3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ラビング 愛と言う名前の二人』

 1958年、バージニア州で暮らす大工のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、恋人のミルドレッド(ルース・ネッガ)の妊娠を機に結婚を決意する。しかしバージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていた。密かにワシントンDCで結婚し地元に戻った2人だが、ある夜保安官に逮捕され、離婚するか故郷を捨て二度と戻らないかの選択を迫られる。一度は故郷を去ることに同意した2人だが、裁判の判決が不当であると申し立てる。監督・脚本はジェフ・ニコルズ。
 とても良かった。全体的に非常に抑制が効いており、見せすぎない、説明しすぎない、盛り上げすぎないという作劇に徹している。いつ、どこを舞台としているのかも、字幕等での説明はなく、登場人物のセリフと劇中で映し出される世相からなんとなくわかってくるといった塩梅。これは映画を見る側を信頼してくれているなぁ。情緒面も、ラビング夫婦がどちらかと大人しい人で感情をあからさまに出すシーンが少ないというのもあるのだが、これ見よがしな煽りがない。とても品のいい演出だと思う。
 結婚は違法とされたラビング夫婦に対する処遇は、今見ると明らかに不当だ。しかし、当時のバージニアでは異人種間の結婚は違法であり、その結婚は倫理的にも間違っている、異人種間の子供を増やすことも罪だと考えられていた。リチャードもミルドレッドも、自分達の結婚、自分達が愛し合っていることが間違っているとされることは、おかしいと声をあげる。リチャードは黒人の友人に、なぜ同棲では駄目なんだと問われる。また、DCでひっそりと暮らすという道もあるだろう。しかし、おかしいと思ったことにはおかしいと誰かが声を上げないと、世の中は変わらない。ラビング夫妻は元々、人権運動や政治活動をしていたわけではなく、裁判のやり方にも疎かった。それでも、自分達が愛し合っていることが間違っているとはどうしても思えない、その結果生まれた子供達が間違った存在のはずはないという一心で、10年間裁判で戦い続ける。作中ではあからさまには描かれないものの、2人に危害を加えようとする人たちも少なくない。そういう状態で10年間耐えるというのは、お互いによっぽど信頼感がないと乗りきれなかっただろう。
 2人ともそんなに口数は多くないが、ミルドレッドの方が時に思い切った行動を起こし、リチャードはそれについていく。リチャードは、当時の白人男性としては割と例外的な人だったのではないかと思うが、人種差別意識は希薄だし、女性に対する態度も強権的ではない。彼は妻のすること全てを理解しているわけではない(当時のアメリカで黒人であるというのがどういうことかは、黒人のコミュニティの中にいたとしても、やはり本当にはわからないのだと思う)が、彼女のことを尊重し、肯定し続ける。彼にとっての「絶対守る」という行為がどういうものだったのか、本作全編を使って描かれているようにも思った。

『フランシスカ』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」にて鑑賞。マヌエル・ド・オリヴェイラ監督、1981年の作品。1850年代のポルト。小説家のカミーロと友人のジョゼは、フランシスカと呼ばれるイギリス人の娘ファニーに惹かれる。ファニーはジョゼと結婚するが、3人の関係は悲劇的な結末を迎える。原作はアグスティ・ベッサ=ルイスの小説『ファニー・オーウェン』。実際にあった話を元にしているそうだ。
 カミーロとジョゼが、あるいはフランシスカとジョゼ、また他の人たちが対話するシーンはいくつもあるが、双方の意思疎通の為の会話という気がなぜかしない。特にカミーロとジョゼはお互いばらばらの方向を見て、会話の内容も噛み合っているのか噛み合っていないのかという印象の方が強い。それぞれがそれぞれの思いを口にはするものの、それは届くべき人のところに届かない。お互いの間には高い壁のようなものがあり、思いが通じ合うことを阻んでいるかのようだ。劇中時間を止めるような、そこだけ空間が切り取られた独白シーンが印象に残るのも、その独白があまりに孤独で、誰にも届かなさそうだからかもしれない。
 カミーロは小説家という職業柄か、ジョゼのこともファニーのことも俯瞰して自分が彼らをコントロールしている気でいる。彼はジョゼにもファニーにも情熱がなく、結婚生活は上手くいかないだろうと踏んでダメ出しばかり。ジョゼはカミーロに反発しつつ、ファニーを自分のものにしたくなる。ファニーはジョゼを愛するが、徐々にジョゼの全てを支配したくなる。お互いの支配欲と「マウント取りたい」感がえぐく迫ってくる。特にカミーロの神の采配気取りには笑ってしまう。ファニーに選ばれなかったことのあてつけでもあるのだろうが、自分はあの2人よりも優れている、と本気で思っている風なところが何様だ感を強めるのだ。
 しかし不思議なことに、ファニーを巡る三角関係であるのに、ファニーの存在感が薄い。彼女の意思表示が弱いというよりも、カミーロとジョゼの2人の張り合いのトロフィーとしてファニーが位置づけられており、2人にとって、独立した人間としての彼女はさほど重要ではないのではと思えてくるからだ。いわゆる恋愛上の三角関係とは一線を画しているように思った。根深い愛憎があるのはカミーロとジョゼの間で、お互い嫌だ嫌だと言いつつ縁は切らない。とは言え、ファニーも当然人格を持った個人なので、その行動はカミーロやジョゼの思惑からは外れていく。そのことにカミーロもジョゼも思い当たらなかったことが、悲劇の発端だったように思う。

『音の糸』

堀江敏幸著
音楽、楽曲そのものだけでなく物としてのレコードやその音楽を聴いた状況、場所等、様々な音楽にまつわる記憶を綴る随筆集。掲載誌が『クラシックプレミアム』なので、当然クラシックの楽曲が中心なのだが、著者の聞き手としての傾向や振れ幅が窺える。音楽をテーマにした随筆だが、不思議と楽曲そのものよりも、それを取り巻く諸々の、直接楽曲とは関係ない部分の描写の方が多い。そして、楽曲そのものを表現する言葉よりも、それを聴いた状況やそこから芋弦状に思いだした物事の描写の方が、不思議とどういう音楽か、どういう演奏だったのかということを感じさせるのだ。音の記憶に色々なものが紐づけられている。だから題名が『音の糸』なんだろうな。

『彼らが本気で編む時は、』

 11歳の少女トモ(柿原りんか)は母親ヒロミ(ミムラ)と2人暮らしだったが、ある日母親がふらりといなくなってしまう。トモは叔父マキオ(桐谷健太)の元を訪ねるが、彼は恋人のリンコ(生田斗真)と同居していた。元男性であるリンコにトモは戸惑いを隠せないが、2人の元に身を寄せ同居生活が始まった。監督は荻上直子。
 真摯に作られた作品なんだろうなとは思う。特に、子供はどういう母親であっても母親を求めてしまうというところや、子供にとってどんな親の元に生まれてくるか、周囲にどんな大人がいるかということは、博打みたいなもので自分ではどうしようもないということのやるせなさは、主人公の少女だけではなくその同級生の少年の母子関係からも、よく伝わってくる。特に少年の母親は全部よかれと思ってやっているだけに、本当にやりきれない気分になる。
 ただ、いいなと思った部分の量を、ひっかかった部分の量が越えてしまった。まず、リンコの造形には、これでいいのかなとずっと疑問が付きまとった。リンコはトランスジェンダーの女性だが、そこが特別であるように描かれず、仕事は介護施設職員で同僚とも円満に付き合っており、フラットな描写なところはいい。ただ、いわゆる「女性らしい」と呼ばれる要素、社会的に女性に要求されがちな要素が盛られ過ぎているように思った。リンコは料理を筆頭に家事全般が得意で、服装はふわっとしたフェミニンなもの、いわゆる「かわいい」小物が好きで優しく穏やかな性格。介護という職業も、どちらかというと女性のものと捉えられがちだし実際現場は女性が多い。自認している性別が女性であるということと、社会が女性に要求するものを引き受けようとすることは別物だと思うのだが、映画を作っている側がそのあたりに無自覚で、とにかく「女性らしさ」を強調しよう!というキャラクター造形になっているように思った。こういうのって、逆に性別の幅を狭めるようなことになっている気がするのだが・・・。リンコ個人が(性別はどうあれ)かわいいものや料理が好きな人、というのはわかるのだが、そこを「女性らしさ」と安易に結び付けてないかなと。こういう部分が、シンプルに「かわいいものが好きな人」「手芸が好きな人」「料理が好きな人」と性別と関係なく見られるようになるといいんだろうけどなぁ。
 また、リンコが編み物をする理由も、ちょっとひっかかった。彼女は腹の立つことややりきれないことがあると、それを編み物にぶつける。処世術としては有効なのだがろうが、そこは率直に怒っていいんじゃないの?とも思う。怒りを表明しても役に立たないと悟った上での編み物ならば、ちょっと辛すぎる。それを子供に勧めるというのも辛い。そりゃあ何でもかんでもいちいち腹立てていたらやってられないだろうけど、本当におかしいと思ったことは、おかしいと指摘していいのだ、傷つけられたり不当に扱われたら怒っていいのだと、まず教えておかないといけないんじゃないのと。全部飲み込む必要なんてないと思う。

『お嬢さん』

 1930年代、日本統治下の朝鮮。詐欺師たちに育てられた少女スッキ(キム・テリ)は藤原伯爵と自称する詐欺師(ハ・ジョンウ)に、メイドの珠子としてある屋敷に連れて行かれる。その屋敷に暮らすのは日本文化に傾倒し稀覯本を収集している上月(チョ・ジヌン)と、その姪で莫大な財産の相続権を持つ秀子(キム・ミニ)。上月はいずれ秀子と結婚して財産を手に入れることをもくろんでおり、秀子を屋敷に閉じ込めていた。藤原伯爵は秀子を誘惑、結婚してから精神病院に入れて財産を奪い取ろうと計画しており、秀子を懐柔する手駒としてスッキを送り込んだのだ。秀子は徐々にスッキに心を開くようになり、スッキもまた秀子に惹かれていく。原作はサラ・ウォーターズの『茨の城』、監督はパク・チャヌク。
 原作はイギリスの話なので、舞台の置き換えの大胆さにまずびっくり。日本統治下の朝鮮にすることで、支配・被支配関係が更に重層的、かつ錯綜した構造になっている。スッキたち朝鮮人は秀子ら日本人に支配されており、日本人に対する感情があまり良くないものであることが冒頭で示唆される。一方で朝鮮人だが日本人と結婚した上月は日本文化に傾倒し、日本人と自身とを同一化してきた。その上で日本人女性である秀子を支配しセクシャルな「朗読」を強いる。自分を支配している階層の女性を自分の情欲の為に使役するという倒錯的な構図を楽しんでいるのだろう。
 その階層や性別による上下関係を、女性達は軽々と飛び越える。この女性の共闘と遁走があることが、原作との大きな違いではないかと思う。彼女たちが、既存の欲望の形、自分達が欲望され消費される欲望のあり方から抜け出し、自分自身の欲望のあり方を掴んでいく。秀子が藤原に対して啖呵を切るあるシーンは、それを端的に表していたと思う。
 とは言え、ここで描かれる女性たちの姿に自由さを感じたかというと、少々微妙だ。本作での女性同士の愛情・性愛の描かれ方は、やはり女性達に欲望を向ける男性の視線によるもののように思う(監督がヘテロの男性である以上仕方ないのかもしれないが)。セックスシーンなど、何だかだらだらと長くて退屈だしレズビアンもののポルノのパロディみたいで、少々興ざめ。撮っている側ばかりが楽しくなっているような気がした。
 衣装にしろセットにしろ、美術面が豪華で素晴らしかった。これだけお金かけてこういう映画を作れるなんて、韓国の映画界の懐の深さを見た感がある。

『制裁』

アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム著、ヘレンハルメ美穂訳
少女連続殺人犯が、移送中に逃走した。市警のベテラン刑事であるグレーンス警部率いるチームは懸命に犯人を追う。一方、作家のフレドリックは少女連続殺人犯逃亡のニュースをテレビで見て、衝撃を受ける。その男は、娘を保育園に送っていった時に見かけた人物だった。
著者の1人であるルースルンドは、昨年日本で『熊と踊れ』(ステファン・トゥンベリとの共著)が発行され評判になった作家。本作の方が前々から書いているシリーズのようだ。本作がデビュー作だそうだが、最初から足腰しっかりとしている。プロローグからして嫌な事件の臭いがぷんぷんとするし、予想通り陰惨な事件なのだが、その結末の更に後があるというところがユニーク。普通だったらここで終了というところから、物語の焦点が移動する。題名の「制裁」が意味するところが、うすら寒くなるような形で立ち現れてくるのだ。読んでいる側を含め、誰でも一歩間違うと「制裁」に加担してしまうのではないかという怖さがある。その「制裁」が世の中を正したかのように見える、しかしそれが正当だと判断するのは誰なのか?正しさの裏付けはどこにあるのか?制裁する資格というものがあるのか?と問いかけてくる。「制裁」をした人にとってはあくまで個人的なものだったはずなのに、それが波及していく過程とその結果のねじ曲がり方が、人間のどうしようもなさを思わせ辛い。

『これからお祈りにいきます』

津村記久子著
 人型の巨大なハリボテに、これだけは取られたくないもの(大抵体の一部)を模した物をそれぞれが入れるという、奇祭のある町で育ったシゲル。祭りをうとましく思いながらも祭りを主催する自治体でのアルバイトに励んでいる。弟はひきこもり、父は不倫中で家庭も憂鬱だ。幼馴染の同級生の少女も家庭の事情でアルバイトに励んでおり、シゲルは彼女のことがどこか気になっていた(「サイガイサマのウィッカーマン」)。他、「バイアブランカの地層と少女」の2編を収録。
 シゲルの住む町で昔からまつられている神様「サイガイサマ」は足りない神様だという。何かと引き換えにしか願いを叶えられない、その叶え方も中途半端だという、力不足の「足りなさ」なのだ。シゲルは自由研究としてサイガイサマの由来や特性を調べたことがあり、その知識が所々で披露されている。土着の信仰が変容していく様が垣間見えて面白いのだが、由来を知ってしまったからなおさら、シゲルにとってサイガイサマは胡散臭い神様になっている。そんな胡散臭いものが暮らしの中心にある地域の、はたから見たら奇妙だけどその中にいるとそれが普通、という感覚のとらえ方が上手い。シゲルは、自分の地元に対する視線がちょっとひいたものになっているので、その奇妙さが嫌なんだろうなぁ。とは言え、足りなくても、胡散臭くても、神様はやはり神様で、そこにいないと困るのかもしれない。土壇場で祈る対象があることに救われることもある。「バイアブランカの地層と少女」でも、やはり主人公は土壇場で祈ってしまう。どちらも自分の為の祈りではない。誰かの為にこそ、必死で祈りたくなるのかもしれない。どちらの主人公も、そのくらい優しい人たちということかもしれないが。

『アンダーカバー』

 FBIの若手捜査官・ネイト(ダニエル・ラドクリフ)は、白人至上主義者のカリスマ的存在であるラジオパーソナリティ、ダラス・ウルフを捜査する為、潜入捜査を命じられる。ネイトは元軍人の白人至上主義者を装い、ウルフと面識があるというネオナチの青年ビンスと知り合うことに成功するが。監督はダニエル・ラグシス。
 「未体験ゾーンの映画たち2017」にて鑑賞。今回の未体験ゾーンで見た中では最も掘り出し物感強く、面白かった。ラドクリフ主演だしクオリティ的には普通に公開してもよさそうなものなんだけど、このネタだと確かに日本ではウケない、というかニュアンスがわかりにくいのかもしれないな・・・。しかしおすすめです。ちょっと編集がぎこちない(報道映像等々のコラージュがあまり上手くない気がする)が、意欲的な作品だと思う。
 ネイトはあまり現場経験はなく、リサーチ重視な頭脳派。同僚に比べると小柄で華奢、肉弾戦は不得意そうで、職場でも「おぼっちゃん」的にからかわれている。そんな彼が、なぜかマッチョな団体と思われる白人始業主義者グループに潜入する羽目になる。最初はムリだムリだとしり込みするネイトだが、上司(トニ・コレットの仕事は出来るが人としてはくそったれっぽい上司感がすばらしい)に認められたい一心で、学習に学習を重ね組織のトップに近づいていく。ネイトの地頭は良いが如何せん経験不足で浮足立ちやすい感じ、冷徹な潜入捜査官にはなりきれない様子を、ラドクリフが好演している。ネイトの計画は少々行き当たりばったりな感があるが、彼の演技の上手さで作品がもっている。
 FBIが戦っているのは「外部」からのテロだけではなく、「内部」からのテロに対してでもある。こういう方向での「テロ」もあるということを描いているのだが、テロリスト候補たちのショボさも含めて、結構生々しい。今のアメリカのある一面、根深い問題背景の一部を垣間見る感じ。潜入捜査官としてなぜネイトが選ばれたのか、という部分が、白人始業主義に若者が走る要因を的確に説明していたと思う。妥当な拠り所みたいなものが得にくい世界になっているのかなと、暗鬱とした気分にもなった。
 ある人物の、人々が煽られたがっているから煽るだけ、面白ければいいんだと言わんばかりの言動は、先般の大統領選の結果を招いたものと同質なもののように思った。主義主張が先にあるというわけではないんだよな。

『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』

 南太平洋に氷山が流れてきたというニュースを知ったのび太(水田わさび)たちは、真夏の暑さから逃れる為にさっそく氷山にやってきた。ドラえもん(大原めぐみ)の秘密道具「氷細工ごて」を使って遊園地を作り遊んでいたところ、氷に閉じ込められた金色のリングを見つける。リングのまわり氷は10万年前の南極のものだった。10万年前に高度な文明が存在したのではと、一行は南極へ向かう。そこで見つけたのは氷の下に閉じ込められた巨大な遺跡だった。監督・脚本・演出は高橋敦史。劇場オリジナル作品となる。
 ドラえもんの「新」劇場版は旧作のリメイク、というよりもリブート作品だが、本作はオリジナル。しかし、富士子・F・不二雄テイストが案外強く(一番らしいなと思ったのは「ヒョーガヒョーガ星」というネーミングですね・・・)、何だか懐かしい気持ちになった。そうそう、子供の頃に見たドラえもんてこんな雰囲気だったよなぁと。SFマインドを忘れず、自然科学の知識を織り込み、遺跡での冒険はインディ・ジョーンズみたいでわくわくする。タイムトラベルに関する整合性を結構きっちり詰めて説明しようとしているので、小さいお子さんにはちょっと難しくなっちゃうかなというきらいはあったが、これをやってくれないとつまらないしな。また、映画ドラえもんには度々、この先もう会うことがなくても、友達はずっと友達だ、という要素が含まれているように思うが、本作も同様。そこに妙なウェットさとか悲壮感みたいなものはなく、フラットな感覚で「ずっと友達」としている感じが良かった。ラストシーンはぐっとくる。
 従来のドラえもんと異なる特色があるとしたら、本作ではのび太が結構賢い(笑)。あんまり慌てない(単にぼーっとしているだけかもしれないが)し、リーダーシップをそれなりに取ろうとしたりする。おおいつになく出来るのび太だ・・・と思ったけど、現代ではあまりにも出来ない子、というのは逆に共感しにくいのかもしれない。
 高橋監督は『青の祓魔師 劇場版』に続く長編監督作2作目ということだが、所々ちょっとはしょったな、雑だなと思う所はあったが(特にジャイアン、スネ夫、しずかのキャラクターがあまり活かされていない)コンパクトにまとめていてなかなかいい。『青の祓魔師』の時も思ったけど、ドラマ展開でバーンと見得を切るというよりも、ちょっとした部分の情感の細やかさ、可愛らしさに持ち味のある作風なように思った。私の好みでそういう部分に目がいってしまうだけかもしれないけど。また、食事シーンに時間を割いており、一緒に食べるご飯はおいしいね!的シチュエーションには持ち味を感じる。

『百日告別』

 自動車の玉突き事故によって、結婚間近の婚約者を亡くしたシンミン(カリーナ・ラム)と、妊娠中の妻を亡くしたユーウェイ(シー・チンハン)。2人は愛する人の死を受け入れられずにいたが、初七日、四十九日、七十七日と時間は過ぎていく。監督はトム・リン。
 愛する人の死という題材であっても過剰なウェットさ、ドラマティックさはなく、むしろつつましやかな印象の作品。シンプルな物語だが、パートナーを突然亡くして頭も心も状況についていけない感じがありありと描かれる。親戚が葬儀の手筈を相談していることに苛立ったり、周囲がよかれと思ってやってくれることが的外れに感じられてしょうがなかったりと、周囲の状況から置いていかれている、自分だけ時間が動かない感じが切実だった。 一人で喪失と向き合う時間が必要なのだろうが、周囲の状況はどんどん進むし、一人でいすぎると死に近づきすぎてしまい危険でもある。前に進むことと引き戻されることとの間で、シンミンもユーウェイも揺れているのだ。
 最初のうちは自分と亡くしたパートナーとの間のことしか考えられず苦しんでいた2人だが、時間がたつにつれ、視界が広がっていく。自分以外にも死者を悼む存在がおり、自分にとっての死者とはまた違う側面を見ていたのだということ、また死者が残していったものがあったことに気付いていくのだ。ここまでくれば、あとはきっと大丈夫という気持ちになってくる。四十九日とか七十七日、死者との距離を測るシステムとしてよくできていたんだな・・・。
 台湾の映画だが、街中にしろ山の上のお寺の周囲にしろ、風景に味わいがあった。お寺まではバスで山道を登っていくのだが、木漏れ日の中をぐねぐね進んでいく様がとてもいいのだ。ちょっといつもと違う場所に行くような非日常感を感じる。また、シンミンは新婚旅行で行くはずだった沖縄を1人で旅するのだが、日本国内で自分も実際に行ったことがある場所の風景なのに、海外の映画の中に出てくると海外のように見えるというのが何だか不思議。映画の中の沖縄は、シンミンにとっての沖縄なんだなと。シンミンの婚約者は料理人だったので、(彼が食べたかった、また彼が残したレシピによる)色々な料理が出てくるが、どれもおいしそうだった。
 なお、台湾でも日本の漫画は相当読まれているのね。稲中とか、神の雫とか、将太の寿司とか・・・。

『アシュラ』

 都市開発の方向で揉めるアンナム市。刑事のハン・ドギョン(チョン・ウソン)は市長パク・ソンベ(ファン・ジョンミン)の為に暗躍し市長の汚職疑惑のもみ消しを図る。しかし検事キム・チャイン(クァク・ドウォン)に弱みを握られ、市長の犯罪容疑の証拠をつかむ為二重スパイになれと強要される。ドギョンは後輩刑事のムン・ソンモ(チュ・ジフン)も巻き込み生き残る為奔走する。監督・脚本はキム・ソンス。
 予告編がやたらと怖くかつ面白そうで自分の中での見る前の熱量は相当高かったのだが、期待したほどではなかったかな・・・。十分面白かったのだが、ちょっと飽きが来てしまった。緊張感はあるのだが、ドギョンにとっての状況が無間地獄すぎてどこまで行っても同じかよ・・・とぐったりしてくる。そこが狙いでもあるのだろうが。また、ややこしい状況に追い込まれている割には、ドギョンの行動はそれほど計画的ではなく、行き当たりばったりな傾向が強い。そんなんで生き残れるの?!大丈夫?!しのぎを削るコンゲームといった雰囲気ではない。特に冒頭、先輩刑事とソンモと手駒のチンピラが巻き起こすごたごたのやりとりは、頭が悪すぎる!上司も部下も頭が悪いと大変だな・・・とは思うが、それを収集できないドギョンも大概だ。一貫して、自分には重荷すぎるものを課されたドギョンが這いずり回るという構図なのだ。
ソンベは自分の欲望の為なら手段は選ばず非情な人物だ。しかし彼を追うチャインも、ドギョン本人も似たようなもので、基本的に本作に登場する人たちは手段を選ばず欲望に忠実だ。また、自覚していなかった欲望が引き出されることでお互いの関係性が大きく変わっていくこともある。ソンモはドギョンを先輩として慕いドギョンはソンモを出来の悪い弟的にいじる。そこには先輩・後輩という力関係が歴然としてあり、後輩は多少バカにしても、「出来が悪い」扱いをしていいものという暗黙の了解がある。これが見ていて結構つらかった。ドギョンはソンモに対して悪意はなく可愛がっているつもりだろうし、ソンモもおそらくそれはわかっている。が、バカ扱いされることが平気なわけではないだろう。彼の積もり積もった屈託が、ソンベに持ち上げられたことで爆発してしまう。ドギョンがソンモの屈託に気付いていない所がまた辛い。ドギョンが鈍感というよりも、社会構造として組み込まれているから見えにくいのだろう。

『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』

水島治郎著
大衆迎合主義とも呼ばれ、民主主義を蝕むとされがちなポピュリズム。しかしラテンアメリカでは一部のエリート層による支配から人民を解放する力になったという歴史がある。現在、ヨーロッパのポピュリズム政党は、リベラル、民主主義を前提とした上で既存政党の批判や移民の排斥を訴えており、一筋縄ではいかない。今、世界で猛威を振るうポピュリズムを、各国での状況を紹介、分析した1冊。
各国の状況がその歴史的な背景を踏まえて分かりやすく説明されており、入門書としても、事例集としてもなかなか面白かった。ポピュリズムというと何となく極右との繋がりがあって怖い、というイメージを持っていたのだが、確かに前身が極右政党であるケースは少なくないが、少なくとも現在はかなりマイルド、穏健な団体が増えているようだ。うまくいくと、危機感を感じた既存勢力が自己改革に励み国内情勢が好転、という影響もあるそうだ。その一方で移民排斥、イスラム圏の仮想敵化は概ね共通している。そして、先般のアメリカ大統領選でもそうだったが、既存の政党の政策ではカバーされていない、見捨てられていると感じている層をいかに獲得するかに注力している。国民の声をすくいあげていくのが民主主義国家ならば、ポピュリズムはやはり民主主義の一環ということになる。が、ポピュリズムが強すぎると「それ以外」の人は排斥されていくという、表裏一体ゆえの厄介さがある。一概に悪とは言えないが弊害も大きい。表層的な「悪者」を設定してそれに対するヘイトを原動力にしがちだという部分も悩ましい所だろう。良くも悪くも感情を煽る行為が原動力になりがちなところがある。

『クロコダイル路地Ⅰ』

皆川博子著
 民衆がバスティーユ監獄を襲撃し、フランス革命の口火となった1789年7月14日。パリで起きた争乱は徐々にフランス全土に広がっていき、農民が暴動を起こし貴族や領主を襲い始める。反革命軍に加わった貴族の嫡男フランソワと従者ピエール、裕福なブルジョアの嫡男ローラン、日雇い労働で食いつなぐ貧しい平民のジャン=マリと幼い妹コレット。身分も立場も違う彼らの運命は革命により大きく変わっていく。
 Ⅰ、Ⅱと2部構造の作品だそうで、本作はフランス編(舞台は主に貿易都市であったナント)。登場人物たちは「革命」の当事者となっていくわけだが、革命側にしろ反革命側にしろ、実際に自分達が何に加担していて、どういう経緯でこうなっているかわかっていた人など、当時はごく一部だったろう。この「わかっていない」部分の描き方が上手い。なりゆきでついていった側がどちらだったかで運命は大きく変わり、かつ自分が何に加担しているのかも理解しないまま事態は転がっていく。一口に革命といっても、それぞれ見えている景色は全然違うのだ。ばらばらで先の見えない群像劇として、スリリングで面白い。そして、事態に流されるうちそれぞれの中に徐々に鬱積していくものが、今後の展開に影を落としていくことが予想される。その人の表面化していなかった資質が、非日常的な状況の中で開花していくのだが、それが良き資質とは限らないのだ。

『灯台へ』

ヴァージニア・ウルフ著、御輿哲也訳
 スコットランドのスカイ島にある別荘に滞在している、ラムジー夫妻と8人の子供達。ラムジー氏は哲学者で、ラムジー夫人は世話好きな美人。一家の他にも、画家のリリー=ブリスコー、ラムジー氏を尊敬する青年チャールズ=タンスリー、詩人のカーマイケル氏らが招かれていた。
 3章により構成されるが、章ごとの時間の流れが全く違う。第1章「窓」は一番長いのだが、ある1日のみが描かれる。同じ時間を様々な人の視点から構築していき、読んでいると時間が引き延ばされたような感覚がする。第2章「時は流れる」は1章とは逆に、時間は圧縮されあっという間に10年が過ぎる。この章は登場人物の視点ではなく、世界を俯瞰する視点で描かれる。さらに第3章では1章の10年後、ラムジー氏らが再び別荘を訪れ、1章と同じくそれぞれの視点で描かれる。第2章の圧縮度は劇的なのだが、人間の意識にとって時間は均一に流れるものではなく伸び縮みするものだと実感させる。第2章の時代背景には第一次世界大戦の開戦・終戦も含まれており、渦中の人々にとっては本当にあっという間だったのかもしれない。具体的に登場人物たちの言動が描かれるのは第1章と第3章の計2日だけなのだが、それが却って年月の経過を感じさせる。時間の経過はコントロールできないものだが、同時に非常に主観的なものとなる。
 登場人物それぞれの思考、他の人に向ける感情を読んでいると、ああこういう人いる!と共感したり反発したり。この人とこの人は絶対相性悪いなとか、相性のいい人同士でもこういうふうな態度だと拗れるなとか、とても面白かった。特にラムジー氏とラムジー夫人は、どちらも全く別のタイプの独りよがりさを持っているように思った。ラムジー氏は周囲が自分を丁重に扱うものと思っているし、ラムジー夫人は誰に対しても献身的だがその献身は彼女が「よかれ」と思うことにすぎない。母の献身を父に横取りされたラムジー家の幼い息子ジェームズが父への敵意を持つくだりなど、こういうことってあるよなぁと。今言わなくていいことを「正しい」から口にしてしまうラムジー氏の行動には、こういう人と結婚しちゃうと火消が大変!とイライラする。また、承認欲求とミソジニーをこじらせたようなタンスリーは、現代の青年としても全然通用しそう。

『クリミナル 2人の記憶を持つ男』

 CIAエージェントのビル・ポープ(ライアン・レイノルズ)が任務中に殺された。彼は米軍の核ミサイル発射装置まで沿革操作できる万能のプログラムを開発したハッカー「ダッチマン」(マイケル・ピット)の居場所を知る唯一の人物だった。テロリストのハイムダール(ジョルディ・モリャ)もまた、プログラムを狙いダッチマンを追っていたのだ。CIAはダッチマンを確保する為、ビリーの記憶を他人の脳に移植する手術を敢行。移植先は、死刑囚のジェリコ・スチュアート(ケヴィン・コスナー)だった。ジェリコは自身の人格とビリーの記憶とに引き裂かれつつ、テロリストとの戦いに巻き込まれていく。監督はアリエル・ブロメン。
 コスナーだけでなくビルの上司ウェルズとしてゲイリー・オールドマン、移植手術を行う医師フランクスとしてトミー・リー・ジョーンズが出演しておりなかなか豪華かつ渋いキャスティングなのだが、公開規模は小さいんだな・・・。何となくB級SF感が漂うが漂うからか、微妙に地味だからか。しかし、なかなか好きなタイプの作品だった。監督のブロメンて何を撮った人なのかなと思ったら、『THE ICEMAN 氷の処刑人』の人だったのか!これも奇妙なんだけど好きな作品だったなぁ。俳優の使い方に味のある監督だと思う。
 ジェリコは子供の頃の脳の損傷が原因で、感情を持たず、理知的な思考が苦手で粗暴だ。いわゆるサイコパスとはちょっと違って社会に適応する「振り」も出来ない為、刑務所と縁の切れない人生だった。そんな彼がビルの記憶を移植されることで感情と社会性、そしてCIAとしてのスキルを手に入れる。特殊技能の記憶が増えているとはいえ、ジェリコにとっては初めての「普通」の状態なのだ。それがあくまで借り物で、フランクスによればやがて(48時間程度で)消えていくものだということが、なまじ「普通」を経験してしまった故に何だか切ない。知れないままだったら心揺さぶられたりはしなかっただろうに。彼の大きな選択は、フランクスにとっては臨床実験の成功でもあるのだが、その感情がジェリコのものなのかビルのものなのかはわからない。フランクスがずっと、何とも言えない割り切れなさそうな表情なのは、そのせいかもしれない。彼は一貫してジェリコのことを気の毒(ではあるが自分にはどうもできない)に思っており、彼を道具としてフル活用しようとするウェルズとは対称的。
 ラストは無理矢理大団円ぽい雰囲気に持って行っているが、解釈によっては大分不気味でもある。「彼」はいったい誰なのか?という部分がより曖昧になっているように感じられるのだ。穏やか過ぎて、最早あの世の風景のようでもある。

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