3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『クリーン』

 落ち目のミュージシャン・リーがドラッグの過剰摂取で死亡し、妻のエミリー(マギー・チャン)は麻薬所持で逮捕された。半年服役した後、親戚の中華料理店で働いていたエミリーだが、店員とはそりが合わずに辞めてしまう。リーの両親に預けた一人息子のジェイに会うため、なんとか仕事と住みかを手に入れようと、エミリーはリーと出会う前に暮らしていたパリへ引っ越す。
 オリヴィエ・アサイヤス監督作品。日本での新作公開が相次いで何よりだ。主演のマギー・チャンは、本作でカンヌ国際映画祭主演女優賞を受賞している。確かに熱演だし、マギー・チャンがこういう役柄を演じるのかという意外性もあった。また、リーの父親役のニック・ノルティが、安定感抜群。ベアトリス・ダルをはじめ、脇役の女性たちが皆かっこいい(決して「出来た人」を演じているわけではないのだが)のもよかった。
 マギー・チャンは熱演しているが、この役をどう演じるのか、かなり悩んだらしい。それも無理はない、というのは、エミリーという人物は決して共感を呼んだり励ましたくなるような、いわゆる好感を持てるキャラクターというわけではないからだ。薬物依存症であり、多分に甘えたところがあって地道な努力は苦手そうだ。義父母に預けた息子にも長らく会いに行っておらず、子供には「ママは僕を好きじゃないし僕もママを嫌い」と言われてしまう。息子との再会も、決して感動的なものではない。息子はしぶしぶといった感じだし、彼女もぎこちない。しかしそんな人間だからこそ、(いやなところではあるが)近しく感じることもある。
  「人は変われる」ということが描かれている作品だが、同時に、人の芯にある部分は変わらないんじゃないか、ということも提示しているように思った。「変われる部分」と「変われない部分」とのせめぎあいがストーリー、というよりも主人公であるエミリーの中心にある。映画のラストの落とし方が、それを象徴している。このラストに納得いかないという人もいそうだし、ハッピーエンドとも言いがたいが、これはこれで一つの希望ではある。彼女は模範的な妻・母親にはなれないかもしれないが、少なくとも自分の人生を立て直すことはできるかもしれない。
 アサイヤスが、前作『夏時間の庭』や本作のような、大人の人間ドラマを撮るということが意外でもある。貫禄すらあるんじゃないかこれ・・・。『夏時間~』に引き続き、人間の不完全さ、多面性を描くことに焦点が当てられていたように思う。人間はきれいごとではない、しかし美しい瞬間がある、という視線に好感を持った。撮影と編集はタイトで素晴らしい。湾岸の工場地帯を対岸から見た景色など、特に夜景の撮影が美しかった。省略の仕方の思い切りがよく、前作より無駄はなくなっていると思う。






『湾岸ミッドナイト THE MOVIE』

 車好きの高校生アキオ(中村優一)は、解体屋でスクラップにされる予定のフェアレディS30Zを見つけた。車に一目ぼれしたアキオはその車を買い取り、バイト代をはたいて修理する。しかしその車はかつて、次々と事故を起こしてドライバーの命を奪った、「悪魔のZ」と呼ばれた車だった。車を解体屋に持ち込んだのは、親友だった車の前オーナーを事故で亡くした、外科医の島(加藤和樹)だったのだ。原作は楠みちはるの同タイトル漫画。監督は室賀厚。
 一般的に、セリフやモノローグで全ての状況説明をする映画はあまり上手くない作品、と認識されると思うのだが、本作のモノローグ量ははんぱない。多分、今年見た映画の中で一番のモノローグの多さ。しかもそのモノローグの一人称が、主人公であるアキオではなく、アキオのライバルとなる島なので、主人公が蚊帳の外(島も主人公格ではあるのだが)になっているみたいな、まどろっこしさを感じた。というかモノローグで説明しなきゃいけないほど複雑な背景はないんだよな・・・。なくても成立するものをなぜわざわざ入れるのか。
 このモノローグ、本作画TVドラマだったらまだ気にならなかったかもしれない。俳優の演技のつたなさといい、カーアクションのぱっとしなさといい、映画には不向きな企画だったのではないだろうか。全12話くらいの深夜TVドラマのようなフォーマットにした方が、収まりがよかったんじゃないかと思う。本作はなぜかオールアフレコなのだが、それも特撮系ドラマっぽさを増長している。全般的に、映画というフォーマットであることをあまり意識していないように見える。
 本作の一番のがっかりポイントは、車映画(と思って見に行ったの・・・私がバカだった・・・)なのに車の撮られ方が魅力的ではない、多分車に対するこだわりはあんまりないんだろうなというところが透けて見えてしまうというところだ。もちろん予算の問題があるから、『頭文字D』レベルのことをやれ!とまでは言わない(やってほしいけど)。でも走り屋メインの話なんだからもうちょっと車が走るところをちゃんと見せて欲しいのだ。運転しているドライバーの顔ばかり映されてもなぁ。アイドル映画としてはそれでいいのかもしれないけど、だったら「湾岸ミッドナイト」である必要はないのでは。
 クライマックスのカーアクションも、いやデスプルーフじゃないんだから・・・と突っ込みたくなるようなもので作品世界からなんとなく浮いていた(本作の場合、重点は「走り」でいわゆる派手なカーチェイスとはちょっと違うと思うので)だし、走行距離と時間とがちぐはぐだし、色々と残念。また、映画全体としては尺が長すぎで間が持たなくなっていた。






『リミッツ・オブ・コントロール』

 空港で黒スーツの男から依頼を受けた殺し屋(イザック・バンコレ)はスペインへ向かう。指示された場所で新たなメッセンジャーと会い、新たなメッセージを受け取り、次の場所へ。彼の任務は「自分が最も偉大だと思っている男を殺す」こと。彼はどこへ辿り着くのか。ジム・ジャームッシュ監督の新作。ジャームッシュ作品は常に音楽と深く結びついているが、今回音楽を担当したのは日本のバンド・ボリス。じわじわと音が染みてきてすごくよかった。なお、タイトルはバロウズからの引用、映画冒頭の言葉はランボーからの引用。タイトルの方は内容にはそんなに関係ないと思うが、ランボーの詩の一篇は象徴的。
 あらすじだけ書いてみるとサスペンス映画、犯罪映画のようだし、予告編もサスペンス要素を強調しているが、実際は大分趣きが異なる。殺し屋への依頼の背景に何があるのか、ターゲットが何者なのかということは最後まで明かされない。また、思わぬところでえらい飛躍の仕方をする。リアル寄りに見ているとぽかんとするかもしれない。
 本作、見ている間、特に前半が非常に眠かった。映画館の座席が快適だったということを差し引いても眠くなる。しかし、映画が退屈というわけではなく、なんとも心地いい眠気に襲われた。本作、もしかすると意図的に眠くなるように作られているのかもしれない。映画全体が一定のスピードに保たれており、電車に乗っているときのような気持ちよさがある。クリストファー・ドイルによる撮影は非常に滑らか。編集でも、あえて劇的な展開はさけるようにしているように思った。
 本作の構造は、深層へ沈んでいくようなものに思える。これが、眠りに入っていく段階になんとなく似ている。移動し、一定の手順に従って会話を交わしまた移動する。エスプレッソはいつも2杯(ただし、一度言葉を交わしたメッセンジャーと会うことはもうない。一過性のはかなさも感じた)。この動作の流れが一つの儀式となり、儀式を繰り返すことでより深い層へもぐっていく、そして最下層に標的がいる、というように思える。彼の旅は精神の奥へ沈むことであり、だから孤独であるし、「想像する」ことが武器になる、とも言える。最後、殺し屋はスーツを着替える。着替えることによって彼は「あちら側」での身分を捨て去りこの世に戻ってくる。「あちら側」へ行くという意味では『デッドマン』を思い起こしたが、本作ではちゃんと戻ってくるところがいい。
 ちなみにビル・マーレーのアジトは、ジョン・ストラマーが所有していたもの。ジャームッシュとストラマーは友人だったらしい。また、殺し屋が空港から出てきて最初にチェックインするホテルは、やはりジャームッシュの友人のものだそうだ。







『男の首 黄色い犬』

ジョルジュ・シムノン著、宮崎嶺雄訳
メグレ警部シリーズ2編を収録。「男の首」は殺人容疑者の冤罪を疑うメグレが、容疑者を泳がし真相を探る。「黄色い犬」は、連続殺人事件もの。ミステリ小説ではあるのだが、「推理」小説かと言われると微妙。伏線なしにいきなり真相に突入するような急展開を見せるので、推理しながら読みたい人には不向きなんじゃないかと思う。そのかわりでもないが、雰囲気作りはうまい。常にどんよりとした空の下にいるような、殺伐とした不穏さがある。フランスのミステリは、プロットがすごいというよりも、文章そのものに魅力があるとか、雰囲気がいいというようなものが多いように思う。





『DV2』

 「ワイズマンを見る/アメリカを観る」にて鑑賞。2003年の作品。タイトルを見れば一目瞭然だが「DV ドメスティック・バイオレンス」の姉妹編にあたる。前作はDV被害者にカメラを向けていたが、本作では法廷を舞台に、加害者へカメラを向けている。
 本作、どちらが加害者なのかすぐにはわからないようにしている部分もある。見る側の固定観念をくずそう、といったら言い過ぎかもしれないが、不意打ちかけてくるのだ。冒頭の若いカップルなど典型的。DVの法的取締りが厳しくなり、ちょっとしたことでも「一応法律なんで」と逮捕されてしまうらしい。
 法廷が舞台である為、被告である加害者の他にも、原告である被害者(状況によってはモニター越しの出席だったりする)や証人、弁護士、検事、そして判事など、立場が異なる人たちが一同に会する。そのせいか、深刻な状況であるものの、コメディのような展開が見られる。もちろん当事者同士は大真面目なのだが、視点の異なる人が介入することで、2人の関係に対する突っ込み視点が生まれるのだ。証人も巻き込んで非常に白熱したりするのだが、関係ない人(判事とか)から見ると「どっちもどっちだよ!」というケースもある。特に前半、女性判事が担当している案件はそんなものばかりで、判事の表情や話し方がどんどん面倒くさそうになってくるのがおかしい。本当に「いい大人がなんですか!」と判事が怒るのだ。他の作品を見ても思ったのだが、ワイズマンは結構笑いが好きな人なんじゃないかなと思った。ここは絶対に笑いを誘うように編集しているよなというところが多々ある。
 本作ではおそらく意図的に、 作品後半、場所が変わり判事が男性になると、急激にシリアス度が高まる。ここに来る人たちのケースは、前半よりももうちょっと深刻だ。おそらく被告側が一度何らかの措置(原告に対して所定圏内に近づくのを禁ずるとか)が取られているのだが、それに違反した、また、裁判中だが原告者側が出廷してこない(被告が原告を脅した可能性がある)等。両者が出廷しているケースでも、原告が被告を怖がっているのが目に見えて分かる。また原告側が力尽きて諦めてしまうこともあって、見ていて息が詰まりそうになる。また、被告側の弁解が「それ絶対嘘だろ!」と言いたくなる様な調子のいいものなのも腹が立つ。
 原告側が、被告側の言葉に対して有効な反論の手段を持っていないように見えるのが印象に残った。パワーバランスがすごく偏っていて、それを正す為の裁判なのだろうが、あーこのカップルはまた元に戻っちゃうだろうな・・・という雰囲気のものもあり、どんよりとした気分になる。






『越境』

コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳
国境三部作の2作目。なぜか最後に読むことになってしまった。農場の息子ビリーはとらえた狼を逃がしてやろうと、メキシコとの国境を越えるが。マッカシーにとってメキシコは、アメリカよりもより自然に近く、人間の力が及ばない「あちら側」の世界の象徴なのか。ビリーは「あちら側」へ行ったのちに自分の世界に戻ってくるが、そこにはすでに自分の居場所はない。境界を越えることで、自ら悲劇を引き寄せてしまうのだ。狼を逃がそうと思ったことも、メキシコでの行動も、なぜそうしたのかビリーは説明することができない。何かに突き動かされるように、悲劇へつながる道を選択してしまうというところは、他2作の主人公と同様だ。その「何か」が自然の力に根ざしたものであるというところも。運命論的でもある。文章が淡々としていて流れるようであることが、悲劇の不可避さを一層強めていた。






『DV ドメスティック・バイオレンス』

 「ワイズマンを見る/アメリカを観る」特集上映にて。2001年の作品。アメリカ、フロリダ州最大のDV被害者保護施設「スプリング」に入居する人々にカメラを向けたドキュメンタリー作品。スプリングは年間1650人(2001年当時)ものDV被害者と子供を受け入れている。被害者は女性とは限らず、男性が保護を求めるケースもあるそうだ(本作内では男性の入居者は出てこないが)。
 DVというと、「夫が妻を殴る」というイメージがまず浮かぶだろう。本作でも、冒頭に映されるのはまさにその典型のようなカップル。現場にかけつけた警察官の対応が非常に落ち着いていて、こういったケースが珍しくない様子が窺えて却って怖かった。しかしスプリングに来る女性たちの話からは、肉体的な暴力だけでなく、言葉による暴力、経済的な制約も多いことがわかってくる。加害者はパートナーとは限らず、兄弟や親戚、子供の場合も少なくない。ひとくくりにDVといっても、多種多様だ。
 DVを受けていた人の言葉に共通して窺えるのは、自分が置かれていた環境、つまり(肉体面・精神面での)暴力をやパートナーからの過剰な束縛を辛いとは思っても不自然だとは思っていなかったということだ。相手の力の及ばないところで生活して始めて、自分がパートナーに隷属しているわけではない、独立した人間だということに気付けるのだ。相手の磁場内にいるとコントロールされてしまう感じなのか。
 加害者側が、暴力をふるった後やさしくなる、自分が理性的に見える方向へ会話を誘導等、被害者側が加害者側を見限りにくい、反論しにくいような関係にあるというのも共通していた。DV被害者が加害者からなかなか逃げ出さない(高齢になるまでDVを受け続けているケースも)し妙に相手をかばうようなことを言うのが最初もどかしく思えるのだが、なぜ逃げ出さないのかが徐々に見えてくる。また、お金や物品の管理を一切加害者側が行っており、経済的・物理的にも逃げ出せない(日常の買い物すら勝手に出来ないし車を使うこともできない)というケースも少なくない。もちろん子供の有無も大きいだろう。そして最も大きな要因としては、独立した人間となることは支配されていることよりも怖い(経済的な面も含め)という感情がある。
 DVの根底にあるのがセックスの問題ではなく、支配/被支配という力関係の問題であるという言葉に納得した。最後に映し出されるあるカップルと警官のかみあわないやりとりも、DVの一環になりうることがわかるのだ。もちろんワイズマンは観客がこの言葉に納得できるように綿密に編集しているのだろうが、核心をついていると思う。






『高校』

 「ワイズマンを見る/アメリカを観る」特集上映にて。1968年の作品。当時の、おそらくごく一般的な(多分、中の上くらいのレベル)高校における日常を追った作品。『チチカット・フォーリーズ』よりも編集が大分スムーズになっている。スムーズというよりも、観客に対するサービス精神が旺盛になっているというか、見やすい。あるシークエンスで「~がAで~」という言葉が出てくると、場面転換された次のシークエンスは「Aは~」という言葉から始まる、というように、観客の意識をすっとひっぱっていくつなぎ方が多く見られた様に思う。
 ワイズマンの意図が反映されているにしろ、当時の高校教育の一端を垣間見ることが出来る資料としても貴重だと思う。男子が参加する調理実習(多分、必修ではなくクラブ活動的な選択科目なのでは)や、女子の為のファッションショーみたいな授業があったり(ぽっちゃり体型の子が披露するファッションを「体型をカバーするドレスでステキ!」と評するあたりの建前感が非常に「学校」ぽい)、など、かなり意外な授業も。卒業パーティーにミニスカートのドレス着用ではTPOに反するという指導がわざわざされていたり、進路指導がかなり丁寧で、両親の経済力まで含めて進学先プランを練っていたりするところは面白い。この当時からモンスターペアレンツぽい保護者がいたんだなぁとか。また、時代背景も色濃く反映されていて、擬似宇宙船生活みたいなプロジェクトをやっていたり、ベトナムから帰還した卒業生が教師を訪ねてきたりと(もちろん帰還できなかった卒業生もいるわけだ)興味深かった。
 当時の高校生活を見るうち、高校教育そのものというより、その高校教育の背景にある思想、どういう生活が模範的とされていたかというものが見えてくる。特に興味深かったのが、性教育から見えてくる当時の「かくあるべき」男女観。結婚して子供を作ることが大前提、婚前交渉はもってのほかというのがありありと見られる。「女性は大体1回のセックスで妊娠します」と教えていて吹いた。どんな情報操作だそれは・・・。性を抑制する為の性教育(称揚されても困るが)なのだ。男性教師(多分医者が出向しているのでは)が男子生徒の前で下ネタばんばん披露し、どっかんどっかんウケているあたりには時代を超えた何かを感じたが。
 とりあげられている高校は、わりとリベラル(黒人、ヒスパニック系の生徒も特別枠的な扱いなのだろうが入学を許可している)寄りではあるのだろうが、ライフスタイルに対してはまだまだ「古き良きアメリカ」という感じの教育がされている。ここからの道のりは遥か遠い。






『チチカット・フォーリーズ』

 「ワイズマンを見る/アメリカを観る」特集上映にて。アメリカの現代社会を撮り続けて来たドキュメンタリー作家、フレデリック・ワイズマンによる作品。1967年製作だが、合衆国裁判所で一般上映が禁止され、1991年にようやく許可された。精神異常犯罪者を収容する州立刑務所マサチューセッツ矯正院の内部を撮影した作品となる。
 ワイズマンの作品を見るのは始めてなのだが、撮影対象への視線が非常に冷静だと思う。ドキュメンタリー作家には、対象に近寄っていくタイプと距離をおくタイプがいると思うのだが、ワイズマンは明らかに後者。撮影対象をおもしろがっている(バカにしているという意味ではなく、興味を持っているという意味)が、共感は感じられない。しばしば「現代社会の観察者」と言われるのは、この視線のありかたを指しているというのはよくわかる。
 精神異常犯罪者を収容した刑務所、というと、カメラは主に収容者に向けられると思いがちだが、刑務所に勤務している職員や医師、カウンセラー、ソーシャルワーカーらにもカメラは向けられる。そしてむしろ、収容者以外の人たちの方が面白い。多分、ワイズマンもそう思って撮っている、と言うよりも面白いと思ったから、面白く見えるように恣意的に編集しているのだと思う。特に刑務所所長にかんしてはそのくらいキャラがたっていておかしい。
 冒頭、所内のパーティーで披露されたらしい収容者と職員(多分)によるレビューが映し出されるのだが、見ているうちに、どうも所長がミュージカル、レビュー好きらしい、本人も歌が結構うまくて頻繁に披露しているらしいというのがわかってくる。そしてお前か!お前がやりたかったんかー!という突っ込みをさそわずにはいられないオチ。ワイズマンは絶対、そういうツッコミをさそうように編集しているので、ある意味悪意があるよなと思った。






 

『グッド・バッド・ウィアード』

 1930年代、満州。泥棒のユン・テグ(ソン・ガンホ)は大陸横断鉄道に乗っていた日本人から、謎の地図を奪う。同時にパク・チャンイ(イ・ビョンホン)率いるギャング団がその鉄道を襲撃。実はチャンイも地図を狙っていたのだ。そこへ賞金稼ぎのパク・ドゥォン(チョン・ウソン)もチャンイ捕獲を狙って戦いに加わってきた。更に、地図の奪還すべく日本軍が動き出す。
 監督は『甘い生活』のキム・ジウン。韓国製西部劇、マカロニウエスタンならぬキムチ(いや炭水化物ということでトッポギかチヂミか?)ウエスタンを目指して作ったのだろう。冒頭の鉄道襲撃やクライマックスのジープやらバイクやらも巻き込んでの大騎馬戦は見ごたえがある。落馬して馬に踏みつけられるところまでちゃんとやっている騎馬戦を久しぶりに見た。予告編ではスター俳優3人の顔合わせにスポットがあたっていたが、むしろ集団アクションを売りにした方がよかった(というか映画の趣旨と合っている)んじゃないだろうか。このご時勢に、荒野に鉄道敷いてセット作って乗馬スタントをやる、しかも大勢で、というやる気をかいたい。映画の出来はともかく、日本映画にないものが確かにあるとは思う。
 満州が舞台ではあるが、監督はこの時代に特に思いいれがあるわけではなさそうだ。キナ臭さは漂うものの、日本軍の描き方もあっさりとしていて、これだったら別に満州じゃなくてもいいんじゃないだろうかという程度のもの。時代考証もおそらく厳密ではないだろう。どちらかというと、ウエスタンファンタジーとして見たほうがいい。やりたかったのはあくまで西部劇っぽい何かであって、満州を舞台とした映画ではないのだろう。
 満州という設定に限らず、これはなくてもいいんじゃないかという設定が多く、整理されていない印象を受けた。宝の地図の存在感が薄いのもその一つ。日本軍を物語上に引っ張り出すという目的はあったのだろうが、少なくとも主人公3人の間では、途中から地図が不要になってしまっている(そもそもドゥオンは当初、地図の存在も知らなかった)。また、各キャラクター、チームの立ち位置が不明瞭で、相対関係がわかりにくい。西部劇のように、チンピラ、保安官、ギャング、アパッチ族みたいな感じにしたかったのだろうが、それぞれの方向性がはっきりしないので、「で、この人たち何やってたんだっけ?」ということに。もうちょっと時間的にもコンパクトにまとめて欲しかった。あと30分短かったら好感度がもっと上がっただろうなと思う。
 主演3人の中では、ユン・テグを演じるソン・ガンホが演技力でもキャラクター的にもおいしいところを総取りしている。ただ、ユン・テグというキャラクターを作ってしまったことで映画が冗長になっているのも否めない。これ、素直にイケメン同士のガチンコ勝負にしちゃってよかったんじゃないかなー。・・・別に私がソン・ガンホの顔があまり好きではないとか、小芝居がすぎて鼻につくとかそんなんじゃないですよ、ええ。なお、チョン・ウソンの騎乗ガンアクションはさまになっていて大変かっこよかった。結構なスピードで走っているのに、普通に乗りこなしている感じが出ているところがえらい。







『患者の眼 シャーロック・ホームズ誕生秘史Ⅰ』

デイヴィッド・ピリー著、日暮雅道訳
まだ医者だった若きコナン・ドイルと、その師匠であるベル博士が怪事件に挑む。ホームズのモデルはベル博士で、ドイルが実際に直面した事件が小説のネタになっている、という設定のホームズパスティーシュ小説。パスティーシュとしてはかなり手が込んでいると思う。元本のホームズシリーズから、これはあの短編、これはあの短編からだなとわかるようなネタがふんだんに盛り込んでいておなかいっぱいになる。また、ホームズは実際に身近にいたら面倒くさいし勘にさわる奴だと思うのだが、ドイルがベル博士のことを当初は「正直いって苦手・・・」と思っているあたり、くすぐりがこまかい。ホームズシリーズを読破していることが読者の条件になってしまうが、未読の人はわざわざ本作を手にとらないだろうから、問題ないか。ただ、構成に難あり。既に作家となり、ある問題に直面したドイルが過去を回想するという構成なのだが、回想内の時間が結構頻繁に飛ぶので混乱する。また、最初からシリーズものにするつもりだったらしく、本作内では回収されない伏線らしきものや思わせぶりな記述が多く、イライラする。だって続きが翻訳されるほど面白い(売れた)とは思えないんだもん・・・。







『武器よさらば(上、下)』

アーネスト・ヘミングウェイ著、谷口陸男訳
岩波文庫版で読んだ。第一次大戦のイタリア戦線に出向中のアメリカ人中尉・ヘンリーは、イギリス人看護師バークレイと恋に落ちる。もっと「戦争小説」的に深刻なのかと思っていたら、そうでもない。戦時下なので戦場の描写はもちろん出てくるのだが、文体が簡潔かつドライだからかさほど陰惨な感じではない。むしろ、青春小説と見たほうがいいのだろう。社会的には深刻な状況なのに、男性も女性も現実を回避するかのようにどこかふわふわしているし、悲壮感も薄い。戦時下だろうが何だろうが若者は若者なのだ。アメリカ人とイギリス人のカップルなので、イタリアの戦況は他人事になってしまうのかもしれないが。もっとも、アメリカの新聞は読むと落ち込むので読みたくないという件も出てくる。状況がきつすぎる反動で軽い振る舞いになっているともとれるか・・・そこはかとなくなげやりな感じも。そのせいか、ラストからすると悲恋のはずなのにあんまり悲恋に見えないんだよなー。ヘミングウェイ作品はどちらかというと短編の方がいいかなと思う。






『おやすみ、こわい夢を見ないように』

角田光代著
日常に潜む、薄暗さ、不穏さを描くとやたらとうまい角田光代。著者が描く人間の負の部分は、強烈に悪!とか暗黒!というのではなく、うっすらと暗いので、ともすると見落としてしまいそうになるようなものだと思う。そこをいちいち拾っていく著者の気力はすごいなとつくづく思う。本作は連作短編集。どの話にも、同じような特徴をもった若い女性が(主人公ではなく背景として)出てくる。この女性が、主人公の澱んだ感情を自覚させるのだ。全編に不吉な雰囲気が漂うが、良くも悪くも日常の強固さみたいなものも感じた。ともあれ日常は続けようと思えば続く、ということか。






『ドラママチ』

角田光代著
マチは「待ち」であり「街」である。つまらない人生を変えてくれる何かを待ち続ける女性たちを描く、短編小説集。舞台がどれも中央線沿線の街で、商店街やお店など、実在のものが名前は伏せてあるもののかなり具体的に出てくる。この店知ってる!と特定できると地元民としてはちょっとうれしい。しかしそれ以上に、何物にもなれない人生を送ることへの焦りと諦めが身にしみすぎる。角田小説は、やっぱり怖いなぁ。共感したくない部分で絶対共感するようにできてるんだよなぁ(笑)。つまらない人生にも美しい瞬間があり、それを糧にして生きる、もしくはこれが自分の人生と受け入れる契機になるのかもしれないという部分も描いてはおり、まったく出口が見えないというわけではない。しかしそういう瞬間を糧にするしかない、ということでもあるので、それはそれで結構きつい。








『新選 山のパンセ 串田孫一自選』

串田孫一著
登山を愛した著者が、山について書いた随筆をまとめたシリーズ「山のパンセ」より、自ら選んだベスト版。著者の随筆は10代のころに好んで読んでいたのだが、今改めて読むと、結構辛辣、気難し気なので意外だった。愛する山のことに触れた作品だからなのか、若かったからなのか。この1冊だけ読むと結構嫌な人なんじゃないかと思ってしまう(笑)。他のジャンルに触れた随筆の方がおおらかな気がした。もっとも、文章の端正さはさすが。読んでいて気持ちいい。





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