3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『武士の家計簿』

 原作はノンフィクションであって小説ではないのだが、確かに物語化したら面白いだろうなとは思った。監督は森田芳光。江戸時後期の加賀藩。幕府の会計部署である御算用者として、代々仕えてえてきた猪山家。特に八代目・直行(堺雅人)は、そろばん馬鹿といわれるほど算術が得意でその腕をかわれて出世する。しかし出世するにつれ出費もかさむ武家社会で、猪山家の家計は火の車だった。家計の状態に気付いた直行は借金返済の為に家財を売り払い倹約生活を開始する。
不況のこのご時世にぴったりの題材なのだが、肝心の家計簿が出てくるまでに結構時間がかかる。当時の時代背景や御算用者の仕事の様子などを説明していくためなので仕方ないかなとは思う。御算用者の勤める部屋が、まさに会社の会計部署という趣で面白かった。ちゃんとお茶配ったり、墨をひたすらする係の人がいたりするのだ。物語そのものは、元がノンフィクション(猪山家の家計簿の解説)ということもあるが、それほどめりはりがあるものではないのだが、料理や食事の風景(朝夕の食事や弁当)など、生活感が感じられる部分は魅力があった。
 直行は、武士としての体面を捨てても借金返済という実利をとる、世間の目を気にしない合理的な面を持った人。しかし同時に、武士として藩に仕えるという役割を捨てることはできず、時代には乗り遅れる。個人の性格もあるのだろうが、時代が変わっていく狭間に生きた人の、時代を先取りしていた部分と保守的な部分が同居している感じが面白い。彼の息子は更に時代にのっていき、父親にもどかしさを覚えたりもする。このへんのギャップは、普遍的な父子の物語的だった。
 ところで、本作のように2世代にわたる物語だと、登場人物は当然年齢を重ねていく。同じ俳優が若い頃から晩年まで演じる場合、老けメイクをすることが多いが、老けメイクって難しいなー。途中で俳優変える方がいい場合もあるのではないかと思った。人にもよるのだろうが、堺雅人はあんまり老けメイクがしっくりこないみたいだ。妻役の仲間由紀恵は、同じように年齢を重ねる設定なのに殆ど老けメイクしていない。それなのに仲間の方が何かしっくりくるのが不思議。彼女の、ちょっと現実離れした雰囲気のせいもあるのだろうが、下手に老けメイクするよりもいい。




『海炭市叙景』

 函館市を舞台に、造船所を解雇された兄妹、立ち退きを迫られる一人暮らしの老婆、家族仲がぎくしゃくしている中年男や、故郷と父親に複雑な思いを抱く青年など、変容していく町に暮らす人々を描く。監督は熊切和嘉。原作は佐藤泰志の小説。原作小説を読みたくなった。
 貧しさが時に生々しい。臭いまで伝わってきそうだ。特に、地方の経済が行き詰まった感じがひしひしと感じられて憂鬱になってくる。函館は一応観光地だと思っていたのだが、それでもこんな感じなのか・・・。もちろん映画はフィクションなので、映画の中の函館は意図的にさびれさせているのかもしれないが。現代の、地方のそれほど大きくない街の典型として作られていたのだとは思う。未来があまり見えない感じなのだ。登場人物の1人の言葉に、「私達はここに帰るのだ」とあるのだが、「帰る」というよりもその土地より他に居場所がない、土地に縛り付けられているような気がした。登場する人たちの多くが地場に根ざした仕事をしているので、その土地で生きる、ということがより浮かび上がってくるのかもしれない。特に造船所勤めの兄とその妹は、この土地で親を亡くしており、土地に絡め取られている感がより強かった。
 群像劇だが、どの人も社会的にはそれほど強くない(むしろ人によってはかなり弱い)。彼らのおかれた状況が他人事とは思えず、見ていて大分消耗してしまった。経済的な貧しさもだが、精神的に困窮していく様も突き刺さる。熊切監督は貧しさに対してすごく実体感を持っているのではないかと思う。屋内の造形にものすごく生活感があるのには呻った。実際に誰かが住んでいる家をそのまま使ったんじゃないかという使い込み感。
 出演者は結構豪華。特に俳優としての資質を熊切監督が見出したと言ってもいい竹原ピストルと、妹役の谷村美月がいい。谷村は最近いい仕事いっぱいしていると思う。また、ガス屋役の加瀬亮が、時に粗暴さを見せる好演。父親を嫌っており対抗意識があるのに、妻が父親の再婚相手と同じタイプっぽいというのがとても嫌だった(笑)。このガス屋のエピソードは、造船所の兄妹とはまた別の意味でやりきれない。
 色々なエピソードが一点で交差する終盤が美しい。ジム・オルークによる音楽も、抑制がきいていてよかった。




『Ricky  リッキー』

 幼い娘リサ(メリュージュ・マヤンス)を育てながら工場に勤めるシングルマザーのカティ(アレクサンドラ・ラミー)は、同じ工場に勤めるスペイン人パコ(セルイジ・ロペス)と恋に落ち、一緒に暮らすようになる。やがて2人の間に長男リッキーが生まれる。しかし赤ん坊の世話に翻弄され、カティとパコの間にはすれ違いが生じるように。ある日、リッキーの体に痣を見つけたカティは、パコが暴力を振るったと思い、パコは出て行ってしまう。しかしリッキーの痣はどんどん広がり、なんと羽根が生えてきたのだ。監督はフランソワ・オゾン。
 予告編を見た時、あのオゾン監督がこんなかわいらしいファンタジー映画を撮るなんて!とびっくりしたのだが、実際に見てみると、かわいらしいかどうかは微妙。確かに赤ちゃんは大変かわいらしいし、羽根をはやして飛び回る姿はファンタジックだ(生え始めの羽根が、ご丁寧に手羽先状態なのには笑ったが)。
 しかし一方で、シングルマザーとして追い詰められていくカティの姿は時に痛々しいし、父親としての責任を引き受けきれないパコの姿もイタい。また、パコの登場で母親が奪われたように感じ、更にリッキーの誕生で嫉妬するリサの不満顔も、リアルな子供らしくて印象深い。本作、中盤まではリサのややひいた目線が中心となっているので、可愛い赤ちゃんが登場するファンタジーとしては、やや冷ややかな感じがするのだ。赤ん坊が生まれたことで色々と混乱する、イライラする家族の姿は、決してかわいらしいものではなかった。
 本作、オゾン作品の中での位置づけは、案外『まぼろし』に近いのではないかと思った。なくしたものへの諦めのつかなさや悲しみを、どう昇華していくかという過程の物語であったように思う。終盤でのカティの衰弱を見ると特にそう思った。また、3人が「家族」として成立していく兆しが感じられるところには希望がある。リッキーは、彼らを結びつける為に天から使わされた存在だったのかもと。どことなく宗教的なニュアンスの感じられる作品で、オゾン監督がこういうものを撮るのかと少々驚いた。



『酔いがさめたら、うちに帰ろう』

 カメラマンの塚原(浅野忠信)は自宅で吐血して病院に運ばれる。離婚した妻・由紀(永作博美)は飲酒のしすぎで体がボロボロになった塚原を入院させた。塚原はアルコール病棟で入院生活を送ることになった。原作は鴨志田穣の自伝的小説。監督は東陽一。
 由紀が知り合いの医者から、アルコール依存症は唯一、周囲から同情されない病気だと話すシーンがある。だから本人も家族も治療には覚悟が必要だと。ただ、映画ではそういった部分にはあまり言及せず、夫婦、親子の絆にスポットをあてている。そこがいいところでもあり物足りないところでもある。原作未読なのだが、アルコール依存症の治療がどういうものなのかとか、どういうところが辛いのか、もうちょっと見たくなる。入院患者のキャスティングがかなり豪華なので、この人たちの間でのエピソードがもっとあっても面白そうだなぁと思った。
 浅野忠信が不穏さをかもし出していて良い。冒頭の飲んだくれる姿には、こんな人が家庭内にいたらちょっと不安になるなぁと思った。表情がずっと胡乱な感じで見ていておちつかない。見るからに名演というような演技ではないのだが、おちつかなくさせるところが凄い。対して永作は本作ではあまり魅力が感じられなかった。
 さて原作者の鴨志田は漫画家・西原理恵子の元夫としても有名。本作の由紀は、もちろん西原がモデルということになるし、西原作品を読んでいる人たちは、彼女の作品から垣間見えるタフさとか情の深さを知っているから、由紀の行動を自然なものとして見ると思う。しかし、そういった背景をまったく知らない人が見たらどうなんだろうと気になった。由紀と塚原は、酔った塚原の物理的・精神的暴力が原因で離婚している。そういう相手をなぜまた助けるのかという、由紀側の動機がはたしてぴんとくるだろうか。映画の中の由紀だけ見ていると、この人はなんで塚原の為にここまでやるのかという部分が、いまひとつ説得力足りないように思った。塚原と由紀との関係がどういうものであったのか、という部分がもっと表面に出ていれば、また違ったかもしれない。子供との関係は結構わかるのだが。
 なお、音楽の使いかたがちぐはぐなのが気になった。所々で使われるファドが全体と馴染んでいないし、エンドロールで使われる忌野清四郎の曲も浮いている(いい曲なんですが)。




『トロン:レガシー』

 IT業界のトップ企業であるエンコム社のCEO、ケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)はある日突然失踪した。一人息子のサム(ギャレット・ヘドランド)は祖父母に育てられ、20年たった今ではエンコムの筆頭株主だ。27歳となったサムにある日、父からのメッセージが届く。ケヴィンが持っていた古いゲームセンターに辿り着いたサムは、美しく危険な新世界・グリッドへの扉を開く。そこで彼を助けてくれたのは美女クオラ(オリビア・ワイルド)だった。監督はジョセフ・コシンスキー。
 世界初のコンピューターグラフィックを使用した映画だったという『トロン』の正式な続編だそうだ。本作主人公サムの父親役であるジェフ・ブリッジスは、前作の主人公だった。もっとも、前作を見なくても大丈夫ではある(私も見ていない)。本作は3D映画として鳴り物入りで公開されたが、正直、それほど「おお3Dだ!」とびっくりするような映像ではなかった。衝撃度でいったら『アバター』の方がインパクトあった。ただ、本作はわざわざ衝撃を感じないくらいに3D効果がこなれていたということかもしれない。生身の世界は2D、グリッド世界は3D映像なのだが、2Dから3Dへ移った時にあまり違和感がなかった。すごくスムーズで、ストレスを感じない。飛び出てびっくりする映像ではない3Dを目指しているのかなと思うが、いわゆる「すごい3D」を期待した人には拍子抜けかもしれない(上映方式でかなり見え方が違うようですが)。
 映像技術は最先端なのだろうが、描かれる世界はむしろレトロ。おそらく旧作のイメージを大切にしているのだと思うが、一昔前のコンピューター・ゲームの世界だ。世界の成り立ちやルールもアバウトで、それらしい雰囲気であればOK、というおおらかさがある。この大味さは嫌いではない。設定といいデザインといい、新鮮味はないが、なんとなく和む。ハイクオリティなファミコンみたいな感じだ。グリッド内は色彩が抑えられておりごくシンプルなのも、見ていてなんとなく和む一因か。バイクの軌跡がそのまま物質化して武器になるとか、グライダーを生成するところとか、生理的な気持ちのよさがあった。
 もっとも、シンプルかつ画面が全般的に暗い、そして3D映像のストレスが感じられないので、うっかり気持ちよく居眠りしてしまいそうになったが。ダフトパンクが手がけたサウンドトラックが低音ベースでこれまた気持ちいい。正直、ダフトパンクのPVとして2時間見ている感じだった。ご本人たちもグリッド内クラブに登場する(ご本人というかダフトパンクの被り物をした人ということですが・・・)。
 意外にも、一番技術の冴えを感じたのは3Dに関する部分ではなく、若いジェフ・ブリッジス。もちろんCGで再現しているのだが、生身感がすごい。サムが主人公とされているが、実は父親が自分の人生に落とし前つける話だったというのも意外だった。登場人物にそんなに魅力は感じなかったが、クオラがジューヌ・ヴェルヌ好きで、ベルヌなら知っているというサムに「友達なの?!」と目を輝かせるところは可愛かったです。




『夜は終わらない』

ジョージ・ペレケーノス著、横山啓明訳
ミドルネームの“P”がなくなったペレケーノス先生新刊。待ってました!これまでの作品とはちょっと色あいが異なり、かつて同僚だった警官と元警官を中心とした群像劇。ワシントンDC勤務の刑事ラモーンは、少年の他殺事件を担当することに。死んだ少年は息子の同級生だった。捜査を進めるうち、20年前に起きた未解決連続殺人事件との類似にラモーンは気付く。日本の警察小説を読んでいても時々思うが、警察官だった人は退職しても警察官としての生活・思考をやめられないのだろうか。どんな職業でも身にしみついてとれない何かはあるだろうが、警察官は特にそれが強いようで不思議。本作に登場する元警官のホリデーやクックも、ホリデーはある事情で辞職、クックは定年退職という違いはあるものの、警官としての自分が忘れられずもう一花咲かせようともくろむ。一方、ラモーンには警官としてのし上がろうという野心はない。彼が一番に考えるのはまっとうに生きて家族を守ることだ。小説としては、初期の作品と比べると大分落ち着いた、地味目という印象を受けたが、ラモーンの人物造形もその表れのひとつだろう。ミステリ要素と家族小説としての要素が上手く織り込まれていてさすが手堅い。近年のペレケーノス作品では、現代のアメリカのある層、ある地域で子供を育てることの困難さが描かれている。日本でも最近は経済格差や学級崩壊が進んでいるけど、本作で言及されているほどの学校の荒廃はまだない(いずれこうなるかもという不安は強くあるが)ように思う。まっとうな道をすすんでほしいけど子供たちはもう道を踏み外しつつある、そしてそこから抜け出す方法が思いつかないという気持ちが暗くなる部分も。また、少年の死の真相もやりきれない。そういう世界でどう生きていくか、どう子供たちを育てていくかという部分が、著者のここ数作では強く意識されているように思う。しかし、意地を見せる警官たち(元含む)やラモーンの家族愛のおかげで、読後感は決して悪くない。シリーズ化しているそうなので、続刊が楽しみ。なお、アメリカで男性に求められる(異性からというより同性間において)のは未だにマッチョであることなのね~と目の当たりにしてげんなりした。バスケやらないで本読んでると同級生に軟弱とかオカマとか言われる文化なわけですよ。文系(あ、理系もか)男子にとっては地獄だ。自分にとっては違和感があるのに、「ここに所属しているよね」ということが勝手に決められ強要される苦しさが胸に刺さる。




『ノルウェイの森』

 今更言うまでもなく、村上春樹の有名小説を映画化した作品。ワタナベ(松山ケンイチ)は東京の大学生。ある日、ワタナベは自殺した親友キズキ(高良健吾)の恋人だった直子(菊地凛子)と再会する。2人は惹かれあうが、精神不安定になった直子は山奥の療養所に入所してしまった。直子からの手紙を心待ちにする一方で、ワタナベは同級生の緑(水原希子)と親しくなっていく。
 監督がベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンというところがユニーク。日本人キャストとは言え、日本人以外の人が日本の小説原作で日本が舞台の映画を撮ったらどんな感じになるんだろうと思っていたが、見た目は普通に日本映画。時代背景も意外としっかり捉えられているように思う。60年代が舞台だということは、映画の方が実感できるように思ったし、この話は学生運動と同時期の話だというのが実は結構ポイントだったんだなということがようやくわかった。ワタナベたちが時代の空気からは浮いているから、こういう物語になったんだなと。本作(映画)、世間、特に春樹ファンの間ではあまり評判がよくないようだが、私は小説よりも この映画の方がどちらかというと面白く思ったし、映画単体としてもわりと好きな方だ。
登場人物が直裁にセックスの話をするので有名な作品でもあるが、原作読んだときにはあまり色っぽさを感じなかった記憶がある。で、映画では当然セックスの話はするしセックスもするのだが、やはり色っぽさはあまり感じない。そもそも本作、恋愛映画というわけでもないんじゃないかとも思った。表面に出ているのはワタナベと直子の関係なのだが、その背後にあるのは直子とキズキ、ワタナベとキズキの関係だ。生きている人同士の関係の間に死んだ人が介入してくる、という部分の方が大きな要素だったんじゃないかと思う。ワタナベと直子を結びつけたのはキズキだが、キズキの存在が大きすぎて2人の関係は壊れてしまったともいえる。そしてワタナベと緑の背後には直子が、または直子の両親がいるように思う。
 映像が大変美しく、特にロケがすばらしい。ワタナベと直子が草原を歩いていく長まわしや、寮の階段をワタナベが駆け上るシーンから山林をカメラがなめるショットに移行する部分のなめらかさが気持ちよくぞわぞわした。ロケがいいと、それだけで映画見る気力が湧くな(笑)。
 役者は皆好演していたと思う。松山は手堅いし、賛否がわれた菊地も私は役柄に合っていると思った。特に歩き方(やたらと早くずかずか歩く)にぴりぴりとした不安定さが感じられて良かった。あと、出番は少ないがキズキ役の高良健吾がとてもいい。監督はこういう顔が好きなんだろうなーと思った。




『美女と竹林』

森見登美彦著
作家として多忙な日々を送る登美彦氏。美女と竹林をこよなく愛する登美彦氏は、竹林を借りて竹林長者になろうともくろむ。虚実入り乱れた・・・というか主に虚の方がメインな随筆。とにかくアホアホしく素晴らしい。話の内容など皆無に等しいのだが、独自の語り口調が確立されているので、ほら話が延々と続くだけで十二分に面白いのだ。終盤の妄想がバブル状態になっていく過程はもはや随筆ではないのだが(笑)、妙な勢いで読ませられてしまった。おやつ感覚で楽しい作品。装丁もかわいい。著者のキャラ化が徹底しているが、これは照れなんだろうなぁ。自分をすごく客観視している人なのだとは思う。




『沼地の記憶』

トマス・H・クック著、村松潔訳
高校教師の私は、生徒の一人であるジャックが殺人犯の息子だと知り、過去を克服するため父親について調べることを勧める。いやいやいや、そんなこと勧めるなよー!どんだけ大きなお世話だよー!とつい突っ込みたくなってしまう「私」の独りよがりな態度に終始イライラした。「私」の一人称による小説だが、一人称故に、「私」の微妙な自己欺瞞や優越感、独善的な態度などが徐々に目についてきて、いやーな気持ちになってくる。「私」は悪人というわけではなく、むしろ理想に燃える教師なのだが、「よかれと思って」という行為が悪意がないだけに始末におえないこともある。「私」だけでなく他の人々の「よかれと思って」という言葉や行為も思わぬ方向へ働いてしまうのだ。もしかしたら自分も同じようなことをしてしまっているのではと、ひやりとする。事態の崩壊にむけてひたひたと進んでいく、また過去と現在を行き来し悲劇の全容が徐々に明かされていくという構成が上手い。悪人が登場しなくても、ちょっとした嫉妬や疑いが取り返しのつかない結果を招くという、やりきれなさが尾を引く。




『ラスト・チャイルド』

ジョン・ハート著、東野さやか訳
幼い妹が誘拐され戻ってこなかったことにより、少年ジョニーの家族は壊れてしまった。父は失踪し、母は薬物に溺れ男から暴力を振るわれるようになってしまった。ジョニーは妹が生きていると信じ探し続ける。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞、英国推理作家協会賞最優秀賞スリラー賞受賞作だそうだが、受賞にも納得の面白さだった。著者の前2作も面白かったが、女性の造形など頂けないところもあった。本作はこれまでの難点が気にならない。早川書房が設立65周年&ハヤカワ文庫40周年記念作品として選んだのも頷ける。なお、ポケミス版と文庫版(上下)と2タイプで発行された。ジョニーは賢いし意思の強い少年だが、子供の身では薬物や大人の男から母を守ることはできない。その反動として妹探しにのめりこんでいるという面もあるのだろうが、あまりに危なっかしい。ジョニーの妄執とも言える一途さ、頑固さは大人の視線からは腹立たしくもあるのだが、胸に刺さってくるし、痛ましい。本作にはジョニー以外にも「子供」が登場するが、子供は大人と同じような納得の仕方が出来ないことがあるよなと思った。子供が感じるもどかしさ、無力感がすごく切実。ミステリーとしてはもちろん面白いのだが、少年の世界を描いた作品としてとても良かったし痛切。痛切なだけにジョニーの母の弱さが勘に障るのが難点なのだが。




『バーレスク』

 スターを夢見てアイダホの田舎からロスへやってきたアリ(クリスティーナ・アギレラ)。女主人テス(シェール)が経営するクラブ「バーレスク」でウェイトレスとして働き始めたアリは、チャンスをものにしステージに上がる。彼女の歌声は評判となり客は増えるが、これまでの赤字続きで、テスはクラブの売却を迫られていたのだ。監督はスティーブ・アンティン。
 いわゆるミュージカルではなく、歌と踊りがあるのは殆どがクラブのステージ上。ショーのシーンはさすがアギレラというべきか、迫力あるしセクシーだし楽しい。ステージやクラブの雰囲気がそこはかとなく下世話なのもアギレラとシェールというキャスティングを考えると正しい。やはり、音楽がいい映画はそれだけで楽しいのだ。
 しかし、音楽とアギレラのパフォーマンスをもってしても、本作は映画としては弱い。ドラマ部分がぼんやりとしすぎる。田舎娘がスターになる、ジリ貧のクラブを立て直す、という物語の軸が上手く見えてこない。ステージに生歌起用されるきっかけとなったシーンはわりとインパクトあったが、それ以降のスターとしてのし上がっていく過程はのし上がり具合がものたりない。また、クラブ再建に関しては経営者であるテスの行動が、経営者なのにそりゃーないだろうというものなので(書類ちゃんと読んで!)、これもあまり迫力がない。アリが作曲家志望のバーテンとクラブを買い取ろうとする実業家の間で揺れるというラブストーリーも、男性2人にあんまり魅力が感じられず(特に実業家)、こんな程度だったらラブ要素なくてもいいんじゃないかなーと思った。エピソードとエピソードの間のつなぎが下手で印象が散漫になっている。
 アギレラを好きでないと、2時間もたない映画かなーとは思う。私は嫌いじゃないけどそんなに好きでもないので、少々物足りなかった。あと、妙にゲイテイストが強いところは面白い。バンドメンバーが全員無駄にイケメンでガチムチ。クラブでテスの右腕となっているスタッフがゲイ設定で、彼のナンパ話が本作中一番おもしろかった(笑)




『ハーブ&ドロシー』

 元公務員のヴォーゲル夫妻は、現代アートのコレクターだ。40年をかけて収集したアートは4000点以上。彼らが作品を購入する時のルールは、自分達のお給料で買えるもの、自宅のアパートに置けるサイズのものであることだ。夫妻の人生とアートへの情熱を追ったドキュメンタリー。監督は佐々木芽生。
 ドキュメンタリーとしては異例のヒットとなっている本作、ようやく見ることが出来たが確かに面白いしヒットも頷ける。こういう地味な良作がヒットするとうれしいなぁ。ハーブ&ドロシー夫妻の魅力が捉えられている作品だと思う。ユーモアと好奇心旺盛で、アーティストたちの懐にもぽんと入っていけるチャーミングさがある。ギャラリー経営者が夫妻に対して「ずるーい」というような気持ちを漏らすのも、笑ってしまうが頷ける。人間的な魅力でかなり値切ってしまっているきらいもあるだけに、やっかみもかいそうだ。
 ただ、彼らの審美眼が突出していたというのが第一なんだろうけど。2人とも現代美術に対して専門的な教育を受けていたわけではないのだが、生まれもっての何かがあるんだろう、すごく不思議だし羨ましい。この2人がめぐり合って夫婦になったというのが奇跡的だと思った。ハーブは職場ではアートに興味があることを秘密にしていたそうだし、「アートについて語り合える人はめったにいない」と話す。多分、ドロシーと結婚しなければここまでコレクションが広がることはなかっただろう。
 狭いアパートの中は作品で埋め尽くされ、ダイニングとベッドルームのわずかなスペースで生活しており、いわゆる快適な生活というわけではないように見えるが、2人はこれで満足なのだろう。快適さを犠牲にしてもアートを収集したいという熱意を、ドロシーの兄夫婦のように理解できないという人もいるだろうが、夢中になれるものがある人生は楽しい。幸せの価値観は人それぞれ、というあたりまえのことを実感する。
 ただ、この夫妻はチャーミングではあるが、必ずしも微笑ましいだけではない。2人のアート収集にかける情熱は時に鬼気迫るものがある。基本的にアーティストから直接買い付けているようなのだが、欲しいと思った作品をゲットするためアーティストに食いつき、粘り強くくどいていく。くいつきの強さはスッポン並み。そしておそらく、値段も結構ねぎっているだろう。彼らが若手アーティストから摂取しているのではないかと言う声も実際あるらしい。また、ローンで購入した時には支払いが滞ることもしばしばとか。人によっては、嫌がりそうな人たちでもあると思う。




『劇場版BLEACH 地獄篇』

 週刊少年ジャンプ連載、TVアニメも好調の久保帯人による人気漫画が原作。劇場版としては4作目となる。死神代行である高校生・黒崎一護(森田成一)は学校で不自然な事故が起きるのを目撃。それは地獄から抜け出してきた咎人たちの仕業だった。彼らは地獄で一護にやってもらいたいことがあると言い、一護の妹・遊子を人質にさらう。一護は妹を救出する為、仲間と地獄へ向かうが。監督はこれまでもシリーズ劇場版を手がけてきた阿部記之。
 「BLEACH」に関してはジャンプ誌上で流れを追っている程度だったのだが(なお本劇場版、現時点の原作の設定とは大きな違いがあるので注意。原作、TVとは別物と思った方がいいかも)、今回の劇場版はエフェクト作画にかなり力が入っているらしいという噂を聞いたので見てみた。確かに、煙、水しぶきの作画は迫力がある。煙の流れ方ひとつでもセンスの有る無しは出るんだなぁと妙に感心した。ちゃんと煙が煙らしいというか、漠然とした煙ではなく、こういう爆発が起きたらこう流れる、という説得力がある煙というか・・・。本作、冒頭のアクションシーン(TVアニメ版のリライトだと思う。個人的にあんまり好みのカメラワークではないのだが頑張ってると思う)、中盤のアクションシーンはコンテ、作画ともに結構キレがいい。特に中盤は意外に長回しをしていて、スクリーンサイズに映えるカメラの動きになっていると思う。
 ただ、脚本の弱さは気になった。ストーリー云々ではなく、セリフの作り方が記号的で惜しいと思った。また、アクション以外の部分でのキャラクターの演技が大根役者で、単調になりもったいない(声優さんは皆安定していると思う。作画の問題です)。ちょっとした仕草の作り方でずいぶん印象変わると思うのだが・・・。脚本よりは演出の問題か。
 もっとも、日常パートの長閑さやエンドロールへの入り方のコミカルさなどは、「まんが映画」っぽくて嫌いではない。全体的に昔の「東映まんがまつり」を彷彿とさせる何かがあるな・・・。あと音が意外といいので、劇場で見るなら音響設備のいいところをお勧めする。爆音推奨。




『極悪レミー』

 1975年にイギリスで結成され、轟音と過激な発言から、かつては「世界最悪のバンド」とも言われたモーターヘッド。そのフロントマンであるレミー・キルミスター(B,Vo)を追ったドキュメンタリー。感遠くはグレッグ・オリヴァー、ウェス・オーショスキー。
 映画題名の「極悪」はモーターヘッドに称された「世界最悪」の名からなんだろうが、このドキュメンタリーで映されているレミーは、「極悪」という雰囲気ではない。愛想がいいというわけではないが、ファンにサインや写真撮影をねだられると意外にもすんなり応じているみたいだし、結婚はしないといいながら、息子に対する愛情を吐露したりもする(息子もびっくりしていたが)。女・ドラッグ・アルコールと大変仲がいいが「覚醒剤はダメだぞ!」と息子を諭したりもする。住んでいるのは古いアパートで戦争関連グッズのコレクションに囲まれている。私生活が意外に地味っぽい。
 一貫してわが道をいく人なんだろうと思う。自分の好きなものに対して率直というか、あまり「それを好きなことによりどう思われるか」ということは気にしない人なんだろうなと、戦争マニア振りを発揮するところを見て思った。一応「戦争には反対だよ!」と言ってはいるが。
 ヘヴィメタル界のスターが次々登場するので、ヘビメタ好きにはうれしい作品だと思う。レミーが愛されている、愛されてなくてもそれなりに一目おかれている感じが伝わる。現モーターヘッドのメンバーが、「12歳の時にサインをもらった人と同じバンドにいるなんて・・・」と話していたのにはぐっときた。
 レミーが敬愛するミュージシャンとして、リトル・リチャード、ビートルズ、エルヴィス・プレスリーを挙げているのだが、モーターヘッドの音楽の基盤にあるものが垣間見られてファンならずとも興味深い。確かに結構R&Bやカントリーのニュアンスが入っている。ロカビリーバンドとセッションできるというのも、そういう基盤があってこそか。レミーがブルースハープとベースを演奏するシーンがちょっとだけあるのだが、これがすごくかっこよかった。また、レコードショップでビートルズのリマスターボックス・モノラル版をお買いあげするシーンは、レミーもショップ店員もほほえましい好エピソード。映画序盤でこれをもってくる監督はあざといと思う。好きにならずにいられないじゃないよー。




『キス&キル』

 理想的な男性スペンサー(アシュトン・カッチャー)とめぐり合ったジェン(キャサリン・ハイグル)。結婚3年目のスペンサーのバースデーパーティの後、友人が彼を殺そうと襲い掛かってきた。スペンサーは元スパイで、組織を抜けたことで賞金首となっていたのだ。監督はロバート・ルケティック。
 すごい傑作とか大作ではないが、楽しくリラックスして見ることができた。謎のハンサムに巻き込まれるヒロイン、という設定はトム&キャメロン主演の『ナイト&デイ』に似ているが、個人的には本作の方が好き。本作の方が野暮ったいのだが、そこが妙にチャーミング。冒頭、機内での親子の会話からしてベッタベタのコメディ、その後も似たようなものなのだが、そこがいい。ヒロインのキャサリン・ハイグルが、美人なのか微妙なラインなのも、あまりぱっとしないヒロインが王子様ゲットという定番の醍醐味をわかってるな~という感じだ(予算的にも丁度よかったんじゃないかと・・・)。
 そして主演のアシュトン・カッチャーだが、初めて彼をかっこいいと思った。本作、彼がプロデュースもしているそうなのだが、自分の特性&魅力をすごくよくわかっていると思う。二枚目だけどどこかうさんくさい二枚目というか(笑)、出来すぎなのね。キャラクター設定にもコメディ部分にもそれが活用されている。
 定番的なストーリーだが、ちょっとしたところで工夫している。後半のどんどん被せていく展開は、口コミで日本公開にこぎつけた某映画を彷彿とさせて笑わされた。また、ジェンの真面目で割りと保守的な性格や両親との距離感など、ラブコメのヒロインとしては珍しいタイプだったのではないかと思う。あまり要領よくなさそうだが、仕事は意外とできる(というかきちんとした人なので結果的にちゃんと出来ているというタイプなんだろうなー)感じとか、面白かった。




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