3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ONE PIECE FILM  Strong World』

 故郷のイーストブルーが何者かからの襲撃を受けたと知った、ルフィ(田中真弓)率いる麦わら海賊団。イーストブルーへ戻ろうとした折、伝説の海賊・金獅子のシキ(竹中直人)率いる空飛ぶ海賊船と出会う。ナミ(岡村明美)の航海士としての能力に目をつけたシキは彼女を拉致、ルフィたちを船ごと空に浮かぶ島へ振り落とす。その島には、独自の進化を遂げた凶暴な動物たちが生息していた。原作はいわずとしれた大ヒット漫画。監督は、TVシリーズ監督でもある境宗久。
 劇場作品としては10作目という節目の作品ということで、今回は原作者である尾田栄一郎が、キャラクターデザイン、コスチュームデザイン、ストーリー原案等で深く関わっている。その為か、今までの劇場作品の中で一番、原作漫画のテイストが強い。デザイン面はもちろんだが、各キャラクターの言動やギャグの入れ方(シキ一味がいちいちギャグをはさんでくるのとか)がもろに原作漫画。原作ファンには非常にうれしい作品だと思う。漫画のワンピースが動いている!と言っていいくらいで感慨深い。コスチュームが一新されている(最後に通常デザインにもどっているあたりが細かい)、スーツ姿での討ち入りなど、趣味色が濃くでている美味しさもあった。特に麦わら海賊団の銃撃戦はレア。多分原作でもアニメーションでも初めてではないか。
 ただ、あまりに原作に近くて、映画作品としてこれでいいのか?とも思った。映画作品としてリリースする以上、映画ならではのワンピースを見てみたいと思ってしまうのは、私がワンピースファンである以上に映画ファンであるからかもしれないが・・・。個人的に劇場版ワンピースで一番面白いと思った作品は、細田守監督の『オマツリ男爵と秘密の島』なのだが、それはこの作品が原作(とTVアニメ)のワンピースの世界から半歩はみ出しているからだ。そのせいで原作ファンにはすこぶる不評だったらしいが、どうせ映画でやるならこれくらい独自性を出してくれ、という気持ちがどこかにある。
 とはいっても、原作知らずに見に来る客がまずいないと思われるシリーズなので、そういう要求は酷か。本作も、映画として独立はしているが、原作を読んでいる(ないしはTVアニメを見ている)ことが一応前提にある。今までの劇場版の中では最も作画にも脚本にも恵まれているし、まずは満足。なんだかんだ言って既に2回見てるしな私。ただ、「恵まれている」とはいっても今までとの比較の上でなので、本当は毎回これくらいの水準であげてほしいというのが正直なところ。
 ちなみに、ルフィのアクション作画がいいのは当然なのだが、今回サンジの作画が妙にいい。表情にしろアクションにしろ、優遇されている気がする(ゾロと比較するとよくわかります)。スタッフの中にファンがいると見た。あとルフィがナミを肩車しているのは、さらっとやっているけど冷静に考えるとすごくエロいと思いました。


 

『戦場でワルツを』

 映画監督のアリは、友人ボアズからレバノン戦争の後遺症で悪夢を見ると打ち明けられる。しかし、やはり従軍していたはずのアリには当時の記憶がない。疑問に思ったアリは、当時の戦友たちを訪ね、自分がどこで何をしていたのか思い出そうとする。監督はアリ・フォルマン。
 セミドキュメンタリー作品との話だが、むしろ私小説に近いスタンスなのではないかと思う。戦争映画というジャンルには入るのかもしれないが、本作はあくまで「私の」戦争なのだ。アニメーションという技法を使ったのも、そう考えると非常に納得がいく。アニメーションはあるものにカメラを向けようとした際、背景から何から、一から十まで作り手が書き込んでいかなければならない。「私」の視線という意味合いが実写よりも強い。この主観性の強さは、個人の記憶にも似通っている。記憶と事実とは必ずしも一致しないのだ。この「私の見た世界」としてのアニメーションのあり方が、記憶を探るという本作の内容にも合っていたのではないかと思う。最後に、ようやく自分の記憶=主観の外側にある情景に辿り着くという流れはすごく納得がいった。
 アニメーションという、生々しさをある程度そいだ状態でないと精神的に(作り手側が)つらかったというのもあるだろうが、何より、監督は「私の戦争」として本作を撮ろうとした、主観以外を(最後以外)入れずに作ろうとしたのではないかと思う。本作が扱っているのは1982年のレバノン戦争。イスラム教とキリスト教の対立、それぞれの宗派同士での対立、更にパレスチナ難民問題や周辺諸国や大国の思惑等、さまざまな要素が入り混じり、非常にややこしいし語りにくいだろう。どういう描き方をしてもどこかの反感をかうだろう。特にユダヤ人の両親を持つイスラエル人である監督にとっては、一面的であるという非難は予想されたと思う。なので、あえて主観的な(語弊を生みそうな言い方だが)公平でない描き方をすることにしたのではないか。むしろ、監督にとっては当事者であった以上、主観的な描き方しかできない素材だったのはないかと思う。戦争映画は色々あるが、ここまで徹底して「私の」戦争である作品はあまりないのでは。作品内では監督の戦友たちの記憶として語られるが(実際そうなのだろうが)、それもまた「私の」戦争である。
 銃撃戦を市民が窓から眺めているところや、あの国では普通の成人男性の多くが、本作のような戦争体験をしているであろうことにはっとした。戦争が生活にしみついたものになっているのだ。外から見ていると恥ずかしながら、そこまで考えが至らない。






『インフォーマント!』

 実話を元にした話だというからびっくり。1992年のアメリカ、イリノイ州。製薬会社社員のウィテカー(マット・デイモン)は、日本企業のスパイから脅迫を受けたと会社上層部に報告した。FBIが捜査に乗り出し、日本企業とやりとりがあるウィテカーの自宅にも、録音機が取り付けられることになった。しかしウィテカーは、録音機を取り付けに来た捜査官に、会社が違法な価格協定を行っていると内部告発する。 
 監督はスティーヴン・ソダーバーグ。大作が続いたソダーバーグにとってはわりと小じんまりとした作品だが、「おかしくて、やがてかなしき」な味わいには丁度良い。ソダーバーグはだらっとしたコメディが案外面白い(オーシャンズシリーズとか)のだが、本作はかなりコンパクトにまとまっているところもよかった。
 産業スパイというネタから始まり、これは企業間の抗争か!と思いきや内部告発というシリアスな展開、さらに明後日の方向へ進んでいく。話を大きくするのはウィテカーという一人の男だ。しかし彼がなぜこのような事態を引き起こしたのか、動機についてはストーリー内ではいまひとつ明らかにならない。実は彼にとってメリットがあるとは思えない。にも関わらず彼は前進を進めてしまうのだ。本人がどこまで計画していたのかわからないが、計画だけが勝手に進行していき、本人も周囲も引っ込みがつかなくなってくるという暴走系コメディとして面白く見ることが出来た。
 ウィテカーが徐々に病的になっていく姿、周囲が彼に振り回されていく姿は笑えるのだが、一方でちょっと物悲しくもある。ウィテカーはでたらめではあるが、いわゆる器の大きな人物ではない。彼の狂気が自身のキャパからはみ出ていく様が、より一層彼の器の程度を浮き彫りにしてしまう。彼はある「物語」を生きているのだと思う。しかしその物語は元々穴だらけでご都合主義のものだ。会社やらFBIやら、大きなものがどんどん介入していくことで、彼の「物語」がぼろぼろになっていくのが何かやるせないのだ。途中から、映画を見ている側にも、なんとなく彼がやっていることがわかってくるのだが、やめておけばいいのになぜその一歩を?!と何度も思った。しかし一方で、妙に楽観的だったり無神経だったり、ちぐはぐだ。彼は最終的には自分自身を騙し、彼の奥さんはそれに乗っかったという形なのだろうが・・・それはそれで幸せかもしれない(周囲は迷惑だが)。
 ウィテカーの内面については殆ど言及せず、彼の真意も明らかにしないというところがよかった。実話が元という縛りもあるのだろうが、そもそも彼の言動はかなり場当たり的であり、隠された内面などなかったようにも思えるのだ。なお、90年代が舞台なのに妙に古臭く見える(一見60年代くらいの雰囲気)。これは意図的にレトロにしているのか?






『パブリック・エネミーズ』

 1930年代アメリカに実在した銀行強盗、ジョン・デリンジャーとその恋人ビリーを中心においた作品。不況の中利益を独り占めする銀行をターゲットとし、弱者からは奪わないという主義に基づいて強盗を繰り返し、投獄されても奇跡的に脱獄してしまう彼は、ある種のスター扱いをされていた。デリンジャーを演じるのはジョニー・デップ、ビリー役はマリオン・コティヤール。監督はマイケル・マン。
 マン監督作品としては異例の、男女関係のロマンティックさ。あの男くさい映画ばっかり撮っていた監督がどうしたことか!男女関係は古風といってもいいくらいで、双方一途でひたむき。デリンジャーがイケメンで多分モテるが、女性に対してはむしろ不器用であるというところがキュートであるが、映画の雰囲気に妙な淡白さを与えている。マン監督の映画では男たちの関係は濃いが、女性がからむと妙に奥ゆかしく、あっさりとするというのが不思議。名曲「バイバイ、ブラックバード」がまた陰影深く、効果的に使われていて心に残った。
 淡泊といえば、主人公であるデリンジャーのキャラクターも淡泊。さほどインパクトがなく、この人がなんで「パブリックエネミーNo1」なの?と不思議なくらいだ。更に、デリンジャーが民衆から人気があったというのも、義賊であったりカリスマ性があったりするという説明をあまりしないので、実感がわかない。彼が魅力ある人間だったということに対するエクスキューズは、全て「ジョニー・デップが演じている」というところにある。デップにはミスマッチな役柄なんじゃないかなと思っていたのだが、そういう意図かと妙に納得。ビリーに対する最初のアプローチも、デップがやるから許せるというか・・・。仮にラッセル・クロウなどのマッチョな俳優が演じたら、横っつら張りたくなるようなセリフなのだが。
 描かれ方が淡泊なデリンジャーよりも、彼を追うFBIの捜査官・パーヴィス(クリスチャン・ベイル)の方が印象に残った。パーヴィスは有能な捜査官だが、時に冷酷に徹さなければならない捜査に抵抗を感じてもいる。また失敗できないという強いプレッシャーを受けている(このあたりは、当時フーバーが置かれていた状況が垣間見えて面白い)。どこか神経質ぽいベイルの持ち味が活かされた役柄だったと思う。デップよりも本作の雰囲気にははまっているし、好演している。共感を呼ぶキャラクターはむしろこちらでは。エンドロールで彼のその後(実在した人物なので)に言及されるが、それを読むと余計に切ない。
 パブリックエネミーといえば、フランス映画の『ジャック・メスリーヌ』も同じフレーズを使っていたが、主人公のキャラが立っていたのは『ジャック・メスリーヌ』の方。ただ、映画としては本作の方が面白いと思う。このあたりは監督の経験値の差か。本作はキャラは薄いがここぞというところで映像が濃い。特に銃撃戦には強いこだわりが感じられる。カメラを激しく動かすクセや、狙撃者の手元からのアングルは臨場感を出そうという意図なのだろうが、見辛さが強調されてあまり効果的ではないと思った。それでもいざ撃ち合いが始まるとぎゅーっと引きこまれる。山荘での撃ち合いは圧巻。






『よなよなペンギン』

 「ペンギンも空を飛べる」という、今は天国にいる父親の言葉を信じ、ペンギンコートを着て夜の街を歩き回る少女ココ(森迫永依)。ある日、ゴブリンの少年・チャーリー(田中麗奈)から、ペンギンストアに招待される。しかしチャリーの本当の目的は、自分の村へココを連れて行くことだった。チャリーの村は魔王に支配されており、勇者“飛べない鳥”が村を救うという伝説が伝えられていたのだ。監督はりんたろう。製作スタジオはマッドハウス。今年のマッドハウスは傾向の違うアニメーション映画を複数送り出していて面白い。
 日本のフルCGアニメーションは、アニメファンにとっては少々違和感があり、かといって一般の映画ファンにとってはハリウッド作品と比べると物足りないという中途半端なポジションにあるように思う。本作はフルCGアニメーションだが、CGならではのなめらかでリアル動きは志向していないところが面白い。あえて、セルアニメーションのような省略された動き(動きの流れを間引きしているというか)にしてある。確かに、日本のテレビアニメを見慣れている目にはこちらの方が馴染みやすいし、いわゆる「マンガ映画」ぽさが出ていてかわいい。日本におけるフルCGアニメーションは、こういった方向でなら根付くんじゃないかなとも思った(ただ、最初からフルCGアニメーションに慣れている小さいお子さん等には関係ないかも)。
 世界観は和洋折衷で、町並みは洋風なのに七福神の泉があったりと、かなりフリーダム。ゴブリンの村などはよくある異世界ファンタジー的なもの。新鮮味はないが、色合いやフォルムはやわらかでかわいらしいし、馴染みやすい(これが新鮮味がないということかもしれないけど)と思う。町の造形と一部の音楽には、杉井ギサブロー監督『銀河鉄道の夜』に影響を受けていないか?と思うところがあったが気のせいか。
 ただ、ストーリーはかなり散漫。ココが友達の為にがんばる、という王道ストーリーなのはいいのだが、そこに父親の言葉を絡めたところ、2つの要素が乖離してしまった。父親への思慕と、空を飛びたいという気持ちとのつながりが不自然なように思う。それよりなにより、ストーリー上「ペンギン」出す必要があまりなくなってしまっているのが問題だろう。ペンギンストアが蛇足にしか見えないのが辛い。
 声優に関しては、爆笑問題・太田が健闘。この人はちょこちょこ声優仕事をこなしているが、いつも自分のキャラクターが生きたいい味わいがあって関心する。田中も出演しているが、今回はそれほど存在感がない(というか声を変えすぎていてわからない)。主演の森迫は、11歳にしては芸達者なのだろうが、ちょっと力不足で聞いていて気恥ずかしいところも。脚本上でセリフがこなれきっていないというのも一因だと思う。リズミカルさや童話っぽさを目指して極め切れなかった時のムズムズ感を感じた。






『カールじいさんの空飛ぶ家』

 78歳のカールは、最愛の妻エリーを亡くし、さらに開発業者から、長年住んだ家からの立ち退きを迫られていた。カールじいさんは家に大量の風船をつけ、妻との夢であった冒険に旅立つ。監督はピート・ドクター。製作はもはや外れなしのアニメーションスタジオ、ピクサー。
 冒頭10数分で、カールじいさんの今までの人生、そして妻との関係をさらっと描き切ってしまうところは、お見事としか言いようがない。この部分だけで映画終了でもいいんじゃないかと思うくらいだ(笑)。カールじいさんがなぜ家に拘るのか、なぜジャングルを目指すのかが、するりとわかる。
 しかし物語は、家に拘ること、「冒険」ということにまた違った方向の回答を提示する。そのきっかけとなるのが、妻が残した「私の冒険」アルバムだ。何が彼女にとって冒険だったのか明らかになるこのシーンには、思わず涙ぐんだ。これは、本作の主要客層と思われる子供たちよりも、大人、特にある程度人生積んできた人たちの方がしみじみとかみしめられるかもしれない。実際にジャングルに冒険旅行に行く人や、劇的な人生を送るような人たちはごく一部で、ほとんどの人たちはごく普通の人生を生きる。しかし、普通の人生は決してつまらない人生、退屈な人生ではない。世界中の「普通」の人たちに対する応援でもあると思う。
 また、カールじいさんと妻との関係だけではなく、もっと下の世代との関係も一つの軸になっている。『グラン・トリノ』をほうふつとさせた(少年の父親の存在が希薄なところも)。赤の他人の子供と接し、知識を伝えていくという点では似通っているのだが、カールじいさんはある意味、よりしたたかにタフに、その先をいっている。見習うべきはこっちかもなぁ。映画を見た後で「結婚したくなった」と話している女の子がいたのだが、確かにそうかもしれない。誰かと共に生きるということへの希望を与えてくれる作品だと思う。
 涙ぐむような展開もあるが、基本的にはコメディなのがいい。なおピクサーとしてはおそらく初のPG12指定なのだが、おそらく出血描写があるせいだろう。割愛することも可能な描写ではあるが、ちゃんと描いたところに拘りを感じた。この作品には、そのくらいの生身感が必要だったんだと思う。

 




『ピリペンコさんの手づくり潜水艦』

 ウクライナの農村に住む62歳の男性、ピリペンコさん。彼の趣味はなんと潜水艦を作ること。夢はお手製の潜水艦で黒海にもぐることだ。年金まで潜水艦製作につぎ込むピリペンコさんに対する、奥さんの目は冷ややか。しかしピリペンコさんはめげない。とうとう、友人のセルゲイと共に、潜水艦をトラックに載せて黒海を目指す旅に出た。ウクライナ発のドキュメンタリー。監督はヤン・ヒンリック・ドレーフス、レネー・ハルダー。
 できすぎ!と叫びたくなるようなお話。ピリペンコさんにしろ奥さんにしろ、その親戚の皆さんにしろ、妙にキャラが立っていて一つのドラマのよう。もっとも、監督が事前にかなりストーリーを練り、恣意的に編集しているとは思う。それが悪いというのでは全くない。ピリペンコさんと彼の潜水艦の魅力を伝えるには、ひとつの「お話」的に見せるのが一番効果的ではあると思う。ともすると、ちょっと困った「発明おじさん」みたいになってしまうが、そうは見えない(実際のところ、家族は結構困ると思うけど・・・)。
 ピリペンコさんが単なる困った人に見えないのは、彼がなんだかんだ言っても奥さんを愛しているらしいし、親族からも結構好かれているらしいからだろう。つまり、孤立していないのだ。親戚が集まって食事をするシーンがあるのだが、和やかで雰囲気がいいのだ(そしてご飯が大雑把ながらおいしそう・・・)。それは彼が住む農村の中でも同じで、村の人たちはピリペンコさんに対して、「困ったやつだなー」と苦笑しても、潜水艦が完成すると見物にくるし、なんだかんだ言ってもコルホース(ウクライナではコルホースがまだあるのか!とちょっとびっくり)のトラックを貸してあげたりする。全体的に長閑で和む。
 ピリペンコさんがなぜ潜水艦に魅せられたのか、いまひとつ伝わらないのは残念だが、本当に黒海まで行ってしまうのはすごい。また、いざ海を目の当たりにすると若干しりごみする姿には、ちょっと切なくなった。この夢かなっちゃってもいいの?もしかしてずっと潜水艦を作り続けているだけの方が楽しかったのでは?でもやっぱり実用したいだろうしなぁと、複雑な気持ちに。
 ウソのようなホントの話であり、潜水艦がこんなちゃちくて大丈夫なのか!と心配にもなる話である。なお、農村が舞台なので、やたらと動物が出てきてたのしい。






2009年の映画を振り返る

 ここのところ、普段楽しく拝見しているブログがことごとく、男子にも女子にも大人気である素敵ブログ空中キャンプさんの「2009年の映画を振り返る」企画に参加しているので、勇気を出して参加してみることにします(実は過去に1度参加したことがあるのですが、参加者があまりに豪華で、以降は気がひけていました)。
 今年よかった映画。ひとくちに「よかった」といっても色々な意味合いがあると思いますが、今回は、自分がしみじみと好きだなぁと思った映画ということで、割と感情的に選びました。

1.名前/性別
くら(ID:makoto_kokoro)/女

2.2009年に劇場公開された映画でよかったものを3つ教えてください

『アンダーカヴァー』:平凡すぎるくらい平凡な映画に見えるのだが、堂々と平凡なところ、平凡なのに不穏、しかも陰鬱なところがよかった。

『3時10分、決断のとき』:西部劇はほとんど見たことがないのだが、2人の男の間の緊張感にわくわくした。終盤の展開がたまらない。私はウェイドよりもダンが好きです。

『パイレーツ・ロック』:自分でもどうかと思うのだが、今年一番泣いた映画。作品としてはちょっと(いや大分・・・)ユルいとも思うのだが、ここまで堂々と「ロックンロール!」といわれると清清しい。

3.2で選んだ映画のなかで、印象に残っている場面をひとつ教えてください

『アンダーカヴァー』の終盤、霧がたちこめる空き地での集団捜査。

4.今年いちばんよかったなと思う役者さんは誰ですか

クリスチャン・ベイル。『3時10分~』も先日見た『パブリック・エネミーズ』でも、マッチョだが線の細い、やや神経質な感じがすごくよかった。役柄に恵まれたということもあるのだろうが。もうかませ犬俳優なんて言わせない!。

5.ひとことコメント

この年齢になって、年々映画をより好きになっている気がします。どうしたことか。


 以上です。空中キャンプさん、編集大変かと思いますがよろしくお願いします。

 なお、当ブログの2009年ベスト10は年が明けてからやります。上記の3本とは、また別の選び方になると思います。今年もぎりぎりまで映画見ます。

『つむじ風食堂の夜』

 ある夜、小さな食堂にふと入った物書きの「私」(八嶋智人)は、「二重空間移動装置」を提唱する帽子屋(下條アトム)や、売れない女優・奈々津(月船さらら)、古本屋の「親方」(田中要次)や読書好きな果物屋(芹澤興人)などの一癖ある常連客たちと親しくなる。ある日「私」は、奈々津に芝居の脚本を頼まれる。原作はクラフト・エヴィング商会としての活動でも知られる吉田篤弘の小説。監督は篠原哲雄。
 ロケ地は函館。擬似ヨーロッパ的な、少々レトロな町並みが作品の半ファンタジックさとでもいうべき浮遊感とよく合っている。アパートやホール等に使われた、古い建物も魅力的だ。ロケの殆どが夜という、ちょっと変わった作品でもある。
 ただ、本作で魅力的なのはロケくらいで、あとはどうもぱっとしない。私は原作小説既読だが、面白いことは面白いが、いかにもいかにもな微量のファンタジックさが鼻につくところもあった。原作の鼻につくところが、映画では強調されてしまったように思う。セットや衣装が、確かに原作の世界観には沿っているのだろうが、いざ映像で見るとレトロ好み過ぎ、脱臭し過ぎで万事やりすぎな感じがした。これはセリフ回しについても同様だった。原作者の文章は、映像化に向いていないのではないかと思う。具体性を持たせると魅力が霧散するタイプの原作だったのではないだろうか。大変もったいない。
 出演者は総じて、あえてコテコテの芝居をしているように見えた。「お話」感を強めるにはそれでもいいと思うのだが、コテコテの演技は案外難しい。上手い人がやればサマになるが、そうでもない人がやると目もあてられないことになる。そして残念ながら、本作では後者の方が目立った。特に奈々津役の人はきつかった。個人的に、顔と声があまり好みではないので点が辛くなっているかもしれないが(ちなみに食堂の給仕役の女性も同系統の顔・声。監督の好みなのか)。
 食堂の客らの会話(というよりも各々が勝手にしゃべるのだが)は多分にクサかったが、「私」の父親(生瀬勝久)のエピソードはじんわりとしてそこそこよかった。このくらい地味で地に足の着いたエピソードの方が、映画にした時映える。二重空間移動装置や唐辛子千夜一夜は、活字で読むから面白いんだろう。なお、喫茶店のマスターの顔をどこかで見たことがあると思ったらスネオヘアーだった。妙にハマっている。






『脳内ニューヨーク』

 ニューヨークに住む劇作家のケイデン・コダート(フィリップ・シーモア・ホフマン)の元から、妻が娘を連れて去ってしまった。落ち込む彼の元に、通称「天才賞」であるマッカーサー・フェロー賞を受賞したとの知らせが。多額の賞金を使って、ケイデンは“もう一つのニューヨーク”を作り、自分の人生を芝居として再現しようという前代未聞のプランに着手する。監督は『マルコビッチの穴』『エターナル・サンシャイン』等の脚本を手がけた鬼才チャーリー・カウフマン。
 常に火事が起きている燃え続ける家、ケイデンの娘の人生を順次音声再現していく日記、何より、リアル人形の家とでもいうべき巨大な擬似ニューヨークのセットなど、ファンタジックな要素はあるが、作品自体は決してファンタジックというわけではない。ファンタジックな小物を使って描かれているのは、現実の人生のままならなさだ。カウフマンの作品はいつも不思議だったり奇天烈だったりするのだが、後に残る味わいは苦く、いつもしんみりとした気持ちになってしまう(『エターナルサンシャイン』だけはそうでもないが)。そういえば、主人公が自分の人生を思うとおりにやりなおそう(別人になったり、記憶を消したり)するが思うようにはいかない、というパターンの話が多いように思う。よっぽど、「人生のやりなおし」に対して思うところ(そしてやり直しに挫折)があるのだろうか。別の自分になどなれない、という諦念が常に基調にあるように思う。
 本作では、現実の生活に失望したケイデンが、芝居の中でもう一つの人生を再現しようとする。しかし、現実で起きたことを芝居で再現し続けるときりがなく、彼の作品は完成することがない。自分も出演者も年をとっていき、セットは延々と大きくなり続けるという悪夢のような状態だ。何より、彼が考えた芝居は、どこまで行っても彼の生活、彼の頭の中から出てきたもの、彼の延長であり続ける。自分の中から出ることはできないのだ。自我が肥大すればするほど息苦しく、辛くなる。本作を見ていてどこか鬱々としてくるのは、この「どこまで行っても自分」という出口のなさが原因ではないかと思う。
 そう考えると、終盤の展開には納得できる。他者が芝居をリードするようになって初めて、ケイデンは芝居の外にでることができる。それは彼の作品の崩壊でもあるが、どこかほっとする光景でもある。ただ、ラストで起きた「事件」を見るに、天変地異でもないと自分の外には出られないということかもしれないが・・・。






『千年の祈り』

 ウェイン・ワン監督久々の快作。原作はイーユン・リーの同名小説(名作なのでお勧め)。原作者自ら脚本を手がけているので、原作のニュアンスがうまく再現されている。アメリカに住む娘・イーラン(フェイ・ユー)を、父・シー(ヘンリー・オー)が中国から訪ねてきた。離婚して一人暮らしを続けているイーランをシーは案ずるが。
 在米中国人女性とその父親の物語ということで、監督にとっては親密に感じる部分が大きかったのだろうか。低予算ではあるが良作。父と娘の心の陰影はもちろん、母国語とは違う言葉を常用語にすること、親とは違う文化圏で生活していることのニュアンスが面白い(私は母国語で生活し親とも同じ文化圏にいるので、齟齬のニュアンスをどれだけわかっているのか自信がないのだが)。
 父と娘は嫌いあっているわけではないが、すれ違っている。これが切ない。2人はそれぞれ、既に異なる世界(単に国が違うというだけではなく)で生きており、父親が思う幸せは、必ずしも娘にとって幸せなわけではないのだが、父親にはそのあたりがいまいち分かっていない。彼は娘の為に食事を作り、職場へ様子を見に行き、帰りの遅い娘を案じる。それらの心配りは、娘にとっては重荷になってしまう。
 また、彼らのすれ違いは、一種のタイムラグでもある。父親の心配・心配りは全て、おそらく娘がかつてしてほしかったことであり、今更やられても挽回・補填できるものではないのだ。この「既に遅し」な感じが非常に切ないし、同時に親子間ではよくあることだろうなとも思った。そもそも、父親は娘を心配するが、彼女と直面して話し合うことができない。率直な思いは、娘からも父親からも発せられず2人は平行線のままだ。しかし親子はそもそもそういうものなのかもしれない。黙って並んで座る父と娘の姿は、決して不幸そうではない。
 字幕の使い方への気配りが細やかな作品だった。字幕は主に、英語の部分と、父親と娘が中国語で話す部分に出る。日本人である私たちにとっては全部外国語だから、一律に表示してもいいことはいいのだが、そうはしていない。シーが公園で知り合ったイラン人女性と、お互いつたない英語で会話をする。双方、なんとか搾り出した英単語で意思の疎通をするから妙に真実味があり、後に判明する「オチ」の苦さも際立つ。また、アパート管理人との、お互い言っていることがよくわかっていないのに妙にかみ合ってみえる会話のおかしみも生じてくるのだ。ちなみに字幕表示に関しては、監督本人が決定したとか。






『赤と黒 デジタルリマスター版』

 1954年のクロード・オータン=ララ監督作品。この度デジタルリマスター版が上映されたので見てきた。原作はもちろんスタンダール『赤と黒』。
 1820年代、貧しい職人の息子ジュリヤン・ソレル(ジェラール・フィリップ)は、持ち前の頭の良さと美貌を活かし、レナル町長の家へ住み込みの家庭教師として勤めることになった。やがて若く美しいレナル夫人と恋に落ちるが、スキャンダルは出世に不利と見たソレルは、出世の近道である神学校へ。そして司教の紹介でラモール公爵の秘書となる。しかしここでも、公爵の娘マチルド(アントネラ・ルアルディ)と恋愛関係に。
 はしょってあるものの、ストーリーの流れは概ね原作と同じだ。タイトルロールが本の表紙をめくるような作りになっていたり、本編も章立てされていて「序文」的な引用があったりと、文芸小説の映画化であるという面をかなり意識していると思う。
 正直、こんなに長いとは思わなかった。まさか途中で休憩があるとは・・・。正直、映画として面白いのかどうかというと、判断に苦しむ。いかにも「昔の文芸大作」ぽいので、今の感覚で見てしまうと冗長に感じる。また、原作をお読みの方はおわかりだろうが、ソレルは心の中で葛藤するシーンがかなり多い。これをいちいちモノローグとして再現するので、くどいしうっかりすると笑ってしまう。そもそも、原作自体が今読むと「うっかりすると笑ってしまう」要素が結構多いのだが。
 本作一番の魅力は、やはり主演のジェラール・フィリップだろう。ソレルのやっていることは見ようによっては結構下衆だが、ジェラール・フィリップが演じると下品にならない。下卑た美形ではないところが、彼の最大の魅力だと思う。華やかな衣装もいいが、家庭教師のお仕着せであるシンプルな黒の揃いがとても映える。36歳で死んでしまったなんて勿体無さすぎる。ソレルの運命の人であるレナル夫人役はダニエル・ダリュー。間延びしたような顔で正直好きではないのだが、この顔が終盤の薄暗い刑務所の中では、とても美しく見える。役柄には合っていた。 また、妄想系ツンデレであるマチルド嬢を演じるアントネラ・ルアルディがちょうかわいい!彼女の方がダリューよりも現代的な顔立ちだ。





『ばかもの』

絲山秋子著
大学生ヒデは、年上の額子と付き合っている。しかし額子は突然「結婚する」といって姿を消した。著者の作品は、いつもボディーブローのようにじわじわとダメージ(笑)を与えてくる。自分の見たくない部分を見せられるといいますか・・・。人間の情けない部分、ダメな部分、社会の底辺付近にいる人間を描くと抜群に上手いな。ヒデは決して悪人ではないが、弱い。ひとつ躓くとどんどん悪い方向へ転がり、アルコール中毒にまでなってしまう。ただ、その弱さは特別な(個性的な)ものではない。こんな人結構いるだろうな、という弱さだ。何者にもなれない、ありふれた人間のダメさが読んでいると身にしみる。キツいなぁ。弱いなりになんとか次の一歩を踏み出す人たちの姿はほのかな希望を感じさせるが、その「なんとか」すら難しいこともあると思う。





『ポルノスター』

 デートクラブの管理を組長(麿赤児)から任されているチンピラの上條(鬼丸)は、妙な青年・荒野(千原浩史)に出会う。荒野は「いらん」と言ってヤクザを躊躇なくナイフで刺すような男だったが、対抗組織のヤクザ松永(杉本哲太)を疎ましく思う上條は、使えると踏んで荒野の面倒を見る。しかし荒野はまたふらりと姿を消してしまった。
 豊田利晃監督、1998年の作品。うーん、今見るとかなり恥ずかしい・・・。全編いきがった10代男子的なメンタリティで出来上がっている(当時は中二病という言葉はなかったよな)ので、いい大人になってから見るとうへー、てなるところが結構あった。多分、当時本作にはまった10代男子は多かったんじゃないだろうか(そして大人になってから遠い目をして本作のことを思い出すのではないだろうか)。この男子的メンタリティが豊田作品の良さでもあるので、一概に否定できないのだが。出し方がさすがに上手くなったってことか。ともあれ、よくこの地点から『空中庭園』の地点まで持ってこれたなと思うと非常に感慨深い。また、主演の千原浩史(千原ジュニア)の現在の活躍を思うと、更に感慨深い。本作が撮影された当時の状況では、ジュニアがバラエティ番組の司会やるなんて想像できなかったかもしれない(大阪ではそうでもなかったのか?)。
 ただ、時代を超えた何かを本作がつかめたかというと微妙だ。本作は渋谷が舞台だが、実際に渋谷でロケをしており(全部なじみのある風景なのでちょっとうれしい)、渋谷にたむろっていそうな若者を出演させた。時代の空気感を出そうという意欲はわかるのだが、時代に即しすぎた作品は後々になってからの鑑賞には堪えられないのか。それとも、1998年が微妙に昔だからで、もっと時間がたてば独立した作品として見られるようになるのか。風俗の移り変わりがリアルに感じられる程度の「昔」は、ちょっと扱いが面倒だと思う。
 今となっては特に新鮮味もないし意外性もない(本作の主人公のようなことをリアルにやっちゃう事件が頻発するというのがおかしいのだが)、当時としてもわりと出尽くした感のあるストーリーではある。ただ、豊田の映画のクセや好みが既に確立されているという点では面白かった。






『バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版』

 ドイツの田舎町・ローゼンハイムからアメリカ観光に来たミュンヒグシュテットナー夫妻は、ラスヴェガスへの道中にケンカし、夫は妻ジャスミン(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)を置いて車で走り去る。ジャスミンがやっとこさ辿り着いたのは、砂漠の中にある寂れたモーテル「バグダッド・カフェ」。女主人のブレンダ(CCH・パウンダー)は役立たずな夫を追い出し大変不機嫌だった。ジャスミンを怪しむブレンダは、勝手に部屋を掃除したり子供たちと仲良くしたりする彼女を怪しむが、距離を縮めようとするジャスミンに、徐々に心を開いていく。
 1987年、パーシー・アドロン監督による作品。主題歌の「Calling you」はあまりにも有名だ。今回、ニュー・ディレクターズ・カット版が上映されると聞いたので、見てきた(実は映画館で見るのは初めて)。本作を見たのは10年ほど前だと思うのだが、自分の記憶の中にあるよりも、大分変な映画だった。当時かっこよかっただろう演出が、今見ると野暮ったい、単に下手な風に見えてしまうのだろう。登場人物がイラついているシーンではカメラが斜めになるとか、妙にカット割が細かくなるとか、効果の程がよくわからない(笑)。また、ブレンダがあまりにも不機嫌すぎやしないかとは今回も思ったのだが、彼女の人生のどん詰まり感は今見るとよく理解できる(苦笑)。そりゃあイラつきもするさ。
 ハーディがジャスミンにひかれていくというロマンス的な要素はあるものの、基本的には「女だけの都」。映画の核にあるのは女性同士の絆だ。ジャスミンはあまり英語をしゃべれず、2人はそれほど深い会話を交わすわけではない。2人は夫との間に問題を抱えているという共通点があるが、それについて話し合うことはない。しかしそれでも何かが通じていく。こういう絆はある種の夢だと思う。ハーディもブレンダの夫も、実は本作の中であまり必要のない存在なのだろう。
 ジャスミンの手品でカフェがにぎわっていくにつれ、ユートピア的な雰囲気が強まるのだが、そこから「仲が良すぎるのよ」と刺青師のデビーが出て行くところが面白かった。ぬるま湯的すぎてキモいと思う人へのエクスキューズかとも思ってしまった。
 ともあれ、ジャスミンのお掃除能力は本当にうらやましい。うちにも来て!







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