3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ミルク』

 『蜂蜜』が公開中のセミフ・カプランオール監督作品。本作は『蜂蜜』の主人公だったユスフ少年が、高校を卒業した頃の設定だそうだ。『蜂蜜』、本作、『卵』でユスフ三部作となるそうだ。なお本作が製作されたのは2008年なので『蜂蜜』よりも前になる。青年ユスフ(メリヒ・セルチュク)はミルクを売って生計を立てている母親と2人暮らし。彼は詩人を目指しており、雑誌に作品が掲載されるようになるが生活は苦しい。徴兵の通知が来たり、母親に親しい男性ができたことを知ったりで、ユスフは動揺する。
 『蜂蜜』は動植物の生気に満ちた山の中が舞台だったが、ユスフ親子は山から降りたようだ。彼らが住んでいるのは町外れ。町の喧騒からは遠く、かといって落ち着いた雰囲気の郊外というわけでもない、土の道に面した殺風景な所だ。どうにもうら寂しい。ユスフは就職するでもなく進学するでもなく(多分進学できるようなお金はない)、家の手伝いをしながら漫然と暮らしている。なんとなく行き場がないような、居心地が悪いような面持ちだ。
 ユスフが女の子と車に同乗する羽目になり、休憩(実際にはいちゃつきたい友人カップルに車から追い出された)しているシーン、隣にいる女の子との気まずい雰囲気が生々しくて、いたたまれない。女の子の方はそこそこおしゃれで新しい携帯電話も持っている。対してユスフは冴えない格好だ。また、牛乳を買ってくれるお客を開拓したのに、信用をなくしてしまったりする。こういう、すごく大きなダメージではないが、小さな傷つき方がちょっとずつ積み重なっていく。「ちょっと辛い」感じがリアルで身にしみる。そしてある時点でそれが飽和状態になってしまうのだ。
 ユスフを脅かす大きな要素は2つある。1つは徴兵だ。トルコに徴兵制度があると聞いたことはあったが、若者にとってはかなり深刻なものらしい。ユスフも友人もこの世の終わりのような顔をする。一番遊びたいであろう時期に軍生活をするのだから、やはりプレッシャーはあるし嫌だろう。ユスフのような繊細で内向的な性格の人には、かなり辛いのではないかと思う。
もう一つは、母親に恋人ができたらしいということだ。ユスフの母親は見た目かなり若く、美人だ。ユスフとは姉弟のようにも見える。父親亡き後、おそらく母親一人でユスフを育てたのだろう。2人の関係はべったりと密着してはいないが近しいものだ。母親が離れていく寂しさもあるだろうし、母として以外の面を目の当たりにしてしまったショックもあるだろう。映画はユスフの不安をそのままひきずるようにして終わる。
 『蜂蜜』ほどの画面構成の精度、演出の無駄のなさは見られず、わりとユルい作りだと思う。撮っている側も何か模索しているような印象だった。


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『大鹿村騒動記』

 300年にわたり、村民による村歌舞伎が続けられている大鹿村。シカ料理の店をやっている風祭善(原田芳雄)は長年主演役者をやってきた。公演を5日に控えた日、風祭の幼馴染・治(岸部一徳)が、駆け落ちした善の妻・貴子(大楠道代)を連れて現れる。貴子が認知症を患い、治のことを忘れてしまった、善に貴子を返すというのだ。監督は阪本順二。
 奇をてらったところのない、オーソドックスな喜劇。どこか長閑だ。妻が認知症、そもそもその妻は幼馴染と駆け落ちして10数年ぶりに戻ってきたというかなり笑えない状況のはずなのに、善は貴子をなんとなく受け入れてしまうし、治もなんとなく地元に居ついてしまう。治は自分の手に負えなくなった貴子を善にある意味押しつけるのだから、ずるいと言えばずるい。しかしそんな感じはせず、ちょっと間の抜けた憎めない男として描いている。善、貴子、治は妻を寝取られた男と寝取った男と、寝取った男と逃げた妻という、3角関係。描きようによってはいくらでもドロドロさせられそうだが、そうはならない。気まずいかもしれないがギスギスはしないし、善と治の掴みあいは子供の喧嘩レベルだ。3人は蟠りがないわけではないが、嫌いあってはいない。むしろ、三者相思相愛と言ってもいい。ベースに何らかの絆がある。
 貴子が痴呆になり、駆け落ちしてからのことを忘れてしまうことで、夫婦関係がまた元に戻ったかのように見えるというのは皮肉なのだが、多分貴子は駆け落ちしてからも善のことを気にかけていたのだろう。また、善と治の間には依然として友情らしきものがある。腹は立っても縁は切れない。それがこの映画を安心感のあるものにしているようにも思った。村歌舞伎の中で、「仇も恨みもこれまで、これまで」と言うセリフが出てくる。この言葉が人間関係の中心にある。これまで、と割り切ることでお開きにしてしまうと同時に、仇や恨み以外の楽しかったことを思い出す。これはある程度年齢いっていないと辿りつかない境地なのかもしれない。歌舞伎のシーンがちょっと長すぎるなぁとは思ったが、歌舞伎を演じる側のドラマと相乗効果になっている。
 出演者の平均年齢がやたらと高いが、そのベテラン俳優たちが実に楽しそうで生き生きとしている。主演の原田にとっては残念なことに遺作となってしまったが、当人がとても力を入れていた作品だそうなので、完成・公開までこぎつけることができて本当によかった。本作出演時にも体調はよくなかったのだろうが、そうとは思えない演技だった。つなぎの作業着にテンガロンハット(店の名前がディア・イーターというので笑ってしまった・・・)というスタイルがやたらカッコいい。そして岸部のチャーミングなダメ男演技は、もはや鉄板。今回はフルヌードも披露してがんばっている。わりと若いキャストでは松たか子と佐藤浩市(佐藤は中年だけど)がが印象に残る。松があまりにも微妙な顔で撮られているので、これは大丈夫なのか?!と心配になったり、佐藤がいつになくかわいい系の役でどうした?!と思ったり、楽しい。




『アンダーワールドUSA 上、下』

ジェイムズ・エルロイ著、田村義進訳
1968年、大統領選に燃えているアメリカ。キューバでの利権を失ったマフィアたちは、南米への足掛かりとしてニクソン大統領候補に裏金を渡す。橋渡しに任命されたのは元刑事のウェイン・ジュニア。一方、老いたFBI長官フーヴァーは左翼と黒人に対する脅えを異常に募らせ、捜査官ドワイト・ホリーに人権運動の監視を命じる。LAでは覗き屋の探偵助手クラッチは、とんでもない殺人遺体に出くわしていた。『アメリカンタブロイド』『アメリカン・デス・トリップ』に続くUSA三部作完結編。今作は1960年代末から70年代初頭、フーヴァーの死までを描く。歴史上の人物・事件を踏まえているがもちろんフィクションだ。著者にとってこのアメリカ擬史とでもいうべきシリーズはライフワークだったと思うのだが、こういうやり方でアメリカのこれまでを咀嚼しようとしているように思える。80年代~90年代以降を著者が描くつもりがあるかどうか、気になる。本作は主に3人の異なる(しかし時々重なり合う)立場の男たちによって織りなされるのだが、違う立場・思想であった3人が、徐々に目的を同じくした1人の人物になってくるように見える時があり、その変容がとても面白い。また、本作には女性たちも登場し、男たちの行動を決定づける重要なキーとなるのだが、女性を描いているという感じがあまりしなかった。全員同性のように思える。性別よりも思想的な立ち位置の差異の方が本作では重要なファクターだからか。




『最後の証人』

柚月裕子著
状況証拠、物的証拠共に被告人の有罪を示しているが、被告人は一貫して無罪を訴えている。この案件を担当することになった弁護士の佐方は法廷での戦いに挑む。被告人にいったい何が起こったのか。冒頭のある仕掛けで、ははーんこれはあのパターンね、と大体予想がつくのだが、その先の転がし方が上手いので一気に読める。法廷も一つの大きな舞台ではあるが、それ以上にある人達の過去が占める分量が大きい。リーガルスサスペンスというよりも、感情面のドラマの方に比重がよっていると思う。佐方が法の範囲でどうやって正義を行うか、ある人物がどうやって過去に落とし前をつけるかという部分の巻き返しが爽快。ただ、題名通り「最後の証人」の存在で決着の是非が決まってしまうので、それまでのあれこれは何だったんだ、という気もするが。




『駆けこみ交番』

乃南アサ著
世田谷区等々力の交番に配属された新人巡査の高木聖大。しかし大きな事件などそうそうない住宅地。不眠症の老夫人・神谷文恵の話相手になるのが日課だった。しかしある日、たまたま指名手配犯を逮捕する。文恵は地元の老人同士で作っているグループに聖大を招くようになる。交番勤務の警察官を主人公としたお仕事小説であり、いわゆる日常の謎系ミステリでもある。聖大の元ヤンだが根は正直で常識人なキャラクターには好感が持てる。警官の仕事を描くことで、警官にはできないこと、彼らの職務の限界も描いており、ほのぼの風味だけではない。聖大のお仕事の裏には老人たちの活躍が透けてみえるのだが、彼らの活躍は、読んでいて時に納得できないこともあった。そこまで他人の人生に踏み込んでいいのかとか、それは私的制裁ってやつじゃないかなとか。個人的なひっかかりではあるのだが素直におもしろがれない。




『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』

想田和弘著
自ら「観察映画」と呼ぶ手法によって、独自のドキュメンタリー作品を撮り続けている著者。新作『Peace』の製作過程とからめ、著者の考えるドキュメンタリーのありかた、その手法を語る。ドキュメンタリー作品を見ることが好きな人にはもちろんお勧め、そしてドキュメンタリー撮影を志す人には必読(本当に!)の1冊。著者の撮影した『選挙』『精神』は、撮影者の作為をできるだけ出さないようにしようとした、カメラがただそこにあるという感じの作風だった。フレデリック・ワイズマン作品を想わせるし、実際、作中でワイズマンからの影響には言及しているが、ワイズマンの手法に100%同意しているわけでもないというのもわかった。著者は、多分作品を撮っているうちに変化してきたと思うのだが、自分が撮影していることで撮影対象に干渉している、完全に「観察」というわけではないというところで腹をくくったのではないかと思う。作為のないドキュメンタリーは存在しないが、その作為を出す・出さないぎりぎりのところで勝負しているのか。また、奥さんの祖母の死に絡めて、カメラの暴力性について言及している部分は、『精神』を見て気になっていた部分でもあったので腑に落ちた。もちろん技術的な部分も解説しているし、資金面、配給面への言及へもあって、勉強になる。




『死ぬ気まんまん』

佐野洋子著
著者の遺作となった随筆集。本来はもっと原稿を書くつもりだったらしく、中途半端な終わり方になってしまっているが、題名通り「死ぬ気まんまん」で、余命を悟って怖いものがなくなったような自由奔放さ。帯に「元気に逝った」とあるが、ほんとにそんな感じだ。本能丸出しすぎて、築地神経科クリニック理事長の平井達夫との対談にはちょっと頷けない部分もあるのだが、年とるにつれて自由になっていくのはいいなぁと思う。死ぬまでに自分の人生をまとめ上げられる人は少ないと思うが、著者は(色々やり残したと思っているんだろうけど)やるべきことはやった感があったのではないかと思える。ホスピスでの生活を綴った「知らなかった」は、突き放した書き方なので一見飄々としてるが、その奥に鬼気迫るようなものがある。また、巻末に収録された関川夏央の文が、随筆としても佐野洋子の作品解説としてもとてもいい。関川の文筆家としての能力はもちろん、読者としての能力の高さがわかる。




『ブラン・マントー通りの謎 ニコラ警視の事件簿』

ジャン=フランソワ・パロ著、吉田恒雄訳
ルイ15世治下のフランス。ブルターニュからパリへ上京し、パリ警察総監の下で働くことになった青年ニコラ。居候している家の主である警視が行方不明になり、その捜査にあたるが、陰惨な事件へと発展していく。18世紀を舞台にした時代劇として、当時の街並みや生活習慣がわかる楽しさがある。この時代のパリは臭そう!田舎では入浴の習慣がまだ定着してなかったみたいだし、臭いが強烈そうだな~。風俗面の描写が細かくて、雰囲気が伝わる。ニコラはいかにも田舎育ちのお坊ちゃんで、自分でもなぜ警視に任命されたのかよくわかっていない。彼が警官として、社会人として学んでいく成長物語でもある。ニコラ、色々出来過ぎているきらいはあるのだが(笑)、作者はこのキャラクターに愛着があるんだろうな~。小説としては流れに唐突なところはあるが(ここでこういう設定出すなら、もっと早くに布石があったほうがいいんじゃないかとか)、生真面目な主人公に好感が持てるし、生活感があって面白い。




『トランスフォーマー ダークサイド・ムーン』

 1969年に月面に降り立ったアポロ11号は、実は巨大な機械らしきものを発見していた。40年後、オプティマス・プライムにより復活したセンチネル・プライムは、40年前に月面から持ち帰られたパーツである計画を実行しようとする。一方、オプティマスらトランスフォーマーと協力して2度にわたり地球を守ったサム(シャイア・ラブーフ)は、新しい恋人と同棲生活を始めたものの、就職先が決まらず焦っていた。監督はマイケル・ベイ。
 今回は3D映画。ようやく3D技術で『アバター』を越える作品が出たという感じだ。本作の3D技術はそのくらいよくできていると思う。3D映画だと、画面内の手前・奥手レイヤーがはっきりしすぎて書割を並べたみたいに見えることがあるが、本作は奥行きが自然。見ていて凹凸によるストレスを感じない。VFXの進歩もより進んでいる。1や2ではトランスフォーマーのアクションシーンの細部を、画面の暗さや砂煙等で輪郭をごまかしていたが、今回は明るい状態で細部まで見せてしまっている。人が乗っている状態で変身とか、オプティマスの回転しつつ敵を薙ぎ払うアクションとか、製作サイドの自信のほどが伺える。2では、巨大トランスフォーマーのパーツの組み方がずれているような違和感があったが、今回はそれも殆どない。「ロボットが動いてる!」という感動は相当ある。ロボットアクションの見せ方は、相当研究しているなと思った。
 ビジュアル面では大興奮!なのだが、ストーリーテリングは相変わらずというか、むしろ劣化している。冒頭で陰謀論をぶちあげ壮大に攻めてきたのはいいが、あっという間に足元ががたがたになる。キャラクターの動かし方がスムーズではないのと、時間経過の見せ方・設定が下手(この出来事とこの出来事の間に何があったの?とかこの時Aがこうやっていて、同時にBはこういうことに、というような部分の時間経過を利用した演出がとにかくまずい。作品内の時間経過が謎)なことで、物語がぎくしゃくしていて、キャラクターの言動も唐突に見える。また、サービス精神なのだとは思うが、コメディ要素が全てスベっており痛々しい。ジョン・マルコヴィッチは何の為に出てきたんだよ!そのキャラいらないよ!そして2までで確立した既存キャラクターのキャラクター性が、全然生きていない。何なの?ベイは昔のこと忘れちゃったの?
 ストーリー面では、サムが1,2作以上にボンクラになっていることに驚愕した。退化かよ!2では「オレは普通の高校生なんだよ!地球救うなんてムリ!」と言っていたのに今回は「オレ地球を救ってるのに何で就職できないんだよ!扱い悪いんだよ!就職の為なら魂売ります!」とスタンスが逆転していて、ちょっとイヤな奴になっていた。まあ後半ではいつものサムになるんですが・・・。彼女がいつのまにか変わっていてヒモ状態になっているのにも爆笑。ボンクラだという設定が揺るがないのがある意味すごい。




『禁じられた遊び』

 戦時下、1940年6月のフランス。ドイツ軍が占領したパリから家族と共に脱出したものの、爆撃にあい両親を亡くした少女ポーレット。逃げる人々の群れからはぐれた彼女は、農家の少年ミシェルに出会う。ポーレットはミシェルの家、ドレ家に保護され一緒に暮らすようになった。死んだ者は地に埋めて十字架を立てるのだと教えられたポーレットは、子犬を埋めてお墓を作る。彼女は「お墓遊び」が気に入り、ミシェルと一緒に小動物たちのお墓を次々と作るようになる。監督はルネ・クレマン。
 あまりにも有名なメインテーマ曲がセンチメンタルかつ悲しげで、しかも戦時下の子ども達の話だというから、ずっとかわいそうな話だというイメージがあって、食わず嫌いだった作品。今回ニュープリント版上映があったので見てみたのだが、予想していたよりもかなり線が太いというか、乱暴なところは乱暴な映画だなという印象を受けた。特に冒頭で群集が爆撃を受け、ポーレットの両親が死ぬあたりまではぼんぼんとカットを繋いでいる感じだ。実際の戦中の映像を使っているのかもしれないが。
 ポーレットがドレ家に来てからも、そんなに「かわいそう」感はない。ドレ家と隣の家の因縁や、親兄弟間での掛け合いはむしろコメディぽい。墓場でのドレ家の父親と隣人とのつかみ合いは、最早コントだ。 ポーレットは都会育ちの子で、田舎の習慣にはなかなかなじめない。そんな彼女の振る舞いが我がままに見えるというのも、悲壮感を削いでいる一因だ。ミシェルを翻弄しまくる様は末恐ろしいというか頼もしいというか・・・。ミシェルにとっては尽くし損みたいで、かわいそうなのだが。
 本作の悲痛さは、戦時下云々親を亡くして云々というよりも(もちろんそれらも悲劇なのだが)、子どもは大人とは半分別の世界で生きているが、その世界の筋道は大人には理解されないというところではないかと思った。ポーレットにもミシェルにも悪気はないのだが、大人から見ると不道徳ということになる。逆に、大人が始めた戦争は、子ども達にとってはよくわからない、一方的に巻き込まれたものだ。大人の世界と子どもの世界の不一致な部分が、不条理さを感じさせるのではないかと思った。




『ストーン クリミアの亡霊』

 チェーホフの館で、番人の青年は浴室で水浴びしている男を見つける。彼は既に死んだはずのチェーホフらしい。チェーホフは館で寝起きし青年と会話し、食事する。監督はアレクサンドル・ソクーロフ。
 フィルム傑作選ソクーロフにて。舞台となる館がチェーホフの館だと具体的に説明されるわけではないので、事前に知らないと誰だこの人?となるだろう。彼が過去の世界の人、死者であるのも、一時代前の衣服をまとっていることでわかるくらい。後半で死後の世界の話が出てくるのでここまでくると明白なのだが。
 モノクロ作品だが、画面を意図的に引き伸ばしたりゆがめたりしている。カメラの向こうにガラスか何かをもう1枚はさんでみているような光景だ。全体的にフォルムはやわらかでぼんやりとしている。一種の幽霊譚と言えなくもないが、死者が出現するのではなく、全体が死後の世界のような薄暗さだ。番人の青年とチェーホフがうろつく町も森も、人がいなくてなんだか廃墟みたいだ。世界が滅びた後の光景のようだった。ところどころロングショットで挿入される山並みも、この世ならぬ場所のような神秘的な姿。
 音の使い方がまた、本作のあの世っぽさを強めていると思った。常に遠くのほうから何か音が響いているような、生き物のうごめく音や鳴き声が聞こえてくるような、輪郭がはっきりしないが何者かの気配のする音に満ちている。これがなんだか心地よかった。
 ソクーロフの『ファザー、サン』を見たとき、このホモセクシャル的な関係は何なんだろう・・・と思ったが、本作でも、男性2人の関係が時に妙に親密に見える。そこ無駄に顔近すぎる!生者と死者の交流と考えると、その境界線が曖昧になり時に危うくもある。




『プラ・バロック』

結城充孝著
冷凍コンテナから14人の男女の凍死体が発見された。集団自殺と見られるこの事件は思わぬ広がりを見せる。女性刑事クロハは事件を追うが、そこには深い悪意が潜んでいた。日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。当初は近未来が舞台だったらしいが、現代の設定に変えて正解だったと思う。ネットでの人脈や仮想現実など、近未来設定にしたらむしろ古びて見えただろう。登場人物の名前が全てカタカナ表記で記号ぽくもあるが、登場人物の動きを追うことに集中するには、これもいいかもしれない。一か所だけ漢字表記になるところがあって、記号だった人物がその瞬間生っぽく立ち上がる(著者の意図したところなのかどうか正直わからないが)。警察ドラマというよりも、人の悪意を探って行くドラマ。ただ、悪意といっても真に迫ってくるほどの凄みはなく、エンターテイメントに徹しているのでさらりと読めるし、後に尾をひかない。犯行がエグいわりに、小説としては良くも悪くもあっさり。




『Peace』

 障害者や高齢者を乗せる福祉車両のサービスをしている柏木夫妻。夫の寿夫は自宅の庭で野良猫に餌をやるのが日課だ。最近の悩みは、外から来た通称“泥棒猫”が元々いた猫たちを緊張させていること。妻・廣子はヘルパー派遣のNPO活動をしている。彼女が訪問している家の中に、高橋さんという独居老人がいた。『選挙』『精神』という名作ドキュメンタリーを撮った相田和弘監督の新作。撮影対象の柏木夫妻は、監督の義理のご両親(奥様のご両親)にあたる。身近な人が撮影対象だからか、他2本よりも雰囲気が柔らかい。
 本作、監督によれば、「観察映画(監督は自分の作品を観察映画と位置づけている)番外編」だそうだ。元々『選挙』や『精神』のようにこれを撮ろう!という明確な対象はなかったようだ。漠然としたテーマはあったもののそれを強くは意識せず、カメラを回していくうちに出来上がってしまった、という感じらしい。『選挙』でも『精神』でも、監督が恣意的にテーマを設定、そのテーマに沿うように編集しているという印象は受けなかった(そういう撮り方はしないように自戒しているとのこと)が、本作は特に、撮っているうちに何を見せればいいかが浮き上がってきたという側面が強いように思う。
 映像は主に、野良猫のパート、寿夫の福祉車両サービスとそれを利用する人たちのパート、廣子と訪問先・高橋さんのパートから成る。福祉車両パートと高橋さんパートは、福祉という共通項があるが、大分幅の広いくくりになるし、猫に至っては、最初は和み要員的だ。しかし、徐々にそれらが1本の映画として纏まりを見せる、太いアウトラインを成していくという不思議。撮り続けているうちにこれだ!という確信を得たのだろうが、漫然と撮り続けていればいいというのではなく、監督が非常によく「見ている」人、そして見ることに徹することができる人だからこそ、各パートを繋ぐとっかかりに気付いたのだろうし、そのとっかかりにとらわれすぎることなく(作品を過度にコントロールすることなく)編集できたのだろう。
 ドキュメンタリーを撮る上での、偶然の要素、それを見逃さない観察力の重要性を痛感する作品だった。
ただ、観察者(撮影者)がいることで対象が変化する、動くこともあるだろうとは思う。高橋さんが戦中の記憶を話し出すところがそうだ。もしカメラがなくても高橋さんがこういう話をしたかというと、個人的にはちょっと疑問だ。撮影されているという意識がある(高橋さんはカメラをちらっとみることがある)からこそ、話しておきたいことに思い当たったということもあると思うのだ。




『コクリコ坂から』

 東京オリンピックを控えた1963年の横浜。自宅で下宿屋をしている高校生の少女・海(長澤まさみ)は、老朽化した高校の文化部室棟、通称カルチェラタン取り壊しに反対する、新聞部の学生・俊(岡田准一)と出会う。監督は宮崎吾朗。
 『ゲド戦記』で散々たたかれた吾朗監督&ジブリ。今回どうなることかと思っていたら、案外良かった。むしろ予想よりも全然良かった。過去へのノスタルジー、オヤジ慰撫映画じゃないかという声もあるようだが、私は時代劇みたいな感覚で、一種のファンタジーとして見た。少年少女がキラキラしていてかわいい。これが70年代に入っちゃうと、(私にとっては。若い人にとっては舞台が70年代80年代でも時代劇だろう)もっと生々しい感じになって、あまり素直に受け入れられなかっただろう。本作、少女マンガが原作ということを差し引いても相当少女マンガ的だと思うが、こういう設定やキャラクターの立ち居振る舞いは、時代劇としてしか成立しなくなったのかなとも思う。
 海も俊も、自分の感情をばっと表には出さず、決断にも躊躇する。ものすごく華々しい活躍をするわけでもない。普通の人なのだ。これは宮崎駿の作品では出てこないタイプの主人公だと思う。好き嫌いは別として、こういう「普通の人たち」の話は私は好きだ。ジブリに「ラピュタ」や「カリオストロ」のような冒険活劇を未だに望む声も聞くが、あれはあの時代に、宮崎駿だからできたんで、今さらやる必要はないし、今のジブリに冒険活劇は特に望まない(キャッチーな冒険活劇なら他のスタジオにやってほしい。ジブリにはブランド力がないとできないような地味なことをやってほしいという気持ちが個人的にある)。監督の資質・能力的な問題もあったのだろうが、フィールドを広げるという意味では、本作はやってよかった企画なのではないかなと思う。
 『ゲド戦記』や『借り暮らしのアリエッティ』では、キャラクターの表情のデフォルメが時々やりすぎて下品になるところが気になった。今回は、キャラクターの表情はそんなに豊かではないし、動作も大きくはない。これを批判する声もあるようだが、私はこのくらい控えめの方が、本作にはしっくりくると思う。異世界ファンタジーというような別世界度の高い作品だとまた違うのだろうが・・・。アニメーションというよりも、実写映画に近い演出で撮られている作品と感じた。
 ストーリーは正直ないに等しい(ストーリー要素は色々あるのだが、どれも映画全体を牽引するような強いものではなく、散漫。キャラクターの感情も淡い。しかしそこが却って見ていてほっとした。そして絵の雰囲気がいい。日常の家事の手順、台所の風景とか、商店街の風景に魅力がある。下宿屋の女性達がのびのびしているのもよかった。




『子どもたちのマジックアワー フィクションの中の子どもたち』

川本三郎著
小説や映画、漫画などのフィクションのうち、出てくる子どもが印象に残るものをピックアップしたエッセイ集。ミステリ作品であってもさっくりネタバレしているのでネタバレ気にする人にとってはガイド本には不向きだが、既読・既鑑賞作品が多く懐かしい思いで読んだ。著者は本著内でも明言しているが、現実の子どもに強い関心があるわけではなく、子どもが出てくるフィクション、フィクションの中の子どもにひきつけられるのだと言う。私も子どもが出てくる映画は見てみたくなるが、特に子ども好きというわけではないのでちょっと共感。現実世界の子どもについて言及した部分は時代(80年代)を感じるが、フィクションの中の子どもについて書いている部分は時代を超えた普遍性があるように思った。取り上げられる作品、特に映画は、いわゆる大作名作よりも、ちょっとした佳作秀作といった感じの作品が多い。著者のお気に入りなのだろう、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』が度々取り上げられている。本著が書かれた当時に公開されたという事情があるのだろうが、子どもの孤独が描かれた秀作だと思う。また、私はちゃんと読んだことがないのだが、楳図かずお『わたしは真吾』に関するエッセイがいい。実際に読んだような感動がある。




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