3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『スペース金融道』

宮内悠介著
人類が最初に移住・開拓に成功した太陽系外の星、通称、二番街。新生金融の二番街支社に勤務する“ぼく”は、上司ユーセフと共に債権回収に励んでいる。顧客の多くは大手があまり相手にしないアンドロイド。アンドロイドだろうがコンピュータウイルスだろうがバクテリアだろうが返済能力がある奴には貸す、そして核融合炉内だろうと零下190度の惑星だろうと地獄の底だろうと追いかけて取り立てるというのが会社のモットーだ。要領のいいユーセフとは違い、ぼくは貧乏くじばかりをひいていく。
取り立て屋コンビが活躍する連絡短篇集。先日読んだ著者の『彼女がエスパーだったころ』はしっとりとした中にミステリ的なトリックを織り込んでいたが、本作は著者初といっていいくらいの軽いノリ、かつガチなSF。アンドロイドが人間と同じように生活する、しかし人間と対等とは言い難い世界が舞台で、ロボット三原則ならぬアンドロイド三原則も登場する。債務者はアンドロイドだけではなく、それどうやって取り立てるんだよ!そもそも何に金使ったんだよ!という存在ばかり。どういう存在の仕方なら金を貸せる=取り立てられるのか、という問いが、何を持って独立した人格を持つ存在と言えるのか、という問いに繋がっていく。終盤、小説としてはこれは禁じ手なのでは?という演出もあるのだが、アンドロイドがこの先どう進化していくのか、不穏さと期待を感じさせる。

『彼女がエスパーだったころ』

宮内悠介著
かつてスプーン曲げで人気を博した「超能力者」及川千晴に取材を申し込んだ“私”は、彼女の実像、そして彼女の夫の死の真相を探る。表題作の他、5編を収録。
超能力、百匹目の猿、オーギトミー、代替医療等、科学とオカルトの間のグラデーション部分から題材を取った短篇集だが、理論的・科学的な説明をつけ、それでもなお曖昧な部分を残すというコンセプトの連作になっている。物理的なトリックは解明できるし、客観的な説明もできる。しかしそれが生み出された状況、人間の心理は時に非合理的で、当事者にしかわからない。あるいは当事者ですらわからない超越的な何かによって引き起こされることもある。本作で扱われるモチーフは一般的には胡散臭いとされるものだが、それはこの当事者にしかわからない、観察者を突き放さざるを得ないという性質によるのだろう。そこが本作の持ち味になっている。最初の作品と最後の作品で、ある閾値というモチーフがリンクしていくのもいい。著者は作品ごとに腕を上げている印象があり、本作も面白かった。

『トリプルX 再起動』

 謎の集団がパンドラの箱と呼ばれる兵器を奪い、それを使って人工衛星を落下させた。元シークレットエージェントのザンダー・ケイジ(ヴィン・ディーゼル)は国家安全保障局に召集され、チーム「トリプルX」を結成しパンドラの箱奪還に挑む。監督はD・J・カルーソ。
 ストーリーを追う必要がない、というよりもそもそもストーリーをちゃんと見せる気がないんだろうなと思ってしまうくらい、アクションの見せ場でつないでいく作品。前作に登場した人のことはその都度説明してくれるので、初心者にもやさしい仕様だ。冒頭、電波塔からテレビへの流れからして、なぜスキー?!なぜスケボー?!と突っ込みつつも人間の運動自体が目に気持ち良くてとても楽しい。ザンダーがわざわざ危険を冒した理由も、じゃあしょうがないよね!と納得してしまう(冒頭で登場するゲストとの関連もあるのだろうが)。
 12年ぶりのシリーズ新作だそうで、なぜ今わざわざ?と思ったのだが、これはドニー・イェンがハリウッドで活躍するようになるのを待っていたからだよ!と言われれば納得せざるを得ない。ゲスト的な扱いなのかな?と思っていたが、ディーゼルとの2枚看板と言えるくらい、意外と活躍している。そしてアクションは速い!高い!強い!の3拍子で当然のごとく見応え抜群。そして高さ速さで言うとトニー・ジャーも投入されている(今回珍しくすごくチャラいキャラクターだった)。ディーゼルはさすがに動きがもったりしてきているので、早さ・高さがイェンとジャーによって補完されている感じだった。中国資本が入ったからしょうがなくなんじゃないの?と言う人もいそうだが、何であれ、様々な人種の人がチームになって挑むというのはやはり燃える。インド映画で大活躍しているディーピカー・パードゥコーンが凄腕として大活躍しており、こちらも魅力的。ルビー・ローズ演じるスナイパー・アデルとバディを組んだ銃撃戦は、予告編でも使われているが最高だった。
 ディーゼル主演ということでうっかりワイルドスピードシリーズと混同しそうになるのだが、本作の方がワイルドスピードよりもメンバーの人種、性別、セクシャリティがまちまちでカラフルだ。そのまちまちさが、特に前説明なく投入されていて、これが「普通」だよという振る舞いになっている。これからの大作アクション映画は、こういう方向になっていくんじゃないかな。一応、ディーゼルは見た目マッチョで女性にモテモテになったりするが、「お約束だから義務としてやった」的な取って付けた感がある。マッチョな肉体だけどあまり肉食系に見えないという不思議なことになっている。こういう「お約束」も、今後は減っていくのかもしれない。本作、異性間にはあまりイチャイチャ感がなく、むしろ同性間の方がイチャイチャしているんだよな・・・。

『ラ・ラ・ランド』

 女優を夢見てハリウッドに来たもののオーディションには落ちてばかりのミア(エマ・ストーン)。ある日、ジャズピアニストのセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。セバスチャンはジャズを聴かせる店を持つという夢を持っており、2人は恋に落ちる。監督はデイミアン・チャゼル。第89回アカデミー賞では監督賞、主演女優賞等6部門で受賞。
 冒頭の高速道路を使ったレビューと、クライマックスでの走馬灯的ミュージカルシーンがカラフルで美しく、特に高速道路編はよくここで撮ったな!(というか撮影許可を取れたな!)と感心した。あっあんな遠くまで人が踊っている!というだけで何だか感銘を受ける。ほぼ1ショットに見えるような長回し風撮影をしているので、相当大変だったと思う。カメラと人物が近すぎ、かつカメラの動きが速すぎる(全般的に、カメラをここまで動かせるぞ!ということが楽しくてつい動かしすぎてる感じ)きらいがあり、ダンスする肉体のダイナミックさが削がれているのが残念ではあるのだが、これをやりたかったんだろうなぁと納得はさせる。
 前半は恋する2人の気持ちの浮き立ち(それこそ宙を舞ってしまうくらいの)や、それぞれの夢に向かう情熱を反映したかのような色鮮やかでキラキラした映像。色の調整は徹底しており、衣装と背景となる室内や建物の壁の色のコントラストが美しい。しかし、2人がそれぞれの夢に行き詰まりを感じ、2人の関係も変化していくあたりから、色彩は褪せて、ある意味地に足の着いたものになっていく。作品世界の色合いが2人の心情とリンクしているのだ。後半は華やかなミュージカルシーンがなくてつまらないという感想も散見されたが、おそらくミアとセバスチャンにとっての世界が「つまらない」ものになってしまっているのだと思う。一旦「つまらなく」なったからこそ、世界はーつまらないかもしれない、しかし夢を見させてくれというミアの巻き返しが感動的なのだろう。その一方で全てがミア、あるいはセバスチャンが見ていた夢なんじゃないかという気もしてしまうが。
 楽しい作品ではあるのだが、手放しで褒められない所も。監督の前作『セッション』を見た時も思ったのだが、音楽がとても好きな人ではあるのだろうが、その割に、えっ本当に音楽好きなの?と思わせる所がある。本作では、セバスチャンをバンドに引き入れるミュージシャン・キースのステージには首をかしげた。クラシカルなジャズを愛するセバスチャンは、新しいものをどんどん取り入れ大衆受けを狙うキースのやり方が気に入らない。彼のライブは、いかにもウケそうな安っぽい歌詞のポップスとやたらと出てくるダンサーという演出なのだが、ちょっと悪意を感じた。元々ジャズミュージシャンであるキースはセバスチャンと同じくジャズの素養は豊かで、おそらくセバスチャンより才能もある。ただ、より多くのリスナーを獲得する為の試行錯誤を辞さない。主義がないのではなく、逆にセバスチャンよりよっぽど腹をくくっていると言えるだろう。それをこんな安っぽい見せ方をするのは、音楽を生業とする人たち全体だけでなく、それを聴いて喜ぶオーディエンスのこともバカにしていることにならないか(こういう演出にも関わらずちゃんと仕事したジョン・レジェンドはえらいよ・・・)。キースのライブのダサさは、セバスチャンの目にはこう映っているってことなのかもしれないが、それにしても独りよがりではないか。バイトで「Take on me」を演奏する姿がものすごく嫌そうなのも、彼の趣味じゃないとは言え、「Take on me」は楽しい曲なんだよ!と文句言いたくなった(なので、このシーンでのミアの振る舞いは適切だと思う)。
 また、これは作品のコンセプト上しょうがないのかもしれないし、狙った部分なのかもしれないが、ミュージカル映画というよりもミュージカル映画「ごっこ」感が拭えなかった。オマージュだらけなことの弊害か。

『バッドガイズ!』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」で鑑賞。ニューメキシコ州アルバカーキ。警官のテリー(アレクサンダー・スカルスガルド)とボブ(マイケル。ペーニャ)のコンビは、パトロール中に暴力沙汰を起こし、強盗を見つけては現金をピンハネ、ドラッグを横流しと悪事を繰り返して上司からも目を付けられていた。ある日、ギャングが100万ドルの強盗計画を立てていると知り、その金を横取りしようと企む。しかしその計画には、裏社会の大物も関わってきた。監督・脚本はジョン・マイケル・マクドナー。
 同時期に公開されている『ナイスガイズ!』にあやかった邦題なのだろうが、意外と内容と合っていた。そして『ナイスガイズ!』の3倍くらいストーリー展開がだらだらとしている。途中でそういえばこの金どこから出てきたんだっけ?と道筋を見失いかけた。どちらかというと警官コンビの掛け合いや小ネタの数々にニヤニヤする類の作品で、ストーリーを追おうとすると正直つらかった。本作、なぜか文学ネタがしばしば投入されており、映画の作りは雑だし頭悪そうなのに小ネタには教養が見え隠れするという不思議なバランス。まさかこんな映画で三島由紀夫が引き合いに出される(まあ文学的な功績によってではないんですが・・・)とは思わなかった。
 テリーとボブは絵にかいたような悪徳警官でやりたい放題。これに比べると『あぶない刑事』なんて発砲量が多いだけで全然ちゃんとした刑事だわ・・・。テリーもボブも自分達がやっていることは悪事だとわかっているが、悪いとは思っていないのであっけらかんとしている。その一方で、自分たちなりの正義感、この一線は越えないぞという矜持が感じられるところは、警官バディものならでは。テリーがある少年を保護しようとする姿勢(彼なりの超論理があるんでなんとも言えないんだけど・・・)にはそれが感じられるし、トラブルばかり起こすテリーを庇い続けるボブの姿勢もそうだろう。
 なお、警官としての立場を利用して悪事やりほうだいということで、女性にも手を出しまくっているというのがこの手の設定のパターンだが、本作には意外とその部分がない。テリーは惚れっぽいが本命一筋だし、ボブは妻との息が合っている(妻がテリーについてどうこう言わないところが良かった)。そういう点では意外とマッチョっぽくない作品。女性に対するセクハラネタが少ないところは良かった。

『シンクロナイザー』

 大学勤務の研究者・長谷川(万田祐介)は人間と動物の脳派を同期させる実験を無許可で続けていた。同僚の木下(宮本なつ)の手を借りて研究を続けるうち、この実験が脳機能障害の改善につながる可能性に気付く。長谷川は認知症の母・春子(美谷和枝)の治療になるのではと、倫理を踏み越えて人体実験に踏み切る。監督は万田邦敏。立教大学心理学部の映像生態学プロジェクトの一環として製作された。
 入口と出口が違うような不思議な作品だった。一見、SFサンペンスぽいのに、どんどん土着的なホラーっぽい世界へ進んでいく。春子の存在、母と息子との関係に物語全体が引っ張られていくようだった。長谷川の二男としてのコンプレックスと、痴呆が始まってからは自分のことは忘れてしまい、長男の名前ばかり呼ぶ母親への執着は一応提示されているので不自然というほどではないのだが、物語のモチーフとしての母息子関係の強力さに、少々たじろんだ。最初は、他者(人間であれ動物であれ)とリンクすることへの違和感、恐怖が描かれていたように思うのだが、親子間だと何かしら同質なものが含まれる。含まれていないとしてもそのように見てしまう。そこに近親相姦的なタブー感が重なり、どんどんそちらの方向に引っ張っていかれてしまった気がした。素材の引力の抗いがたさみたいなものがあるのかなと(キャッチーというより、そこに据えておくと恰好がつくというか)思う。
 長谷川と二人三脚状態だった木下の存在が、徐々に長谷川を引き留められなくなり、彼はどんどん母親との「実験」にのめり込んでいくというのも、長谷川の研究者としての業というよりは、母に対する執着、また母の子に対する執着のように見えてくる。終盤の展開は欲望がだだ漏れになってくるようでちょっとぞっとする。
ただ、こうなってしまうと、脳派の同調設定って必要だったか・・・?という気になってくる(特にオチの部分)のだが。最初からホラーだよと言われていればそんなに違和感感じなかったのかもしれないけど。

『ナイスガイズ!』

 1976年のデトロイト。シングルファーザーの探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)と腕っぷしの強い示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)は、なりゆきでコンビを組み、失踪した少女アマンダを探すことになる。アマンダはポルノ映画の撮影に関わっていたらしいが、その映画の関係者である女優も監督も殺されていた。監督・脚本はシェーン・ブラック。
 予想以上に70年代感漂う作品で、ストーリー展開のユルさものたのた進行も70年代の探偵映画の雰囲気を狙ったのかな?ってくらい。どこか懐かしいのだ。そしてライアン・ゴスリングは70年代ファッションが異様に似合う。現代のファッションよりも似合っているんじゃないだろうか。本作、ゴズリングが痛さのあまりにキーキー言ったりえぐえぐ泣いたりあたふたしたりする、基本的にあまりかっこいいところがないゴズリング映画なのだが、今まで見た彼の演技の中では一番好きかもしれない。情けないが憎めない味わいがある。そしてラッセル・クロウはいつものラッセル・クロウ(殴る・唸る・暴れる)な感じだった。一見穏やかで常識人に見えるマーチが諸々だらしなくぼんくらで、一見暴力で全部解決する系のヒーリーは意外と常識人で頭も回るという凸凹感も楽しい。
 加えて、マーチの娘ホリーが聡明かつ心が優しい良い子で、清涼剤のようだった。本当は色々思う所あるけれど言わないという健気さにも泣ける。マーチは終始、彼女に支えられているのだ。ちょっと娘に寄りかかりすぎじゃないのと思わなくもないが、多分娘がいるから道を踏み外さなくて済んでる(それでも結構外してるけど・・・)タイプの人なんだろうな・・・。ホリーに対しては父親であるマーチはもちろん、強面のヒーリーも誠実にならざるを得ない。ホリーに「殺したの?」と問われるヒーリーの表情には何とも言えないものがあった。まあそう答えるしかないよ・・・。
 妙に脇道が多く、同じ場所をぐるぐる回っていくようなストーリー展開で、これ回転数もうちょっと減らせるんじゃないかな?とも思ったが、そこもまた味か。ユルいコメディとユルいサスペンスを足して2で割った感じで、肩の力を抜いて楽しく見られる。子供の頃、テレビで午後放送されていた映画の中の「大当たり」作品といった味わい。とは言え、能天気な話かと思っていたら(実際最初はかなり能天気だし)、意外と生臭い展開になってくる。デトロイトの現状を見ると、無常感を感じざるを得ない。
 ところで、マーチは借家とは言え結構いい家に住んでいる。元の家も近所なので、実はそこそこ稼いでるってことなのかな?それとも妻が稼いでたの?彼の探偵仕事は腕がいいとは考えにくいんだけど・・・。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』

 デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は交通事故にあい、車に同乗し運転していた妻は死亡した。妻の死に対して涙は出ず、悲しみも感じない彼は、妻の父親フィル(クリス・クーパー)が経営する金融会社での仕事には復帰したものの、周囲のものを分解・破壊したいという衝動を抑えられなくなる。監督はジャン=マルク・バレ。
デイヴィスは無感覚な状態に陥っており、自分が悲しんでいるのかどうかもよくわかっていないし、わかっていないということ自体に自覚がない。また、会議中に全く関係のないことを言いだしたり、自動販売機会社のお客様窓口にクレームに加え自分の近状を長々としたためた手紙を出したりと、はたからみたら突飛な行動に走っていく。
 妻が死んでからのデイヴィスの生活からは、彼は家族との関係はそんなに密ではないし、親しい友人もいない、職場の同僚ともそんなに仲良くしているわけではない(社長の娘婿なのでむしろ煙たがられてそう)な様子が垣間見られる。元々、そんなに空気読む方でも気遣いが細やかな方でもなく、ちょっと情緒に疎いのかなという雰囲気なのだ。フィルは娘の夫であるデイヴィスのことを気に掛けてはいるものの、ぽろっと「最初から気に入らなかった」と漏らすし、デイヴィスのことをよくわからん奴だよなと思って困惑している様子がありありとわかる。彼は一応親族ということにはなるのだろうが、デイヴィスにとって話相手にはならない。話す相手がいないから、自販機会社のお客様窓口担当のカレン(ナオミ・ワッツ)に長々と手紙を書き、彼女の自宅まで突き止めてしまうのだ。カレンへの接近の仕方はストーカーまがい(というか立派にストーキングだろう)でかなり怖く、更にカレンがデイヴィスを受け入れてしまうことで、本作に対する気持ちがかなり冷めてしまった。カレンのパートはない方がよかったような気もするが、彼女の息子がすごくいいキャラクターなんだよなぁ・・・。
 とは言え、破壊行動もカレンとの距離の取り方のまずさも、デイヴィスにとって自分と世の中との距離感がよくわからなくなっているからだろう。彼が周囲のものを分解して壊していくのは、自分をとりまく世界の成り立ちを理解しなおそうとしていることなのかもしれない。デイヴィスと唯一相互理解のあるやりとりをするのが13歳になるカレンの息子なのだが、彼はまだ「世の中」に出る前の存在だからだろう。「世の中」から落っこちてしまったようなデイヴィスには、子供の方が率直に話せる存在なのではないか。とは言え、セクシャリティに関する彼へのアドバイスは、こいつやっぱり情緒ないし想像力あんまり豊かじゃないな、ってものなのだが。

『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』

 南軍の兵士として南北戦争に従事していたニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、戦死した甥の遺体を故郷であるミシシッピ州ジョーンズ郡に届けようと脱走。やがて農民から食料をむりやり徴収する軍と衝突し、追われる身となる。湿地帯に身を隠して黒人の逃亡奴隷たちと共に闘うようになった彼は、白人と黒人が共存する反乱軍を結成し、軍と対立していく。監督・脚本はゲイリー・ロス。
 実話を元にした話だそうだが、ナイトの存在は近年まであまり知られていなかったそうだ。当時としてはかなり型破りな人だったんだろうけど。(本作中の)ナイトは白人だろうが黒人だろうが個人は個人だという考え方で、黒人に対しても(他の白人と比べると)自分と同じ人間として接する。一方で彼が軍に反旗を翻す理由は、奴隷制度に反対しているからではなく、軍が自分達の作物や家畜を根こそぎ奪うから、搾取するからだ。白人だろうが黒人だろうが自分が育て収穫したものはその人のもので、それを奪うのは不当だから闘う、というのが彼の方針だ。これはとてもアメリカ的な考え方ではないかと思う。自分達の生活と権利を守るのが一番大事という考え方はともすると、「それ以外」を阻害する排他的なものになりかねないが、ナイトは意外と来るもの拒まずだし自分の妻子そっちのけで地元の農家を救いに奔走したりするので、そのあたりも稀有な人ではある。
 とは言え、彼の理想は当時の世間にはまだ早すぎた。南北戦争が終わっても、名称や形が変わっただけで黒人が差別されることに変わりはなく、ナイトの勢いも衰えていく。史実ベースとは言え、もの悲しい。更にきついのは、ナイトの時代から約90年後のある裁判の顛末だ。これだけ時間がたってもこんなもんか!と唖然とした。どんなに傑出した人でも1人で歴史を変えられるわけではない(ナイトの場合は傑出したというか、タイミング的に活躍できた時期があったという方がいいのかも)のだ。
 なお、冒頭の戦場の描写はかなり生々しく迫力がある。当時の兵士って、半分くらいは死ぬことを前提として配置されていたんだろうなと実感させられる。とにかく大量の死人が出た戦争だったんだなとビジュアル的に納得するし、各地の農家で男手が足りなくなり食い詰めるというのも説得力が増す。
 歴史ものとしても面白い作品だったが、後年のある裁判の挿入の仕方が唐突で、流れが悪くなる。この裁判が作品にとって大きな意味を持つというのはわかるのだが、構成に難がある。

『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』

菊地成孔著
著者が10数年にわたって綴ってきた追悼文をまとめた、サブタイトルの通り追悼文集。著者の職業上、ミュージシャンやジャズ評論家への追悼文が多い。実際に著者と交流があった人へのものも、そうでないが著者にとって大切だった人へのものも(エリザベス・テイラーとかマイルス・デイヴィスとか)ある。当然のことではあるが相手との関係によって文章のテンション、どこまで踏み込むか(自分の知り合いだから踏み込める/踏み込めない場合、面識はない「有名人」だから踏み込める/踏み込めない場合があるなと)が変化してきて、その距離感みたいなものが興味深かった。著者の文章は概ね躁的でどんどん書き飛ばしていく(もちろん推敲されているはずだが)イメージがあるのだが、所々で、この人についてはこれ以上は書けないという壁のようなものが出現することがあるのだ。それとは別に強く印象に残ったのは「加藤和彦氏逝去」。故人の仕事に対する深い敬意と愛があると同時に、(故人に対してとは限らない)苛立ちのような、そうじゃないだろう!という苦渋のようなものが入り混じっているように思った。

『きつねの遠足 石田千作文集』

石田千著
様々な本や人、物事に関わる短い文章を67編収録した「作文」集。内容は、本の解説として書かれたものであったり、誰かとの思い出や日常のこまごま、また著者の文章の中では外せない食べ物に関するものまで多岐に渡り、長さがごくごく短く中途半端なものもあるから、随筆ではなく「作文」ということなのだろう。独特のぽつりぽつりと文字を置いていくような、しかし寡黙というわけではなく、むしろコンパクトだが饒舌さを感じさせるところがユニーク。他の文章よりもボリュームがある「選句の神殿」が面白い。朝日俳壇の選句会に同席した記録なのだが、選句ってこんなに鬼気迫る瞬間があるのか・・・。大量のはがきをどんどんさばいていく(もちろんちゃんと読んでいる)選者の生き生きとした動きや、人柄、選者同士の関係性など、控えめな文なのに鮮やか。俳句に興味がなくても引き込まれた。

『蜜蜂と遠雷』

恩田陸著
3年ごとに日本で開催される芳ヶ江国際ピアノコンクールは近年注目を集めており、新たな才能の発見が音楽業界内でも待たれていた。かつて天才少女として名を馳せたものの母の死以来ピアノ演奏から離れていた栄伝亜夜(20歳)、ジュリアード音楽院の英才マサル・C・レヴィ=アナトール(19歳)、楽器店勤務のサラリーマンで出場年齢制限ぎりぎりの高島明石(28歳)、そして養蜂家の父と共に各地を転々とし、自分のピアノを持たないという風間塵(15歳)。それぞれ異なる才能を持ったピアニストたちが競うコンテストを描く。
1つのコンクールの1次予選から3次予選、そして本選までを通して描くので、ピアノコンクールというものがどういうシステムで稼働しており、どういう人たちが関わっており、出場者たちの心情はどういうものなのかという業界もののような面白さがあった。ピアニストたちにだけスポットを当てているのかと思っていたが、コンテストの審査委員やコンサートホールの運営側、オーケストラ(本選はオーケストラとの共演なので)指揮者や調律師、またピアニストたちの家族や恩師、友人たちなど、様々な人の視線からコンクール全体、そして彼らの音楽の有り方が描かれ、群像劇としても面白い。音楽の有り方は正に十人十色なのだが、ずば抜けた演奏の下では一つの色に引っ張られ、同じ風景を見ることがある。そこが聴衆を前にした演奏の面白さなのかもしれない。
とてもよく調べて丁寧に書かれた労作・力作で、リーダビリティも高い。音楽をやる、というのがどういうことなのかという説得力もある。ただ、よく書かれているが故に、音楽を小説で表現することの限界も感じずにはいられない。演奏している奏者はどういう状態なのか、ということは十分に表現できても、どういう音楽であるかという部分は、書かれれば書かれるほど空々しく感じられてしまう。かなりの文字数でどういう感じの演奏なのか、ということを描いているのだが、段々飽きてきてしまった。

『たかが世界の終り』

 作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)は自分の死期が近いことを家族に告げる為、10数年ぶりに実家に帰る。母マルティーヌ(ナタリー・バイ)は息子の帰郷にはしゃぐが、兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)や年の離れた妹シュザンヌ(レア・セドゥー)の態度はぎこちない。アントワーヌの妻カトリーヌ(マリオン・コティヤール)は家族と衝突しがちなアントワーヌのフォローでマルティーヌにもルイにも気を遣う。ルイは告白するタイミングを見失っていく。原作は劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇『まさに世界の終り』、監督はグザヴィエ・ドラン。
 相変わらず劇中音楽の選曲が上手い。あまりに嵌めすぎ、ショットの切り替えを音楽に合わせすぎで鼻につくという部分もなきにしもあらずなのだが、音楽と映像のリズムが合っているとそれだけで気分が上がるので、これはこれでいいと思う。ちゃんと物語のシチュエーションに合っている。ただ、それ以外の部分は意外とテンポが悪いのは残念。元々舞台劇だったからか、幕間のように何度か画面が暗転するのだが、それによってリズムが乱れているように思った。あんまり小刻みにしない方がよかったのかな。映像は概ね美しく、鮮やかな色の洗濯物や毛布が風に舞うシーンなどドラン監督が一躍スターダムになった『わたしはロランス』を彷彿とさせる。また、室内に差し込む光のとらえかたが美しい。ただ、本作の場合はその美しさ、スタイリッシュさがあまり機能していないように思った。むしろ、もっと泥臭い映像と演出だったらより印象が深まったかもしれない。
 ルイはゲイで、家族にはカミングアウトしていることがさらっと冒頭に明かされる。とは言え、ゲイだからというだけで家族から受けいられなかったというわけではなさそう。また彼は小説家、しかもそこそこ売れているらしいという文化的背景があるのでよけいに他の家族からすると異物感があるのだろう。そもそもこの家族は、お互いがお互いに対して異文化であり、会話を続けることがとにかく困難そうなのだ。家族として全く愛情がないわけではない。思いやりの心もある。しかしそれがプラスに働くことがないという、家族という泥沼を見てしまった感がある。家族だから理解しあえる、心が通じるというのは幻想で、距離を置いた方が円満に収まる家族もいるのだ。
 マルティーヌ、アントワーヌ、シュザンヌがやたらと大声で話すので、ヒステリックな印象を受ける。マルティーヌはひたすら自分の話を聞いてほしがり、アントワーヌはそれに反発して怒鳴り、さらにそれに反発してシュザンヌがわめくという悪循環。相手の話を聞く態勢が出来ないまま、ここまで来てしまった家族なのだろう。ルイは物静かではあるのだが、彼もまた相手の話に耳を傾けるという風ではない。彼は観察者ではあるが、対話者ではないのだ。彼だって変わる気がないという点では、他の家族と大差ない。自分の人生の終わりが見える時点になってもなお、人は変われないものなのか。

『アックスマンのジャズ』

レイ・セレスティン著、北野寿美枝訳
 1919年のニューオリンズで、連続殺人事件が起きる。凶器が斧と見られたことから「アックスマン」と呼ばれるようになった犯人は新聞社に予告状を送り付け、「ジャズを聴いていない者は殺す」と宣言する。タある事情から警察内では嫌われ者のタルボット警部補はこの事件の捜査にあたる。一方、マフィアに犯人探しを依頼された元刑事のルカ、ピンカートン探偵社で事務をしているが探偵志望のアイダもこの事件を追っていた。
 実際に起きた未解決事件を題材にしているそうだ。1919年のニューオリンズが舞台ということで、様々な人種のコミュニティが共存しているが差別意識は強く、それがタルボットを苦しめ、アイダの足を引っ張る。タルボットには黒人の妻と子供がいるが、この時代、白人と黒人との結婚は許されないどころか、パートナーとしていることがわかっても周囲からのバッシングはもちろん、実際に暴力を振るわれかねない。自分が家族だと見なしている人たちを世間からは隠しておかなければならないのだ。また、アイダは白人として通用するくらい肌色が明るいが、それでも出自を知られると黒人として差別され、暴力を受ける。登場人物たちの背後、そして事件の背後には常に人種差別が横たわっており、これがあの時代の「普通」だったことを痛感させる。この「普通」に個人が対抗することがいかに難しいか、折々で感じさせるのだ。
 タルボット、ルカ、アイダはそれぞれ別個に事件を追い、それぞれがある結論を得る。彼らにとって見えるのは事件のある側面のみというところが小説の構造としては面白いが、事件を追う側にしてみたらなんか不消化だよな。・・・と思っていたら最後に思わぬ展開があり、これはうれしかった。続編も発行予定のようなので、今から楽しみ。
 なお、題名にジャズとつくが、ジャズが本筋に絡んでくるのは最初だけで予告状の内容も立ち消えになってしまうのには拍子抜けした。多分、実際に送られてきた予告状がそういう内容だったんだろうけど。

『マリアンヌ』

 1942年、秘密諜報員のマックス(ブラッド・ピット)はカサブランカに潜入。現地でフランスのレジスタンスであるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と夫婦を装ってあるミッションを遂行する。2人は恋に落ち結婚、ロンドンで暮らすようになり、娘も生まれた。しかしマリアンヌにある疑惑がかけられる。監督はロバート・ゼメキス。
 まさかここまで古めかしいメロドラマのルックスをしているとは。それがいい・悪いというのではなく、意外だった。本作、最初の舞台が「カサブランカ」なあたりにしろ主演2人の選出にしろ、往年のハリウッドのスター映画のオマージュという側面を持っていると思うのだが、そのスター感、クラシカルな佇まいと脚本と監督の作風とが、いまひとつマッチしていないように思う。私はゼメキス監督作にはあまり明るくないのであくまでそういう印象だということだが・・・(ゼメキスに対してはずっと苦手意識があったが『フライト』で和解いたしました)。
 妻は自分が見てきた妻のままなのかという疑いを夫が猜疑心に苛まれつつ晴らそうとする話なのだが、その疑いが出てくるタイミングが大分遅い。疑惑が生じてからも、マックスの右往左往が続きいまひとつ起伏に欠ける。マリアンヌが、自分が思ってきたような彼女である、愛して結婚したような彼女であると果たして断言できるのか、というサスペンスがあるはずなのだが、その揺らぎみたいなものもぼんやりとしている。ブラッド・ピットがぼんやりと胡乱な顔をしているというのも(そういう演出なのだと思うが)一因だが、ストーリーテリングの焦点が合っていないんじゃないかなという気がした。本来、マリアンヌが何者かという部分より、マックスが何を信じ何に賭けるかという、彼の内面の問題の方が主になる物語なのではないか。
 物語はほぼ一貫してマックスの視点で進む。マリアンヌは美しく快活で機転がきく、魅力的な人だ。マックスはあまり社交的ではなく、仕事上「夫婦」としてパーティーに出るのも気が重そう。人の輪の中で魅力を発揮するマリアンヌとは対称的だが、彼女の人当たりの良さと如才なさは彼にはないもので、いいコンビなのだ。彼女は任務中でも「感情には嘘がない」と言う。また出産時には「あなたが見ている私が私自身」とマックスに話す。終始、マックスの前で彼女がどういう人だったのか、彼女のこの言葉、彼女に対して自分が感じたことをマックスが信じ続けることができるのかという話なのだ。
 ちょっと冗長に感じたが、ああ映画だな!とはっとするシーンがいくつかあった(これは監督であるゼメキスの趣味か)。冒頭、マックスの足が映りこむところと、結婚式から出産への場面転換はドラマティック。この2か所で、すごく映画見たなという気分になった。

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