないんだなという部分もいい。ルンバの進化形みたいなお掃除ロボットの動きも可愛かった。
 さて本作の評価の是非、というか好き嫌いの別れる原因は、ジムのある行動によるものだろう。他人の人生を自分の欲望の為に使うことであり、倫理的には許されない。しかし、極限状態(何が極限状態化については人によって意見が違うと思うが)で人は倫理的に振舞うことができるかというと、かなり難しいのではないか。ジムの行動は許されないが、強く糾弾できるかというと、ちょっと心もとない。ジム役にプラットが起用されたというのは納得の人選。本作のような役でもぎりぎりでアウトにならない程度の愛嬌があるのだ。彼は『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』でも、無能ではないが人としての弱さが目立つという役所だったし、その程度の頼りない「ヒーロー」がはまる。弱い人だからこそ、その弱さを押し殺して挽回しようとする様がインパクトを与えるのだ。基本的に、人は弱いという思想で作られた作品なように思う。また、オーロラ役のローレンスが、プラットの1人や2人や3人くらいは捻り殺せるような圧を持っているのも、なるほどこのキャスティングでないと駄目だったんだなと納得させる。
 しかし最も気になったのは、アヴァロン号を運営する企業には相当問題があるんじゃないかという所だ。船内で生じる不調の原因はこれだったのでは?というシーンが序盤にあるのだが、120年間宇宙を旅していたら、この規模のアクシデントは相当数起きるんじゃないかと思うし、それは容易に予測できると思う。なぜ事前に対策を練っておかなかった?!と企業を糾弾したくなる。乗客5000人全員を無事に搬送しようという設計には思えないんだよな・・・。また、乗客からの費用搾取システムや船内格差も結構エグい。エコノミークラスの朝食、もう泣きたくなってくるもん・・・。

『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』

佐々涼子著
 2011年3月11日の東日本大震災によって、日本製紙工場石巻工場は津波に飲み込まれ大きな被害を受けた。日本で出版される本の紙の供給に欠かせない工場だが、閉鎖が噂されるほどのダメージだった。しかし工場長は半年での復興を宣言、従業員たちの戦いが始まる。その戦いを丹念に取材したルポ。
大変な力作で、ベストセラーになったのも納得。いまだに電子書籍を使ったことがない読書好きとしては、製紙工場とのご縁は深いはずなのだが、製紙の過程がどういうもので、その機械がどういうものなのかは本作を読んで初めて知った。製紙会社はもちろんなのだが、出版社の熱意もひしひしと伝わってくる。本当に「本の紙を待っている」のだ。そのオーダーに応えることが製紙会社の誇りなんだなと。工場の再開は困難に困難が重なる(どういう部分が困難なのか、というところも面白い)が、被災して個人の生活もままならない中、かろうじて踏ん張っていたのはその誇りがよりどころになっていたという面も大きかったんだろうとわかるのだ。また、災害時のマニュアルが整備されていること、何より優れたリーダーがいることが、こういう時に企業の将来を左右するんだと痛感する。
 工場再開の為の過程も興味深いのだが、最も大きなインパクトがあったのは津波が襲ってきた後の様子だ。臭いや音等の描写が生々しい。読んでいても辛いが、これを語った人は(そして聞き取りをした著者も)本当に辛かっただろうと。また極限状態の中、人の善良さや強さと同時に、弱さ醜さも露呈していく所には、多分そうなるだろうとはわかっていても、切りつけられるような気持ちになる。

『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』

戸部田誠(てれびのスキマ)著
お笑い芸人、アイドル、俳優、ゆるキャラ等、テレビでよく見かける人たち100人の生きる姿勢を、その人の明言珍言から考察するコラム集。雑誌連載を書籍化したものだが、文庫でのリリースというのが内容にあっていて、これは英断だと思う。構えず手軽に手に取れる。同時代にテレビを見ている者としてとても楽しい。引用は取り上げた対象の発言(テレビ番組内にしろ雑誌等のインタビューにしろ)というところは徹底しており、著者の生粋のテレビっ子ぶりが存分に発揮されている。芸能人のテレビや雑誌における発言はある種のフィクションではあるだろう。しかしその隙間から、その人の素が垣間見える、その瞬間を著者は逃さない。テレビはくだらないと言われがちだけど、そのくだらなくてムダな部分を著者は愛しているし、そこがテレビの良さだろう。有意義なテレビってそんなに見る気にならないんだよな(笑)

『舞台』

西加奈子著
29歳の葉太は、初めて一人で海外旅行に出た。行先はニューヨーク。ガイドブックを暗記して準備万端のはずが、初日に盗難に遭い、財布もパスポートも無くしてしまう。しかし葉太は「初日に盗難」というかっこわるさに耐えられず、警察にも大使館にも届けを出さずにやりすごしてしまう。
こ、これが自意識モンスターか!イタさの裏読みをしすぎだよ!行くところまで行くとこうなるのか!葉太は太宰治の作品に強く共感するように、「道化」としての自分を自覚しすぎてしまう人。頭は悪くないしルックスもいいのに、それが全くプラスに働いていない。周囲にどう見られているのか、どういう自分であれば周囲に不快感を与えないのか気にしすぎてしまう。多分、周囲はそこまで彼のことを気にしていないんだろうけど、そういう問題じゃないんだろうなぁ。私は葉太に共感するところはほぼないのだが、読んでいるうちに、ここまでやらないと楽になれないのかと、段々彼が気の毒になってくる。「イタい」自分には死んでもなりたくないのに、その自意識十分にイタくなってるよ!一見要領いいように見えるんだろういけど、これはこれで、行き難くて大変そう。どういう方向性であれ、自意識との折り合いの付け方は常に厄介だ。

『ゴーストマン 時限紙幣』

ロジャー・ホッブス著、田口俊樹訳
誰の記憶にも残らず、犯罪の痕跡を消し去る「ゴーストマン」と呼ばれる“私”。犯罪組織のトップから、2人の男が銀行強盗で手に入れた120万円の紙幣を手に入れろという依頼を受ける。紙幣は48時間後に「爆発」し、痕跡は消せなくなると言うのだ。
現在進行中の現金強奪事件と、“私”が依頼を断れない原因となった過去の銀行強盗事件、2つの犯罪が平行して描かれる。“私”がどういう人間かということよりも、仕事の手順、犯罪者としての思考方法やメンタリティという、どういう「犯罪者」であるかということに重点が置かれており、文字通りの犯罪小説。そもそも“私”がゴーストマンという仕事の都合上、人間としての自分の個性には重きを置いていない、むしろ(元々あまり個性の強い人ではないらしいが)排除していくものと考えている所が、主人公としてはユニークだ。それでも、プロの犯罪者としての振る舞いの隙間から、“私”個人が元々持ち合わせている価値観や資質が見え隠れする。そのバランスがいい。完璧な「犯罪者」だと、ここまで面白みは出なかったのではないか。様々な思惑がからむ事件の真相も気になり、一気に読まされた。

『しゃぼん玉』

 女性や老人ばかりを狙ってひったくりや強盗を繰り返してきた青年・伊豆見(林遣都)は、とうとう人を刺してしまう。逃亡の末に、宮崎県の椎葉村(しいばそん)に辿りついたところ、交通事故で怪我をし動けなくなっている老女スマ(市原悦子)を助ける羽目になる。なりゆきで彼女の家に寝泊まりすることになった伊豆見は金を盗んで逃げる気だったが、スマは彼を「ぼん」と呼び深く詮索することはなかった。原作は乃南アサの同名小説。監督・脚本は東伸児。
 ロケ地である椎葉村の風景や祭りの情景、地元の伝統料理(というよりもおばあちゃんたちが日常的に食べているお惣菜。大変おいしそう)等を織り込んだ、いわゆるご当地映画的な側面も強い。とは言え、原作の力もあるのだろうが、ドラマとしてなかなかよかった。ご当地要素が上手くドラマの装置として組み込まれているように思う。お祭りの時期だけどっと観光客が来るが、基本的に過疎地かつ高齢者ばかりなので祭りの準備の人出が足りない、だからよそ者の伊豆見でも、さしあたって労働力としてありがたがられ、素性についてさほど突っ込まれないという理由づけが出来るのだ(具体的にそう説明されるわけではないが、見ている側にとってまあまあ納得がいく)。
 伊豆見は親のケアをろくに受けられないまま大人になってしまった人間だ。彼の言動、所作からは、親はもちろん、身近に一緒に生活してあれこれ教えてくれる人がいなかった様子が窺える。スマからも注意される箸の持ち方だけでなく、食事の作法や水道の使い方、煙草の吸い方も、いわゆるマナーが悪いものだ。伊豆見がだらしないというよりも、だらしないと指摘する人がいなくてやり方がわからないんだろうなという面持。誰かとずっと一緒に生活するという経験に乏しい人なんだろうなとわかってくるのだ。
 スマとの生活で、伊豆見はもう一度育ち直すことになる。ではスマは理想の親・祖母・保護者なのかというと、そういうわけではない。彼女は彼女で、実子との関係は破綻している。2人とも家族関係には失敗(伊豆見は彼が失敗したわけではなく不運なわけだが)しており、失敗した人同士がお互いに育て合いやり直すという構図なのだ。スマの、実の息子に対する言葉は悔恨に満ちているが同時に恐ろしくもあり、うすら寒くなる。親のエゴ、息子が故郷に戻らなかった一因(概ね彼本人の失敗のせいではあるが)を垣間見た気もするのだ。この凄みは市原が演じたからこそで、他の俳優だったら単に気の毒な母親に見えてしまったかもしれない。市原が主演していることで、確実に映画の格が上がっている。


『SING/シング』

 コアラのバスター・ムーン(マシュー・マコノヒー/内村光良)が支配人として運営する劇場は、赤字続きで危機に陥っていた。バスターは劇場をよみがえらせようと、街の人たちに歌唱コンテストの参加を募る。しかし秘書のミス・クローリー(ガース・ジェニングス/田中真弓)が賞金の桁数を間違えて広告を作ったせいで、高額賞金目当ての応募者が殺到する。監督はガース・ジェニングス。
 手際よくコンパクトに纏めた、ちょうどいい感じのエンターテイメント。老若男女で楽しめそうなところがいい。私は2D・吹替え版で鑑賞したが、吹替えセリフの翻訳、歌の歌詞の翻訳(こちらは一部苦戦しているなーという印象はあったが)はかなり頑張っていると思う。楽曲は翻訳許可が出たものと出なかったものがあるようで、日本語版と英語版が混じっているのだが、それほど気にならない。なお、演技は素人なMISIA(ミーナ役)と大橋卓弥(ジョニー役)が意外と好演で意表を突かれた(つたないが気になるほどではない)。2人とももちろんプロの歌手なので、セリフのぎこちなさと歌の流暢さ・エモーショナルさがちょうどいい対比になっているのだ。ミーナは極端に内気であがり症なのでそもそも喋りが得意でないキャラクターだし、ジョニーもギャングの父親からのプレッシャーで萎縮気味なので、キャラクターと演技のつたなさとのマッチングが良かったのかもしれない。
 信じれば夢は叶う、という言葉は出てくる(そしてバスターが自分の境遇を顧みてがっくりしたりする)が、そんなに大上段に構えた姿勢ではなく、歌が好き、だから歌うんだというシンプルさに貫かれているところが良かった。本作に登場するキャラクターたちは当然歌の才能があるわけだが、仮に才能がそれほどではなかったとしても、好きなことを好きなままでいていいんだという肯定感の方が強い。ミーナにバスターが「歌えばいいんだ」と励ますシーンにはぐっとくる。、また出場者の中でも、ロジーナ(リース・ウィザースプーン/坂本真綾)などはスターになりたいわけではなく、自分が好きなことを思いっきりやってみたい、その「好き」を家族にもわかってほしいという気持ちなんだろうし。
 このキャラクターはこういう性格で、こういうバックグラウンドがあって、といちいち説明せずに、物語の流れの中で提示していく序盤の手際がいい。また、ステージで歌われる以外の、サウンドトラックとしての楽曲の選び方が上手いなと思った。このキャラクターは今こういう気分だよ、こういうシチュエーションなんだよといういい補足になっている。特に「True Colors」には、なるほどここでか!と。

『哭声/コクソン』

 山間の村コクソンで、村人が自分の家族を殺害するという事件が相次いで起きていた。殺人者たちには、肌が原因不明の湿疹でただれ、目はうつろ、会話も出来ないような茫然自失の状態で発見されたという共通点があった。事件を担当することになった警官ジョング(クァク・ドウォン)は、村の噂から、山の中に住む、どこからか来たよそ者の日本人(國村隼)が事件の背後にいると推理。しかし同じころ、自分の娘にも殺人犯たちと同じ湿疹が出ていることに気付く。娘を救いたい一心でよそ者を追い詰めるが。監督・脚本はナ・ホンジン。
 ミステリであったりホラーであったり犯罪ものであったりという、複数のジャンルをさらっと横断しなおかつどのジャンルにも属さない、オンリーワンの凄みを見せる怪作。いや怪作というと語弊があるかな・・・。奇妙な映画ではあるのだが、映画としての強度は異常に高い。監督の過去作『チェイサー』『哀しき獣』よりもよりも個人的には好きだ。
 冒頭、聖書の一節が引用される。イエスの復活を信じられない人たちに、自分に触れてみよとイエスが告げるくだりだ。この引用は、終盤の2人の人物のやりとりと呼応してくる(手に痕があるあたり、少々やりすぎじゃないかという気もしたが)。目の前にあるものをなぜ疑うのか?と。しかし同時に、人間は目の前にあるものそのものを見ているのではなく、自分の頭の中に既にあるもの、自分内の既存の概念に基づくものしか見ることが出来ない、信じられないのではないかと問いかけられているように思った。終盤、よそ者がある姿に見えるのも、彼の正体がその姿だというのではなく、彼と相対する人にとっては、正体のよくわからないよそ者はこういう姿に見える、こういう先入観でしか見られないと言うことなのだと思う。
 作中ではしばしば、この人、この言葉を信じられるのか、どちらを信じるのかとジョングが問われる。彼は概ね、どちらが正しいという確信を持つことはできないし、頻繁に迷う。殺人者たちはキノコの中毒で錯乱状態になったのかもしれないし、祈祷師の呪いで操られたのかもしれない。ないしは、ジョングらの想像もつかない他の理由があるのかもしれない。結局のところ、信じたいものを信じるしかないのだ。彼はある「答え」を導き出し、それを信じて娘を助けようと暴走するが、それが正しかったのかどうかも最後まではぐらかされていく。これが正解かと思うと、それを疑わしくするものが立ち現れる。むいてもむいても真相には辿りつかず、中空状態が常にあるのだ。自分が見ているものを裏付けてくれるものがないという不安、気持ちの悪さをジョングらと共に味わうような鑑賞だった。

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』

 1991年、エドワード・ヤン監督作品。2017年に4Kレストア・デジタルリマスター版としてよみがえった。1961年に台北で実際に起きた、少年によるガールフレンド殺害事件を元にしている。
 1960年年代初頭の台北。受験に失敗して夜学に通う小四(シャオスー)は、不良グループ“小公園”の王茂(ワンマオ)や飛機(フェイジー)らとつるんでいた。ある日、少女・小明(シャオミン)と知り合うが、彼女は小公園のボス"ハニー”の恋人だった。ハニーは対立グループ“217”のボスと小明を奪い合い、相手を殺して姿を消したと噂されていた。
 リマスター版だからか、映像の質感、光の強弱がとても美しい。特に、暗い部分、黒い部分の奥行がより細部までよく見える気がする。べたっとした暗さではなく、ニュアンスのある暗さなのだ。またエドワード・ヤンの映画はなぜだかいつも夏の空気感がある。登場人物が頻繁に夏服だからというのもあるだろうが、どこか湿度を感じる、クリアすぎない色合いの映像によるものかなとも思う。4時間近い長尺の作品だが、その映像の美しさに見入って、予想していたほど長さを感じなかった。
 不良グループ同士の対立はヤクザごっこのようでもあり、『クローズ』的な世界のようでもある。しかしファンタジーではなく、当人らは大真面目で「タマを取り合う」つもりなのが、滑稽でもあり痛ましくもある。世の中の不安定さ、大人たちの混乱が彼らを生んだと冒頭のナレーションにあるが、彼らの世界と大人たちの世界は断絶されているように見える。彼らは子供だが、子供の至らなさをフォローする大人がいないのだ。大人は大人で、自分たちの問題で手一杯だし、小四の父親のように自分ではなすすべもない不条理な処遇に追いつめられていく人もいる。
 小四は2人の少女に同じことを指摘される。「あなたの思った通りにしろというの?」と。小四は小明に好意があり、自分が彼女を守ると明言して行動に移す。が、それは彼女の立場も、自分と彼女の関係も客観視できていないということなのだ。彼のひとりよがりな愛が、取り返しのつかない悲劇を招いてしまう。若々しくてキラキラしている部分と、若さ故のしょうもない部分がないまぜになり、美しく苦い青春物語だ。

『夜、僕らは輪になって歩く』

ダニエル・アラルコン著、藤井光訳
 劇作家ヘンリーが率いる伝説的な小劇団は、内戦の後十数年ぶりに再結成され各地を公演旅行することになった。新人オーディションにより選ばれた青年・ネルソンもその公演旅行に加わり、ある山間の町を訪れる。そその町でのある出会いにより、其々の人生は大きく変わっていく。
 語り手である“僕”が何者で、ネルソンの人生にどういう形で関わってくるのかはなかなか明かされない。また“僕”や取材相手の言葉からはネルソンが何らか事件を起こした、あるいは巻き込まれたらしいとわかってくるが、その実態もなかなか明かされない。全てが起こってしまった後、“僕”は後追いでその経緯を調べ、語っていく。取材相手であるネルソンの元恋人やヘンリーら劇団のメンバー、またヘルソンの実母も、実際の所何が起きたのか全ては知らないし、彼らの言葉を総合しても、事態の真相は曖昧でそれぞれの話が重層的に重なっているにすぎない。ネルソン(とその周囲の人たち)が「演じる」ことと密接な関係にあることも、この曖昧さを増幅させているように思う。その時に応じて周囲が求める姿を演じているのではという気もしてくるのだ。語られている物語は、「おそらくこうであろう」というネルソンの物語にすぎない。最終的に彼は語られることを拒否するが、それは演じること=物語を誰かに提供することの断念によるのかもしれない。

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