3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『人生はシネマティック!』

 第二次大戦中の1940年、ロンドンで秘書をしていたカトリン・コール(ジェマ・アータートン)は、軍のプロバガンダ映画の脚本チームに採用される。コピーライター不足の為に彼女が代理で書いたコピーが、情報相映画局特別顧問トム・バックリー(サム・クラフリン)の目に留まったのだ。脚本の内容は、ダンケルクでドイツ軍の包囲から兵士を救出した姉妹の感動秘話。しかしベテラン俳優の我儘や政府と軍による検閲と横やりなどにより、制作は難航する。監督はロネ・シェルフィグ。
 すばらしい!オーソドックスに見えるし実際オーソドックスなのだが、様々な要素が盛り込まれており、色々な側面から見ることができる。これだけ多面的な要素を盛り込み、かつごちゃごちゃした印象になっていないところに技がある。ただ、色々な立場、性別、年齢の人が登場するが、それは本作の部隊が戦時中で、(若い)男性が足りなくなっているからだという面もあり、そういう非常時にでもならないと多様性は見えてこない時代だった(現代もかもしれない)ということでもある。本来女性であろうが男性であろうが、工場で働けるし、脚本を書けるし、船の修理が出来るのだ。
 人が映画を観るのは、映画の中の出来事には理由がある、全部意味があるからだとトムは言う。現実では意味のわからない、脈絡のない不幸が多々生じる。せめて映画の中でだけは物事に意味があると納得したいのだ。この気持ちが痛切に身に染みた。この台詞が象徴するように、人はなぜフィクションを求めるのかという問いに対する、答えのような作品だったと思う。本作、フィクションを作る人たちの側の物語であると同時に、フィクションを受容する人たちの側の物語でもある。もちろん、作る人は受容する人でもあるのだ。カトリンは自分とトムとのやりとりを脚本として再現・再構築し、またそれこそ「意味の分からない」不幸が襲ってきた時も、物語によりそれを乗り越えようとする。フィクションが人の生活、人生を直接的に助けることはあまりないだろう。しかし、折れそうな心をフィクションが支えたり、迷っている人の背中をフィクションがそっと押すこともある。それこそ、「双子」のような人生の変化もありうるのだ。

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『エンドレス・ポエトリー』

 故郷トコピージャから首都サンティアゴへ移住したホドロフスキー一家。父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)は商売に明け暮れ、息子アレハンドロ(アダン・ホドロフスキー)にも家業への参加を強いるが、アレハンドロは詩人としての道を歩みだす。監督はアレハンドロ・ホドロフスキー。
 『リアリティのダンス』の続編となる、ホドロフスキー監督の自伝的映画。父と少年時代の息子アレハンドロの物語だった前作から引き継がれ、今回は青年時代のアレハンドロが旅立つまでの物語となる。撮影はクリストファー・ドイル。色が鮮やかかつ透明感があり、ホドロフスキーのちょっとどろみのある作風を中和しているように思う。本作、映像にはっとするシーンがいくつもあった。カーニバルの群衆シーンは高揚感あり素晴らしい。同じ群衆シーンでもファシズムの予兆と不吉さ満載の行進シーンと、セットで本作を象徴する映像になっていると思う。
 冒頭、「書き割り」による過去の街が出現し、ハリボテの汽車が動き出す瞬間にはっとした。ああこれが映画だ!という感じがしたのだ。作りものである、しかし現実よりもより輪郭がくっきりしているというような。本作はホドロフスキーの実体験が元になってはいるのだろうが、あくまで自伝「的」なものであって、フィクションだ。ホドロフスキー個人の体験となった時点で、その出来事はホドロフスキー個人のフィルターを通したフィクションになっているとも言える。そのフィクションを映画として再構築したのが本作で、冒頭の過去の街の現れ方は、それを明瞭に表していると思う。
 自分の体験、人生を咀嚼し直し、再構築することはフィクションの持つ機能の一つだろう。本作では特に父親との関係に如実に現れている。母、あるいはアレハンドロのミューズであった女性たちとの関係は、彼にとって不可解ではあるが都合のいいものとしての側面が目立った。しかし、父親はコントロールの範疇外であり理解の糸口も見えない。最後のシーン、ホドロフスキーは実生活での父親との和解には至らなかったそうだが、だからこそこうせずにはいられなかったんだろうなという切実なものがあった。

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タロットの宇宙
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『HiGH&LOW THE MOVIE3 FINAL MISSION』

 スカウト集団DOUBTとの戦いに勝利したSWARDの面々だが、九龍グループとの全面抗争に突入し、各チームは次々と壊滅状態に追い込まれる。琥珀(AKIRA)らは政府と九龍グループが隠ぺいしたある事実を証明するべく、証拠集めに奔走する。監督は久保茂昭&中茎強。
 3部作完結編だが、また改めて続編をやるのかな?世界観としてはまだまだ広げる余地がありそう。こういう余白があって(脇ががばがばとも言う)色々アレンジしやすい所、見る側も色々想像しやすい(脳内補完しないとつじつまが合わない部分が多すぎるということでもあるのだが・・・)所が人気の要因の一つでもあるんだろうなぁ。
 私は本シリーズはアクション映画として楽しんでいるのだが、正直なところ、アクションの面白みのピークは2作目で本作はそれには及ばなかった。完結編ということで、色々とエピソードを回収しなくてはならないという都合上、仕方がないとは思う。相変わらずつじつま合わせが苦しく、そもそもつじつまらしいものはあまり想定されていなかったのではという気もするが。本シリーズは一貫して、ストーリーテリングはお粗末なので、ストーリーに比重がかかる構成だとどうしても粗ばかりが目についてしまう。コブラがいる場所どうしてわかったの?とか、資料ってそんなまるっと残っているものなの?とか、証言者の数乏しくない?とか、まあ言いだすときりがない。設定を乱発するが、その組み立て方は粗いというのが特徴のシリーズだったなと。一方で、今まで(本作でも)基本的に銃器が持ち込まれない世界観だったことへの理由がちゃんと説明されているあたり、妙な所には細かいんだよな・・・。
 今回は九龍の幹部たちのフルネームと担当部門がちゃんと紹介されるのだが、役者の人選の目の付け所が良い。なかなか木下ほうかは思いつかないわ!幹部は皆、佇まいにドラマ性があった。むしろこの人たち側の話の方を見たくなってくる。これは、俳優の力なんだろうなぁ。こういう部分の人選にしろ演出にしろ、やっつけ仕事にしないことで映画としての見栄えが各段によくなっていると思う。

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『白骨 犯罪心理捜査官セバスチャン』

M・ヨート&H・ローセンフェルト著、ヘレンハルメ美穂訳
 トレッキング中の女性が山中で白骨死体を発見した。掘り起こされた遺体は6体。頭蓋骨に銃弾があり、他殺と見られる。トルケル率いる殺人捜査特別班は、犯罪尻学者のセバスチャンを伴い、現地に赴いた。一方、移民の女性シベカは夫の失踪の真実に関する手がかりを求め続けていた。
 (物語の都合上)どこかに繋がりがあるはず、でもどういう形で繋がるのか?という謎の提示で引っ張る。シリーズ1,2作目とは事件の背景、方向性は大分異なるが、より今の時代ならではの事件と言える。これは、トルケルらにしてみたら憤懣やるかたないというか、納得できないよな・・・。そして事件はさておきセバスチャンの暴走には拍車がかかっている。ある願望で目がくらみ、理性がおろそかになっているのだ。本作には彼の他にも理性がおろそかになっている人、判断力が鈍っている人がちらほら(どころではなく)登場し、やはり暴走、ないしはちょっと調子をおかしくしていく。彼らの根っこにあるのは孤独と自己顕示欲、必要とされたいという切実さではないか。これ、この先どうするのよ・・・というすごい終わり方をするので唖然。ここで終わるか!




『劇場版 はいからさんが通る 前編 紅緒、花の17歳』

 大正時代の東京。花村紅緒(早見沙織)は親友の北小路環(瀬戸麻沙美)と共に女学校に通っていたが、花嫁修業は性に合わず、剣道の方が得意だった。ある日父親に、許嫁だという伊集院忍少尉(宮野真守)を紹介される。紅緒たちの祖父母の代に両家が決めたことだというのだ。紅緒は猛反発するが、花嫁修業の為に伊集院家で暮らすうち、徐々に少尉に心動かされていく。原作は大和和紀の同名漫画。監督は古橋一浩。
 前後編の前編だが、結構な長さの原作をよく100分足らずに収めたな!正直なところ、駆け足感は否めないのだが、原作を読んでいなくても問題ない纏め方だと思う。捻らず、真正面から映画化したという印象の作品。
 私が好きな「少女漫画」ってこういうのだったなぁと楽しく見た。「お嬢さん」の枠からはみ出るヒロインと、それを見守る(出来すぎな)王子様的存在という古典的な少女漫画の王道である本作だが、男女の関係は意外と現代的というか、フラットなものだ。少尉も紅緒も、好意があるにしろ反感をもつにしろ、相手を一個人として尊重している。恋愛においても、まずは尊重・敬意があって、そこに安心感があるのだ。
 また異性間だけでなく、同性同士であっても、階級の異なる同士であっても、お互いを人として尊重する態度が一貫している。男女差別が明確にあり、また身分の差、家柄の差もはっきりとしていた大正時代を舞台としているのは、この個人対個人として相手を尊重することがいかに大切かという部分をより鮮明にする為だったのかと、大人になってからの方がよくわかる。紅緒は女学生としては型破りだし、環は平塚らいてうを愛読しているくらいだから、当時の女性としてはおそらくかなりとんがっている(それこそ「はいからさん」なわけだし)タイプの人たちの話とは言え。
 原作由来の漫画的な「記号」が時に古びたものに見えるが、それも含めて楽しい作品だった。無駄に捻らない直球、誠実な造りが好ましかった。キャラクターデザインを現代風(とは言えかなりオーソドックスというか、ちょい懐かしいテイストだとは思うんだけど・・・)に寄せたのには賛否あるだろうが、動画としてはこのくらいが見やすくていいなと思う。



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『MASTER マスター』

 金融投資会社の会長チン・ヒョンピル(イ・ビョンホン)は様々なテクニックを駆使し多額の投資金を集め、裏金を増やし、警察や政府等有力者たちに賄賂をばらまきビジネスを拡大してきた。彼を追う知能犯罪捜査班の刑事キム・ヘミョン(カン・ドンウォン)は、チンの片腕で裏金作りに手腕を発揮してきたハッカー、パク・ジャングン(キム・ウビン)を確保、スパイとしてチンの帳簿を持ち出せと言う司法取引を持ちかける。しかし会社内に裏切り者がいると気付いたチンは大金を持って行方をくらませる。監督・脚本はチョ・ウィソク。
 詐欺の詳細にしろスパイ大作戦にしろ、描き方は割と大雑把。チンの投資詐欺はすごく巧みで大規模!すごいやり手!という設定ではあるが、見るからに胡散臭いしこれ本当に成功します・・・?って気分になる。とは言え、その大雑把さが本作の良い所だと思う。シリアスではあるが精緻にしすぎず、重くしすぎず、近年の韓国エンターテイメント映画に顕著な生々しい暴力描写も控えめ。エンターテイメントとして収まりがちょうどいい感じに調整されている。私は韓国映画で往々にして描かれる組織内の上下関係や共同体のしがらみには時に胸焼けしてしまうのだが、やり過ぎ感がないのがとてもよかった。気負わず楽しめるいい作品だと思う。暴力の嵐みたいな作品やゴリゴリ神経を削る諜報戦も面白いけど、毎回それじゃあ疲れてしまう。
 当初、こういう感じなのかなと予測していた展開はなんと前半で完了してしまう。しかし、チンが逃亡してからの後半の方、尻上がりに面白くなっていく所がえらい。もたつかずテンポがよかった。帳簿とかハッキングとか投資計画とか、わりとざっくりとした設定でよくよく考えるとそんな上手くいきます?と思うんだけど、見ている間は飽きない。主演3人の魅力も大きかった。イ・ビョンホンが胡散臭い男を嬉々として演じているように見える。またカン・ドンウォン演じるヘミョンとキム・ウビン演じるジャングンのやりとりが、距離は近づきすぎないものの徐々に双方向の掛け合いになっていく所も楽しい。あんまりねっとりとした人間関係を感じさせない所が、本作のトーンに合っていたと思う。

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『彼女がその名を知らない鳥たち』

 15歳年上の佐野陣治(阿部サダヲ)と暮らす北原十和子(蒼井優)は、8年前に別れた黒崎(竹野内豊)のことを忘れられずにいた。陣治は下品で金も地位もないが、十和子に尽くし彼女の我儘や罵倒も受け入れ養っていた。一方で十和子はデパート勤務の水島(松坂桃李)と不倫関係になり何度も会うようになる。ある日十和子の元に刑事が訪ねてくる。黒崎が数年間行方不明だというのだ。原作は沼田まほかるの同名小説。監督は白石和彌。
 十和子は頻繁に黒崎との過去を回想し、彼と撮影したビデオに見入る。彼女の回想は断片的なのだが、なぜそのように表現されているのかラストで明らかになる構成は、ミステリ作品的だと言える。ただ、明らかになったことによってそれまで見ていた景色ががらりと変わって見えるかというと、そうでもない。まあそうでしょうねとしか言いようがなく、中途半端だ。
 一方、十和子と陣治の関係の一方的な感じ、愛ともなんともつかない掴みきれなさは、ねっとりと描かれている。陣治の献身は愛ゆえではあるのだろうが、受ける側にとっては愛とは言い切れない、重すぎるし怖いんじゃないかなと、不穏さにはらはらする。生活習慣の小汚さも加わり、好感は持ちにくい。十和子は十和子で陣治となぜ一緒にいるのか、おそらく本人にもはっきりとは分からないのではないか。彼女も決して人柄がいいというわけではなく、むしろ冒頭のクレーマー振りからも明らかなように好かれにくいタイプだ。欲望に弱く、男に流されがちだが我が強いという面倒くさい人なので、やはり見ていて好感は持ちにくい。2人の関係がどのようなものであったか、ラストで鮮明に描かれる。  が、私にとってはやはり愛とはとらえにくく、陣治の言葉も結構気持ち悪かった。彼がラストで言うある台詞は、色々な小説等でたまに目にすることがある類の表現なのだが、いやいや親の愛とは別物だし無理でしょ・・・それ別の人間だからさ・・・と冷めてしまう。本作もそれと同じような冷めた気持ちになった。






『ゴッホ 最期の手紙』

 アルマン・ルーラン(ダグラス・ブース)は画家ヴィンセント・ファン・ゴッホと懇意にしていた父、郵便配達人ジョゼフ・ルーラン(クリス・オダウド)から、ゴッホから弟テオ宛の手紙を託される。テオに手紙を渡すためパリに出向いたアルマンだが、テオは既に亡くなり家族の引っ越し先もわからなかった。家族の居所を知るべく、やはりゴッホと懇意にしていたガシェ医師(ジェローム・フリン)を訪ねるうち、アルマンの中で自殺とされていたゴッホの死に対する疑問がつのっていく。監督はドロタ・コビエラ&ヒュー・ウェルチマン。
 ゴッホの絵画がまさにそのまま動き出すようなアニメーション。茟のタッチひとつひとつまでとにかく「ゴッホぽく」再現されている。俳優が演じた実写映像を油絵に描き起こし、実に約6万5000万枚の油絵で作られたアニメーション。よくこれをやろうと思った、そして実現したなと唸らざるを得ない。ゴッホが肖像画を描いた人たちが会話し活動し、絵の中の風景を動き回る様にはやはり感動する。すさまじい設計力と執念だと思う。
 とは言え本作、このすさまじい絵作りで何を表現するか、という所までは作り手の意識が行き届いていないように思える。描かれる物語は果たしてこれでよかったのか、非常に疑問だった。本作の舞台となるのは概ねゴッホの死後だ。ゴッホの絵は当然、ゴッホは世界をこのようにとらえた、このように表現してみようと思ったという。であれば、ゴッホのタッチで描くならゴッホが今まさに見ている世界、ゴッホが生きている間の世界であるべきだったのではないだろうか。本作ではゴッホ生前の様子は白黒のいかにも実写から書き起こしたという写実的なタッチ、ゴッホの画風とは異なるタッチで描かれる。技法の使い方逆になっていない?と違和感を感じた。
 また、ゴッホの死を巡る謎自体も、映画として取り上げるには正直今更感が強い。このあたりは諸々研究されてきた部分だろうし、諸説出尽くしているだろう。それらを踏まえてドラマ化するのはいいのだが、ドラマをゴッホの絵でやる必然性が薄い。死の真相とは客観的なもので、ゴッホの主観ではない。ゴッホのタッチはゴッホの主観でこそ使われるべきだったのではないかと思う。大変な労作なのだが、技法と内容がかみ合わずとても勿体ない。

ファン・ゴッホの手紙【新装版】
フィンセント・ファン・ゴッホ
みすず書房
2017-07-08




ゴッホの耳 ‐ 天才画家 最大の謎 ‐
バーナデット・マーフィー
早川書房
2017-09-21

『模倣犯 犯罪心理捜査官セバスチャン(上、下)』

M・ヨート&H・ローセンフェルト著、ヘレンハルメ美穂訳
 在宅中の女性が手足を縛られ首をかき切られ殺害されるという、連続殺人事件が起きていた。その手口は、かつてセバスチャンとトルケルらが捕まえた連続殺人犯ヒンデのものに酷似している。しかしヒンデは服役中で、外で殺人を犯すのは不可能。模倣犯の仕業なのか?セバスチャンはある下心もあり強引に捜査に加わるが、被害者たちには彼も予想できなかったある共通項があった。
 犯罪心理捜査官セバスチャンシリーズ2作目。セバスチャンはあいかわらずのクズっぷりで、グループワークに強制参加させられたことを根に持ってカウンセラーにとんでもない仕打をする。そしてその行為が、彼を窮地に追いやっていく。予想できるはずがないとは言え、今回のセバスチャンの行動は概ね裏目に出ている。本来聡明なはずなのに、ある事情により目が曇っているとしか思えないし、彼の性格の弱さが際立つ部分が多い。そして1作目から続く仲間内でのマウント合戦にも拍車がかかっているのだった。
 本作、様々な形での相手を支配したい、影響を及ぼしたいという欲望が人間関係の中に満ちていて、あーそこには絶対混ざりたくない・・・って思わせられる。今回は犯人の真意自体がそういうものなのだ。サイコスリラーではなく警察もの(セバスチャンは民間人だけど、一応警察の捜査なので)でこういった欲望が前面に出ているのは、アメリカその他のヨーロッパ地域ではあまり見ないような・・・。北欧ミステリだと結構散見するので、地域性なのかな。フィクションに反映されるくらい問題視されているということなのかも。





『犯罪心理捜査官セバスチャン(上、下)』

M・ヨート&H・ローセンフェルト著、ヘレンハルメ美穂訳
 心臓をえぐりとられた少年の死体が発見され、トルケル・ヘーグルンド率いる国家刑事警察の殺人捜査特別班に救援要請が出された。4人の敏腕捜査官の元にトルケルの判断により合流したのは、犯罪心理捜査官のセバスチャン・ベリマン。有名かつ有能な心理学者で著作も多々あるセバスチャンだが、自己顕示欲が強く他人を見下し、セックス依存症という厄介者だった。
 前述のようにセバスチャンは自己顕示欲が強くて(女たらしであるということを割愛しても)面倒くさい男なのだが、本作に登場する主要な人たちは概ね自己顕示欲が強い。特に鑑識官のウスルラと刑事のヴァニヤにはその傾向が顕著だ。なまじ優秀な人たちなので他人からコケにされることが許せない、でも他人をコケにし見下すことには抵抗がない(というか無意識)という、セバスチャンに通じる厄介さを持つ。全編敵味方問わずマウンティング合戦が繰り広げられるのだ。事件本筋よりむしろそこが怖いよ!一緒に働きたくない!能力ないのにマウンティングに乗り出してくるうっかりさんもいるしな・・・。そして最後に驚愕の事実が明らかになり次作への引きもばっちり。著者チームは元々ドラマ脚本家だそうで、納得。




『ノクターナル・アニマルズ』

 美術商として成功しているスーザン(エイミー・アダムス)の下に、前夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から小説の原稿が送られてきた。スーザンは原稿を読み進めるうち、小説の世界に引き込まれていく。原作はオースティン・ライトの小説。監督・脚本はトム・フォード。
 トム・フォード監督、前作『シングルマン』では非常に美しいが構成がやや弱いなという印象だったのだが、本作は構成力がめちゃめちゃ上がっている!更に、原作の枠組みをかなり忠実に再現している。原作に沿いつつ、スーザンとエドワードの属する階層差、またスーザンと母の各室という設定を新たに取り入れていることで、原作とは違った視座を得ている。原作の読み込みと再構成がかなりいい形で成功していると思う。ライトの原作小説は、これを読んで映像化しようという気にはあまりならない(小説がつまらないのではなく、文章でないと難しい表現の仕方なので)と思うのだが、よくやったなぁ。
 小説を読むときに、頭の中で映像化してみるという人は少なくないだろう。映像化はしないまでも、何らかのイメージを持って読むことは多いと思う。しかし、そのイメージは作者が想定したものとイコールではなく、あくまで読者の頭の中にある世界だ。本作でエドワードが書いた小説『ノクターナル・アニマルズ』は映像として(本作は映画だから当然だが)描かれる。ビジュアル上、主人公トニーはエドワードであり、エドワードの妻はスーザンだ。これはエドワードがそのように想定して書いたというわけではなく、スーザンはそうイメージして読んだということだ。エドワードが同じように想定していたとは限らない。
 本作、実の所エドワード本人は不在のようなもので、延々とスーザンの独り相撲が続く。エドワードの姿は現れるものの、スーザン思い浮かべる、彼女の記憶の中のエドワードにすぎない。映像で再現される小説の中身は、スーザンはこのように読んだということに他ならない。エドワードにとっては、トニー=スーザンだったかもしれないし、スーザンは全然関係なかったのかもしれない。本作は、スーザンの内面が延々と続くような話だと言ってもいいのではないか。小説を読むことは自分ではない別の誰かの視座を得るということにもなりうるが、その視座すら、主体である自分を一度通したものである。
 自分から離れられないという苦しみは、スーザンがずっと抱き続けているものなのではないか。彼女と母親とのやりとりにも顕著だ。これは原作にはなかった要素だが、スーザンは富裕層の生まれでエドワードはそうではない。スーザンは違う自分になれるかもと期待してエドワードと結婚した側面もあったのではないか。母親は、自分が育った階層から離れるのは難しいと彼女を諭す。結局その通りだったのだが、エドワードは彼女に勇気がない、自分を閉じ込めているんだとなじる。
 とは言え、自分を通してしか物事を見ることはできない、変われないという点では、エドワードも同じだ。結婚していた頃のエドワードは、スーザンが芸術の道を諦めたと知り、君には才能があるはずなのに何で諦めるんだとなじる。それは、エドワードがスーザンを芸術家として見たかったにすぎないとも言えるだろう。スーザンがエドワードの世界にいられなかったように、エドワードもスーザンの世界にいることはできなかったのだ。





『マイティ・ソー バトルロイヤル』

 アスガルドの危機を知り、故郷に帰ったソー(クリス・ヘムズワース)の前に、死の女神であり存在を隠されていた実の姉であるヘラ(ケイト・ブランシェット)が現れる。ヘラはソーの武器であるムジョルニアをあっさりと破壊し、ロキ(トム・ヒドルストン)と共に宇宙の果てへ飛ばしてしまう。辿りついたのは様々な世界のジャンクが漂流する星。ソーは星の支配者グランドマスター(ジェフ・ゴールドプラム)に捕えられ、戦士としてバトルロイヤルショーに出場させられる。そこで対戦したのはソーと同じくアベンジャーズの一員であるハルク(マーク・ラファロ)だった。監督はタイカ・ワイティティ。
 原題はサブタイトルが「ラグナロク」で、実際神々の黄昏の物語でもありアスガルド崩壊の危機が訪れているのだが、本編にラグナロク感が皆無なので、バトルロイヤルで良かったと思う。ちょいダサ目で能天気感漂う所も内容に即した邦題だ。アスガルドの危機っぷりは洒落にならないレベルで、死人もばんばん出ているのに、同時並行で描かれるソーたちのすったもんだは正にコント。アベンジャーズ関係のマーベル映画の中では最もユルい、コメディ色の強い作品だと思う。本作のすごいところは、そのユルいコメディパートと世界崩壊のシリアスパートが違和感なく組み合わさっている所だろう。ワイティティ監督、なかなかの剛腕である。
 ソーの能天気さには拍車がかかり、語彙もちょっと増えて今回はいつになく行動的。ロキは完全にスネ夫キャラ。ソーのシリーズ新作というよりも、ソーの二次創作同人誌のようなノリだった。だって、皆の心の中のロキちゃんは割と本作みたいなロキちゃんじゃなかったですか・・・?当然2人の掛け合いは増量され大変楽しい。なんだかんだでお互い好きなんじゃん!ということが再確認できる。また、ソーとハルク=バナー博士という珍しい組み合わせも楽しかった。ハルク(こちらも語彙が増えている!)とは幼稚園児レベルのコミュニケーションが成立しているが、バナー博士とは人柄的に全く共通項が見えてこないし、バナーはバナーで筋肉バカ系イケメンであるソーに対する苦手意識は強そう。そのあたりもギャグにしつつ、珍道中感が出ていて楽しい。また、ハルクがバナーを、バナーがハルクをどう思っているのかについて垣間見えるあたりも貴重。
 本作、今まで王子としてふらふらしていたソーが、ついに本気で王になろうとする成長物語でもある。王とは、王国とは何なのかという大きな問題を突き付けられるのだ。ソーの物語としては大きな分岐点と言える。そういう大事な展開をほぼコントでやろうというあたり、大変度胸がある作品だとは思う。

マイティ・ソー [DVD]
クリス・ヘムズワース
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2011-10-21



『大鎌殺人と収穫の秋 中年警部クルティンガー』

フォルカー・クルプフル&ミハイル・コブル著、岡本朋子訳
 バイエルン地方の村で、悪質旅行業者、元医師の作家が相次いで殺された。どちらも死体の首が鎌で切られていたことから、警察は連続殺人とみなす。クルフティンガー警部は部下を率いて捜査に着手するが、奇妙な暗号に振り回され右往左往する。
 ドイツはドイツでも大分地方色が強いので、邦訳されているドイツミステリとはちょっと味わいが異なる。方言や地方独自の文化への言及も多く、ご当地ミステリ的な味わいも。クルフティンガーは偏屈な中年男だが警官としては結構真面目。とはいえ頭が切れるというタイプでもなく、勘違いも多い。ちょっと独特の鈍さ(まあ現実の人間はこんなもんかなと思うけど・・・)があって、捜査が遅々と進まず読んでいて少々いらっとした。クルフティンガーとしては不本意だが、妻の方が記憶力がいいし勘もいい。妻に捜査に協力してもらうものの、不満タラタラで険悪にもなる。とは言え、なんだかんだで円満な夫婦模様も楽しいクルフティンガーはちょっと鈍いしいわゆる切れ者ではないし頑固だけど、人間としては真っ当なのだ。ミステリとしては謎解きが唐突な感があり、また暗号が恣意的過ぎるんじゃないかと言う気もするが、登場人物の私生活のゴタゴタや地方色のディティールが楽しい作品。事件自体は陰惨なんだけど。






『母の記憶に』

ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳
 不治の病にかかった母は、できるだけ長い間娘を見守る為ある選択をするが、それは娘と母とを隔てていくものでもあった。表題作を始め、ケン・リュウ版『羆嵐』とでもいうべき(しかし更にひねりのある)『烏蘇里羆』、疑史小説であり歴史の語り直しのような『草を結びて環を銜えん』『訴訟王と猿の王』『万味調和 軍神関羽のアメリカでの物語』、SFハードボイルド『レギュラー』(かっこいい!)、SFネタとして王道な『シミュラクラ』『パーフェクト・マッチ』など、16篇を収録した短編集。
 実に多作!短編を量産する一方で長編もばんばん書いてるもんなー。本作では表題作が短いながらもやはり印象深い。親が先に死ぬというのは自然なことではあるが、その一方でいつまでも若々しく元気な姿でいてほしい、自分より先に死んでほしくないという気持ちが(私には)ある。なのでこの作品の母親の行為は愛として受け止められるけど、これが気持ち悪い、非常に違和感を感じるという人も絶対いると思う。その気持ち悪さ、違和感を逆に前面に出したのが『シミュラクラ』だろう。愛故の行為が親と子を逆に隔てていく。親と子、世代と世代の狭間を描く作品が印象に残る短編集だった。そういった作品や時代小説的なものとは一風違うが、最後に収録された『『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」』が一番好き。大きなドラマがあるわけでもなく、飛行船とその内部、そして操縦士夫婦の生活描写に終始しているのだが、人と人との普遍的な関わりに言及されている。機械の細部の描写も魅力。





『ザ・サークル』

 派遣社員をしていたメイ・ホランド(エマ・ワトソン)は親友アニー(カレン・ギラン)の尽力を得て、世界最大手の巨大SNS企業「サークル」に就職する。新サービス「シーチェンジ」のモデルケースに抜擢されたメイは、サークル社が新たに開発した超小型カメラによって自身の生活を24時間公開する。コンテンツは大人気でフォロワーは1000万人越え、メイは世界中の人気者になる。やがてサークル社は、世界中に設置したカメラとフォロワーの力によって、会いたい人をすぐに探し出せるというサーチサービスを発表する。原作はデイヴ・エガーズの同名小説。監督はジェームズ・ポンソルト。
 見ている間は退屈というわけではないが、見終わった後の印象が薄い。サークル社やそのサービスの設定には既視感がある(実際に類似した設定が出てくる過去のSF作品は色々とあるだろう)。そのもう一歩先へ、というほどの踏込みは感じられなかった。現実の世界もこれに似た状況に近づきつつある(私に実感がないだけでかなり近いのかもしれないけど)んだろうし、新しさみたいなものはあまり感じない。少し未来の世界設定を描きたいのか、メイという人間とその周囲の人間を描きたいのか、どっちつかずでどちらも薄味に思えた。あまり人間ドラマに寄って行っても面白くない類の話ではあるのだが、少し未来の世界を見せるには実際の現状に近すぎるのかな。また、サスペンス部分が少々大味(チートキャラを出すとシステム上簡単に話終わっちゃう・・・)。
 現実的にも、諸々可視化され、記録され、その引換として利便さ・安全さが提供されるという社会への違和感は、10数年前に比べると大分薄くなっているように思う。作中、子供にチップを埋めて犯罪被害に遭わないか監視するという社員に対して、メイは最初冗談かと思う。しかし社員は大真面目だ。プライバシーと安全・利便を天秤にかけると、安全・利便の方が(特にテロが頻発するようになった世の中では)重く見られるのはしょうがないのかもしれない。とは言え、実際には現状ではまだ気持ち悪さを感じる人の方が多いのかなと思う。本作はそのもう少し先を描いているのだ。
 作中の世界では、個人、プライベートの有り方が従来とはどんどん変質してきている。ここは他人に見られたくない、明かしたくないという領域は誰しもあるだろう。しかしなぜ見られたくないのか、明かしたくないのかという部分は、合理的な説明がしにくい。サークルはそこに付け込んでいるとも言える。これは人間個々の感性・環境によって違うとしか言いようがなく、それを統一されたらすごくストレス感じる人も多いだろう。サークルに入社したばかりのメイに同僚2人が「ガイダンス」に来るのだが、この2人の胡散臭さ(そう思わない人ももちろんいるだろう)たるや。他の社員との「繋がり」、社内のアクティビティーへの参加をやんわりと強要されるのだが、もうこの部分だけで御社悪い意味でやばいです・・・という気分に。オフィシャルとパーソナルの領域の切り分けを許さない社風なのね。サークル社が目指すのがそういった「繋がる」社会だというのなら、私にとっては地獄だわ・・・。


ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14


ザ・サークル 下 (ハヤカワ文庫 NV エ 6-2)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14



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