3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ある決闘 セントヘレナの掟』

 1886年、テキサス・レンジャーのデビッド(リアム・ヘムズワース)はメキシコとの国境を流れるリオ・グランデ川に数十体の死体が流れ着いているという事件の真相を調べる為、川の上流の町マウント・ハーモンへ、妻マリソル(アリシー・ブラガ)を伴い潜入する。その町は、「宣教師」と呼ばれるエイブラハム(ウッディ・ハレルソン)が支配していた。監督はキーラン・ダーシー=スミス。
 西部劇は西部劇でも派手さ、勇壮さとは縁遠く、渋く血なまぐさく泥臭い。デビッドとエイブラハムにはある因縁があるが、その闘いと決着は地を這うものであり、決して爽快なものではない。デビッドはレンジャーとしての仕事上の倫理や正義はもちろん持っているが、自分が「正義の味方」だという態度はとらない。彼はエイブラハムが悪人だと思っており、彼のやっていることは許せないとは思っているだろう。しかし、闘いの中で人を殺す自分もまた人殺しである。目的が何であれ、人殺しは人殺しとして生きるのだという突き放した視線がある。決闘にしろ復讐にしろ、爽快感も「正義が勝つ」的なカタルシスもないのは、そのせいだろう。終盤も、単純にタフな方が生き残るという展開の抑制のきかせ方も渋い。とはいえ、自分の心遣いに助けられるような展開もあるのは、ドラマ上のお約束というものか。
 エイブラハムと出会ってからのマリソルの変化は急激すぎるようにも見える。しかし、デビッドとマリソルの間には最初から溝がある。2人は仲の良い夫婦のように見えるが、マリソルのメキシコ人としてのアイデンティティや疎外感は、デビッドには(理解しようとはしているだろうけど)今一つ迫ってくるものがないのかもしれない。マリソルのトラブルは、おそらくそこに付け入れられたものだ。混乱する彼女が見た夢の話をしようとするのを、デビッドはさえぎって勝手に結論付けてしまう。あーそういうところがダメなんだよ・・・。愛し合っているようでいて、肝心なところですれちがってしまうところがもどかしかった。ラストも、マリソルが見た夢の内容を踏まえて見るとなんとも渋い。簡単に「めでたしめでたし」にはしてくれないのだ。

真昼の決闘 [DVD]
ゲイリー・クーパー グレース・ケリー トーマス・ミッチェル ロイド・ブリッジス
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2015-07-22

赤い河 [Blu-ray]
ジョン・ウェイン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2015-03-04

『光』

 視覚障害者向けの映画音声ガイド製作を仕事にしている美佐子(水崎綾女)は、音声ガイドの試作モニターの1人だった雅哉(永瀬正敏)と知り合う。雅哉の批判は言葉はきついものの、的を得たものだった。元カメラマンの雅哉は弱視の為に仕事は引退したが、更に視力が失われていくことに苛立ちと恐怖を募らせていた。監督は河瀬直美。
 冒頭、美佐子が作る音声ガイドの最初のバージョンを聴いていると、最後の部分の文章に違和感を感じる。すると、その違和感そのものを雅哉が指摘する。これは美佐子と雅哉という、全く別個の人間同士がコミュニケーションの壁を越えていく様を描いていると同時に、映画を見るという行為を描いている作品でもあるのだ。雅哉の批判は、視覚障害者の世界を理解していない美佐子への批判であると同時に、映画を見るという行為の幅を狭めてしまう美佐子のガイド=映画解釈への批判にもなっている。美佐子のガイド作成は、どこを説明してどこを割愛するのかという、文章量の調整に四苦八苦する。ともすると彼女の主観に寄りすぎ観客にとっては窮屈なものになる。反対に簡潔すぎると十分な情報が観客に伝わらない。一番最初に出てくる彼女のガイドは、ちょっと彼女自身の主観が入りすぎだ。
 とはいえ、映画を見ること、解釈するということは、常に見る側の主観が入る。自分が望むものを映画の中に見てしまうのだ。それは美佐子も雅哉も同じで、彼らが映画の中でひっかかる部分に、それぞれが抱える屈託や問題が垣間見えてくる。
 作中映画の監督(藤竜也)に美佐子が取材するシーンがある。美佐子は映画のラストにはっきりとした希望、明るいものを見出したい、これはそういう映画ではないのかと問う。監督ははっきりとした答えは言わず、あなたが(作中映画の)主人公にそれを見出してくれるなら嬉しいとだけ言う。多分、監督はある程度はっきりとした答え、解釈を持ってはいるのだろう。ただ、映画を見る観客にそれを明示はしない。それをしないのが映画の送り手としてのつつしみであり矜持であるのではないか。映画は作った人のものであると同時に、見た人のものでもある。
 河瀬監督の作品を見るのは久しぶりだったのだが、こんなにわかりやすい映画を撮るようになったのかと驚いた。本作は音声ガイドという素材の都合上(本作自体も音声ガイド対応している)、言語化される部分が多いのでよけいにそう感じられたのかもしれない。

あん DVD スタンダード・エディション
樹木希林
ポニーキャニオン
2016-03-16

萌の朱雀 [DVD]
國村隼
バンダイビジュアル
2007-09-25

『武曲 MUKOKU』

 剣道の達人だった父親(小林薫)に幼い頃から鍛えられた矢田部研吾(綾野剛)は、剣道5段の腕前があるもののある事件以来、剣道を捨てて自堕落な生活を続けていた。ラップに夢中な高校生・羽田融(村上虹郎)は剣道部員といざこざを起こしたことがきっかけで、剣道部の師範を務める僧侶・光邑(柄本明)に剣道を教わることになる。融に才能を見出した光邑は、矢田部の元に彼を送り込む。原作は藤沢周の小説『武曲』、監督は熊切和嘉。
 熊切監督作品はなるべく見ておこうと思っているので、本作も剣道とラップってどういうつながりが・・・と思いつつ見に行ったのだが、ちょっとこれは、力作でありつつ珍作っぽい。主演2人の肉体の存在感と動きの良さで間が持っているが、脚本があまり上手く機能していないんじゃないかなという気がした。
 研吾と融、全く異なる背景を持った2人の「剣士」が対決していくという構造だが、研吾側に比較すると融側の掘り下げが浅く、融がいなくても成立しそうな話に見えてしまっている。融が死に魅せられているという設定も、それを示唆する設定や原因の説明が唐突なので、いきなり何言いだしてるんだイキってるなーもしや中2病か・・・みたいな印象になってしまう。村上自体はいい演技をしているので大分勿体ない。彼が母親と2人暮らしで親子関係は悪くないらしいという背景は少しだけ描かれているが、もうちょっと見えてもいいんじゃないかなと思った。研吾側は、父親との葛藤が物語の軸になっているだけあって、親子関係、家庭環境にかなり分量を割いて見せている。
 それにしても、父親がクズだとほんとどうしようもないな!ということに尽きる話に見えてしまった。2人の若い剣士(というか主に研吾)が強さとはどういうことか向き合っていくという部分が、自分の中で吹っ飛んで印象が薄い。研吾の父親は優れた剣士で後輩からも慕われているのだが、息子への指導はやたらと厳しく肉体的、精神的にも虐待めいているし、研吾の母親に対する態度も横暴(序盤、研吾の子供時代回想シーンで、母親が父親に声を掛ける時のびくつきかたが古典的すぎて笑ってしまった)。終盤、父親が残した手紙の内容が明らかになるが、そういうことがわかっているなら手紙なんて書いてないで他にやることあるよな!と突っ込まずにいられない。こういう弱さって本当に迷惑だよな・・・。研吾は「父殺し」をやろうとしたわけだが、それによって逆に父親の弱さ、クズさを引き継いでしまったように見えるのだ。そこから再起していく原動力みたいなものが、いまひとつ掘り下げられていなかったように思う。ちょっと俳優に頼りすぎ。

武曲 (文春文庫)
藤沢 周
文藝春秋
2015-03-10

武曲II
藤沢 周
文藝春秋
2017-06-05


『20センチュリー・ウーマン』

 1979年、サンタバーバラに住むドロシア(アネット・ベニング)は、一人で育ててきた15歳の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズユン)の教育に悩んでいた。ジェイミーの幼馴染ジュリー(エル・ファニング)と間借り人のアビー(グレタ・ガーヴィグ)に彼を助けてやってほしいと頼む。監督はマイク・ミルズ。
 世代間の価値観の違い、生きてきた時代の違い、そして時代が急速に変わっていく様をそこかしこに感じる作品だった。ジェイミーらの語りが、現在から過去であるあの頃を振り返るものだからというのも一因だが、登場人物それぞれが背負う世界の差異が、世相の変化を如実に表している。長年一人で働き子育てをしてきたドロシアは、この世代の人としては「進んでいる」かもしれないが、より若い世代であるジュリーやアビーから見ると、保守的な部分も多々ある。カーター大統領の演説に対するそれぞれの反応で、あっここに大きな溝が・・・と強烈に感じた。こういった対比の見せ方、何かに対する個々人の反応の見せ方が上手い作品でもある。
 ドロシアは息子や彼女らが生きる「今」を知り、受け入れようとはしているが、受け入れがたさも感じている。夕食会での「生理」をめぐるやりとりや、ジェイミーの朗読に対するリアクションは、自分の価値観にそれはない、とはっきり拒否するものだ。同時に、彼女は相手に対しては結構ぐいぐいいくのだが、自分に対して内面に踏み込まれることは好まない人だとわかる部分でもあった。そこは話し合わなければならない、自分のことを開示しないとならない所なんじゃないかなというシーンで、彼女はどもったり一歩引いたりと、自分の内面を見せない。
 一方、ドロシアに対して保守性を感じているであろうジュリーとアビー、そして当時としては「進んでいる」だろうアビーがジェイミーに読ませるフェミニズム関連書籍も、今の視線で見ると決して「進んでいる」とは言い切れない。進もうという意思と、まだ前世代をひきずっている部分とか混在している感じ。ジュリーとアビーがジェイミーに対して「(モテる)男らしさ」をレクチャーするが、異性に対するイメージや役割の押しつけという意味ではフェミニズムに反するのではないか。
 とはいえ、時代を越えた普遍的なものも感じる(だからこそ現代の映画として成立するんだけど)。どんなに理解がある母親でも、その「理解ある」感があからさまだったり、自分(子供)の世界に立ち入られすぎたりすると、うざったいだろう。子供のアシストを無断で他人に頼むなよ!というジェイミーの立腹はもっともだと思う。ドロシアは基本的に公明正大にやりたい人だからそういう行為をしてしまいがちなんだろうけど、ちょっとデリカシーたりないよなと。加えて、ドロシア側は自分の中に立ち入られるのを拒むので、子供としては一方的だと感じてしまうのかも。
 親子関係という面では、ドロシアとジェイミーの関係は諸々あっても基本的に良好だし信頼感はある。問題があるのは、むしろジュリーの家庭だろうなぁ・・・。自分主催のグループセラピー(ジュリーの母親はセラピスト)に娘を参加させる母親って、かなりまずいと思う。
 なお、色々な書籍が登場する作品だったが、ダイアンが読んでいた「ウサギ」ってアップダイクのこと?気になってしまった。

『その犬の歩むところ』

ボストン・テラン著、田口俊樹訳
その犬は暴風雨の夜、ひどい怪我をし道路に倒れているところを見つかった。その犬の名前はギブ。彼の身に何が起き、なぜその道路に辿りついたのか。
ギブと名付けられた犬の旅路が中心にあるが、犬は主人公であると同時に、この物語の媒介でもある。ギブに関わることで、彼を愛した、あるいは迫害した人間たちの物語も浮かび上がってくるのだ。犬は何も語らないかわりに、彼と相対する人間の姿を鏡のように映し出す。愛情に対しては愛情をまっすぐ(大体何倍もにして)返してくる犬の姿には犬好きならずとも、ぐっとくる。そのまっすぐな信頼、愛情を受けることで、時に人間たちの人間としての最良の部分が発揮されるというのにも、ぐっとくる。犬だけではなく人間たちも様々な形で深い傷を負っているが、傷と傷が共鳴しあい、お互いに回復していくのだ。911を、イラク戦争を、そしてハリケーン・カトリーナを背景にした、俯瞰による語り口は現代アメリカの神話のようでもある。

『LOGAN ローガン』

 ミュータントの大半が姿を消した2029年。不死の力を失いつつあるウルヴァリンことローガン(ヒュー・ジャックマン)は、老いて自身の力を制御できなくなりつつある“プロフェッサーX”チャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュアート)を匿い、メキシコ国境付近で暮らしながら、リムジン運転手として働いていた。ある日ローガンは、ガブリエラという女性から少女ローラ(ダフネ・キーン)をノースダコタに送り届けてほしいと頼まれる。彼女はある組織に追われていた。監督はジェームズ・マンゴールド。
 ジャックマン演じるローガン=ウルヴァリンと言えばアメコミ原作の映画『Xメン』シリーズでお馴染み、最も人気のあるヒーローだろう。しかし本作はこれまでのXメンおよびウルヴァリンのシリーズ作品とはだいぶ色合いが異なる。これまでのシリーズとは別物でありつつ一応シリーズのキャラクターや設定は踏まえている(ローガンとチャールズの関係やチャールズの能力など、Xメンシリーズを見ておいた方がよくわかるだろう)という、間口が広いのか狭いのかよくわからない作品だ。作中でコミック本としての『Xメン』が登場し、ローガン自らコミックに描かれていることは嘘だ、作り話だと言うくだりがあるので、Xメンシリーズに対するメタフィクション的な側面もあるのか。
 ローガンにしろチャールズにしろ、明確に老いを感じさせる描写が多く、この点情け容赦ない。片足を悪くし、かつてのような治癒能力も衰えた(そして老眼鏡常備・・・)ローガンはともかく、チャールズがおそらくアルツハイマーが進み、時に脈絡のないことをしゃべり始めたりする様には、Xメンシリーズを見てきた人は愕然とするのでは。チャールズは元々、非常に知的で精神的に豊かな人という造形だったので、知性や情緒が損なわれた状態を見ているとやりきれない。とは言え、本作は辛気臭いわけではなく、殺伐とした中にも妙なユーモアが入り混じったりする。「ボケ老人」感を逆手にとったチャールズのリアクションや、車に八つ当たりするローガンの姿はどこかユーモラスだ。老人と子供を連れたロードムービーの味わいもある。
 これまでの、Xメンのヒーローとしてのウルヴァリンをある程度引き継ぎつつ全否定するような作品なので、ファンがどう受け止めているのか気になった。今までのヒーローとしての「戦い」は相手を殺すことにほかならず、人を殺したらもう元には戻れないと明言してしまう。この点を強調する為か、アメコミ映画としては異色なほど(アメコミ原作のものは大抵年齢制限がつかないように配慮されているので)血肉があからさまに飛ぶ。映画『シェーン』からの引用ではあるが、この言葉は戦い続けてきたローガンだけではなく、まだ子供であるローラもこの先背負っていくということでもある。しかしローガンはローラに対し、それでもなお生きろ、自分の人生を他人に蹂躙させるなと言い切る。こういうところが、すごくアメリカの映画という感じがするなぁと思った。自分の生は自分だけのものであり、何/誰の為に闘うかも自分が決めることだ。そういう意味では、ローガンは本作で、アメリカのヒーローとしての生を全うしたと言えるだろう。少なくともローラにとっては、ローガンはウルヴァリンであり最後までヒーローだった。
 

『ミステリ国の人々』

有栖川有栖著
 ミステリ小説には様々な人々が登場する。探偵やその助手、犯人や被害者だけではない。そんな「ミステリ国の人々」52人を紹介していくブックガイド。各章に添えられた挿画も、取り上げられた作品をなるほど!という形でモチーフ化しているものが多く楽しかった。
 登場人物に焦点を当てたブックガイドは多々あるが、その登場人物がメイン登場人物とは限らないという所がユニーク。もちろん探偵・悪漢・ヒーローも多く登場するが、えっその人モブじゃなかったけ・・・?という人も。目の付け所が上手い。その登場人物のチャーミングさ(ないしは不愉快さ)を紹介すると共に、登場する作品も紹介していく。更に、そもそもミステリとはどういうジャンルなのか、ミステリにおける仕掛け・文脈とは何か、どのような歴史背景があるのかまで関連付けて解説するという、ミステリというジャンルの解説本としての側面もある。まえがきで自認しているように、著者はこういうのが上手い(笑)。決して美文・流麗というわけではないが、解析・説明の的確さ(つまり著者自身が優れたミステリの読み手であり書き手である)がある。なお、個人的にはフィリップ・マーロウではなくリュウ・アーチャーを取り上げている所に拍手したい。

『光をくれた人』

 第一次大戦から帰還したトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、オーストラリアの孤島ヤヌス・ロックに灯台守として赴任する。やがて溌剌としたイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)と結婚するが、イザベルは立て続けに流産に見舞われる。失意の中にいた2人は、ある日、男性の遺体と赤ん坊を乗せたボートが流れ着いているのを発見。イザベルは本土に連絡しようとするトムを止め、赤ん坊を2人の子供として育てようと説得する。原作はM・L・ステッドマンの小説『海を照らす光』、監督・脚本はデレク・シアンフランス。
 トムもイザベルも善良な人たちだ。しかし善人であっても、本当に追い詰められた時、憔悴している時、人は他人のことには思いが及ばないものだ。トムとイザベルが赤ん坊を発見した時、2人は同乗していた男の生死を確かめる。孤児とな赤ん坊を施設に入れるのは忍びない、今なら自分たちの子供として育てても疑問に思われないというのがイザベルの言い分だ。2人は子供のことを思って行動する。しかし同時に、この子供、また死んだ男の家族は生きているかもしれないという言葉は、2人の口からは出てこない。どこかに家族がいて、赤ん坊や男の身を案じているかもしれないという発想は、冷静な状態なら当然出てくるだろうが、この時の2人は(半ば意図的に)失念してしまう。イザベルは赤ん坊を失って深く傷ついている。トムはそんなイザベルのことを心から案じている。その傷や思いやりから、倫理的には大分問題のある行為に及んでしまうのだ。そこで倫理的な正しさを全うできるほど、2人は強くない。
 2人は大きな嘘をつくことになるが、とあることからその嘘がほころび始める。一旦そのほころびに気付いてしまうと、なまじ善人なだけに嘘は揺らぎ始める。ことにトムは、善良故にある行為をするが、その行為がある人をより苦しめることになる。嘘なら嘘で最後まで突き通せばいいのに・・・と思ってしまったが、突き通すほどの強さはトムにはないのだ。弱くて善良だから嘘をつき、やはり弱くて善良だから嘘をつきとおすことも出来ない。しかしその一方で、深く苦しんでいたはずのある人が自分のことを捨てても他者を思いやる気高さを発揮し、トムもまた、自分の人生をなげうって償いをしようとする。人間の弱さと強さははっきりと分かれているものではなく、時に入り混じり、反転し続けるのだ。
 邦題はいまいちかなと思っていたのだが、見た後は内容にちゃんと即していたとわかる。赤ん坊がトムとイザベルの人生に光を与えたという意味合いはもちろんあるのだが、むしろ、2組の夫婦がお互いの人生を照らしあう物語なのだ。片方が消えても光が照らしたものは残るということを、もう1組の(トムとイザベルではない方の)夫婦のあり方から強く感じた。この人たちもやはり弱い、しかし強いのだ。

『BLAME!』

 過去の「感染」により、人間が都市コントロール権を失い、無限に増殖し続ける階層都市。都市防衛システム「セーフガード」は、人間を不正な居住者と見なして排除するようになっていた。僅かに残った人間たちによる小さな集落が点在していたが、食料不足によって絶滅も間近と思われた。シボ(花澤香菜)は食料を探しに出た所をセーフガードに襲われるが、旅の男。霧亥(キリイ)(櫻井孝宏)に助けられる。霧亥はネット端末遺伝子を持つ人間を探し続けていた。原作は弐瓶勉の同名漫画、監督は瀬下寛之。製作はポリゴン・ピクチュアズ。
 ストーリーやキャラクター云々というよりも、ポリゴン・ピクチュアズのセルルック3DCG表現が今どういう地点にあるのか、という点で面白い作品だった。原作、監督、スタジオの組み合わせは『シドニアの騎士』と同じ。SFとしての世界設定やキャラクター造形は正直そんなに新鮮味のあるものではない。原作がかなり前に発表されたものだということもあるが、発表された当時でも、そんなに新しいっていう感じではなかったのではないかな・・・。ただ、王道と言えば王道、ベタと言えばベタなストーリーや設定が、本作の映像だと不思議と新鮮に見える。映像が「出来上がっている」というよりもまだ進化しそう、発展途上な伸びしろ感を感じさせるのも一因かもしれない(完成された商品としてそれはどうなんだという見方もあるが)。
 近年のポリゴン・ピクチュアズは、(技術面の素人から見ても)いわゆるアニメ的な「かわいい」「かっこいい」をセルルックの3DCGでやるにはどのあたりが落としどころなのか、ずっと試行錯誤し続けている気がする。『シドニアの騎士』と比較すると、本作の女性キャラクターは明らかに、セルルックの「アニメ」としてのかわいさをより獲得している。技術の進歩を目の当たりにしている感じ。また、ポリゴン・ピクチュアズ制作作品は、この原作・題材を映像化するにはどうするか、というよりも、自社が持っている技術は、どういった傾向・特質の題材・世界観で最も活かされるのか、という方向でのネタの選び方、作り方をしているように見える(実際は全然関係ないのかもしれないけど・・・)。一つのスタジオの作品を追っていく面白さを、今最も味あわせてくるスタジオではないだろうか。

『ジェーン・ドゥの解剖』

 バージニア州の田舎町。ベテラン検視官のトミー(ブライアン・コックス)が息子のオースティン(エミール・ハーシュ)と経営している遺体安置所兼火葬場に、身元不明の女性の遺体“ジェーン・トゥ”(オルウェン・ケリー)が運び込まれてきた。一家3人が惨殺された家の地下室に裸で埋まっていたというのだ。トミーとオースティンは解剖を進めるが、次々と奇妙な点を発見する。監督はアンドレ・ウーブレダル。
 ほぼワンシチュエーションの設定で、いかに緩急つけて観客を引き込むか一生懸命考えたんだろうなぁという作品。低予算映画でありつつ安っぽくならない、下品にならない為にはどうすればいいか、という工夫が随所に見受けられた。その工夫が、本作のユニークな部分になっていると思う。コンパクトで面白い作品だった。
 解剖に伴い怪奇現象が起きるが、その怪奇現象をどう見せるか、何を見せないかという部分で、予算と怖さの調節をしている。具体的な「それ」が見えなくてもちゃんと怖いあたりは演出の上手さだろう。また、怖さの部分よりも、ジェーン・ドゥは何者なのか、彼女に何があったのかという謎解き部分に興味を引かれた。トミーとオースティン親子は解剖の知識だけではなく、色々と博学かつプロ気質で、特にトミーは彼女に何があったのか何とか解明しようとする。その背景に、ある事件が存在するという設定が上手い。その事件のせいで、トミーはジェーン・ドゥに対して過剰な責任感、使命感を抱いてしまうのだ。
 ただ、その熱意や誠意の顛末の在り方は、こちらとあちらは全く別のものである、コミュニケーションは不可能と感じさせるもの。この突き放し方が、実に「呪い」っぽいなと思った。こちら側の意思は知ったこっちゃない、という存在の仕方なのだ。

『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

 看護師をしながら夜はガールズバーで働く美香(石橋静河)。工事現場の日雇い仕事をしている慎二(池松壮亮)。東京で生活しつつも馴染めずにいた2人は、美香が働いてるガールズバーで出会い、徐々に近づいていく。原作は最果タヒの同名詩集。監督・脚本は石井裕也。
 詩集を原作にした映画、それもちゃんとドラマ仕立ての映画というのはなかなかないと思うし、どういう仕上りになっているんだ?と思っていたけど、なるほどこうなるのかと納得。詩の言葉をそのままセリフやモノローグとして使うのは難易度高いと思うのだが、なかなかうまく消化されていたと思う。詩の言葉は物語の中に組み入れると往々にして強すぎるので、最初はちょっと気合入りすぎてるんじゃないのと見ていてむずむずしたが、段々慣れてきた。主人公2人の気を張っている感じ、どこか武装している感じが、言葉のインパクト、強さと合っているのだ。言葉があふれ出てきて止まらないような慎二に対し、美香は口数少なく、自分内での気持ちの内圧が高い感じ。しかし、自分の言葉を投げるべき相手がいない、言葉が通じる気がしていないという点では2人は共通している。コミュニケーションの為ではない言葉がたくさん出てくる映画なのだ。自分の中身がこぼれだすような言葉だから、たまたま相手にそれが通じた瞬間がより貴重に思える。
 石井監督の作品を見ていると、お金のなさに対する感覚が毎度冴えているなぁと思う(お金がある状態もちゃんと描けるのかもしれないけど、今まで作品内に出てきたことがない)。この仕事だとこのくらいの年収でこういう感じの生活、という部分に肌感覚の説得力がある。そこが、見ていて辛くなる(身に染みるので)ところでもあるのだが。本作の主人公2人は、若いがここよりも上に行ける、将来的にもっといい暮らしが出来るというような希望を感じていない。這い上がるということがとてもし難いし、そういう意欲を削がれるような世の中で生きているという感じが、すごくするのだ。ただ、2人とも無理に自分を大きく見せるようなことはせず(2人の周囲の人たちも同様だ)、地に足がついているともいえる。2人の関係には浮き立つような部分は少ないのだが、そのテンションのまま距離が縮まっていく感じに、むしろ希望が持てる。
 東京、主に新宿と渋谷が舞台で、街中を移動するシーンも多い。しかし、移動経路が今一つ不自然なように思った。街に対してあまり思い入れを感じない。外から来た人にとっての東京の映画なのか。


『僕とカミンスキーの旅』

 売れない美術評論家ゼバスティアン(ダニエル・ブリュール)は一山当てようと、スイスの山村で隠遁生活を送る伝説的画家マヌエル・カミンスキー(イェスパー・クリステンセン)を訪問する。カミンスキーは視力を失いつつ製作を続けたことで、1960年代に「盲目の画家」としてスターダムになったのだ。スキャンダルを掴もうと画策するゼバスティアンだが、カミンスキーに振り回されていく。監督はボルフガング・ベッカー。
 冒頭、実際の当時のニュース映像や実在のアーティストの映像を取り入れた疑似ドキュメンタリーパートの出来が良くて、そのもっともさに笑ってしまった。カミンスキーのやっていること、立ち居振る舞いが見るからに「あの時代のアーティスト」然としている。彼は才気あふれるアーティストだが、同時にいかにもアーティストぽい振る舞いによる自己演出で、より自分の伝説化を図っていたきらいもある。ゼバスティアンは彼が当時失明しつつあったというのも演技ではないかと疑い、「大ネタ」を掴もうと企んでいるのだ。
 高齢になったカミンスキーは、物忘れは激しく少々痴呆も始まっているのか、最初は偏屈なおじいちゃんといった雰囲気だ。気にするのは食事と昼寝の時間と、娘の目を盗んでの喫煙。ゼバスティアンは彼をかつての恋人に会わせて自作のネタにしようとするが、マイペースなカミンスキーに妨害されてばかり。珍道中ロードムービー的な側面を見せてくる(からっけつのはずのゼバスティアンがどんどん身銭を切らなければならないので見ていてヒヤヒヤした・・・)。
 しかし、徐々にカミンスキーが芸術、絵画やその制作について言及するようになる。芸術に人生を賭けた人としての矜持や腹のくくり方が垣間見えるのだ。そういう時に限ってゼバスティアンは彼の話をよく聞いておらず、女性関係等スキャンダラスな話題ばかり引き出そうとしているのが皮肉だ。彼が批評の対象として取り上げてきた芸術家としてのカミンスキーが目の前にいるのに、批評の本来の趣旨ではないはずの「おまけ」的話題の方にばかり目がいってしまい、見るべきものを見逃してしまう残念さ。それは、批評家ではなくスクープ屋の仕事だよ・・・。
 なお、エンドロールの名画パロディ風アニメーションがとても楽しい。本編はちょっと長すぎでダレるのだが。

『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』

 ふとしたことで超人的な腕力・体力を身につけたチンピラのエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)は、世話になっていたセルジュ(ステファノ・アンブロジ)が殺されたことがきっかけで、セルジュの娘アレッシア(イレニア・パストレッリ)の面倒を見ることになる。日本のアニメ『鋼鉄ジーグ』に夢中なアレッシアは、エンツォを鋼鉄ジーグの主人公“ヒロ”と呼び、力は皆の為に使うべきだと諭す。しかし、ギャングのジンガロ(ルカ・マリネッリ)が2人に近づく。監督はガブリエーレ・マイネッティ。
 ネタのボリュームからすると、映画の尺はもうちょっとコンパクトでもいいんじゃないかな?という気がしたが、ミニマムな「ヒーロー」ものとして面白い。まさかイタリアで『鋼鉄ジーグ』がメジャーだとは知らなかった。しかしなぜジーグ・・・。エンドロールでジーグの主題歌のイタリア語カバーが流れるが、むしろカバーの方がかっこいいし、いい歌謡曲っぽく仕上がっている。
 エンツォは超人的な力を手に入れるが、その力でやることはATM強盗。その映像がYoutubeにアップされて一躍正体不明の時の人となるというあたりは現代的だ。しかし、むしろオーソドックスな「ヒーロー誕生」物語のように思った。エンツォは自分本位な力の使い方をしていたが、アレッシアの無邪気さに触れるうちに、彼女を守ろうと思い始める。アレッシアがエンツォを目覚めさせる「装置」としてだけ存在するきらいがあるのも、一昔前のヒーローものっぽいなと思った。また、ヒーロー誕生と同時に、ヴィラン(悪役)もまた誕生する、2者がセットになっているというあたりも、やはりヒーローものっぽい。
 ヴィランであるジンガロのキャラクターが頭一つ抜けて立っている。ギャングといっても団地内ギャングで大した権力はない。しかし自己愛が強くクレイジーなので始末に負えない。こんな上司は嫌だ!ランキング上位に間違いなくエントリーされるだろう。彼が悪の道をひた走る動機が、エンツォ(とは彼は当初知らないのだが)ばかりがYoutubeで有名になって悔しい、というショボいのか何なのかわからないものなのは、現代ならではなのかもしれない。自己愛が暴走している。また、舞台がローマ郊外で、エンツォのジンガロも基本的に団地で活動しているチンピラ、経済的には結構厳しいというあたりも、実に現代的。ローマと言っても華やかさやおしゃれさ、歴史ある町のイメージとも程遠い。郊外映画(と私が勝手に呼んでいる。郊外の団地等を舞台とした映画。概ね登場人物の所得が低く町の雰囲気が荒んでいる)の一種とも言える。

『夜明け告げるルーのうた』

 かつては人魚の町としてにぎわっていたが、今はさびれた漁港・日無町。父と祖父(柄本明)と暮らす中学生のカイ(下田翔太)は、自作の音楽動画をネットに上げていることを同級生の国夫(斉藤壮馬)と遊歩(寿美菜子)に気付かれ、2人のバンドに勧誘される。2人がバンドの練習場にしている人魚島で、カイは人魚の少女ルー(谷花音)と出会う。監督は湯浅政明。
 湯浅監督にとって初のオリジナル長編作品だそうだが、予想外に直球のファンタジー、しかも陽性のものを投げてきたのでちょっと意外だった。今までの作品からすると、もっととんがっていたりダークな雰囲気のものがくるのかなという気がしたので。中学生たちの成長過程でのもやもやや屈折、その一方での単純さ、また、(年齢問わず)いなくなった親への葛藤と思慕、子供たちへの思い等、オーソドックスな要素を盛り込んでいる。
 ただ、盛り込んでいるが消化のスピードがやたらと早く、最初伏線だったのかな?と思ったものが途中で立ち消えたり、設定の整合性が微妙だったりと、ストーリーの流れはやや力技な印象がある。とは言え、ビジュアルの力はやはり協力で、多少強引なストーリーでも絵の力でねじ伏せてしまう。そのくらいアニメーションの動き自体(一枚画の美しさ、ユニークさではなく画面全体が動いている様にこそユニークさがある)にオリジナリティがあるということなので、これは監督の強みだよなとつくづく唸った。特に本作では水の表現の多様さを楽しむことが出来る。水のキューブや柱の造形など臆面もないと言えば臆面もないんだけど、こういうのが絵を描く・見る楽しさなんじゃないかなと思った。
 動画部分だけではなく、背景美術の魅力も大きい。日無町の寂れ感に味わいがあった。商店街はシャッターの締まっている店舗の方が目立つとか、人通りが(動画作業量の問題もあるんだろうけど)まばらだとか、道幅が狭めで入り組んでいるとか。カイとルーが夜の散歩をするシーンが素晴らしくて、なんだか泣けてきた。カイにとっても夜の散歩なんてそうそうやることではないから、自分の世界をルーに紹介するだけでなく、自分の世界の知らなかった一面を知る、ちょっと世界が広がるということでもある。ルーがカイを海の中に連れて行くのと対になる、見知らぬ世界と接するエピソードとして素敵だった。
 カイとルーの間に生まれるのはボーイミーツガールというよりも、未知の存在との触れ合い、別の世界をかいま見るような体験であるように思った。お互いに、別の世界を知る為の入り口として存在しているようで、それが本作の開けた雰囲気に繋がっているように思う。外海にだって、山の向こうにだってちゃんと行けるのだ。


『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

 ボストンでマンションの便利屋をしているリー(ケイシー・アフレック)は兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死を知らされる。故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ったリーは、ジョーの遺言により16歳の甥パトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人を任されるが、この町に留まることはリーにとっては苦痛だった。監督・脚本はケネス・ロナーガン。本作で第89回アカデミー賞作品賞、脚本章、主演男優賞受賞作品。
 故郷で過去の傷を癒し立ち直っていくという物語は多々あるだろう。しかし、癒えることがない傷もある。リーにとっては、少なくともまだ、故郷の街は立ち直って旅立つ場ではないのだ。回復していく部分と立ち直れなさの両方を丁寧に描いている。過去と現在、時系列が頻繁に行ったり来たりするうちに、リーと元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)の家庭に何が起きたのか、少しずつわかってくる。事態がはっきりすると、確かにこれは、この町に留まり続けろというのは酷だよなぁと納得できる。小さな町で住民同士ほぼ顔なじみみたいなものなので、彼らの身に起きたことを住民皆が知っており、忘れさせてくれないというのが非常にきつい。もちろん親身になって支えてくれる人もいるのだが、内情を知っているだけに良く思わない人もいる。田舎町の暖かさと残酷さの両方が垣間見える。
 こういう時は、とにかく時間をかけてやり過ごせるようになるのを待つか、物理的な距離を置くか、リーのように自分の人生そのものを放棄するような生活を送るしかないのかもしれない。便利屋をするリーの暮らしはこの先の目途のつかない、刹那的なものだ。理由もなく他人に喧嘩を吹っ掛ける姿は、緩慢な自殺をしているようにも見える。ジョーの遺言はそんな彼をもう一度前に進める為だったのかもしれないが、同時に残酷でもあると思う。ずっと故郷に縛り付けることにもなるのだから。しかし当時幼かったパトリックには、リーの苦しみは本当にはわからず、自分がまた捨てられるのではないかと不安に駆られる。そういうことではないのだが、すれ違いがもどかしい。
 リーとジョー、そして(幼かった頃の)パトリックの、男性同士の絆が強すぎ、妻たちはそこから疎外されいてるように見えた。リーは妻子を愛してはいるが、兄や甥、漁師仲間と一緒にいる方がはしゃいでいる。「男の子」の世界から離れられないみたいだった。リーとランディはある事件が起きなくてもいずれ夫婦関係が壊れていったのではないかと、序盤の2人のシーンを見て何となく思った。リーの配慮の足りなさがそこかしこに見られるのだ。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ