3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ザ・ロード』

 文明が崩壊して約10年が経過した。空を厚い雲が覆って気温は下がり、地震と火事が耐えない。わずかに生き残った人類は食料の奪い合い、人肉を食べる集団もいた。文明崩壊後に生まれた幼い息子を連れた父親(ヴィゴ・モーテンセン)は南を目指す。息子に理性や道徳を教え、自分達が「火を運ぶ」のだと言い聞かせながら。
 原作はコーマック・マッカーシーの同名小説。監督はジョン・ヒルコート。原作にはかなり忠実だ。マッカーシーの文体のように抑制がきいているが、だからこそ「世界の終わり」感がじわじわ浸透してきて辛い。ショッキングなシーン、残酷なシーンが直接映されないのも、ホラー映画的な見せ場を排していることで却って怖い。息子に自殺の方法を教えるところは、さらりと流されているもののやりきれない。
 描かれるのは、いざとなったら自殺しろという言葉にも納得してしまうような世界だ。父親の妻(シャリーズ・セロン)は、世界に絶望し夫と子供を残して姿を消してしまう。この世界は誰も他人を信用しないし、他人に親切にすることが命取りになったりもする。そんな中、息子は他人への思いやりを示し、自分達が持つものを分け与えようとする。父親はせめて人間としての尊厳を保つ為に息子に思いやりの心を教えるのだが、それが息子にとっての命取りになりかねないというジレンマ、そして息子に対して正しい父親としての振る舞いを見せられないというジレンマで父親は苦しむ。ただ、主人公が生きてこられたのは他でもない子供の存在があったからではある。子供の存在は苦しみを強めるが希望でもある。
 寒さも飢えもしみじみと苦しさが伝わってくるのだが、子供に何もしてやれない、また子供の前でどう振舞えばいいのか、という苦しみの方が切実に現れていた。こちらの方が見る側にとって(少なくとも現代日本では)想像しやすいからだろうか。父親の回想の中で、まだ正常だった頃の世界、そして妻が描かれるのだが、文明崩壊後とのギャップが激しくこれまた辛い。どこでどう間違ってこうなっちゃったの・・・、という絶望感。
 見終わってぐったりとする映画ではある。近年の終末映画では『トゥモローワールド』が印象深いが、それなりに起伏があり生の力強さも垣間見えた『トゥモロー~』に対して、本作はかなり地味だしダウナー。しかし地味ゆえに妙に説得力があり見た後はうっすら欝状態になる。私は試写会で見たのだが、上映終了後場内はある意味騒然(笑)。隣に座っていた伯母様方は「こんな気分のまま家に帰れない!」と言っていた。多分、実際に子供を持っている人だと主人公の苦しみがより強烈に響くのではないだろうか。




『宇宙ショーへようこそ』

 わさびが名産の集落で、全校生徒5人の小学校に通う夏紀(黒沢ともよ)と従姉妹の周(生月歩花)。子供たちだけの夏休み合宿の最中、夏紀達は裏山で怪我をした犬を見つけ、学校に連れ帰り手当てをした。しかしその犬は地球から2100万光年離れた惑星プラネット・ワンからやってきた宇宙人だった。助けてもらったお礼にと、ポチは夏紀たちを月へ招待する。
 監督はTVアニメーション「かみちゅ!」の舛成孝二。「かみちゅ!」はロケハンの丁寧さ、美術の精緻さで有名だが、本作も美術が素晴らしい。ちょっと昔のSFファンタジーを思わせる惑星の造形もいいのだが、個人的には夏紀たちの住む家や学校、野山の造形にひかれた。夏紀の部屋がやたらと散らかっていて色気もへったくれもないあたりが素晴らしい。細かいところへの目配りが行き届いている。キャラクターの動きも実に良いのだが、メインキャラクターだけでなく、大量のモブの宇宙にそれぞれちゃんと個性があり違う動きをしているというのにはちょっと感動した。
 ただ本作、好作ではあるが傑作・秀作とは言いにくい。あと一歩で絶賛できそうなのになんとも惜しいのだ。で、どのへんが難点かというと、まず脚本。少人数の学校で、年長の子が年少の子の面倒を見てうまくやっていく、また月ではお金を稼がざるをえなくなるなど、子供が力を合わせて生活する、しかも労働までする。このお金と労働の部分が結構面白いし、お子さんを巻き込んだ夏休み映画としては最適じゃないかと思ったのだが(笑)、この部分は早々に終わってしまう。宇宙ショーの謎やら誘拐やらが絡んでロードムービーぽくなり更にはお姫様を救うヒーローものになりと、映画の主軸がどんどんずれていく。子供達それぞれに乗り越えるべき課題があるということから、成長物語という部分を中心におこうとしていたのはわかるのだが、ほかの要素を詰め込みすぎたかなと思う。エピソードの入れ方、組み立て方が、長編映画というよりもTVシリーズのようだという印象を受けた。1話30分で2クールくらいだとすごく面白いんだろうけど映画としてはダイジェスト版みたい。
 特に、エピソード単体としては悪くないのに、映画として組み込むと座りが悪くなった、ポチとかつての研究仲間のエピソードがもったいない。ポチ役の藤原啓治が妙にハマっているだけに。この人、たまにかっこいいけど大体ふがいない大人という役が定着しきってしまった感があるが、大丈夫か(笑)。
 絶賛できない、というか正確には万人にはお勧めできない要因のもう一つは、少年少女、特に少女の肉体に対する執拗なまなざしだ。すごくよく描けてる、でも描け過ぎていてキモいわ(笑)!ふとももとか腰とかの描写に、セクシャルな要素が出すぎてしまって、子連れやカップルで見るにはちょっときつい。お話は子供も大人も楽しめるいい夏休み映画になりそうなのに、このまなざしによって視聴者かなり狭まってしまいそうで勿体無い。この部分を払拭しないとファミリー向けにはならないんだろうなぁ。どういう客層に向けて作ったのかいまいちわからない作品だった。




『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』

 サブタイトルが微妙すぎるのだが、「ハングオーバー」という単語になじみがない日本では仕方ないか。そういえば独身最後の夜に無礼講パーティー、という慣わしも日本ではあまり聞かないなぁ。男性諸君はこういうイベントやっぱりやりたいんですかね?結婚式を控えたダグの為、友人ノフィルとスチュ、そしてダグの婚約者の弟アランは、独身最後の夜を楽しむ為にラスベガスへ向かう。そして朝、ホテルで二日酔いに苦しみながら目を覚ましたフィルたちが見たのは、荒れ果てた部屋とトラと赤ん坊。そしてダグは行方不明になっていた。
 記憶喪失映画というとやたらとシリアスだったり、SF方面にもっていったりというパターンが多いのだが、本作の記憶喪失は酒(だけじゃないんだけど)の失敗という情けなさ。私は飲酒しないので二日酔いの辛さと記憶が抜ける状態というは全くわからないのだが、色々と共感を呼びそうな設定だ。本作、署名運動によって日本公開が決まったことで有名だが、こちらの期待値が膨らみすぎたのかちょっと拍子抜け。えらい状況になっているが記憶がない、という設定から、伏線張りまくり回収しまくりのトリッキーなドラマなのかと勝手に思っていたのだが、思っていたよりはあっさりしている。伏線を回収していることは回収しているのだが、ミステリとしての引きは強くはない。熱狂するほどの面白さはないなぁというのが正直なところだ。ただ、コメディとして単純に楽しいし、こういう単純に楽しい良質のコメディが日本であまり公開されないのは残念だ。そういう意味では公開されてやはりよかった。
 男性たちが高給取りとはいかないまでも、(アラン以外は)固い職業についていて、ちゃんと生活しているところがちょっと面白いし、安心感がある。まあ色々とやらかしてはいるけど、人としてダメというわけではないのだと(いやダメかも・・・)。ただ、アランだけはちょっとズレていて、ダグと友人2人よりもかなり困った人だ。アメリカのコメディにはよく「うざいトラブルメーカーだけどどこか憎めない」登場人物が出てくるが、彼はその役割を果たしている。私は実はこのポジションのキャラクターが苦手で、彼がいないと話が回らないコメディだとはわかっていても、時々イラついてしまった。状況読めない子供っぽさが癇に障るのか・・・うーん。
 女性はあまり登場しない作品だが、スチュの彼女が堅物だけどビッチというところ、しかもあまり美人でもないところにに妙なリアリティがあった。ただ、彼女が客船のボーイと浮気(ボーイ相手ってそんなに尻軽なイメージなの?)した!と言っているのはあくまでスチュたちなので、実際のところどうなのかはわからないが。彼女も悪い女というわけではないのだろうが、画面に出てくるたびに口やかましくて面倒くさい感がじわじわ漂ってくる。ああ男の人は(同性でもちょっとなぁと思うし)こんな女の人嫌なんだろうな・・・としんみりしてしまった。その対極にいるのがヘザー・グラハム演じるストリッパー。セクシーかつキュートで、女性から見てもイヤミがない。パーフェクトすぎるのがたまにきずだが。なお、エンドロールにもおまけがあるが、これは少々無粋だった。




『通勤電車で読む詩集』

小池昌代編著
自らも詩人である著者による、題名通り通勤電車で読めるような、詩のアンソロジー。別に電車が出てくる詩を集めたわけではなく(笑)、持ち運びやすい新書サイズで、ちょっとづつ読めて、まさに通勤電車の中で読むのにちょうどいい。ボリューム。章分けも、朝の電車、午後の電車、夜の電車とわかれているのだが、各章に収録された作品が、ちゃんと似通った雰囲気にまとまっていて、良い分け方だった。最後、エミリー・ディキンスンで締めるところもぐっとくる。読みやすくはあるがバラエティに富んだセレクトで、お試し感覚で読める。自分の好きな詩人の作品が載っているとやっぱりうれしいものだ。初めて知る詩人の作品では、エドワード・トマスやディラン・トマスのものに、ここに書かれていることはわかる!知ってる!という説明できない共感を覚えた。各詩の最後に編著者のコメントがついているのだが、これが解説しすぎずそっと手を添えるようなもので、丁度いい匙加減。たまによむとやはり詩はいいです。小説よりも一人でかみしめる度合いが強い。もっと読みたくなる。




『煙滅』

ジョルジュ・ペレック著、塩原秀一郎訳
 1人の男が失踪した。友人たちは彼を探すが、更に失踪者が相次ぐ。あとがきは普通本編の後に読むものだが、本作の場合は先に読んでみた方がいいかもしれない(正確には訳者あとがきですが)。でないと、翻訳がハイレベルすぎて本作で試みられていることをスルーしてしまいそうになる。実は本作、原文では母音のeを一切使用せずに書かれているそうだ。これをどう翻訳するのか、というか翻訳可能なの?!と思っていたが見事に翻訳されている。普通に小説として読めちゃうよ!すごい!神話や古典文学のパロディを交えつつ、ミステリ的なストーリーが展開されるのだが、徐々にeの不在が感じられるようにちゃんと調節してあるのね・・・。手が込んでいるというかなんというか。不在がどんどん連鎖していく(が、不在によって何か支障をきたすのかというとそうでもないので余計に)不気味な小説。ひょこっと俳句とか出てきておどろいた。日本文学の素養のある人だったのかペレック。




『ボローニャの夕暮れ』

 1938年のイタリア、ボローニャ。高校教師のミケーレ(シルヴィオ・オルランド)は、美しい妻デリア(フランチェスカ・ネリ)と17歳の娘ジョヴァンナ(アルバ・ロルヴァケル)と暮らしていた。ミケーレは娘を大事に思うあまり、彼女が思いを寄せる男子学生に、ジョヴァンナと付き合えば成績評価を考慮すると匂わせてしまう。そんな中、校内で女子生徒が殺害されるという事件が起きる。監督・脚本はプーピ・アヴァーティ。
 話がやたらとさくさく進むのが不思議だった。時代の変化を見せていくという意図があったのだと思うが、主人公にしろ娘にしろ、あまり躊躇せずにどんどん状況に適応してしまい、見ていておいてけぼりにされている感じ。女生徒の死を巡るミステリー、ないしは裁判劇になるのかと思ったら真実は見たままで深く突っ込まれることはない。一家がどのように変容していくか追っていくことが主軸になっている。ただ、変化していくのはデリアとジョヴァンナであって、ミケーレ本人のスタンスは殆ど変わっていないように見える。
 ミケーレはジョヴァンナを心底愛しておりそれは揺るがないのだが、それがジョヴァンナにとって適切な愛の形だったのかどうかは、正直疑問だ。ミケーレはある人物から「あなたが(ジョヴァンナを)焚きつけた」と非難されるのだが、それも否定できない。彼の愛は、娘を守ると同時に、彼女の状態をよりこじらせてしまったという側面もあるだろう。彼はジョヴァンナを過剰に評価し、過剰に関わってしまった。一方、母親であるデリアは、ミケーレとは逆にジョヴァンナに関わらなさ過ぎる。娘に関心がないというよりも、上手く関わる方法がわからないように見える。そしてジョヴァンナの方でも、母親との間に距離を置いている。後に医者が言う、母親に恋人がいるのではという疑念はもちろんだが、美人の母親に対するコンプレックスももある。ジョヴァンナがさほど美人ではないということをデリアも認めているというところが痛い。デリアはミケーレよりも客観的にジョヴァンナを見ているので、娘に「きれいだ」とは言えないし、娘がモテるタイプではないのも重々わかっているのだ。
 デリアはミケーレからもジョヴァンナからも離れる道を選ぶが、ミケーレは延々とジョヴァンナに付き合う。父親の精一杯の愛情といえばそれまでなのだが、彼の選択が(結果オーライにしろ)ベストだったとは思えない。この映画がいわゆる「いい話」として受け止められているのなら、ちょっと困っちゃう。第二次大戦を挟んだ時代の変化と相まって、ちょっとしたことで運命が大きく変わってしまうというあっけなさがある。話がさくさく進むのも、このあっけなさを強調していた。ラスト、大団円ぽくなっているがこれはジョヴァンナの語りだけに信用できない。




『ワイルドバンチ』

 1913年アメリカ。メキシコとの国境の町に、パイク(ウィリアム・ホールデン)率いる軍服の5人組がやってきた。彼らは鉄道の駅舎に強盗に入り、仮釈放中のガンマン・ソーントン(ロバート・ライアン)が率いる賞金稼ぎたちを振り切って銀を奪い逃げるが、銀はニセモノ。彼らを捉えようとする罠だったのだ。パイクたちはメキシコへ逃れるが、ソーントンは後を追う。サム・ペキンパー監督1969年の作品。
 冒頭、子供たちの遊びが大変殺伐としているのだが、これが本作全体を象徴しているようなものだった。女子供も容赦しない銃撃合戦はもちろんだが、全般的に乾いていて、情感は極力押さえてある。感情の発露も突発的・発作的で、ウェットさがない。非常に即物的で、奪う時は死人の靴と銃はもちろん金歯まで奪う。パイク一味の人間関係も結構ぎすぎすしている。信頼とか友情とかとは、最初のうちは縁がなさそうに見える。だからこそ、クライマックスで4人の男が歩き出すシーンには、抑えに抑えていたものが爆発した感がありぐっとくる。また、パイクとソーントンはかつては仲間であり今は敵だが、敵同士なりに、お互いある種の敬意を抱いている。パイクがソーントンについて毒づく仲間に、「(ソーントンには)これが仕事なんだ!」と怒鳴りつけるシーンは彼のある種のフェアさを示していて、2人のキャラクターが浮き上がってくる。セリフで具体的に表現されることはあまりないのだが、ちょっとしたやりとりやしぐさで、仲間内の関係や敵との関係がちゃんとわかるところが上手い。男たちはよく笑うのも印象に残った。笑いにも色々あり、何かごまかす為だったり、バカにしていたり、一触即発のものだったりする。しかし最後の方では心からの笑いが見られるのだ。
 カット割が細かく、長回しはあまりない。めまぐるしくてスピーディー。ちょっとくどいような繋ぎ方をしているのも、めまぐるしく感じる一因かもしれない。ただ、ここぞというところの絵のよさはさすが。ジャックした汽車の後方、貨物列車から馬が次々出てくるところとか、わくわくしてくる。あと、子供の顔のアップが結構多いのが意外。ただ、いたいけな子供という演出ではなくて、無邪気ゆえに残酷というか、ふてぶてしいというか・・・。たくましそうです。




『モダン・ライフ』

 写真家グループ「マグナム・フォト」の一員であり、ピュリッツァー賞を受賞したこともある写真家・映像作家のレイモン・ドゥパルドンによるドキュメンタリー。取材対象は、フランス南部のセヴェンヌ地方で小規模な農業や酪農を営む農民たちだ。ドゥパルドンは彼らと10年以上の時間をかけて知り合い、ドキュメントを撮影した。
 ドキュメンタリーには演出度合いを含め、色々な形があるが、本作は対象との距離をゆっくりと縮め、彼らと相対するというシンプルな手法だ。撮影対象と撮影者との間に、信頼関係が築かれていることがわかる。多少答え辛い踏み込んだ質問、きわどい質問にも、彼らは全てクリアにではないにしろ、答えている。また、時にはぐらかすようなことを言っていても、ふとした表紙に本心(らしきもの)が吐露されたりする。以前何かで「写真家は人柄も重要」という話を読んだことがあるが、本作を見ると、確かにそうかもしれない。いやな奴相手だったらこういう話し方はしてくれないだろうなとは思うし、それ以上に、相手の懐に入っていくコミュニケーション力が必要になってくるのだろう。
 本作の舞台は、農村とは言っても山岳部であり、平地が少ない。穀物等の畑作は難しいので畜産中心らしく、農民達は「根気と情熱がないとできない」と話す。羊の放牧をしていた老人は、足腰が弱った為に羊を手放さざるを得なくなる。また、移住してきた若い夫婦にしろ、農家の男性と結婚した都会暮らしの女性にしろ、必ずしも農業の計画がうまくいくわけではなく、土地になじむのも困難だ。女性の娘が村をそこそこ気に入っている風(すごくそっけなく振舞うのだが)なのがほのかにほほえましい。
 映し出される野山は美しく、昔から受け継がれた家は趣があって絵本にでも出てきそうで、これが人間本来の生活、などうっかりと言いそうになるが、決してそういう方向を意図しているわけではない。この生活の美しさはもちろんだが、苦しさの方をよりすくいあげようとしているように思った。題名「モダン・ライフ」から連想されるような生活とは異なった世界なのだが、これもまた現代の生活の一つの形だ。監督は農村の暮らしについて是も否も提示しない。もちろん、土地やそこに住む人々への親愛には満ちているが、こういった暮らしはいずれ失われるという諦念もあるように思う。そういう意味では、失われ行くものを記録する為のフィルム、という側面が強いのかもしれない。




『白痴』

 ジャンヌ・バリバール特集にて鑑賞。ドストエフスキーの小説を原作とした中編映画。監督はピエール・レオン。2009年の作品となる。日本で監督作品が上映されたことはないが、フランスでは実験的な作風に根強いファンがいるそうだ。ナスターシャ(ジャンヌ・バリバール)の元に4人の男が集まった。1人は彼女のパトロンで、彼女を結婚させ厄介払いしようとしている。2人目は持参金を携えナスターシャと結婚しようとしている。3人目は彼女らとは階級が違うと見られる粗暴、しかし情熱的な男。そして招かれずにやってきた“白痴”。ナスターシャはどの男を選ぶのか。
 実は本作、英語字幕での上映だった。字幕はついているというからてっきり日本語字幕かと・・・。なんとかかんとか脱落せずに見たが、多分内容の3分の1くらいしかわかっていないな私(原作も読んでないので)。己の英語力のなさにがっかりです。それはさておき、セリフの意味がいまひとつわからなくても、話が進むにつれ徐々に不穏な空気が立ちこめ、ナスターシャがまさかの反撃に転じ、場が狂乱状態になっていくという展開にはわくわくした。話が進むにつれ、ナスターシャのセリフ量がどんどん増えてくる。なんとなく流れがわかるのは、演じるバリバールの表情・しぐさの豊かさによるところが大きい。この人、やっぱりいい女優なんだなー。本作は予算と時間の都合で、出演者全員が揃わない状態(相手役がその場にいない状態)で撮影しているシーンも多いそうだが、そういう不自然さは感じさせない。
 ナスターシャは身売りせざるをえない状態を、“白痴”によって救われるかに思える。が、彼女はその道を選ばない。彼には下心はなく、彼女を思う気持ちは純粋なものだ。しかし、何かと引き換えに自分を(相手の心情とは別問題として)差し出すという行為は、彼女にとって他の男に対してのものと同じになってしまう。それを回避する為に彼女がとった行動は、客観的には自分を貶めるようなものかもしれないが、自分を誰かに売り渡さない、という点では筋が通っている。




『8月の終わり、9月の初め』

 編集者のガブリエル(マチュー・アマルリック)は、長年同棲していたジェニー(ジャンヌ・バリバール)と別れることになり、2人で買ったアパートを売ろうとしていた。そんな折、友人の小説家アドリアン(フランソワ・クルーゼ)が病気で入院したという知らせを受ける。オリヴィエ・アサイヤス監督、1998年の作品。
 定職に就けないガブリエルやジェニー、魅力的だが不安定なガブリエルの恋人アンヌ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)、そして自分の小説を模索し続けているアドリアン。主要な登場人物は皆、年齢的な充分大人ではあるが大人になりきれない、どこか少年少女のような人たちだ。終わらない青春時代のような趣もある。ガブリエルはジェニーと長い付き合いであることが窺われるが、結婚はせずにわかれてしまうし、新しい恋人アンヌとの同居にも消極的。仕事もやったりやらなかったりみたいで、どこかふわふわしている。兄からいい加減身を固めろと説教されると当然キレる。ああ耳が痛いなぁと思いながら見ていた。ガブリエルを演じるマチュー・アマルリックが若々しいので、よけいに青春ぽさを感じるのかも。それにしてもアマルリック、今とあんまり顔が変わってない。老けないなー(笑)。
 ガブリエルとアドリアンは、ものすごく親しい友人というわけではない。ガブリエルはアドリアンの作品に対して敬意を持っているが、同時に彼に対するコンプレックスや、逆に彼を少し下に見る気持ちも抱いている。アドリアンはアドリアンで、ガブリエルをちょっとバカにしているようなところもある。ガブリエルがアドリアンの作品に対して「自分だけが理解している」という優越感をうっすら持っており、出版社の若手スタッフに「いい作品ですよね!」「もっと売れるはずですよ!」と言われて妙にムキになるところなどは、マニアックな作家に対するファン心理の面倒くささが現れていて苦笑してしまった。
 人と人の関係が(当然のことながら)一色ではなく、色々な色が入り混じった曖昧なものであるところがいい。なかなか割り切れないところが人間らしく、登場人物を生き生きとさせている。ガブリエルとジェニーの、今でも愛し合っているように見えるし、実際2人の間には何か愛情のようなものがあるのだが、カップルとしてやっていくことはできない(とガブリエルは思っている)という関係も、また曖昧だ。ここで終了、というようにすぱっと終わることはできないのだ。




『ランジェ公爵夫人』

 パリ社交界の花形、ランジェ公爵夫人(ジャンヌ・バリバール)はナポレオン軍の英雄だという、モンリヴォー将軍(ギョーム・ドパルデュー)に興味を引かれる。モンリヴォーはランジェ公爵夫人に激しく恋するが、彼女は思わせぶりな態度で彼を翻弄し、思いつめたモンリヴォーは思わぬ行動に出る。監督はジャック・リヴェット。2007年の作品となる。本作の主演女優であるジャンヌ・バリバールの特集上映にて鑑賞。
 場面と場面の間を字幕であっさり説明してしまう手法が思い切りがいい。原作はバルザックの小説で、いかにも文芸作品といった雰囲気。しかしこの文芸風の体裁がなかったら笑い出してしまったかもしれない、奇妙なところのある作品だった。大真面目にやっているのか笑いを狙っているのかわからない。公爵夫人がモンリヴォーにアプローチしようと病気の振りをしてソファに横になり徐々に足見せする件などは「うわーこの人必死ぽい」というゴリ押し、無理矢理感があって(クッションを足に乗せるというスタイルはフランスでは普通なのか?)妙におかしかった。主演俳優2人に魅力・演技力があるからこそできる技だと思う。下手な俳優がやったらほんと見てられないだろう。特に、ドパルデューの集中力を感じさせる演技が印象に残った。
 モンリヴォーと公爵夫人の関係は、一方がその気になるともう一方はひいてしまうというすれ違いの連続。リアルな人間の心理描写というよりも、ある図式に当てはめた、様式的なものだ。2人は愛し合っているが、正面から向かい合うことが出来ないし、理解しあうこともない。感情的な問題ではなく、それぞれ別個のルールに乗っ取って行動しているからだ。ランジェ公爵夫人は社交界のしきたりとカソリックの信仰(世俗と聖とが矛盾しているようだが、人間の世界を取り仕切るルールという意味では矛盾していない)に沿って行動しているが、モンリヴォーはこのどちらも信用せず、自分独自の価値観に基づいて行動する。彼は「偉人」と称されるが、一般人とは別のルールで動くことを揶揄されているという側面もあるのだろう。






『闇の喇叭』

有栖川有栖著
南北に分断され北海道が独立国家となり、北からのスパイが暗躍する平成21年の「日本」。警察は検挙率100%を掲げる一方、探偵は活動を禁止され、政府による探偵狩りが行われていた。そんな中、高校生の純、由之、景以子が住む田舎町で身元不明の男の死体が発見される。有栖川作品としては珍しい「もしも」世界を舞台にした作品。わりとありがちな設定ではあるのだが、ヤングアダルト向けのレーベルから発行されているからか、過去と未来について学んで考えてほしい、という意図が見える。ちょっと伊坂幸太郎の近年の作品と似た方向性かもしれない。こういう世界観の作品が頻出してくるというのは、閉塞感が強まっている、管理社会に対する懸念が強まっている(つまり世間はその方向に進みつつあるということだが)ということなのだろうが、何にせよこんな世界はいやだなー。なんとなくそういう方向に流されていきそうなところが怖いのだが。その抑圧された世界に対するカウンターを知識と真実を求める「探偵」という存在に託すところが著者らしくうれしい。ミステリ部分はがっちり本格(物理トリックが今回ちょっと文章からはわかりにくいんだけど・・・図解ほしかった)なのでミステリファンも安心。また鉄道好きの著者らしく、ローカル線の描写が結構あるところもうれしい。




『ザ・ウォーカー』

 核により崩壊した世界。1冊の本を携えた男・イーライ(デンゼル・ワシントン)は30年間、西に向かって旅を続けていた。ある日彼は小さな町に立ち寄るが、その町のボス・カーネギー(ゲイリー・オールドマン)は世界でただ1冊残ったという本に、人々を支配する力があると考え、イーライの本を狙ってきた。監督はアルバート・ヒューズ&アレン・ヒューズ。
 原題は「The Book of Eli」。原題のままでもよかった気がするが題名のダブルミーニングの意図が日本では伝わりにくいし、キャッチーさに欠けるからだろうか。イーライが運ぶ本の正体は、かなり早い段階で見当がつくし実際中身について言及されるのだが、伏線がそこからちょっとずらしたところにあって面白い。なるほどだからイーライでなければならないのかと。この設定が判明すると色々と突っ込みどころが出てきてしまうのだが(笑)、一発ネタとしては充分かなとも思う。一応、そうなのかな?と思わせる程度の演出はしてあるし。
 日本では同時期に、同じく世界の終末を舞台にした映画である『ザ・ロード』が公開されているが、同じ終末映画でもこうも違うか、と感慨深いものがあった。本作は世界観はマッドマックスぽいが、ベースにあるのは西部劇。流れ者が悪辣な保安官が牛耳る町にやってきて~という王道パターンだ。町の作りや酒場の作りなども、明らかに西部劇を意識していると思う。世界の終末というのはあくまで雰囲気的なもので、あまり深刻さは感じない。イーライがipod愛用しているくらいだからな~。この環境ならこれが貴重品、という設定をちょこちょこ挟んでくるところは面白かった(靴と水が貴重なのは、この手の作品では大体共通しているが、最初にこの設定始めたのはどの作品なのだろうか)。
 デンゼル・ワシントンが刀を駆使したアクションを披露している。色味や質感をかなり加工しているせいか、ゲームやアニメぽくもあるのだが、撮り方にやや癖がある。私はこの監督の作品を見るのは初めてなのだが、かなりケレンのあるアクションの撮り方をするなという印象を受けた。前半、シルエット状態のアクションをロングで撮っているシーンは多分監督が思っているほどかっこよくはないのだが(笑)、砂漠の一軒屋での銃撃戦では銃口の真ん前に廻ってみたり銃弾の中を走り回ってみたりと、カメラが縦横無尽に動き回っており、妙に楽しかった。この一軒屋のエピソードは住人の老夫婦の造形もユーモラスで、いい味出していた。ちょいちょい細かいところが面白い監督だなと思う。




『イエメンで鮭釣りを』

ポール・トーディ著、小竹由美子訳
国立水産研究所に勤める研究者アルフレッド・ジョーンズは、イエメン人の富豪シャイフ・ムハマンドが発案した「イエメンの川で釣りができるように鮭を放流する」という荒唐無稽なプロジェクトについて打診を受ける。呆れたジョーンズは到底無理だと返事をするが、この計画に首相官邸が興味を示した。しぶしぶ協力することになったジョーンズだが、事態は思わぬ方向に。メールや手紙、新聞雑誌の記事や日記、公式文書や事情聴取など、さまざま記録による構成。読んでいくことで、徐々に何が起きたのかがわかっていく。夢物語に本気でとりくむうちに、ジョーンズをはじめ、かかわる人たちの気持ちがだんだん変っていく。一種の魔法のような時間が訪れる幸福感がある。魔法がはかなく消えてしまっても、彼らの心には残るものがあるのだ。ただ、釣りに対する愛はあふれているが、イエメンという土地をとりあげる意味が若干薄いように思う。そこのところもっと突っ込んでほしかった。もっと切実さがあってもいいはずだと思うんだけど・・・。良くも悪くもあっさりとしていてある枠からでない。そこがエンターテイメントとしての読みやすさではあるが、物足りなくもある。




『通話』

ロベルト・ボラーニョ著、松本健二訳
かつて愛した女性との思い出を描いた表題作を含む短編集。長編よりも短編の方がいいな。三部構成になっており、第一部は作家や詩人に関わる作品、第二部は少々血なまぐさく風変わりな作品、第三部では女の人生を描いた作品と分けてある。第一部には著者の長編『野生の探偵たち』でキーマンとなる人物も登場しており、『野生の~』へと繋がる作品であることがわかる。物書きの自意識過剰さがこっけいに、しかし共感込めて描かれており、文学について、文学者について書くことが、著者にとってすごく重要なテーマであることがわかる。個人的には第三部の女性達の物語がよかった。決して男性にとって理想的だったり同性から見て友達になりたかったりするタイプの人たちばかりではないのだが、自分の人生をうまくやりくりできないところ、それなのに生き方が妙に思い切っている(時に痛々しいくらい)ところにひかれた。




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