3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ユリシーズの涙』

ロジェ・グルニエ著、宮下志朗訳
題名のユリシーズは、ギリシア古典『オデュッセイア』で愛犬の姿に涙した英雄ユリシーズの挿話より。そして著者の愛犬の名前もユリシーズだった。文学の中の犬、身近な友人としての犬など、犬にまつわるエッセー集だが、愛犬家はもちろん、犬が苦手な人(私のことですが)にもお勧め。著者は愛犬家なのだろうが、犬への愛情がべったりとしたものではなく、観察の対象、文章の題材として見ているほどよい距離がある。著者の友人でもあった作家ロマン・ギャリと著者の愛犬ユリシーズについての話は、人生の不思議を感じさせた。著者のギャリとユリシーズと、両方に対する愛情が伝わるエピソードだった。両者とも(そして本著に登場する人・犬たちの多くも)既にこの世にはいない存在だからよけいに哀切なのかもしれない。ただ愛情は伝わるが、だだ漏れではなく、そこに溺れない冷静さと知性(あと教養・・・)が、本著をただの愛犬エッセイとは一線を隔したものにしている。。




『処刑剣 14BLADES』

 明王朝期の中国。皇帝に仕える秘密警察のような組織・錦衣衛はその強さ・冷酷さから恐れられていた。ある日金衣衛のトップ・青龍(ドニー・イェン)は部隊を引き連れて謀反の疑惑のかかっている大臣宅へ向かう。しかし、陰謀に巻き込まれて自分が追われる身に。潔白を証明し謀反を防ぐ為、青龍は反撃を決意する。監督はダニエル・リー。
 サブタイトルの14BLADESは、青龍が持っている武器(見た目は箱)のこと。箱の中に14の武器が仕込んであるのだ。作動するときに歯車がカタカターっと作動する(わざわざCGで歯車見せてくれるあたりがうれしい)だけでワクワクする。率直に言って武器が14つの必要は全くないのだが(笑)、このあたりのセンスは少年漫画的でとっても楽しい。欲を言えば武器の一つ一つを「説明しよう!」的に音声とテロップでやさしく図解&全ての武器に見せ場がほしかった。どうせ漫画的ならそこまでやってくれたほうが燃える。
 ストーリーは非常に大味で、伏線をうまいこと仕込もうとか繊細な心理ドラマを盛り上げようという意欲は感じないのだが(ヒロインとのロマンスが王道なのだが展開はしょって唐突なので、笑ってしまった)、アクションシーンが見所のスター映画としては、ベタ中のベタで正解なのだと思う。途中、砂漠の盗賊として脈略なくイケメン俳優が出てきて、しかも結構おいしいところを持っていくのも、スターを楽しむ為の映画だと思えば納得だし、やはり出演者に華があるなと思った。
 主演のドニー・イェンはさすがの貫禄で、アクションも見ごたえある。『イップ・マン』の時とは全く異なる、冷酷で無粋な男役なのだが、こういうのもいい(長髪はあまり似合わないが)。アクションに華があって、やっぱりスターなんだなーと実感。他の俳優のアクションも、飛び道具系だったり、妖術系(美女が残像拳を使うのです)だったりと、かなりマンガっぽいのだが、武器のギミックと合わさってそこが楽しい。
セットにしろロケにしろ、お金がかかっていることがわかる、多分中国では大作級なんだろうなとわかる作品だった。大々的なロケができる作品はやっぱり見ていて楽しい。




『少女たちの羅針盤』

 新進女優の舞利亜は、数年ぶりに故郷の町に帰ってきた。廃墟となったホテルを利用したネットシネマの撮影があるのだ。しかし改定されたシナリオは彼女には渡されていなかった。彼女が急遽犯人役となり、臨場感を出す為に改定したものを1枚ずつ渡すというのだ。そして控え室には不気味な落書きが。彼女は4年前に起きた事件を思い出す。当時、女子高生4人で結成された羅針盤という劇団が評判になったが、メンバーの1人が死亡したのだ。原作は水生大海、監督は長崎俊一。原作が「バラの町福山ミステリー文学新人賞」の第一回優秀作だそうで、ロケ地は当然福山。
 原作未読なのだが、ミステリ映画としても青春映画としても、手堅くまとまっていたと思う。省略すべきところは省略する(場面の飛び方が結構思い切っている)作り方がよかった。犯人の正体、犠牲者が誰なのかが伏せられたまま(後者は途中までだが)、過去と現在を行き来してストーリーが進むという構成。どちらかというと活字向きの構造で、映像化は面倒くさそうなのだが、よく頑張って映画化したなぁ。昭和の少女小説とか、ジュブナイルドラマのようなどこか懐かしい味わいがある。少女たち(特に瑠美)の視野の狭さ(あまり大人の立場とかほかの人の都合とか頭にない感じ)も青々しい。
 メインの女優4人が、成海璃子を始め、好演していた。羅針盤は伝説的な高校生劇団という設定。劇中劇の場面では、はっとするような良さがあると同時に、うーんこれが伝説?と思うところもあったのだが、見ているうちに徐々に彼女たちのポテンシャルが引き出されてきているように思った。成海は声を張ると裏返るところが気になるが、一本気で若干猪突猛進、才能あるが故の素直さと鈍感さをよく体現していたと思う。同年代の異性人気はあまりなさそうな人(本人もこの役柄も)なんだが、骨の太い感じがいい。また、演技の才能がある蘭役の惣那汐里は『マイ・バックページ』が記憶に新しいが、旬の人感がさすがにある。やさしいムードメーカーなつめ役の草刈麻有は一見地味だが後半じわじわと巻き返してくるし、ボーイッシュななつめ役の黒川智花も悪くない。
 事件の真相はなかなか陰湿で、女の嫉妬って怖いね・・・と言いたくなるが、舞台が地方都市というのも大きな要素だろう。出たくてもなかなか出られない人からすると、簡単に出て行けそうな人に対して何であなたが、と複雑な気持ちがあるかもしれない。地元ゆえのアットホームさも、犯人にとっては却ってきつかったんじゃないかと思う。




『愛の勝利 ムッソリーニを愛した女』

 マルコ・ベロッキオ監督作品。イタリアに独裁政権を築きファシズムという言葉を生んだムッソリーニ。若き日のムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)はイーダ(ジョヴァンナ・メッツォジョル)と出会い、イーダはムッソリーニを精神的にも経済的にも支える。やがて2人の間には息子が生まれるが、ムッソリーニには既に正妻と娘がいた。支持率を集めつつあるムッソリーニにとって、イーダの存在はスキャンダルの火種。周囲はムッソリーニからイーダを引き離し、ついに精神病院に閉じ込めてしまう。
 イーダの存在は最近まで知られていなかったそうだ。本作がどの程度史実に基づいているのかわからないが、「愛の勝利」という題名は皮肉だ。イーダはムッソリーニの為に人生を棒に振ってしまったように見える。イーダは自分をムッソリーニの妻であり、息子はムッソリーニの息子だと主張し続けるが、狂人扱いされるばかりだ。自分の言うことを誰も信じなくないという恐怖は、全然ジャンルは違うが最近見た映画では『アンノウン』でも描かれていた。集団から「正しさ」を強要されて自分が正気であるという意識の拠り所が無くなっていくのが非常に怖い。しかし彼女は自分の主張を曲げない。医者から、今騒ぐのは危険だ、退院したいなら普通の人の振りをしていろと忠告されるが、彼女は妥協しない。
 イーダの頑固さ、意思の強固さには時に辟易する。ムッソリーニもとんだ貧乏くじを引いたもんだな・・・と思わなくもない。そもそもイーダはムッソリーニのどこに惚れたのだろう。明確には描かれないもののこの映画の中では、イーダが演説する若き日の(当然まだ無名な)活動家ムッソリーニに一目ぼれし、半ば強引にアプローチしていく。イーダが惚れたのは、神は存在しないとぶち上げ、体制に反旗を翻す、華々しい男だ。イーダは「普通の人生になんて満足できない」と洩らす。彼女はムッソリーニは自分を劇的な、非日常的な世界につれて行ってくれる存在と見ていたのではないか。彼女がムッソリーニに固執するのは、彼に対する愛だけではなく、普通でいたくない、特別な存在でいたいという執着のようにも見えた。
 映画を見るシーンがしばしば出てくる。ドラマ映画もあるしニュース映画もある。イーダにとってムッソリーニは恋人であり息子の父親という身近な存在、かつ自分をも「ムッソリーニの妻」特別な存在、映画の中に出てくるような存在にしてくれる人だった。しかしムッソリーニはどんどん有名になり、彼女とは関係なく特別なスクリーンの中の人になってしまう。イーダはスクリーン上の彼を見るしかなくなる。そして最後、車中のイーダが映画の観客を見るようにカメラ視線を送る。彼女がついにスクリーンの中の人となったかのように。この車に乗るまでの一連のシークエンスは彼女の妄想のようにも思えるのだが。
 



『本を愛しなさい』

長田弘著
著者の愛する本を書いた人、本の中に出てくる人らにまつわる随筆10編。誰かから聞いた話をまた語るような文体は、歌のようにリズミカルで心地よい。本を読むこと、愛することは、その本に書かれた世界や人々を愛することだ。ひいてはその本を生み出したこの世界を愛することでもあるだろう。本は世界につながっているのだ。作家や出版者についての話ではあるが、もっと広がりを感じる。取り上げられる作家・本の幅が広いのも弥勒。やっぱり幅広い教養がある人の文章はいいなー。それをせせこましくなく、しかもそっと披露できるところがすごいのだろうけど。読書好きとしては読んでいて安心する1冊。装丁・挿画もいい。




『プリンセス トヨトミ』

 「鬼の松平」と恐れられる会計検査院の松平元(堤真一)は部下の鳥居忠子(綾瀬はるか)、旭ゲーンズブール(岡田将生)を率いて大阪へ出張してきた。実地調査を順調にこなしていく中、松平は財団法人OJOなる組織に違和感を覚える。しつこく実地調査・聞き取り調査を行うがOJO側ははぐらかすばかり。やがて松平は大阪が400年守ってきた秘密にたどり着く。原作は万城目学、監督は鈴木雅之。
 予告編でも明らかなように、大阪は実は「大阪国」だった・・・!という壮大なホラ話なのだが、そのホラを成立させる為の土台が脆弱なように思った。中井貴一が「大阪国総理大臣です」といい始めても何寝言を言っているのかと。凄みがないのだ。謎が明らかになるまでの手順がバタバタしていて、あっさりしすぎだと思った。時間の配分があまり上手くないんじゃないだろうか。映像面でも手際が悪いというか、やらなくてもいいことをやって裏目に出ている気がする。同じシーンを角度を切り替えて細かいショットで映す、という演出をたびたびやっているのだが、話の腰を折るようでうっとおしかった。かっこよさげに見えるからやってみた、という感じがするのが残念。
 本作、親子の絆、特に父から息子に受け継がれていくものというのが物語のひとつの軸になっているのだが、そこにも違和感があった。父親のあり方があまりに前時代的ではないかと思う。普段あまり話もしない父親だからこそここぞという時の言葉が残る、という趣旨なのだが、普段話さない人からいきなり重要な話をされても理解されないんじゃないかと思う。大事なことを伝えたいなら、それこそ日常的にちゃんと話してないとダメだろう。また、中井貴一演じる父親が重要な話を息子にするシーンがある。父親は「息子」に対して話しているのだけど、息子はそういう扱いを望んでいないのではないかと思う(「子」としてならわかるが、ストーリー上明らかに「息子」に対してということになっているので)。一応最後にフォローあるのだが、ちょっとした部分でデリカシーに欠けているように思った。
 本作、ファンタジーが人を支えるという物語でもあり、その趣旨は私も共感できるし、他にいくつもあるそういった映画は大体好きだ。しかし本作では、一都市の住民全員が同じファンタジーを共有している。これはちょっと規模が大きすぎて気持ち悪い。何で皆で同じ方向向いてるの?!と不安になる。クライマックスなど、むしろ大阪にとってはマイナスイメージなのではないかと思った。人を支えるファンタジーとは、基本的に個人的なものではないだろうか。




『4月の涙』

 1918年、赤軍と白軍に分かれた内戦が続くフィンランド。赤軍の女兵士ミーナ(ピヒラ・ヴィータラ)は白軍兵士に射殺されそうになったところを逃げ延びるが、白軍の准士官アーロ(サムリ・ヴァウラモ)に再度捕まってしまう。正義感の強いアーロは、ミーナを公正な裁判にかける為にミーナを連れて判事の元を目指すが、2人が乗った船が転覆し、孤島に漂着する。島で助けを待つうちに2人の関係に変化が現れるが。
 フィンランドのアク・ロウヒミエス監督作品。日本ではなじみの薄いフィンランド史が背景にあるので、どの程度理解できるか心配だったのだが、詳しく知らなくても面白く見た。むしろ歴史劇としてはどうも象徴的でどこに軸足を置いて見ればいいか迷う。屋外のロケが多い作品で、色彩を抑えた、寒々とした風景が魅力的。特にミーナとアーロが漂着する島の海辺(岩棚がずっと続く)は延々と歩きたくなる。
 このように屋外シーンが多い作品ではあるのだが、むしろ密室劇のような密度を感じた。一応、それなりに登場人物はいるのだが、重要なやりとりがミーナ、アーロ、そして検事の3人の間でなされているからだろうか。予告編ではミーナとアーロの立場を超えた恋愛物語ような見せ方をしていたが、ここに検事が絡んで三角関係のようになる。ただ、3人の間でやりとりされるのが恋愛感情なのかというと、ちょっと違うような気もした。それぞれがそれぞれの理論で動いており、結果的に三角関係のように見える、といった方がいいかもしれない。
 ミーナは何であるよりも兵士(彼女は部隊のリーダーだった)であろうとする。アーロとの間に情愛が芽生えたように見えるし、実際に絆、信頼感のようなものはあるのだが、彼女は何よりも自分に課された責任を全うしようとする。彼女は基本的に生き残る為には手段は選ばないが、この責任に反する手段は拒絶する。一方、アーロはもっと理想主義的、純粋で(裁判は公正に行われると信じていること自体初心なのだが)ミーナへの思いやりを貫こうとする。彼らは2人とも、自分が正しいと信じることに殉じる。
 一方、判事が印象深い奇妙なキャラクターだった。彼は社会的な地位と名声を持ち教養のある人物だ。しかし所属する社会の中ではマイノリティであり、孤独。彼の言動は厭世的でもある。彼は正しさではなく、大儀や国の為でもなく、自分の欲望・自分の為の願いにより行動する。アーロやミーナとはタイプが違い、ある意味もっとも現代人的なようにも思った。
 陰鬱な雰囲気の作品だが、最後、子供の存在に救われる。大人と子供との2ショットの後姿が印象に残った。




『マーラー 君に捧げるアダージョ』

 世紀末のウィーン。指揮者・作曲家として名声を得たグスタフ・マーラー(ヨハネス・ジルバーシュナイダー)は、19歳年下のアルマ(バーバラ・ロマーナー)と結婚する。アルマは社交界の花形、芸術家たちのミューズで、自分でも作曲やプロ並みの演奏をしていた。しかしマーラーはアルマに自分を支えてほしいと頼み、作曲を禁じる。アルマはやがてサナトリウムに入り、そこで知り合った青年グロビウスと愛し合うようになる。監督は『バグダッド・カフェ』のパーシー・アドロン。
 妻との関係に悩むマーラーが、フロイトに会いに行くというアイディアが楽しい。この2人が実際に面識あったのかどうかは知らないが、同時代人としてこういうことがあってもおかしくはないな、という「もしも」が愉快。本作のフロイトは妙にキャラが立っており(マーラーも結構キャラ濃いんですが)、表情やしぐさがなんとなくユーモラス。生真面目・几帳面なマーラーとのコントラストがきいていた。マーラーの悩みは、フロイトがまさに開拓した分野のもの。フロイトというリード役がいることで、マーラーと妻との間の問題がより浮かび上がる。そもそも、フロイトのような案内役なしには、マーラーは自分と妻との間にどういう問題があるのか気付かないままなんじゃないか、と思わせるところに本作の上手さがある。
 実はかなり早い段階で、観客にはアルマがマーラーに何を求めているのか、2人はなぜかみ合っていないのか察しがつく。しかし、当のマーラーは気付かない。アルマが昔作曲した楽譜を引っ張り出してご機嫌取ろうとし、却って彼女の逆鱗に触れたりする。マーラーは天才と呼ばれる人で、アルマはそれなりの才能はあるが天才ではない。マーラーにとってアルマの作曲は、やめても特に支障がないと思われるものだったのだろう。確かに才能の量からすればそうなのかもしれないが、アルマにとって大事になのは作曲と言う自分の世界があるということだろう。マーラーはあっさりそれを否定してしまうのだ。「私は天才ではない。でも自分で気付きたかった」と言うアルマの言葉は痛烈だ。
 マーラーが天才であった故の食い違いとも言えるが、こういうかみ合わなさは夫婦間ではいまだによくあるよなーと思った。ある意味「夫婦あるある」のてんこもり映画だった。本作の場合、2人の仲が冷めたというわけではなく、食い違っているが愛し合っているというところがまたややこしいのだが。




『ファスター 怒りの銃弾』

 10年の刑期を終えて身一つで出所した“ドライバー”(ドウェイン・ジョンソン)は、10年前に自分を落としいれ兄を殺した奴らへの復讐を開始する。彼の復讐殺人を調べる“刑事”(ビリー・ボブ・ソーントン)と、何者かに“ドライバー”の始末を依頼された“殺し屋”(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)が彼を追う。監督はジョージ・ティルマン・ジュニア。
 全くノーマークで予備知識もないまま見たのだが、私好みでいい掘り出し物だった。主要な登場人物3人は、本名はろくに出てこず“ドライバー”“刑事”というような肩書きのみで紹介される。それぞれの役割は決まっており、コマが動くようにとんとんと話は進む。この肩書きがミスリードにもなっているのだが、どちらかというとたまたまそうなったぽい大味なところがいい(笑)。
 展開に躊躇がなく、とにかくサクサク進めるところが気持ちよかった。主人公が行動を起こすたびにバーン!と決め絵が入り、非常に分かりやすい演出。演じるジョンソンの動きはわりともったりとしているので、その対比が独特なリズムを産んでいるように思った。ジョンソンの動きは本作のひとつのポイントだと思う。もったりしているけれど、動きの幅が大きくて躊躇がない。ずんずん進むので見ていて気持ちがいい。冒頭、走る車を無視して車道をつっきるシーンはすごくよかった。
 “ドライバー”の復讐譚であり、元カノに「奴ら皆殺しにしちゃいな!」と激励されるくらい復讐に躊躇がないのだが、妙に宗教的な雰囲気もあった。道端の十字架のモチーフであったり、カーラジオが伝道専門チャンネル(説教を放送している)専門だったり、病院で追い詰められた刑事がひざまづく姿勢だったり。“ドライバー”が唯一復讐をためらう相手が、信仰に目覚めた人であったというのもそのひとつ。子供がいる相手でも容赦なく殺すのだが、悔い改めたものに対しては躊躇するのだ。
 セレブな殺し屋の妙に立っているキャラがおかしかった。何でも出来る人(部屋に過去の栄光に関する写真が飾ってあるのだが、何でも出来すぎである)で、チャレンジの一貫として殺し屋家業をしているという道楽者。そのわりに、実戦ではあんまり有能そうに見えないのだ。
 ざらついた絵の質感といい、さびれた町ばかりが舞台になるところといい、ドライバーが乗っている車といい、現代の映画とは思えないレトロな味わいがある。殺し屋がiPhon使っているのがものすごく浮いている(笑)。多分西部劇を意識しているんだろうと思うが(殺し屋の着メロは「復讐のガンマン」だったかな?)、なかなかいい雰囲気の作品だった。




『マイ・バックページ』

 山下敦弘監督、待望の新作。原作は川本三郎の自伝的ノンフィクション。主演の2人の奮闘はもちろん、脇役の顔が昭和ぽくてとてもいい。東大安田講堂事件後、学生運動が失速しつつあった1969年。東都新聞社の記者・沢田(妻夫木聡)は先輩記者の中平と共に、活動家だという梅山(松山ケンイチ)と面談する。梅山は武器を入手し蜂起すると話した。中平は彼をニセモノだと言うが、沢田は彼に親近感を抱き、その後も接触を続ける。
 梅山の底の浅さ、うさんくささは中平が忠告するまでもなく、冒頭から示されている。勉強会で反駁された梅山が論旨をすりかえ「僕が始めた勉強会だ」と逆ギレする姿は、滑稽でもあるし、その後の行動からも、思想に基づいて行動しているのではなく思想があるように振舞っているだけなのではと思えるのだ。しかし一方で妙な口の上手さ、人懐こさがあり周囲はなんとなく彼を助けてしまう。沢田も梅山の胡散臭さにおそらく気付いているのだが、彼を信じる方を選ぶ。なぜ彼は梅山を信じたのか。
 冒頭、安田講堂事件後の荒れた東大校内に、梅山が入ってくるシーンがある。彼は安田講堂に間に合わなかったことが心残りだと後に沢田に告げる。そして沢田は東大卒業生ではあるが、安田講堂には立ち会えなかった。私はこの当時のことは良く知らない(私の親がおそらく沢田と同世代だろう)が、安田講堂事件の現場にいたかどうか、参加していたかどうかが、当時の学生・元学生にとってすごく大きなものだったろうことは何となくわかる。沢田も梅山も、「あの場」を逃してしまった。2人の間に生まれるシンパシーの根っこはそこにあるように思った。あれを体験していれば何か違ったはず、「本物」になれたはずという思いが、その体験に対する期待を過剰に高めてしまったのかもしれない。「(新聞に載れば)僕たちは本物になれるんですよ」という梅山の言葉はイタい。が、彼にとっては切実なものだ。
 また、沢田と梅山の距離が縮まる転機として、好きな作家が同じ(しかも、当時の風潮ではおそらくセンチメンタルすぎると言われそうな)なこと、同じバンドが好きなことが分かるシーンがある。2人が「雨を見たかい」を口ずさむシーンは本当に普通の青年として若々しくていい。梅山はともかく、沢田は本当に寂しかったのではないかと思う。沢田は記者だが、彼の書くものは感傷的すぎると社内では浮いている。書くものをほめてくれる人もいるが、冒頭の潜入取材でも社内の様子でも、彼はどこか所在なさげだ。沢田にとって梅山は、取材対象(スクープをとりたいという色気もあったろうが)である以上に、自分と似た部分がある存在、そして自分に出来なかったことをやれそうな存在として目に映ったのかもしれない。沢木は先輩社員に「自分が信じたいものを信じろ」と言われるのだが、その結果はあまりに皮肉だ。
 松山ケンイチは相変わらず上手いと思ったが、今回は妻夫木が健闘している。特にラスト10分くらいの泣くシーンは、この10分程度で『悪人』での演技を凌駕していると思う。そしてこのシーン、監督はおそらく意図してはいないと思うのだが、沢木への、ひいては原作者への肯定になっていて胸が詰まる。エンドロールで流れる、奥田民生と真心ブラザーズによる「My back pages」のカバーの日本語詞に「あの頃の僕より今の方がずっと若いさ」とあるのにも。




『アジャストメント』

 上院議員候補として出馬中のデヴィッド(マット・デイモン)はスキャンンダル発覚により落選確定。敗北宣言のスピーチを練るが、たまたまであったエリース(エミリー・ブラント)との会話に誘発されて予定とは異なるスピーチをしたところ、逆に支持を得る。2年後、デヴィッドはエミリーと再会し強く惹かれるが、それを阻止しようとする「エージェント」達がいた。原案はフィリップ・Kディックの小説。監督はジョージ・ノルフィ。
 ディック原案なので硬派なSFか?と身構えてみたが、ラブロマンス要素の方が前面に出ていて、SFというよりもファンタジーぽい。少なくとも、ロジカルなSFではない。ディックのアイディアが今となってはSFらしからぬものに見えるということもあるだろうか。SFファンからは怒られそうな映画だが、個人的には結構好きだ。どこかかわいらしい感じがする。デヴィッドの、どうしても彼女に会いたい、離れたくないという一途(バカっぽいとも言うが・・・)思いが推進力となって物語を進める。予想外にロマンチックなのだ。
 エージェントがなぜデヴィッドにこだわるのか、エリースと結ばれることを阻止しようとするのかという部分については、あまり説得力がない。それが出来るならもっと他にやり方あるんじゃないの?と突っ込みたくなる。そもそもこだわっている割にはエージェントの仕事には不手際が多い。何ができて何ができないのか、という設定が曖昧なのだ。こういうところも、SFとしては大分ユルいという印象を強めている。
 もっとも、運命マップや帽子、水との関係やドアを「どこでもドア」化できる能力など、エージェントに関する小物使いは楽しい。そして、彼らがスーツ&帽子でぞろっと並んでいる姿には妙に燃える。こういう敵役スタイルの原型が何かあるのだろうが、何なんだろう。テレンス・スタンプは出オチのような扱いだが適役。NYの風景が楽しめる観光映画っぽい一面もある。
 デヴィッドは上院議員候補ということで、ほぼスーツ姿。あまり高価そうなスーツではないのだが、政治家としてのイメージ戦略(靴とネクタイに関する挿話には笑った。あそこまでやるのか~)の為なのか本当に懐具合に即しているのか、どっちの設定だったんだろう。デヴィッドの持ち物で言うと、カバンがすごく使い込んだ物1つだけなところが、彼の人柄や育ちを表しているようで面白かった。




『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』

 手塚治虫の漫画『ブッダ』を東映がアニメーション映画化。3部作になる予定で、本作は1作目になる。監督は森下孝三。2500年前のインド。シャカ国の王子として、全ての生き物に祝福されて生まれたシッダールタ(吉岡秀隆)は、世界の王になると予言された。しかしシッダールタは階級社会に疑問を抱くようになっていた。一方、奴隷のチャプラ(堺雅人)は強国であるコーサラ国の将軍を助けたことをきっかけに、身分を隠して出世を狙っていた。チャプラの夢はいつか奴隷である母親と再会することだった。
 私は原作漫画は未読なのだが、多分、もったいない感じの映画化になってるんだろうな・・・。本作ではシッダールタが出家するまでの物語と、チャプラがのしあがっていく物語の2本の軸から構成されている(3部作になるそうだが、毎回サブ主人公みたいな存在を立てるのかな)。しかし、この配分があまり上手くない。本来の主人公であるシッダールタの、苦悩が単調・表現不足なので、単に自分探しにうだうだ迷うお坊ちゃんに見えてしまう。貧困や差別を目の当たりにする驚きとか苦しみとか、もっと何かあるだろー!ともどかしくなる。物語としてはチャプラ側の物語の方が面白いので、むしろチャプラ1本でいけばよかったじゃない!と思ってしまう。チャプラの物語は本作内でケリがつくのでまとまりがいいという面もあるのだろうが、とにかくシッダールタのキャラが立っていない。
 他にも、今後も登場すると思われるキャラクターが何人かいるのだが、全員いきなり出てきて機械的に去っていくというような按配で、絡ませ方がぎこちない。原作もこんな感じなんだろうか。いくらなんでもそんなことはないと思うが・・・。
 アニメーションとしても、あまり魅力を感じなかった。原作絵には意外と忠実だと思うが、絵作りがぱっとせず、目を引かれるようなシーンにも乏しい。普通といえば普通なのだが、せっかく大画面で見るのだからもうちょっと映画っぽいものが見たかった。
 なお、冒頭に兎の自己犠牲の寓話が挿入されるのだが、元の寓話を知っていないと微妙に分かりづらいのではないかと思う。ともあれ、あと2本見るには正直辛い。




『東京バンドワゴン』

小路幸也著
東京の下町で古本屋を営む堀田一家は、ちょっと複雑な8人の大家族。古本屋店主の勘一を筆頭に、老人から小学生までが暮らしている。そして彼らを見守る幽霊のおばあちゃん。時には近所の人も巻き込んで、不思議な出来事の解決にも立ち向かう。「寺内貫太郎一家」のようなホームドラマであり、いわゆる日常の謎ミステリ短編集でもある。下町の人情と家族愛を感じさせるほのぼのとしたお話・・・ではあるのだが、どの短編も事件の決着の付け方について、それでいいの?大丈夫なの?とひっかかるところが残った。今回は上手くいったけど、下手すると禍根が残るんじゃないかな、結構きわどいんじゃないかなその方法は・・・というような。著者の意図的なものなのか、 無意識なのかわからないが。無意識だとしたら私とは相性が悪い作家になっちゃう(苦笑)。なお、60代で金髪のロックンローラーおやじ(というかおじいちゃん)が出てくるのだが、多分、忌野清志郎をモデルにしているのだろうが、あの喋り方を再現しようとしているような語尾の作り方がちょっとイヤ・・・。わざわざ文字にしちゃうとうっとおしいね。




『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』

堀江敏幸著
シリーズ4作目になる著者の随筆集。今回は初の自作詩(これが題名の「象が踏んでも」につながる)も収録されている。「象が踏んでも壊れない」という妙にユーモラスなあのフレーズを使った詩は、ちょっとぎこちなくゴツゴツしているが、なんだか初々しい。本シリーズの随筆は、特にテーマは決めずにその都度思いついた内容を記しているようなのだが、ひとつのテーマから次のテーマへ、こういう連想になったのかと納得したり意表をつかれたりする。一つのエッセイの中でもセロニアス・モンクからフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』へ、そしてヴェルコール『海の沈黙』へという連想の流れ方。文学にしろ映画にしろ、幅が広くてのびのび読める。今回は、たまたまだろうが訃報にまつわる随筆がいくつかあり、しんとしたトーン。悼み方は人それぞれなのだが、故人との記憶で何が一番強く残っているかというところに、その人とのかかわり方が現れてくるかなと思った。




『悪の華』

 クロード・シャブロル監督、2003年の作品。ブルジョワ一族のシャルバン家。夫ジェラール(ベルナール・ル・コック)は薬局経営者、妻アンヌ(ナタリー・バイ)は市長選に出馬する市議。2人は再婚同士で、ジェラールの連れ子フランソワ(ブノワ・マジメル)はとアンヌの娘ミシェル(メラニー・ドゥーテ)がいる。アメリカからフランソワが帰国し、叔母リーヌ(シュザンヌ・フロン)を交えて華やいだ雰囲気になるシャルバン家だが、アンヌの事務所に一族を中傷するビラが届く。
 冒頭、シャルバン家の邸宅の中をカメラがゆっくりと移動する。やがて見えてくるのは部屋の隅にうずくまる人、そして隣室でうつぶせに倒れる男の姿だ。これで、この先何が起こるのかはなんとなくわかる。見る側は、それがどのように起きていくのかじりじりすることになる。作品全体に、最初から不吉な影が降りているのだ。更に、中傷ビラにより、リーヌの父親はかつてナチス・ドイツに協力し、レジスタントであった自分の息子を殺害、そしてリーヌが父親を殺害したという過去が明らかになる。
 過去が反復されていく物語だ。その中心にあるのは、血のつながらない兄妹であり、愛し合っているフランソワとミシェルのように見える。が、徐々に、過去を知らずに反復している若い2人ではなく、今だ過去を生きている人が中心になってくるのだ。彼女の情念が底辺に流れているのだが、それがあまり表出しておらず、いわゆるメロドラマ的なドロドロ感が薄いところが面白い。物語自体は(最新作『引き裂かれた女』もそうだったけど)ものすごくベタなメロドラマなのに、作品全体通して見ると、全然違うもののように見える。人間の行為だけを映しているというか・・・。全然ウェットさがないように見える。
 シャルバン家の邸宅にしろ別荘にしろ、ナチュラルにお金持ってる感が出てる。フランスでの(一般的なのかどうかはわからないが)階級差意識みたいなものが垣間見えて面白かった。アンヌは選挙活動のために公営団地を回るのだが、低所得者向け団地って嫌なのよね~ともらしたりする。お金のあるなしだけじゃなくて、文化の差みたいなものがはっきりあるのかなと思った。




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