3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『BANDAGE』

 バンドブーム巻き起こる90年代。友人のミハル(杏)からLANDSというバンドのCDを借りたアサコ(北乃きい)は、一気に彼らのファンになる。ある日LANDSのライブに行ったミハルとアサコは、打ち上げにもぐりこむが、アサコはなぜかボーカルのナツ(赤西仁)に気に入られ、練習にも同行するようになった。音楽プロデューサーの小林武史が、岩井俊二の脚本・プロデュースで映画監督デビュー。映像はいかにも岩井俊二作品ぽい。ていうか岩井が監督して小林が音楽プロデュースすればよかったんじゃないの・・・。
 主演の赤西仁がかなり頑張っている。素じゃないの?とうっかり心配になるくらい、チャラい男役がはまっていた。本作、ナツに対して「基本ダメな人です」とはっきりアナウンスしてしまっているので、実は結構損な役ではないかと思うのだが。相手役の北乃きいは危なげがない。良くも悪くも「普通の女の子」を好演している。あと、ちょっとしか出てこないが杏がのびのびとした動きで案外よかった。
 わりと良い部分と、げんなりする部分との振れ方が極端だった。前述の通り、俳優はつたなさもあるが悪くない。しかし、脚本・演出がまずい。岩井はどうしちゃったんだ・・・。概ねアサコ視点なのだが終盤急にアサコが消え、また出現という展開も不思議なのだが、随所随所での、謎なシークエンスが多すぎる。あえて突っ込み待ちをしているとしか思えない。まずナツとアサコの出会いのシーンで、アサコが落としたコンタクトをナツが舐めてきれいにする・・・ってむしろ雑菌増えるからね!またアサコがLANDSの女性マネージャーに口移しで水を飲ませるというのも、どういう流れなのか全く不明だ。そもそもおたふく風邪なのに何で風貌が変わらないんだ。数えだすときりがない。
 また、全般的に若気の至りで書いちゃったような恥ずかしいセリフが多いのにも辟易した。特に、ユキヤ(高良健吾)がアサコを海に連れ出すエピソードでのセリフは、どこの不思議ちゃん(しかもオリジナリティがない)かと。言わされている高良がかわいそうになるくらいだ。そもそもこのエピソード自体があまり必要とは思えず、ユキヤの行動も唐突。登場人物の行動の筋道が、ちゃんと考えられていないところが多い。
 映画としては正直きつい代物だが、小林武史の実体験に基づいているんじゃないかという部分が散見されるのは面白い。レコーディングの際、メーカー側のディレクターがやたらいばっていたり(そしてセンス古かったり)、不本意でも売れ線狙いのアレンジをしなくちゃならなかったり、その曲がうっかりヒットしちゃったり、しかし2匹目のドジョウはいなかったり。お約束的ではあるが、それが逆に生々しい。また、前述したとおりナツに対しては一貫して「顔はいいけど才能ない人」という扱い、LANDSは「良い線いったけどこのままだと消える」扱いなところは、小林は多分、こういうタイプの人、バンドを山ほど見てきたんだろうなと思わせるものがあった。
 少女マンガ的雰囲気とチャラさの中に小林武史の怨念が垣間見える、怪作といえば怪作。でも今後は音楽に専念してください。お願い。






『パリ・オペラ座のすべて』

 一貫して、インタビューを入れない、説明テロップを流さないドキュメンタリーフィルムをとり続けている、フレデリック・ワイズマン監督の最新作。主にアメリカ社会を観察してきた監督だが、今回はなぜか、世界最高峰のバレエ団、パリ・オペラ座に密着している。約160分という決して短くはない作品だが、全く長さを感じなかった。
 バレエといえばダンサーに目が行きがちだが、本作では、バレエ団の経営陣や指導者、衣装製作スタッフや音響・照明スタッフ、更に食堂のスタッフや建物メンテナンス業者まで、バレエ団を様々なセクションの人たちが働く「会社」的なものとして捉えている。ダンスはもちろん見事なのだが、ダンサー以外の職種の人たちの方が、ものめずらしさ含めて見ていて面白い。パリ・オペラ座の場合、生地の染色から衣装作り手がけているというのには驚いた。こういうのはてっきり外注だと思っていた。
 また、経営陣が、寄付金集めの為の見学ツアーのプラン作りをしていたり、年金制度の改変をダンサーらに説明したり(ダンサーの定年は40歳くらいなんだそうです。厳しい世界だなぁ・・・)と、営利団体を運営していくという側面を結構見ることができる。よくここまで撮らせてくれたなという部分も。寄付金の出資者の一つとして「リーマン・ブラザーズの~だったら○口は買ってくれる」というような会話があったのだが、その後無事寄付金回収できたのか心配になってしまった・・・。資金面の心配は、やはり常にあるんだなと。なおアメリカからの出資者も多い様子で、アメリカ人出資者向けのツアーの企画をスタッフが相談しているのだが、うっすらとアメリカ人を小バカにしている気がしたのは気のせいだろうか。
 ワイズマンの作品を見るたび思うのだが、同じ題材で同じ映像を撮っても、他の人が編集したらもっと退屈になるんだろうなー。編集がいかに大切かということを毎度実感する。なぜ上手いと感じるのか説明できなくてもどかしいのだが・・・。リズム感がよくて視線の誘導が上手いんじゃないかと思う。





『リリアン』

エイミー・ブルーム著、小竹由美子訳
20世紀初頭。ユダヤ人迫害により家族を殺され、ロシアから親戚を頼ってニューヨークへと渡ったリリアン。劇場経営者父子の愛人となって不自由のない生活をしていたが、幼い娘ソフィーが生きているという話を聞き、単身シベリアを目指す。ユダヤ人女性のロードムービー的小説であるが、その一方で、彼女が道々出会った人たちのその後の人生が語られ、それがアメリカ現代史の一面を象徴するものになっている。リリアンのソフィーを捜す旅は、現実的に成功しそうなものではない。しかし彼女はシベリアに向かわずにはいられないのだ。娘の存在は彼女にとっての希望でありながら、彼女に課せられた呪いのようなものでもある。それに突き動かされていく彼女の姿はある種異様だ。彼女だけが半ファンタジー的な世界に生きているようにも見えるのだ。といっても浮世離れしているのではなく、顔と体を利用できるところでは利用し、結構ふてぶてしく生きていくところが、単なるけなげな女になっていなくていい。






『まずいスープ』

成井昭人著 
まずいスープを作った後に失そうした父親を捜す、「おれ」と母親、従姉妹のマーを描いた表題作の他、中編2作を収録。文章力のある作家だと思うのだが、その文章力を駆使して表現するのが父の作ったスープのまずさ・・・いや本当にまずそうなの!すごい説得力があるの!うだつの上がらない人、ダメな方にダメな方に流れる人の心理の流れの切り取り方が上手くて、いやーな汗をかいた。特に、「どんぶり」での変な理由をつけてギャンブルで当てた金をどんどん浪費していく男の、楽な方へ楽な方へと流れていく感じは生々しい。美しいもの、役に立つもの、ちゃんとした人間は描かないぞ!という作者の心意気を感じます。人生の大半は美しくも役に立つものでもないが、そうでなくても、またちゃんとした人間でなくても、不幸というわけではないという部分をすくい上げたいのではないかと思う。






『サヨナライツカ』

 1975年のタイ。バンコク支社に赴任中の航空会社社員の豊(西島秀俊)は、日本で待つ婚約者の光子(石田ゆり子)との結婚を控えていた。ある日豊は、奔放な女性・沓子(中山美穂)に出会う。豊は彼女との情事に夢中になるが、結婚が近づき分かれようと決意する。原作は辻仁成の同名小説。
 日本人キャストだが、監督は韓国のイ・ジョハン、スタッフもほぼ韓国勢。映画の雰囲気もいわゆる「韓流」ぽい、ど直球のメロドラマだ(そもそも原作がそうなんでしょうが)。唐突にコメディタッチになるところ(豊が電話にダイブするところはギャグだよね・・・?未来の世界を想像するところも唐突で笑ってしまう)や、三枚目の親友がいるところも韓流映画を彷彿とさせる。韓流ドラマだと思えば、怒涛の展開(唐突すぎる展開とも言う)にも歯が浮くようなセリフにもなんとなく納得できるのが不思議だ。24年後も愛し合うという失笑ストーリーにも、恋愛映画のお約束として目をつぶろう。
 ロケ地にも助けられて前半はなんとか見られるが、24年後の後半はきつい。まず老けメイクの出来が悪く(特に男性陣)コントみたいに見える。老け演技も、監督からそういう指示があったのかもしれないが大分ひどい。しゃべり方をゆっくりにすればいいってもんじゃないでしょう!豊の長男がグレてバンドマンになっている(そして曲が野暮ったい)のもいつの時代のテンプレだと吹き出しそうになった(過剰にいい子な次男の方がまだ説得力ある)。何より、沓子のキャラクターが変わり過ぎ!あのやんちゃな女に何があったんだ(笑)!2人の関係の落とし方も、あまりに安易(これは多分原作の問題でしょうが)。世の心ある恋愛映画、恋愛小説に対して失礼だろう。
 沓子を演じる中山美穂にとっては、復帰第一作となる。しかし大分ケチがついてしまった。演技力の問題もあるのだろうが、きれいではあるがそんなに魅力的でもないので、奔放な振る舞いが単なるイタい女に見えてしまう。セクシーな格好(特にメイク)が案外似合わない人なのかもしれない。豊役の西島は、「好青年」と呼ばれるのだそんなに好青年にも見えない(笑)。この人はやさしい男の役でもひどい男の役でも、全くテンションが変わらないところがすごいと言えばすごい。実に無難だが、やる気もあまり感じない(笑)。もっとも体をきっちり作っているところは流石。
 フライヤーを見た時点でこれは去年のアマルフィ(フジTVつながりで)に匹敵する珍作の予感・・・!と戦々恐々としていたのだが、まあ予想通り。ただ、アマルフィは「原作はもうちょっとマシだろう」と思わせたのに対し、本作は「原作もアレなんだろうな」と思わせたという点か。






『ボーイズ・オン・ザ・ラン』

 小さな玩具メーカーに勤める29歳の営業マン、田西(峯田和伸)は、企画部のちはる(黒川芽衣)に片思いしている。大手玩具メーカーのやり手営業マン・青山(松田龍平)のアドバイスに従い、ちはると何となくいい感じになる田西。しかし、風邪をひいた彼女を見舞った直後、とんでもない失態をし、嫌われてしまう。
 原作は花沢健吾の同名マンガ、監督は三浦大輔。本作はなんといってもキャストがいい。田西役の峯田は本職はミュージシャンだが、『色即ぜねれいしょん』等、役者としての仕事も目立つ。今回は役者としての仕事の中ではベストではないだろうか。キャスティングを知った時点では、もっと平々凡々な風貌の人の方がいいのではと思っていたのだが、田西の情けなくも一生懸命な姿を見事に体現している。『夢を諦めないで』熱唱シーンでは地に戻ってしまっていた気がするが、好演。またちはる役の黒川が、女子慣れしていない男子がいかにもひっかかりそうな「ちょっと隙がある普通の女の子」におもしろいくらいハマっている。ちはるは高感度が高いキャラクターではまずない(男子には恐れられ女子には嫌われるだろう)ので、演じる側にとってはリスクは高いと思うのだが、その辺を全く考慮していない捨て身の演技に唸った。ものすごく上手いというわけではないのだが、度胸のある役者だと思う。
 さて、私は映画を見る際に、登場人物のダメさを、それが男性であれ女性であれ、過剰に自分にひきつけて見てしまう(登場人物のダメさの中に自分のダメさを見てしまう)傾向があるらしく、ダメな人が出てくる作品は、見ていて時々きつくなる。本作の主人公である田西は、2010年度みっともない主人公ベスト10があればまず上位ランクインできるレベルのみっともなさなので、映画は面白いのに痛くてなぁ・・・。
 田西はハンサムではないが不細工というわけでもないし、根は真面目だ。情けなさがかわいく見えもするので、まるっきり女性に好かれないということはないだろう。現にちはるともいい線まではいくのだ。しかし田西は、ここぞというところで絶対に間違った行動をとってしまう。なんなんだよその自ら地獄へ突っ込むようなチョイスは!悪い女にひっかかったというよりも自滅に近いというのがきつい。間違った行動をとってしまうという点ではちはるもどっこいどっこいで、少なくとも原作ほどのビッチ加減ではない。理論は間違っているが好きな人に対するブレはない。男が振り回されるというより、噛み合わせのずれた男女がどんどん取り返しつかなくなっていく感じ。やりようによってはこの2人上手くいったんじゃないかと感じられるところが切ない。




『今度は愛妻家』

 かつては売れっ子だったが、今は貯金を食いつぶす自堕落な生活をしている、カメラマンの北見俊介(豊川悦司)。めげずに彼の世話を焼いていた妻のさくら(薬師丸ひろ子)も、とうとう愛想を尽かして出て行ってしまう。時々、思い出したように帰宅さくらに、不満たらたらの俊介だが。
 監督は行定勲。原作は中谷まゆみの舞台用脚本。『遠くの空に消えた』の美術のセンスの悪さ(妙な少女趣味というかファンシー好きというか)に辟易させてくれた行定監督だが、本作ではやや修正されている。相変わらず作りこみすぎが鼻につくセットではあるのだが、前作よりは肉体感がある。「そこそこ売れたカメラマンが頑張って建てちゃった家」らしくなっていて、ちょっと笑えた。元々舞台用の脚本なので、演出上の制限もあったのだろうが、敷地面積の狭さや、子供がいないことを前提とした間取りは妙にリアルだ。
 全く期待していなかったせいか、案外楽しく見ることが出来た。冒頭の無声映画的演出を見た時はどうなることかと思ったが・・・行定監督はシャレていると思ってやっているのかもしれないが、大体裏目に出ているような気がするんだよなぁ・・・。凝れば凝るほど野暮ったくなるというか。本筋に入ってからは大変ベタな話なので、腰を据えてベタに撮ってみてもよかったかも。
 宣伝されていた「驚きのラスト」とやらは、かなり早い段階で見当がつくのだが、これは宣伝に使わなければ良かっただけの話で(笑)、作品上の瑕にはなっていないと思う。むしろ、オチがわかってからのひっぱりがきつかった。全体的に枝葉が多すぎるように思った。アシスタントと女優志望の女の子の恋愛エピソードも蛇足気味(濱田岳がよかったので残念だが)。映画の尺は100分くらいで丁度良かった気がする。
 オチの付け方等、少々安易だとは思うのだが、「思い立った時にはいつも手遅れ」というやるせなさには共感できる。やっぱり、言える時にマメに言っておいた方がいいですよ(笑)。






『シャネル&ストラヴィンスキー』

 デザイナーのシャネルと作曲家のストラヴィンスキーという、同時代に活躍した実在の2人を主人公にした作品。もちろん実話がベース。『春の祭典』の衣装をシャネルが手がけたというのは知っていたが、2人が恋人だったとは初めて知った。2人の関係はもちろん、当時の風俗が垣間見えるのも興味深い作品。有名人ぞろぞろ出てくるしな。ちょい役ではあるが、ディアギレフが山師っぽさとしぶとさをにおわせる、いい味出している。「秘書面接」にはウケた。
 1913年。パリでバレエ・リュスの「春の祭典」が初演されるが、ストラヴィンスキー(マッツ・ミケルセン)による音楽・ニジンスキーによる振り付け共に酷評された。しかし客席にいたシャネル(アナ・ムグラリス)は作品に興味を引かれる。7年後、フランスへ亡命したストラヴィンスキーとその妻子に、シャネルは自分の別荘を提供した。やがて2人は激しい恋に落ちる。監督は『ドーベルマン』のヤン・クーネン。
 ストラヴィンスキーには既に妻子がおり、しかも妻との関係が悪いわけではない。むしろ彼の曲の譜面作り(ストラヴィンスキーは譜面書きが苦手だったらしい)を手伝うくらい、彼の音楽に対する理解者でもあった。そういう状態で家族もろともシャネルと同居、あっさり恋人関係になってしまうストラヴィンスキーも、堂々と彼を誘うシャネルも肝が据わっているしタフだし、いっそ感心する。あの時代に女一人でのし上がったシャネルがタフなのは当然なのだが、流れに任せるようでいて結構しぶといというかずぶといというか、動じているようで動じないあたりが面白かった。また、タフさで言えばストラヴィンスキーの妻も相当なもので、愛が深いといえば聞こえはいいが、じっとりとしたうたれ強さに唸った。途中で耐え切れず出て行くが、あれは夫が自分を捨てることはないと確信しているからじゃないか。
 本作は、ストラヴィンスキーが『春の祭典』を酷評され、再演で喝采されるまで、シャネルにとっては今や知らぬものはいない香水「No.5」を売り出すまでの期間を描いている。しかし2人がお互いの作品に対してコメントするシーンは(多分)ない。シャネルはストラヴィンスキーを支援するが、音楽について理解が深いわけではなかったと思うし、ストラヴィンスキーは女性のファッションのことなど大して知らなかっただろう。2人を結びつけたのは、何か、世間には理解されにくい革新的なことをやろうとしているという姿勢だ。2人がなぜ惹かれあったのか、映画内でセリフ等で明示されることはないが、戦う姿勢が共感しあったのだと思える(シャネルの方が一足先に社会的には成功しているので、ストラヴィンスキーの攻めの姿勢に共感したのかとも)。1度も「愛している」という言葉を使わないのが印象に残った。
 私はシャネルにもストラヴィンスキーにも特に興味はないのだが、本作は結構面白く見た。衣装やセット等も凝っていて、見た目にも楽しめる。シャネルの服はさすがにエレガントで見ごたえあり。ちなみになぜ本作を見ようと思ったかと言うと、シャネル役のムグラリスの顔が好きだからです。昨年はシャネル関係の映画が2本公開されたが、ムグラリスのシャネルが一番シャネルっぽいんじゃないかと思う。






『サロゲート』

 人類の80%が自分の身代わりロボット「サロゲート」を外出時に使っている近未来。FBI捜査官のグリアー(ブルース・ウィリス)は、若い男女が殺された事件を担当する。2人はサロゲートで、眼球もIDチップも黒こげだった。ピーターズは女性サロゲートの持ち主をたずねるが、持ち主の「男」は目から血を流して死んでいた。サロゲートに何が起ころうと持ち主の人間は無事というのが、サロゲートメーカー企業の売りだったはずなのだが。監督は『ターミネーター3』のジョナサン・モストウ。
 身代わりロボットに意識を移して遠隔操作するという設定は、『アバター』と似ている(アバターではロボットではなく人工生物だが)。ただ身代わりのボディに対する主人公の感情は間逆で、アバターでは肯定的だったが、本作は否定的。本作の方が昔ながらのSFの雰囲気がある。サロゲートの充電や、顔の表皮加工などの細かい設定も、どこかレトロ。
 ただ、SF設定ではあるものの、本作にはびっくりするほどセンス・オブ・ワンダーを感じない。監督はSFジャンルにあんまり関心がないのではないだろうか。カーアクション等は手堅く魅せるので、むしろアクション映画ジャンルの人なんだろうなと思う。本作で監督が一番撮りたかったのは、予告編にも使われていた、人がいっせいに倒れるところじゃないかなー。あそこだけ妙に完成されている。
 サロゲート社会を巡る陰謀と、主人公の夫婦間の葛藤が描かれるものも、1本の映画としては上手く噛み合っていない気がした。主人公の夫婦問題は、サロゲート使用有無とはあんまり関係ないんじゃないかなー、それよりもっと夫婦の会話とかさ!と突っ込みたくなる(笑)。このへんの大味さからも、監督が実はサロゲートという題材自体には興味ないんじゃないかという気がした。それでも、それなりに纏めてくるあたりは職人ぽくて嫌いではない。大味だし決して出来のいい映画というわけではないが、なんとなく嫌いになれない作品。
 嫌いになれない一因は、主演がブルース・ウィリスであるということだ。今回は驚愕の「髪の毛フサフサバージョン」も披露しているのだが、彼が出ているとなんとなく見ちゃう。これがスターというものか。サロゲートのウィリスの方が髪の毛あってこぎれいなのだが、ハゲでヨレヨレの生身の方がずっと魅力的。本作で一点だけ感心した点が、ウィリスとその妻に関しては、ヨレヨレでも小汚くても生身の肉体の方が魅力的に見えるようにちゃんと撮っているという点だった。
 なお、サロゲートの特質を活かすはずのシーンが、字幕のせいで台無しになっている部分が1箇所あって気になった。ちなみに字幕は戸田奈津子先生なのだが、文脈を理解していないということはないと思うので、さらっと訳してミスしちゃったのか。






『ゴールデン・スランバー』

 運送ドライバーの青柳(堺雅人)は、学生時代の友人・森田(吉岡秀隆)に呼び出される。なにやら様子がおかしい森田は、青柳に「お前、オズワルドにされるぞ」と忠告。そして、2人のすぐそばに来ていた首相の凱旋パレードで爆発が起き、2人に警官が近づいてきた。森田の言葉に従い青柳は逃げるが、心当たりのない証拠画像が公開され、首相暗殺犯に仕立てられていく。
 原作は伊坂幸太郎の同名小説、監督は、『アヒルと鴨のコインロッカー』『フィッシュストーリー』と伊坂作品を続けて映像化した中村義洋。中村監督作品は大概見ているのだが、出演者のチョイスがいつも上手い。しかし上手すぎるせいで、結果的に俳優の力に頼りすぎではないかという思いがいつもぬぐえず、いまひとつ(映像とか構成とかの面で)物足りなかった。しかし今回初めて、監督として上手くまとめているんじゃないかと思った。原作が映像向きという強みもあったのだろうが、エピソードの取捨選択とか、捌き方、纏め方が上手くなっているように思う。最後の最後でいつもの説明癖が出ちゃったのには、ありゃーと思ったが。
 私は、実は原作小説は面白いと思うがそれほど好きではない(というより、本作をもって伊坂作品を新刊で追うことをやめてしまった)。しかし今回の映画版は楽しく見ることが出来た。映画のテンポが速くてダレないというのもある。また、原作の苦手だった部分、主人公が無傷の「いい人」であるという点、学生時代のサークルを「帰るべき場所」としている点が、映像化されることで大分緩和されたように思った。主人公の性質に関しては、主演の堺の力だろう。いい人だけどかなりヘラっとした感じが出ているので、人としての隙が感じられるというか、まあこの人だったらいい人で人を疑わずハメられちゃったとしてもしょうがないなぁ、という気になってくる。生身の俳優の説得力はすごいなと。学生時代への郷愁に関しては未だ納得できない(笑)のだが、大学生時代を演じる劇団ひとりと吉岡にさほど違和感がない(堺と竹内結子は大分無理がある)ことに目を奪われ気がまぎれた。
 また、映画として見て改めて、伊坂の伏線回収にかける情熱はちょっと異常だと思った(笑)。パズルがはまっていくような面白さはあるのだが、やりすぎると非常に箱庭的、作り物感が強い雰囲気になってしまうので、いわゆる本格ミステリ以外のジャンル、特に実在する場所を舞台にしたような作品では、個人的にはやりすぎない方がいいと思う。でも詰め込めるだけ詰め込みました!みたいな感じになっていて、ここまでやると笑ってしまう。気持ちがいいことは気持ちがいいが、ミステリ属性のない人にはどうなんだろう。
 キャスティングが上手い中村監督だが、今回も脇に至るまで(というかむしろ脇が。堺は今回はさほど突出してない)ばっちり。そして非常に豪華だ。TVでよく見る人がいっぱい出ているよ!という豪華さではなく、脇の人だけでも映画を作れるような豪華さ。特に伊藤四郎のかっこよさに痺れた。唯一ミスマッチだったのは香川照之。下手ではもちろんないが、今回はいかにも「香川がよくやる役」らしすぎ、セルフパロディみたいになってしまっている。あの役だったら、逆にアクのない人の方が怖くてよかったかも。そして竹内結子のよさは、未だに私にはぴんとこない。
 なお、題名はビートルズの曲から。映画内でも登場人物たちが口ずさむなど、頻出する。しかしビートルズのオリジナル版は一切使わないという荒業。サントラと主題歌を手がけた斉藤和義のカバーバージョンを使っているが、いいカバー。サントラもロックで良い。




『Dr.パルナサスの鏡』

 1000歳以上だというパルナサス博士(クリスタオファー・プラマー)が率いる旅芸人の一座がロンドンにやってきた。博士は悪魔(トム・ウェイツ)と取引し不死を得たが、娘が16歳になったら悪魔に差し出すのが取引の条件だった。16歳の誕生日を間近に控えた博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)は、橋から吊るされていた男トニー(ヒース・レジャー)を助ける。男は記憶喪失だったが妙に口が上手く、閑古鳥がないていた一座にもお客を呼び込んでくるのだが。予告編では少女を救う為に鏡の中へ!というような雰囲気だったが、実際には私欲渦巻いており、ちゃんとした大人が一人もいないという、ギリアムらいしといえばらしいお話。
 テリー・ギリアム監督の新作。主演にヒース・レジャーを起用したものの、撮影途中でレジャーが死亡し、残りの部分を彼の代役としてジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが演じている。このニュースを聞いたときはなんという荒業と思ったのだが、実際に映画を見ると荒業感はない。俳優が代わるべくして代わっているように見える。むしろ、申し訳ないがヒース・レジャーがミスキャストなようにも・・・。彼は軽妙・軽薄な役はあまり得意じゃなかったのかなと思う。
 対して、ジョニー・デップやジュード・ロウは緊急の代役とは思えないほど作品世界に馴染んでいる。それが役者としての力、というとそれまでなのだが、2人とも胡散臭い役が似合う。デップは一連のティム・バートン作品やパイレーツオブカリビアンシリーズで、変キャラが定着している(というか本人好きなんだろうな・・・)し、ロウは美形は美形だがかなりアクの強いタイプの美形なので、普通の人の役よりちょっと奇矯な人の役の方が違和感ないんだよな(笑)。となると浮いているのがコリン・ファレルだが、彼はヴァランティナの「こんな人と家庭を築きたいワー」という想像の中の男性なので、普通っぽい感じでいいのだろう。しかしこれ、ファレルに対して「インテリア雑誌に出てくるモデルぽい」と言っているみたい(笑)
 おそらく突貫工事的に脚本や構成を変えているだろうから、しょうがないといえばしょうがないのだが、話の運びの段取りが悪く、なかなか肝心のDr.パルナサスの鏡の中の世界に入っていかない。導入部の長いこと長いこと。そこにそんなに注力しなくても、というところに力が入っている。ギリアム監督の作品を見るたび思うのだが、組み立てがあまり上手くない。
 鏡の中の世界の描写はギリアムのイマジネーションが存分に発揮されるのではと思ったが、これが案外肩透かしだった。CGで描けるから何でもできるはずなのだが、制限のある実写によるファンタジー世界よりも、却って薄味になってしまった。なんでもできると絵に賭ける怨念(笑)が薄まるのか?時間にしろコストにしろ、ギリアムはある程度周囲からの制限を受けたほうがいい作品をつくるんじゃないかなと思った。なお、エンドロール後に一オチあるので最後までどうぞ(映像ではないです)。悪夢感が強まります。




 

『ラブリー・ボーン』

 14歳の少女スージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)は、近所に住む男に殺されてしまう。警察の捜査は進まず、残された家族にはスージーの生死もわからない。現世と天国の境に留まったスージーは家族を見守るが、両親の仲はぎくしゃくしていった。原作はアリス・シーボルトの同名小説。監督は『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン。
 主演のローナンは『つぐない』で「美少女」と呼ぶには若干躊躇する、妙な魅力を発揮していたが、本作では正統派なかわいらしさを見せている。演技も達者でやたらと安定感がある。さすが13歳でアカデミー助演女優賞にノミネートされただけのことはある。また、スージーの父親役が『サンキュー・スモーキング』『ダークナイト』のマーク・ウォールバーグ、母親役が『ナイロビの蜂』『コンフィデンス』のレイチェル・ワイズ、祖母役がなんとスーザン・サランドンという豪華かつ安定感が非常に高い面子。全員好きな役者なのでこれはうれしかった。特にサランドン演じる祖母は、いわゆる模範的な「おばあちゃん」ではなく、むしろ母親としては問題の多い人だったんだろうという部分が垣間見えるのだが、そこがまた面白かった。
 さて、主人公は殺された女の子で犯人は野放しで、となると、これは犯人探し(探偵=被害者バージョン)ないしは復讐ものとなるのか?と思いきや、そういう方向には行かない。本作では、基本的に死者は生者に対して何も出来ない。スージーは家族や犯人をただ見ているだけだ。父親や弟がかすかに彼女の存在を感じることはあるが、コミュニケーションがとれるわけではない。また、終盤に一つだけ例外があるが、それも現実に対して具体的な影響を及ぼすものではない。
 つまり、幽霊となったスージーの存在、彼女があの世で体験していることは、両親ら遺族の想像の中のことだと考えてもいい。本作はむしろ、スージーを失った人たちがどうやって立ち直っていくかがポイントになっているのだろう。そう考えると、なぜこういうラストになったのかも合点がいく。いわゆるお話の「お約束」を逸脱しているので、不満に思う人もいるかもしれないし、正直私もちょっとすっきりしないところはあるのだが(それが出来るなら再犯防げよ!と突っ込みたくなるし、ジャンル違いとわかっていてもやっぱり大復讐劇を期待しちゃうんですよね・・・)。
 ピーター・ジャクソン監督作品ということで、死後の世界をどんな映像で表現するのか楽しみだったのだが、ちょっと拍子抜け。労力がかかっているのはわかるが(エンドロールの長さがはんぱない。『アバター』より長いんじゃなかろうか)、割と凡庸。そんなに心ひかれるものもなかった。むしろ、俳優の演技の方がしっかりとしていて、映画を支えている思う。






『板尾創路の脱獄王』

 昭和初期の日本。脱獄の天才・鈴木雅之(板尾創路)は脱獄を重ねるが、その度に鉄道の線路の近くで捉えられていた。看守長の金林(國村隼)は、鈴木の行動に興味を持ち始める。
 お笑い芸人であり、俳優としても活躍している板尾創路の初監督長編映画。タイトル文字が出たところで思わず笑った。いや大真面目なシーンなんですけど何か・・・あまりにも堂々としすぎていて・・・。脱獄王というからにはクライムサスペンスか?!と思いきや、肝心の監獄・脱獄自体は結構ファンタジックで、サスペンスとは程遠い。では芸人・板尾の面目躍如なコメディか?というと、おかしみはあるもののいわゆるコメディとはまた違う。またなぜ鈴木は脱獄し続けるのかというミステリ的な要素もあるが、そこもちょっと弱い。監督である板尾本人と同様、とらえどころがない映画だった。ジャンル付け自体を否定しているようでもあるのだが、肩肘張ってアンチジャンル分け!というのではなく、思うように作ったらこうなった、といわんばかりの自然体。
 お笑い芸人が監督した映画というと、昨年は『しんぼる』、『ドロップ』、『ニセ札』を見たのだが、これらと比べると本作は大分のんびりとした雰囲気。間の取り方など、なんとなく昔の映画ぽいなと思った。監督自身はオーソドックスな娯楽映画を撮るつもりだったんじゃないかという気もする。意図して奇をてらったという感じではない。どこまで計算してやったのかよくわからないんだよな・・・。
 最後は吹き出すと同時に唖然とさせられた。こう落とすか・・・。でも嫌いじゃないです。最後にテーマ曲が流れ出すあたりが何かに似ていると思っていたのだが、『ルパン三世』スペシャル版だと思い当たった。そうかールパンかーと思うと、映画自体あまり不自然じゃないです(笑)。なお、吉本の芸人が多数出演している。吉本製作である以上しょうがないが、ちょっとうるさかった。あとエンドロール見ていたら出演者の仲に冨永みーながいてびっくり。どこにいたの?!







『アバター』

 負傷し車椅子生活となった元海兵隊員のジェイク(サム・ワーシントン)は、衛星パンドラで行われるアバター・プログラムへ召集された。アバター・プログラムとは、パンドラの原住民と人間の遺伝子から作られた肉体に、人間の意識を送り込み、パンドラでの生活を体感するというもの。パンドラには豊富な地下資源があり、民間企業はその採掘の為にアバターによるパンドラの体験、原住民との交渉を行っていたのだ。ジェイクの兄はこのアバター・プログラムに参加し、自分の遺伝子を提供していた。兄の遺伝子を使ったアバターを使えるのは、双子のジェイクだけだったのだ。ジェイクは徐々にパンドラの生活にのめりこんでいく。
 ジェイムズ・キャメロン監督による、3D上映が話題のSF。3Dで見る必要があるのか?と半信半疑で見たのだが、これは確かに画期的だ。キャメロンにとっては10数年ぶりの新作となるが、こんなに間が空いたのは、本作のような映像を可能にする技術が開発されるのを待ってたからでは?と思える。3Dといっても、いわゆる飛び出す映画みたいなものではなく、むしろ奥の方に広がる(手前ももちろん間近に見えるが)、遠くがよく見えるといった感じのもので、ロングショットに強みがある。クロースショットだと案外魅力が出ない。クロースのアクションシーンなどは、画面がごちゃごちゃしすぎて何が起きているのかわからないところもあった。ともあれ情景の生々しさに驚いた。対象が近くに感じられるというより、自分の周囲に映像内の世界が広がる感覚に近いと思う。
 この生々しさを体感すると、キャメロンが自身の3D上映作第一弾としてアバターという設定を使った理由がなんとなくわかる。新しい世界を体感するジェイクを、映画の観客も追体験するような形にしたかったのではないかと思う(本来の肉体とは別のところで体感する感じというか)。もちろん、3D上映技術はそこまで生っぽくはないのだが(笑)、単なる「飛び出す映画」にしたくなかったのは確かだろう。
 本作は、ストーリーにしろ舞台設定にしろ、3D上映という特質を生かすことを前提として作られている。深い森も、飛行シーンがあるのも、空に浮き島みたいなものがあるのも、「遠くが見える」感を強調できるからだろう。ストーリーは映像に従属するもので、正直どうでもいい。『ダンス・ウィズ・ウルブス』と『もののけ姫』と『地獄の黙示録』をちゃんぽんにして3で割った感じだ。監督もおそらく、それなりに筋が通り起伏があれば、ストーリーに新鮮味はなくてもいいと思っているのでは。
 本作はキャメロンにとっては3D映画のテストケースみたいなもので、もっと他にやりたいネタはあるんじゃないかと思う。多分、彼には3Dという上映方式が向いているのだろう。他の監督でここまでさばけるかというと微妙。多分、普通に映画撮るのとはもうちょっと違う才能が必要なのではないかと思うので(画面設計とか)。もし今後3D上映が映画のベーシックになっていくとしたら、映画のジャンル、傾向はかなり変わってくるのだろう。しばらくは従来の2D上映と二極化するのかな(全ての映画が3Dである必要性は感じないので)。なお、本作を見るのであれば3Dをお勧めするが、見え方に個人差があるらしいのでご注意を。同行した友人は上映開始1時間くらいで耐えられないレベルに気持ち悪くなったそうだ。また、座席の位置によっては映像がダブって見える。


 

『ねにもつタイプ』

岸本佐知子著
英米文学翻訳家である著者のエッセイ。前作エッセイ『気になる部分』でも奇妙な妄想世界を披露してくれた著者だが、本作ではより磨きがかかっている。なんでこんな方向へ?!という急展開を見せる。しかも劇的な急展開ではなく、はたと気付くと自分の視覚が変容していたというような、スムーズ(笑)な移行というか、しれっとして世界がひん曲がる。特にびっくりしたのが「リスボンの路面電車」。そうくるか。ていうか路面電車関係ないじゃないすか!なんというか、勇気あるなぁ・・・。ただ、こういうネタを読ませることができるのは、著者の文章力が相当に高いからだろう。書かれたものというよりも、書き方のうまさの方に目がいった。どんなにネタがよくてもそれを活かせる文章力がないと意味がない。また一方で、結構「あーそうですよねー」と共感できる話が多い。特に子供のころの遊びの話には深く頷けるものがあった。私も著者と同じタイプの子供だったのか。







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