3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『僕の心の奥の文法』

1963年のイスラエルを舞台とした作品。少年アハロンは絵画や文学に興味を持つが、両親は理解を示さない。周囲の友人達はどんどん成長していき、アハロンは距離を感じるようになる。
アハロンは英語の文法に「今~している」という現在進行形があることに感動し、「今」を充分に楽しみたいと願う。ただ、彼が置かれている環境は、彼に早く大人になることを要求しており、子供としての「今」は取り上げられそうになる。それに対する反抗として、彼は無意識に(体が大きくならないのを気に病んでいたりする)肉体的に成長するのをやめてしまう。彼は成長していないのではなく、両親・社会が要求する成長の筋道に彼の成長の仕方が合っていないのだ。アハロンがこの家庭ではなく、あるいはこの時代以外、この国以外に生まれていたら、もっと楽に生きられたかもしれないし、すんなりと大人になれたかもしれない。彼の両親・社会は、息子に(肉体的に)強い男であること、異性のパートナーを早く得ることを要求する。こういう要求に上手く乗っかれる子はいいのだが、そうじゃない子にはキツい。アハロンがなりたい(なるであろう)大人は、親の要求するものとは多分違う。子供は環境選べないんだよなーとしみじみ。
 アハロンの母親は、親戚や近所に対する体面から苛立ち、「なんで大きくならないの」と彼を責めてしまう。彼女は息子を愛してはいるが、息子の世界を共有することができない。彼の理解者となりそうな存在として、近所に住む、音楽や絵画を愛する女性がいる。アハロンはこっそり彼女の部屋に忍び込んで本を読んだり音楽を聴いたりする。しかし、彼女との交流の可能性は、アハロンの父親によってつぶされてしまう。また、アハロンが想いを寄せる少女も、彼の絵を気に入ったりバレエが好きだったり、ビートルズ(当時のイスラエルでは敵国音楽的な見られ方だったようだが)に憧れたりと、彼と世界を共有できそうではあるのだが、彼女の方が外の世界に目が向いており、アハロンとその周囲の世界からは出て行ってしまう。身近に理解者やモデルとなる大人がいれば、アハロンの生活はまた違ったものになったのではないかと思うとやるせない。
 当時のイスラエルの一般家庭の様子が垣間見えるという点では、貴重な作品かもしれない。つかの間の平和な時期だったようで、建国記念日のお祭り等も華やか。一方で、徐々に経済状況が悪化し、青年団やガールスカウトが農作業に借り出されたり、アハロンの姉が徴兵されたりという、不安の兆しも見られる。




『ジャック、船に乗る』

 第23回東京国際映画祭にて。NYでリムジンサービスの運転手をしている、さえない中年男ジャック(フィリップ・シーモア・ホフマン)。ある日同僚のクライドの紹介で、クライドの妻ルーシーの同僚・コニーと知り合う。彼女と出会い好意を抱いたことで、ジャックの生活は変わり始める。
 フィリップ・シーモア・ホフマン初の監督・主演作品。俳優としてはもちろん名優クラスの人だが、監督としても才能ありそう。意外とオーソドックスで、奇をてらったところがない作品なのだが、却って趣味のよさを感じさせる。若干スマートすぎてイヤミといえばイヤミかもしれないけど(笑)。
 映画としてのたたずまいはスマートだが、登場人物たちは決してスマートではない。主人公であるジャックは見た目はぱっとしないし、機知に富んでいるわけでもないし、お金があるわけでもない。個人的にはどちらかというと見ているとイライラしてくるタイプの人物だ(シーモア・ホフマンが観客をイライラさせようとしているとしか思えない上手な演技で・・・)。料理が失敗してパニックになる様子など、いるわこんな人!そして自分の中にもこんな人がいるわ!といういたたまれなさに満ち溢れていて、シーモア・ホフマンの観察眼の鋭さというか意地悪さを感じた。コニーも、不美人ではないが奥手で大人しく、若干自意識過剰。やはり人によってはイライラさせられるタイプの人物だろう。彼女の「モテ慣れしてないオーラ」や余裕のなさは、身につまされすぎて正直ちょっときつかった。ものすごくやるせない気持ちになる(笑)。
 しかし、その冴えない2人が出会うことで、ちょっとづつ変化していく。ジャックは「ボートに乗りたい」というコニーの為に水泳を習い、更に彼女に作る為の料理を習う。ジャックのコニーに対する態度、彼女の為にやろうとすることは、発想があまりに少年ぽいというか、女性慣れしていなさすぎるのだが、徐々に一生懸命さが可愛く見えてくる。コニーも若干とんちんかんなのだが、だんだん好ましく見えてくるのが不思議だ。
 1組の男女がひかれあっていく過程が主軸となっている一方、夫婦として長年つきあってきたクライドとルーシーの関係は危機を迎えている。一見円満そうなのだが、お互いに浮気をしているらしく、ルーシーの気持ちは離れつつあるし、クライドはそれを上手く引き止めることができない。カップルの始まりと終わりを平行させることでバランスがとれていた(若干取り過ぎな気もしたが)と思う。



『素数たちの孤独』

 第23回東京国際映画祭にて。障害のある妹を、幼い頃置き去りにしたことがトラウマになってりう少年(ルカ・マリネッリ)と、事故で片足に障害が残った少女(アルバ・ロルヴァケル)の、時に交差し時に平行する人生を描いた作品。原作はパオロ・ジョルダーノのベストセラー小説、監督はサヴェリオ・コスタンツォ。
 原作小説は未読なのだが、小説とは時系列が異なっている(小説は時代の流れに沿っているが、映画はスラッシュされている)そうだ。映像化する際には時系列を入れ替えたほうが効果的では(原作既読者にとっては目新しいし)、という監督の考えだそうだが、確かに子供時代から順番に描くよりは、映画の場合は効果的かなとは思った。ただ、組み立てがあまり上手くなく、単にとっちらかっているように見えてしまった。少年の人生における決定的な瞬間と、少女の人生における決定的な瞬間がリンクしている部分の緊張感が募っていく様はよかった・・・というか募りすぎでうぁ~っとなりました。特に少女の方。
 素数たち、とされているのは、少年も少女も家族の中でも学校でも浮いている、周囲に馴染まない存在だからだ。素数的な存在である彼/彼女は、それゆえに惹かれあう・・・かというとそこがはっきりとはしていないところが面白い。少女は少年を気に入り、(一方的に)パーティーに誘ったりキスを迫ったりするのだが、2人の仲は進展しない。お互いに好意は持っているが、大人になっても決定的な何かは起きない。起きそうになると、何かしらの事情により2人が遠ざかってしまう。お互いに傍にいて欲しい人、必要な人だという部分がもっと前面に出ていれば、よりストーリーの流れにダイナミズムが出たんじゃないかなという気がするが、引き合い方もなんとなくな感じでいまひとつ緩慢だった。
 少年、少女とも両親との関係があまり上手くいっていない様の描き方が割といい。少年はかなり直接的に、母親がこんなはずじゃなかった、生まなければ良かったと漏らすのを聞いてしまう。少女は、父親とは一見仲がいいのだが、両親の夫婦関係が危うくなっている。また、少女が遭う事故は、そもそも強引な父親のせいとも言える。子供時代のエピソードは分解され、ぽつりぽつりと出てくるのだが、なぜ彼らが現在のような大人になったのか、という根っこの部分が垣間見えるエピソードだったと思う。幼少時代から一直線に同じ道を来た感のある少年に対して、少女は元々元気のいい子だったのが怪我により引っ込み思案になり、また活発に、という波があるが。少女の同級生で女の子たちのボス的な子がすごくかわいかった。彼女は少年と少女を2度にわたって(自覚なしに)結びつける役割を果たす。
 色彩とか、音楽とか、字幕(舞台となる年代が表示される)のフォント・色とか、個々はわるくないのに全体的にはちぐはぐな印象を受けた。脚本もなのだが、少々とっちらかっている。




『ビューティフル・ボーイ』

 第23回東京国際映画祭にて。離婚を考え始めた中年の夫婦。ある日、18歳の一人息子が在学する大学で、銃の乱射事件が起きる。息子の身を案じる夫婦だが、電話は通じず不安は募るばかり。ようやく自宅に訪れた刑事が告げたのは、夫婦の想像を絶する内容だった。監督はショーン・クー。
 題材にしろ、撮影手法にしろ、特に目新しさがあるわけではないが、丁寧に、そして節度をもって作っているという印象を受けた。実際に起きた事件を題材にしていることは明らかだが、ショッキングな事件だけに見せ方によっては下世話になったり、過剰に「泣ける」展開になったりしそうだ。しかし本作は一貫して一歩引いた目線で描いている。撮影自体はドキュメンタリータッチの臨場感あるものなのだが、登場人物に(心情的に)近寄りすぎない。カメラの動きが劇的である、あるいはカメラが映し出す状況が劇的であっても、それを見ている視線が感情的でないように思った。あんまり感情移入をうながすタイプの映画ではないのね。この冷静さが好ましかった。音楽も使い方が控えめで良い。一ヶ所だけ、ちょっとやりすぎだなぁと思ったところがあったのだが、私は音楽かなり控えめの映画を好む傾向があるので、気にしすぎたかもしれない。
 主人公夫婦は当初倦怠期にあり、夫は自分が別居する為の部屋を探している。しかし、事件が起きたことにより夫婦の絆が逆に再生するというところが皮肉だ。しかしその絆もまた、もろく崩れてしまう。夫と妻は事件を消化しようとする方向も、悲しみの表し方(あるいは隠し方)も異なる。息子との思い出にひたる妻に対し、マスコミ対策やら家の処分やらの現実的な諸々をやることによって苦しみを麻痺させようとする。妻から見ると夫は冷たく、夫から見ると妻は逃げているように見える。夫婦2人が別の人間であり、簡単にお互いを共感、理解などできないことが顕になる。結局、お互いのことが本当にはわからない。
 そのわからなさは、息子についても同様だ。彼が何を思って行動したのか、夫婦には最後までわからないし、多分この先もわからない。警察やマスコミはあれやこれやと言うのだろうが、当事者にとってみれば全て的外れだろう。両親にとっては「大人しいがいい息子」であったし、それは確かに彼の一面ではあった。
 そもそも、主人公夫婦は関係は冷めているとはいえ、まあごく普通の夫婦だし、両親としても特に大きな問題があったわけではないように見える(妻が劇中で「(私達より)もっとひどい両親は大勢いる」と口にする)。事件が起きるような要因は、特にないように見える。本当のところはわからないのだ。夫婦はずっと「なぜ息子が」「なぜ私達が」と問い続けることになるのだろう。最後、わずかな希望が見えるのものの、わからなさがずっと夫婦をさいなむことになるのかと目の前暗くなるような気がする。




『わたしの可愛い人 シェリ』

 1906年、アルヌーヴォー文化花盛りのパリ。ココット(高級娼婦)たちが社会的な地位を持っていた時期でもあった。元花形ココットのレア(ミシェル・ファイファー)は、元同業者で友人のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)の息子・シェリ(ルパート・フレンド)を預かる。シェリは19歳にして放蕩の限りを尽くし、母親を困らせていたのだ。レアはつかの間の恋人のつもりでシェリと生活を共にするが、いつの間にか6年の月日が流れていた。そしてシェリに結婚話が持ち上がる。原作はコレットの小説、監督はスティーヴン・フリアーズ。
 フリアーズ監督の作品は全部はみていないのだが、見た限りではさくさく話が進んで見やすいという印象がある。暗い話でもあまり湿っぽくならない気がする。少なくとも本作に関しては、直球メロドラマでありながらあまり甘ったるくならず、意外とドライだ。情感の盛り上がりをあまりひっぱらずすぱっと切るところがいい。
 女性が主人公、主な登場人物もシェリ以外はほぼ女性(特にもう若くはない、元ココットの女性)の作品だ。そして女性たちが大変しっかりしている。主人公であるレアは、美貌も教養も兼ね備えた女性であり、自分でひと財産を築き、それを運用している。独立した女性という存在は、おそらく当時では珍しい存在だったろう。「ココットは同業者以外の女性と友達になれない」とレアはいうのだが、他の女性とは別の存在、一般女性からは理解できないという立ち居地だったのだろうか。
 独立した人間であるレアと対比すると、シェリはなんとも頼りない。彼のとりえは美貌と体だけのように見えてしまう。若者を甘やかしたい女性、甘えたい男性、という構図に収まっているうちはいいが、独立した人間同士で恋愛しましょう、という段になると、シェリの甘ったれ具合が露呈してしまう。大人同士で恋愛するとなると、当然相手の嫌な部分も見えてくる。しかしシェリはそれを許容しない。彼が求めるのはあくまで完璧なヌヌーン、どんな自分でも受け入れてくれる優しい女性なのだ。で、自分には欠点は多々あるわけである。全くフェアではない。
 レアは、シェリを甘ったれのままにしてしまったのは自分の責任と考え身を引くのだが、そのレアの思いをシェリが受け止められなかったというところが、悲恋たるところかもしれない。
 ミシェル・ファイファーをスクリーンで見るのは久しぶりな気がする。さすがに年をとったなとは思うが、本作の役柄にはその加齢した部分こそが必要だったろうし、いい年のとりかたではないかと思う。声が色っぽい。また、キャシー・ベイツのわかってる感溢れる演技には笑った。自分の立ち居地を心得ている人だと思う。ファッションにしろインテリアにしろ、当時の風俗が色々と描かれていてコスチュームプレイ好きには楽しいだろう。レアの部屋着やドレスが東洋風味なところに当時の流行が垣間見える。




『REDLINE』

 宇宙最速を競う、5年に一度のカーレース・レッドライン。八百長レースに加担して予選落ちするはずだったJP(木村拓也)は、棄権者が出た為にレッドライン決勝に出場することになった。子供の頃からレーサーを夢見ていたソノシー(蒼井優)や無敵の帝王・マシンヘッドら、手ごわいライバル達が武器満載の改造車と共に集う。しかし開催地は、軍事国家ロボワールド。レッドライン開催に反対する大統領は武力行使でレース妨害に乗り出してきた。
 監督は小池健。原作・脚本は石井克人。石井克人監督の『PARTY7』のアニメーション部分を小池が監督したことが縁となったのか。石井監督は正直言って脚本が上手いタイプではないと思っていたので、どうなることかと心配だったが、これが予想外に熱血少年マンガ的で面白い。なお脚本は石井の他、榎戸洋司、櫻井圭記が手がけている。アニメーション制作はマッドハウス。去年から今年にかけてのマッドハウス作品の充実振りは尋常でないな。
 本作は手描き動画で10万枚以上だというが、手描きだからすごいというより、カーアクションの見せ方として新しい、かっこいいと思う部分が大きかった。特に加速に伴って重力がぐーっと掛かっていく感じがしっかり出ていていい。単純にアクションアニメとしても見ごたえがある。均一でない線の太さや、極端なフォルムのデフォルメ、漫画で言う所のベタのような極端な陰影など、絵が意外に太いというか、ダイナミズムがある。カーレースだがノリはスーパーロボットものっぽい荒唐無稽さ、なんでもOKな大らかさが好ましい。
 本作、予告編などではスタイリッシュなアニメとしてのアピール、アニメファン以外の人にも見て欲しいという意欲(その為のこのキャスティングだろうし)が感じられたが、実際のところ、ある程度アニメーションを見ている人、動画に快感を感じる人の方が本作を気に入るだろう。ストーリー重視の人にはちょっとアピール力弱い(お話の組み立ては大雑把なので)のではないだろうか。もし「キムタク主演なんでしょ~?」みたいな理由でアニメファンに敬遠されているとしたら勿体無い。もちろん普段アニメーションを見ない人にも観て欲しいのだが、ある程度素養がある方がより楽しめる類の作品であるとは思う。
 主人公のJPが一見リーゼントの不良風なのだが、根が由緒正しい「男子」でキャラクターとして非常にかわいい。通り名では揶揄をこめて「やさしい」と称されるのだが、実のところ本当に優しいというところが、逆に新鮮だった。こういうタイプの主人公は最近案外見なかった気がする。演じる木村拓也も予想外に好演。彼は声優業だと結構いい演技をすると思う。声のみだと、キムタクというキャラが薄くなってニュートラルに男の子っぽさが出るのがいいのかもしれない。その他声優については、ソノシー役の蒼井優がびっくりするくらい上手い。声の演技が声優の演技なんだよな~。『鉄コン筋クリート』でも思ったけど、蒼井優おそるべしです。




『エクスペンダブルズ』

 ベテラン傭兵のバーニー(シルベスター・スタローン)は、ナイフ使いのリー(ジェイソン・ステイサム)やマーシャルアーツの達人ヤン(ジェット・リー)らから成るチーム「エクスペンダブルス」を率いている。ある日チャーチ(ブルース・ウィリス)なる正体不明の依頼人から、南米の島ヴィレーナの軍事独裁者を暗殺してほしいという依頼が入る。
 監督・脚本・主演をスタローンがこなし、往年のアクション俳優が勢ぞろいした。豪華は豪華なのだろうが、この豪華さは80年代のアクション映画を熟知していないと味わえないんだろうなぁ・・・。スタローンは『ランボー』のようなゲリラ戦だといいんだけど、サシの肉弾戦などはあまり撮るのが上手くない。近年主流になっている、臨場感を増す為にやや手ブレ風カメラ、更にカットを細かく割りすぎていてアクションシーンが細分化されてしまい、一連の流れを楽しめない。カーアクションも頑張っている割に撮影が下手なので不完全燃焼。勿体無い。アクション映画としての面白さは正直あまり感じなかった。
 ただ、だから本作がつまらなかったかというと、そうでもない。スタローンをはじめとするおじ様方、そしておじ様方に囲まれたステイサムがとにかく楽しそう。生き生きと破壊活動にいそしんでいらっしゃるので、とても和む。この面子の中だと若者扱いなステイサムにも和む。スタローンさんたちをニコニコを見守る為の映画だと思うので、そのへん思い入れのない人にはかなりキツいだろうが。
 ストーリーが緩慢に見える要因としては、各キャラクターにちゃんと見せ場を作ってあげようという配慮が裏目に出たということがあるのでは。スタローンは多分優しい人なんだろうな・・・。本作ではメンバー全員のお父さん的なポジション。息子的なステイサムとの掛け合いがかわいかった。ヒロインに対しても、どちらかというと父親的なスタンスで望むところが面白い(キスでなくてハグなのね)。
 なお、ブルース・ウィリス、アーノルド・シュワルツネガーがゲスト出演しているのだが、シュワルツネガーのスターオーラが著しく失われている。もう政界の人なのか。対してウィリスのスター現役感が半端ない。正直主演のスタローンより全然現役ぽい。それをそのままフィルムに映し出してしまうスタローンは、やっぱりいい人なのかも。なお、一部でひんしゅくをかっていた日本版オリジナルのエンドロール曲は、思ったほど違和感ない。映画、曲の双方に思い入れがないからかもしれないけどね。




『乱暴と待機』

 本谷有希子の原作を、冨永昌敬監督が映画化。郊外に引っ越してきた番上(山田孝之)とあずさ(小池栄子)夫婦。あずさは近所に高校の同級生で宿敵の奈々瀬(美波)が住んでいることを知る。奈々瀬は実の兄ではない英則(浅野忠信)を「お兄ちゃん」と呼んで同居していた。奈々瀬か番上にちょっかいを出すのではないかと危惧したあずさは彼女らを見張り始める。
 本谷原作の映画としては『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(吉田大八監督)があるが、本作の方が本谷の本領である舞台演劇のテイストが強く現れていると思う。メインキャストはほぼ4人のみ、画面内への人の出入りの整理され方や移動の少なさなど。室内を舞台として、ほぼ正面から固定カメラで撮影しているシーンが多い(カメラがあまり動かない)のも、舞台演劇を見ている感じになる一因か。
 一見エキセントリックな人たちばかりが出てくるようでいて、描かれる心理、人間関係は実は馴染み深いものだというところが意地が悪い。奈々瀬にしろ英則にしろ、また割とまともそうなあずさや番上にしろ、相手を自分の元に留めておこうとする熱意が、時にとんちんかんで大変みっともない。が、そこが面白い。一歩間違うと(いや間違わなくても)相当下品な話になりそうなところを、きっちりと纏めてきた監督の手腕に感心した。『パンドラの函』といい、急激にテクニック向上している気がする。
 奈々瀬の「嫌われたくない」という気持ちはかなり極端なのだが、こういうタイプの人は確かにいるし、大体において、自分も他人も面倒ごとに巻き込んでしまう。自意識過剰というより、選べないから全部をカバーしてしまおうとする人なんじゃないかなと思った。そして奈々瀬の始末の悪いところは、本人に悪気はない(計算してやってるんだったらまだ対応が楽なんだけど、そうじゃないからなー。見ていてよけいにイライラする)ところ。あずさがキレるのも頷ける。でも結局奈々瀬みたいなタイプがモテるんだよ!と断言してしまうところに本谷の怨念みたいなものが垣間見える。多分、心底こういうタイプが嫌い、でも否定しきれないんだろうなと。
 俳優4人は好演。主演の美波はモデル出身だそうだが、かなりカリカチュアされたキャラクターの役柄ことが却ってよかったのか、かなり上手く見える。女のわざとらしさ演技が抜群。一方、色々なものをぶん投げる小池栄子には貫禄すら漂う。そしてタチの悪いダメ男役の山田のいやらしさがすばらしい。モゴモゴした、相手を絡めとるしゃべりに妙なリアリティが。この3人に比べると浅野はややかすんで見える(彼である必要があまりない)が、安定感はある。




『ナイト&デイ』

 ビンテージカーの修理工場をやっているジューン(キャメロン・ディアス)は、空港でハンサムな男・ロイ(トム・クルーズ)と知り合う。これは運命の出会いかもと張り切るジューンだが、彼は自称スパイで、重要任務を帯びているが仲間に裏切られたと言うのだ。監督はジェームズ・マンゴールド。
 『3時10分、決断の時』という大傑作西部劇を撮ったマンゴールド先生の新作は、なぜかユルッユルなアクションエンンターテイメント。キャスティングからすると大作なのだが、妙にこじんまりとした印象。舞台は南の無人島だったりスイスだったりスペインだったりと華やかなのだが、全部セットで撮っているような雰囲気なんだよなー。舞台がそれぞれあまりに観光名所として完成されすぎているからかもしれないし、各舞台内での移動距離が案外少ないのも原因か。
 本作はMISにしろ007にしろ、おそらく過去のスパイアクションのパロディとして作られている部分が大きいのだろう。私はこのジャンルにあまり詳しくないのでよくわからないのだが、世間での好評さを見ると、自分にとって基礎知識がなくて読み取れない部分が多分いろいろとあるのだと思う。この手の映画のお約束事がわかっていると、多分もっと面白いのだろう。
 主演の2人についても、セルフパロディと言っていいと思う。トム・クルーズは正にナイト、白馬の騎士だが、今回は延々と「自称」であり、本当は妄想にとりつかれた人なんじゃないの?という疑念がつきまとう。ヒーローすぎて胡散臭いのだ。クルーズは自分の二名目故の胡散臭さに、多分に自覚的だ。それが彼をオンリーワンのスターにしていると思う。自虐ネタが痛々しくならないのはえらい。対するキャメロン・ディアスは、ラブコメの十八番であった元気できゃいきゃい言っている女性。しかし、今のディアスにこの役は痛々しかった。最近だと『わたしの中のあなた』でのような好演もあったので、なぜ今わざわざこういう役をやったんだろうなと不思議。演じ納めにする気か?あくまでヒーローキャラを貫く、そしてそれが様になってしまうクルーズとの対比が面白い。
 全面的な面白さというより、局地的に妙に面白い作品だった。ツボだったのは予告編でも使われていた、トムによる「高い!低い!」。また、移動経緯を冗談みたいな方法でほとんど省略してしまう思い切りの良さ、普通ここで盛り上げるだろうというところをばっさり割愛してしまう容赦のないジャッジには笑った。




『悪人』

 福岡県の三瀬峠で、博多に住む石橋佳乃(満島ひかり)の遺体が発見された。容疑者として彼女を車に乗せた大学生・増尾(岡田将生)が捜査線上に浮かぶが、真犯人は彼女と会う約束をしていた、長崎に住む清水祐一(妻夫木聡)だった。佳乃を殺した後、祐一は出会い系サイトで以前にメール交換をしていた、馬込光代(深津絵里)と会う。
 監督は李相日。原作は吉田修一の同名小説。吉田は脚本にも参加している。李監督の作品としては、現時点ではベストだろう。最近の邦画の中でもかなり頑張っているという印象を受けた。原作を映像向けにきちんと整理していると思う。
 悪人、というタイトルだが、いわゆる悪人・悪漢を描いた話とはちょっと違う。祐一は悪人というわけではないが善人でもない。祐一に結構な仕打ちをする佳乃も同様だし、本作の中ではトップクラスの嫌な奴であろう大学生や、祐一の祖母を騙す悪徳商法家にしても、純粋な「悪」というわけではなく、もっとしょぼくこすっからい。本作は悪そのものというよりも、悪人というポジションに転がり込んでしまう話だと思う。
 佳乃は愚かではあるが殺されていいわけはないし、祐一は善人ではないが人を殺すほどのワルというわけではない。彼らが殺した/殺されたのは、ちょっとのタイミングの差、運・不運の差によるものだ。佳乃がよけいなことを言わなければ、祐一が車を追わなければ、事件は起きなかっただろう。また、増尾が殺人を犯さず祐一が犯した、佳乃が殺されて光代が殺されなかったのはなぜかと考えると、個々のパーソナリティや来歴によるものというより、やはり運不運だったんだろうと思う。
 運・不運のようなどうにもならないことで「悪人」と呼ばれる事態になってしまうことが、いつ自分の身にも起こるかわからない。そこがとにかく怖かったし、救いのなさを感じさせる。
 映画の導入部分、ヘッドライトの中に浮かび上がった車線が流れていく映像が、不穏かつさびしくて、映画全体の雰囲気を象徴していたように思う。その後映される妻夫木の顔が、彼の今までのイメージとは異なり、ちゃんと荒んだ感じになっていて感心した。俳優が頑張っている映画だと思う。深津絵里は本作で、モントリオール国際映画祭主演女優賞を受賞しているが、今回初めて深津をいい女優だと思った。また、満島、岡田はイメージ戦略的には損な役どころなのだろうが熱演している。特に満島は同世代女優の中でも、汚れ役を一身に引き受けている感じがして、今後どういう作品に出演していくのか楽しみ。ベテラン勢は安定しすぎるほど安定しているが、樹木希林の名演というよりもはや怪演と、出番は少ないながら刑事役の塩見省三の立ち姿が印象に残った。
 なお、美術は種田陽平。祐一と祖母の自宅、光代と妹の部屋など生活感の出し方がきめ細かい。彼の仕事の中でもかなりリアル寄りだと思う。ただ、灯台の中はちょっとファンタジー度が高すぎて残念。




『死刑台のエレベーター』

 ルイ・マル監督、25歳の時のデビュー作。デビューでこのクオリティか・・・。撮影のアンリ・ドカエも新人だったというから恐ろしい。原作はノエル・カレフの小説。音楽がマイルス・デイビスというのも有名。
 元軍人で今は技師として勤めているジュリアン・タベルニエ(モーリス・ロネ)は、勤務先の社長夫人フロランス・カララ(ジャンヌ・モロー)と不倫中。2人で共謀して社長を会社で殺害しようとするが、ジュリアンがエレベーターに閉じ込められてしまったことで思わぬ展開に。
 モノクロの画面が美しい。ジャンヌ・モローは決してスタンダードな美人顔ではないのだが、モノクロには映える。ルイ・マルがこの人は美人なんだぞーっと念じて撮っている感じがするからかもしれないけど(笑)。彼女が夜の町をさまよう様は危なっかしく見える。ホテルに入ろうとして断れているらしいシーンがあるのだが、当時のパリでは女性1人ではホテルに泊まれなかったのか?それとも何か特殊な事情があるの?他の客よりも妙に身なりがいい(社長夫人だからね)というのもあるのだろうが、酒場に入ると奇異の目で見られたりして、女性が一人で夜遊び、というのがあまり一般的な時代ではなかった様子が窺える。
 完全犯罪を巡るサスペンスなのだが、思っていたよりも本格ミステリ的。犯人が主人公なので、観客にはどのように犯行が行われたか、どのへんで計画が狂ってきておそらくこれが伏線になるんだな、という設計は大体わかるのだが、その設計が案外かっちりしていた。特に若いカップルのエピソードとの繋ぎ方はきれい。カメラの伏線、途中まではこうくるんだろうなと思ったけど、最後にそうくるかと。浮気するならこういうところに気をつけろ!というお手本のようだな・・・。
 エレベーターの中に閉じ込められるというシチュエーションも怖いのだが、ジュリアンとフロランスが双方連絡がとれず、お互いの本意を取り違えてしまうというところがすごく怖かった。彼らの把握していないところで事がどんどん(色々な誤解に基づき)動いていってしまう過程には、いやーな焦りを感じる。
 ところで本作、若いカップルの描き方にどうも悪意があるように思った。いくらなんでも頭が悪すぎるだろうそれは・・・、と言いたくなる様な言動が続き、辟易とする。




『鬼火』

 1963年作品。監督はルイ・マル。’63年度ヴェネチア映画祭審査員特別賞、イタリア批評家選定最優秀外国語映画賞受賞作品となる。NYに妻を置き、アルコール中毒でフランスの病院に入院していたアラン(モーリス・ロネ)は、退院を控えて友人達を訪問する。
 アランは元軍人。かつて共に戦い奔放に遊んだ友人達は、今では穏やかな家庭を築いたり、社交界の名士だったりと、すっかり落ち着いている。アランはその安定を嫌い、軽蔑する。しかし、友人達にしてみれば、過去の夢を見続けているアランの方が大人になれない困った人なのだ。日本の学生運動末期を彷彿とさせる構図だが、熱気に満ちたムーブメントが去った後、引き際に上手く乗っかった人と乗れなかった人に分かれるというのは国を問わずよくあることだろう。
 アランは妻とは別居しているが、よりを戻す当てがないわけではない。また、彼には金持ちの愛人もいる。愛人は彼を「金のかかる男」と言うのだが、妻にしろ愛人にしろ、彼を養う気はある。彼女達はそれなりに彼を愛しているのだ。また、友人達も彼を疎んじているわけではなく、彼の今後を心配し、力になろうとしている。アランは周囲の気遣いを無下にする甘えた奴、現実を見ていない奴とも言える。が、それを甘えと切り捨てる気にもなれない。 彼が抱えている苦しさと、周囲の配慮とはかみ合っていない。じゃあかみ合うように出来るのかというと、多分出来ないだろう。「その程度大したことない」と言われても、彼にとってはどうしたって苦しいのだ。彼に限らず、個人の苦しさは相対化できないんじゃないかと思う。アランの最後の選択はあてつけに見える(というか当てつけなのだろう)が、本人にとってはそうするしかなかったのだろう。それが苦しい。




『本格ミステリ大賞全選評 2001-2010』

本格ミステリ作家クラブ編
本格ミステリ大賞が設立されてから10年間の、全ての候補作品とそれに対する本格ミステリ作家クラブ会員の選評を収録した1冊。賞の選評が1冊に纏められることは珍しいだろうから、このジャンルのファンや研究者にとっては貴重な資料になるのでは。読み物としても(ある程度本格ミステリを読んでいる人にとってはだが)楽しめる。本格ミステリ作家クラブ会員の中でも、何をもって本格ミステリとするか人によってかなり違っている。他の人の本格観に異議のある人、クラブの方針自体に疑問のある人も当然いるので、そこはかとなく不協和音が漂う。人によってはあからさまに、この人はあの人に対して含むところがあるんだろうなーとか、あの人のこういう所が許容しがたいんだろうなーとかいう部分が見えてしまって、ちょっと嫌なもの見たなぁという気もしなくもない(笑)。巻末に付録として、「私の愛する本格ミステリ」ベスト3が挙げられているのだが、これがまた楽しかった。この人にとってはこういうのが本格なのね、とか、こういう視点で選ぶこともできるのね、とか。読書の世界が広がりそう。なお、便乗して私にとっての愛する本格ミステリベスト3を挙げてみると、『九尾の猫』(エラリイ・クイーン)、『樽』(F.W.クロフツ)、『木製の王子』(麻耶雄嵩)だろうか。読み返し度が高いのはクリスティなのだが、1冊に絞れない。




『東京から 現代アメリカ映画談議』

黒沢清、蓮實重彦著
イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノという現代アメリカ映画界を代表する3人の監督に焦点を当てた、黒沢と蓮實の対談集。この人たちの話を読んでいると、私が映画を見ているというのは、眺めているだけなのであって、読み解く域には全然達していない、意図されたことをちゃんと読み込んでいるのかどうかもおぼつかないことを痛感する。映画の見方、わかってないなぁ自分・・・。反省も込めて興味深く読んだ。2人がイーストウッドの何をもって不気味だと感じるのか、トム・クルーズのどこに陰を感じるのかわからないのだが、映画の鬼同士の映画談議が面白くないわけはない。そうなのかなーそうなのかなーと唸りながら読む中、タランティーノ監督の『ジャッキー・ブラウン』は面白いよね、という話にほっとした。世間では失敗作とみられているみたいだけど、私は『キルビル』よりは全然すきなんだよなー。




『ミステリ作家の自分でガイド』

本格ミステリ作家クラブ編
本格ミステリ作家クラブ10周年記念として発行された、70人あまりのミステリ作家、評論家による自作(評論家の場合はお勧め作の場合も)のガイドという、なかなかめずらしい1冊。お祭り気分で楽しめた。作家本人が自分の得意分野と思っている作品と、読者側がこの作家の得意分野はここだろうと思っている作品とは、必ずしも一致していないというところが面白い。歌野晶午が自分では短編作家だと思っているというのは意外だった。てっきり長編に強みがあるつもりなのだとばかり・・・。ガイドの仕方にも、上手い下手はあるものの、筆者それぞれの人柄が垣間見えて本格ミステリファンには嬉しい。個人的には、氷川透に新刊発行予定があるということに安堵した。待ってますから、待ってますからね!創元ミステリ文庫の表紙でおなじみのひらいたかこが参加しているのもうれしい。




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