3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ロンゲスト・ヤード』

 午前十時の映画祭にて鑑賞。アメフトのスター選手だったが、今はヒモ同然の暮らしをしているポール(バート・レイノルズ)。しかし女の車を無理やり奪って飲酒運転し、逮捕されてしまう。収容された刑務所の所長ヘイゼンはアメフト好きで、ポールは看守チームのコーチを依頼される。断ったポールは重労働に回されてしまうが、今度は看守チームを勝たせる相手役として囚人チームを作れと命じられる。監督はロバート・アルドリッチ。1974年の作品となる。
 ポールは最初、ヒモとしてそれはどうなんだ!という女に対する態度のひどさ。人をバカにするにしてもバカに仕方が下品でイヤだなぁと思っていた。刑務所に入ってからも、最初はアメフトをやる気はないし、楽して早く出所したいな~という態度。しかし、嫌々ながらアメフトチームを結成して囚人たちを鍛えているうち、段々変化していく。
 彼はある事情で引退せざるを得ず、その後ずっと腐っていたが、自分のあり方を再度見つけるのだ。スポ根映画であり、男の再生物語でもある。再生していくのがポール一人ではなく、アメフトチームを結成した囚人たち、そして彼らを応援する他の囚人達。それぞれがアメフトを通じて、立ち直るというといいすぎかもしれないが、人生に希望を見出していく。単純に看守をぎゃふんと言わせたい!とか、スポーツやってると楽しい!とかいうのもあるのだろうが、そこ(チーム)に自分が必要とされている、役割がある、誰かを応援できるということが、彼らを勇気付けている。刑務所での労働が意義の薄いもの(そもそも刑罰だから生産的では困るんだろうな)なので、余計に対比が強まる。
 また、囚人達だけでなく、最初意地悪だった看守長まで、最終的にはスポーツマンに見えるというところが面白い。アメフトを愛しているはずの所長が、逆にアメフトを侮辱するような行為に出る。彼の行為は、囚人チームだけでなく自分が応援している看守チームをも侮辱することになるのだ。ポールが最後、スポーツマンとしての行為を全うする(このラストシーンはほんと素晴らしいね・・・)のと対称的。
 私はアメフトのルールをよく知らないし、ちゃんと試合を見たこともないのだが、クライマックスの看守チームVS囚人チームの試合は見ていてワクワクするし面白い。アメフトに慣れ親しんだ人の目から見てどの程度リアルなのかはわからないが、よく出来たシーンなのではないかと思う。




『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』

 元レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、U2のジ・エッジ、ホワイトスタリプスのジャック・ホワイトという、世代も音楽性も異なる3人のギタリストが自分の音楽のルーツや、ギターとの歴史を語るドキュメンタリー。3人でのトーク、ちょっとしたセッションもあるので音楽ファンは必見。監督は『不都合な真実』のデイヴィス・グッゲンハイム。
 3人のファンにはもちろんだが、音楽にそれほど詳しくはないけれどまあ好き、という人でも見やすい、間口の広い作品だと思う。間口の広さは、監督の手腕によるところが大きいと思う。元々TVの仕事をしていた人だけに、一見さんに対するキャッチーさをわかってるなーと思った。膨大な撮影フィルムをばんばん編集しているのであろうすっきりさで、勿体無いといえば勿体無いのだが、見やすい作品になっている。逆に、音楽マニアにとっては物足りないかもしれないが。
 登場するギタリスト3人は、それぞれチャーミングだが、イメージ(私が勝手に持っていたイメージで、ファンの人から見たらイメージ通りなのかも)とはちょっと違った姿を見せていた。ペイジはニコニコしていて大変チャーミングだった。自分より若いミュージシャンに対する態度が案外素直というか、相手に対する尊重と好奇心が感じられるものだった。いわゆる「がんこおやじ」的な感じでは全然ない。また、ジ・エッジが今もダブリンにプライベートスタジオを持っているというのはちょっと意外だった。てっきりロンドンかアメリカのどこかかと・・・。ホワイトも、すごく癖のある人というイメージだったが、本作では大ペテランの2人を前にしているからか、案外神妙で、緊張している(そりゃあ緊張するよな!)風なのがかわいかった。ルーツミュージックに対してすごく真摯な人なんだということもよくわかる。
 3人が自分が進んできた路を振り返る、といった感じのドキュメンタリーだが、ホワイトの場合は自分の来た路であると同時に、ロックンロールのルーツを辿るという側面も出ていた。彼の音楽の方向性によるものだが、上の世代の2人よりも、自分の音楽の背景を意識せざるを得ない(音楽の世界の中での自分の位置づけを探らざるを得ない)という部分があるのかなと。
 3人とも音楽の方向性は違う(ジ・エッジとホワイトなんて真逆といってもいい)のだが、ギターを介して共感しあう部分があるんだと思う。ペイジが「胸いっぱいの愛を」を弾き始めるとジ・エッジもホワイトもギター小僧の顔になる。このシーンがすごくよかった。




『探偵はBARにいる』

 ススキノのバーを根城に探偵をしている「俺」(大泉洋)は、ある晩、コンドウキョウコと名乗る女から電話で依頼を受ける。しかしその依頼で動き始めた「俺」は、怪しい男たちに拉致され雪原に埋められてしまう。なんとか逃げ出した「俺」は、相棒兼運転手の高田(松田龍平)と真相を探り始める。原作は東直己の小説。監督は『相棒』シリーズの橋本一。東映が本作のような作品をリリースしてきたことが心底うれしいです、私は。
 祝・2作目製作決定。最近の日本映画の中ではキラリと光っており、プログラムピクチャーとしてシリーズ化するといいなぁと思っていた折に嬉しい知らせだった。東映はこれで、特撮と『相棒』以外の持ち駒が増えたことになるな(笑)。ジャズベースのサントラを含め、あえて懐かし目のテイストに落とし込み、ちょっと昔の東映アクション映画みたいな雰囲気が出ていると思う。原作は90年代初頭が舞台なので、映画でも「俺」が携帯を嫌がり黒電話に拘っている等、上手く摺り合わせている。
 主演の大泉にとっては、故郷北海道を舞台に主演映画ということで、かなり力が入る仕事だったのではないだろうか。体もしっかり絞っているし。そして確かに、ススキノの町に大泉がしっくり溶け込んでいる。原作の「俺」のイメージよりも大泉はかなり軽目なのだが、現代のハードボイルドヒーローなら、これで正解。原作に忠実な主人公の造形だと、マッチョのなりそこないぽくて現代では反感買いそうな気がする。
 私は大泉を特に好きでも嫌いでもなかったのだが、本作を見てようやく、彼の魅力を理解した気がする。この人、やっぱりスターだったんだな(笑)!と思わせるものがあった。舞台に助けられたという面も大きいだろうけど、主人公のキャラクターを大泉側に寄せたのは正解だったと思う。軽いようでいて情に厚い、へなちょこだがうたれ強い、いいキャラクターだ。
 共演者では、なんといっても相棒役の松田龍平がいい。『まほろ駅前多田便利軒』のバージョン違いみたいな演技プランで、予想の範疇内ではあるのだが、ぼさっとした立ち居振る舞いが大変にキュートだった。東映は『相棒』シリーズで、魅力的なキャラクターの造形、特に男性キャラクターの造形や、コンビものとしてのキャラクター同士のやりとりのノウハウを培ってきたんじゃないかと思う。いわゆるキャラの立て方にはすごく安定感があった。
 ちなみに原作の「俺」のファッションセンスは当時の流行を考慮してもちょっと・・・なのだが、本作の「俺」はそれなりにシュっとしていて安心した。特に普段着の衿つきカーデがかわいい!




『オルタード・カーボン (上、下)』

リチャード・モーガン著、田口俊樹訳
27世紀、人類は銀河系の惑星に散らばり、魂はデジタル化されて小さなメモリー・スタックに保存され、肉体を乗り換えることも可能になっていた。元・特命外交部隊コマンダーで、ある事件を起こした為に100年以上投獄されていたタケシ・コヴァッチは、ある条件で解放された。地球に降りたち、大富豪が自殺した事件の真犯人を探せというのだ。フィリップ・K・ディック賞を受賞した作品。肉体を乗り換え可能という設定はSFではよくあるが、本作の場合、「スリーブ」と呼ばれる肉体の保存やクローン化にはそれなりのコストがかかり、富豪レベルでないと不滅の魂というわけにはいかない、また、スリーブを乗り換える毎にハードとソフトのすり合わせは困難になり、実際は何度もやりたくなくなる等、一定の制限がかかっているところが面白い。人工のスリーブは見ればすぐわかるというあたりも、便利すぎない匙加減が上手い。魂までデジタル化された未来世界が舞台で、特殊な訓練を受けたコヴァッチはデジタル化された兵士の最たるものなはずなのだが、その行動が案外ウェット。人間の有り方に対して合理的にはなりきれないし、人を物として扱う訓練を受けているのに根が優しく、ロマンティストな一面がある。古き良き時代のハードボイルドな探偵といってもいい。SFという舞台設定ではあるが、根底に流れるのはハードボイルド小説のメンタリティであるように思った。


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『馬を盗みに』

ペール・ペッテルソン著、西田英恵訳
老境に差し掛かり妻を亡くした「私」は、森のそばの小さな家に移り住む。ある日顔を合わせた隣人が、少年時代の知り合いであると気付く。最初、15歳の頃の「私」と友人の関係が決定的に変わってしまった出来ごと、そして友人の人生が大きく動く出来ごとが語られる。年配者としての現在から、すっと少年時代へ意識が移り、また現在へと戻る。脈略がないようでいて、「私」が人生の岐路に立って揺らいでいるという状況は共通している。「私」の瑕のようなものになっているのは、父親との関係だ。「私」と父親とは仲が悪かったわけではなく、むしろいい父子関係だった。しかしある時から、父親に「私」には見えない部分、理解の及ばない部分があることに気付いていく。少年時代の記憶から、徐々に当時父親が何をしていたのか、どういう時代だったのかという部分が見えてきて、ミステリ的な面白さもあった。少年のころには見えなかったことが、老境に差し掛かった「私」には見えてきているはずなのだが、あえて明言はされておらず、少年時代の「わからなさ」がそのままになっており、それが切ない。




『時代劇のベートーヴェン 映画を見ればわかること3』

川本三郎著
シリーズ3作目となる映画エッセイ集だが、今回はいつになく、映画と文学とを行き来するような内容が多く嬉しい。そして、近年公開された映画と昔の映画とを縦横無尽に行き来するのも嬉しい。自分が見た最近の映画の話がたくさん出てくるというのも一因だが、この映画とあの映画(あるいは文学や音楽)がそんな結びつき方をするのか!という発見がるのがいい。自分の中に知識の星座みたいなものが出来ていく喜びがあるのだ。もちろん著者はそういう喜びをよく知っているのだろう。前述の通り、近年日本で公開された映画が多く取り上げられているが、特に2008年は日本公開映画の豊作な年だったんだなぁと改めて気付いた。特に『ぐるりのこと』についての文章が心に残る。この映画で木村多江が演じた妻の悲しみについて、著者は『飛ぶ教室』を引き合いに出し、更に妻の弱さに対する批判に対して「しかし、そんな連中は放っておけばいい。どこかに必ず『飛ぶ教室』のベク先生のような人がいるのだから。」と結ぶ。そういう言葉がすごくありがたかった。なお本著の題名はある映画に思いがけずベートーヴェンが使われていたというエピソードから。どの映画なのかは本著をお読みください(気をつけていないと気付きにくい使い方のようです)。




『トワノクオン 第4章 紅蓮の焦心』

 クオン(神谷浩史)が過去に能力で人を殺したと知り、ファンタジアムガーデンの子供たちの間には動揺が走る。一方クーストースは、インサニアの本拠地を特定しにかかっていた。サイボーグ部隊WTOCに捕捉されたテイ(名塚佳織)を守ろうとするクオン。しかし、WTOCのイプシロン(鳥海浩輔)に異変が起きる。
 シリーズの要所であったろう3章から、ハードな展開が続く。子供たちが手のひら返したようにクオンを怖がるあたりは、なんか露骨すぎないか?とも思ったが、正直な反応ではある。シリーズ内で一貫して、能力者間でもお互いに恐ろしいと思っている時があるという演出がされている。なので、クオン陣営内の一体感は案外薄い。むしろクーストース内のほうが組織としてはしっかりしている感じ(まあ企業みたいだし当然か)。もちろんクオンは仲間の助けを借りてはいるが、最終的にはスタンドプレイになってしまう感じがする。心配はされているけど理解はある程度までしかされていないという位置づけなのか。自分なりに心配して励まそうとするユリ(白石涼子)のやさしさがいじらしくみえた。
 クオンと彼を取り巻く人たちとのギャップや迷いは比較的きっちり演出されている(ブレない)のだが、ここにイプシロンが投げ込まれてくると微妙。異変が起きたイプシロンをクオンは助けるが、仲間達は当然反発する。3章の経緯でイプシロンの過去を垣間見たテイがその場を納めるのだが、「彼が償うなら~」というような、妙に上から目線の言い方なのが気になった。脚本が意図するところはわからなくはないが、セリフをもうちょっと工夫した方がよかったんじゃないかなと、勿体無く思った。
今回、時間的な制約がきつかったのか、脚本(ストーリーラインというよりセリフのこなれ方とか、段取りの部分が)も作画もちょっといっぱいいいっぱいな感じがした。特に序盤の作画にはちょっとハラハラ・・・。TVサイズだったら違和感ないと思うのだが、スクリーンサイズだと厳しい。
 もっとも、第1章に登場した男の子(ユーマ)がちゃんと能力を使いこなせるようになっていたり、タカオのテレポーテーションの完成度が上がっていたりと、キャラクターの成長が垣間見られるのは嬉しい。




『卵をめぐる祖父の戦争』

デイヴィッド・ベニオフ著、田口俊樹訳
作家のデイヴィッドは祖父レフに、戦争中の体験を取材していた。ナチスの包囲網が迫る1942年のレニングラード、17歳のレフは軍の大佐の結婚式の為に卵1ダースを手に入れろという命令を受けた。お喋りなイケメン兵士コーリャと共に卵を探しに出たレフだが・・・。当時のロシアは極端な食糧難で、特に都市部での飢えは深刻だった。序盤、わずかな酒を分け合うシーンや闇市のシーンなどで、その食料のなさが強調される。レフらに課された、読者にとっては滑稽でもある「卵を手に入れる」任務の困難さが腑に落ちるのだ。本作は戦時下を舞台にしており、戦争小説とも言える。ただその戦争はとてもミニマムな、題名の通り「祖父の戦争」。いい邦題だと思う。レフがどのように戦い、生き延びていくかという物語。コーリャとの友情はそのニコイチぶりに突っ込みが入るくらいだし、恋やセックスへの憧れは実に童貞くさい。いい青春小説として成立している。悲惨さをユーモアで笑いのめす強さがある。なお著者は小説が達者だが、文章がちょっと喋りすぎるのが個人的な好みとして惜しい。




『アップサイド・ダウン:クリエイションレコーズ・ストーリー』

 アラン・マッギーがジョー・フォスターらと1983年に立ち上げたクリエイションレコーズは、プライマル・スクリーム、ジーザス&メリーチェイン、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなど、新しいバンドを次々と発掘し、90年代にはオアシスが大成功する。しかし、レーベルは慢性的に赤字で、経営は破綻していった。ロック史に残る名バンドを排出したクリエイションレコーズの軌跡を辿るドキュメンタリー。監督はダニー・オコナー。
 アラン・マッギーもクリエイションレコーズも、名前は知っているという程度で、特に熱心に追いかけているわけではなかった(リアルタイムで盛り上がりを体感したのはオアシスくらいだし)。しかし、音楽が流れてくると体が勝手に反応してどんどん楽しくなってくる。意識してなくても何かが刻み込まれているみたいだった。同時に、別段意識しなくても記憶に残っているくらい、あの当時、クリエイションレーベルの音が巷に流れていたということなんだろう。
 クリエイションレコーズは万年赤字(オアシスの大ブレイクでも挽回出来なかったらしいから恐れ入る)だったそうだが、登場するバンドたちのデビューの経緯を聞くと、それも無理ないなと思った。これはというバンドがいると早速アルバムを作らせる。当然、全てのアルバムがヒットするわけではないから当然赤字になる。マッギーがドラッグに溺れてたからというだけではないだろう。いいレコードをリリースすることと経営を成功させることは全く別なのだ。同時に、マッギーへの「当たりを掴まないと」というプレッシャーは大変なものだったんじゃないかと思った。良くも悪くも、彼の音楽を聴く耳によって成立している部分がすごく大きかったのだろう。
 ただ、ぐだぐだになりつつも何とかかんとか続いていたのは、マッギーの人徳というか何というか・・・。関係者へのインタビューでも、辛らつな言葉は出てくるが、皆あんまりマッギーのことを悪くは言わない。人としてはおそらく色々問題もあったのだろうが、音楽に対する姿勢には一目置かれていたし信頼されていたのだと思う。だから、レーベルを閉める時にボビー・ギレスビー(プライマル・スクリーム)あたりはすごく傷ついたみたいだったけど・・・
 なお、クリエイションレコーズ出身で私が好きなバンドはスーパー・フューリー・アニマルズなのだが、「オアシスが売れたおかげでデビューできた」と言っていた。オアシスありがとう・・・(いやオアシスも大好きですけど!)




『パレルモ・シューティング』

 人気写真家のフィン(カンピーノ)は不眠に悩まされていた。女優ミラ・ジョヴォヴィッチの撮影の為、パレルモを訪れたフィンは、この町を気に入り、仕事が終わった後もしばらく滞在することにした。しかし、灰色のマントを着た男性に矢で狙撃される。町で知り合った絵画修復師の女性(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)の助けを得て身を隠すが。監督はヴィム・ヴェンダース。
 ヴェンダース作品を見るのは『リミット・オブ・コントロール』以来になる。『リミット~』では、主人公が意識のレイヤーをどんどん深層方向へ潜っていくような構造だという印象を受けた。本作は、主人公が基本的に1本の線上にいるが、線が分岐するところを通り過ぎた後で、進まなかった分岐先での「もしもあの時~だったら」という出来事を何度も幻視するような構造だという印象を受けた。
 分岐は常に「狙撃により死んだ/死ななかった」という分かれ方だ。フィンは、狙撃により自分が怪我をしたり、町がパニック状態になった状況を体験する。が、はっと気付くと自分は無傷だし町は平和だ。これが繰り返されると、フィンは実はあの時死んでいて、彼が生きている世界の方が「もしも」の世界なんじゃないかとも思えてくる。
 ただ、映画としては『リミット~』の方が構造がしっかりとしていて美しいかなと思う。本作、パレルモへ向かうまでの流れがもたつく。パレルモへ移動してからも、風景に魅力はあるがちょっと時間割きすぎだと思った。実際の上映時間よりもかなり長く感じ、この内容だったらもっと短くてもいいよなと思っちゃう。「死」の形や現れ方も月並みで、これだったらこの俳優をわざわざ起用しなくてもなぁ、というもの。ただ、音楽の趣味は相変わらずいい。フィンがipodで聞いている音楽という設定な場面が殆どだ。こんなに自分にしっかりサントラ付けている人はちょっと嫌だなとは思ったが(笑)
 フィンは撮影した写真をデジタル加工して独自性を出すという手法を得意としている。そんな彼の作品を、学生が真実のない写真なんて、と揶揄するシーンがある。しかし、そもそも写真は対象物の表層を記録するものだろう。写真における真実のある・なし(写真に魂があるとかないとかという言い方をしたりするが)はどこで判断するんだろうなーと不思議でもある。これはこの映画に限らず、写真作品を見る度に思うことなのだが・・・。もちろん技術的なレベルの問題はあるが、基本的にはカメラを構えてシャッターを押すだけななのになぁと。もっとも、本作に出てくるフィンの「作品」は、ちょっと加工しすぎてあまり趣味がいいとは言えない(加工の仕方をスタッフに指示しているがそう冴えたアイディアとも思えない)ので批判されてもしょうがない気もするが(笑)




『お熱いのがお好き』

 ビリー・ワイルダー製作・監督による1959年の作品。禁酒法が成立していた1920年台のアメリカ。バンドマンのジョー(トニー・カーティス)とジェリー(ジャック・レモン)は、たまたまギャングの殺人現場を目撃し、口封じの為追われる羽目に。2人は追手から逃れる為、女装して女性バンドのメンバーに紛れ込んでマイアミへ。ジョーはウクレレ奏者のシュガー(マリリン・モンロー)に一目ぼれしてしまうが女装中なのでアプローチもままならない。一方ジェリーは、大富豪のオスグッド3世(ジョー・E・ブラウン)に女性として一目ぼれされてしまう。
 くしゃくしゃ頭に寝巻き姿のモンローがとにかく可愛い。しっかりメイクにドレス姿よりも、素の可愛さがあったように思う。モンロー本人はシリアスな映画に出たかったみたいだが、どちらかというとコメディエンヌの才能があった人なんじゃないかなーと思った。動きや表情の造り方の間合いとか、「玉の輿を狙うちょっと軽率な子」としての喋り方とか、ツボをわかってるなぁという気がする。また、カーティスとレモンのボケ・ツッコミの安定感は言うまでもない。王道コメディを堪能した。
 ジョーが男と女をいったりきたりしてシュガーを何とか落そうと四苦八苦する姿はおかしいし、彼とシュガーとの恋の行方がロマンチックコメディとしてメインなのだろう。しかし、ジェリーとオスグッドとの奇妙な関係の方がむしろ、思う相手のオンリーワン度合いにおいて、ロマコメ的なのではないかと思った。ジョーとシュガーは最初は体目当て・お金目当ての関係なので、むしろロマンティックからは程遠いリアル志向(笑)だ。これが途中から本気の恋愛になるのだが、どこでそうなったのかわからずラストが唐突に感じた。ジョーは女に手が早く不誠実というキャラ設定だし、シュガーもルックス以外であんまり魅力的なところがないんだよな・・・。 対してオスグッドは、ジェリーのどこを気に入ったのかさっぱりわからないのだが、彼(オスグッド的には彼女なんだが)が何をしようが誰であろうが、それでも君がいいのだと言う。どちらがロマンティックかというと、まあ後者だろうなと思う。オチの付け方も、当時としては「えっそうなるの?!」というものだったのでは。オスグッドが全部かっさらっていって、ジョーとシュガーはカモフラージュだったんじゃないかというくらい。




『シャンハイ』

 イギリス、アメリカ、日本等が疎開を置いていた、1941年の上海。アメリカ諜報員ポール・ソームス(ジョン・キューザック)は、仕事仲間のコナーが日本租界で殺されたと聞き、犯人探しを始める。コナーはシズコ(菊地凛子)という娼婦に入れ込んでいたらしい。調査の過程で上海三合会のボス・ランティン(チョウ・ユンファ)、その妻アンナ(コン・リー)、日本軍大佐のタナカ(渡辺謙)と知り合う。監督はミカエル・ハフストローム。
 日本が真珠湾攻撃を行う直前あたりが舞台。歴史的な時代背景は踏まえており、日本軍が上海を牛耳ってレジスタンスを追っていたり、ソームスが親ドイツの新聞記者を装って、ドイツ側をスパイしていたりする。CGとセットで再現された当時の上海の風景も独特の雰囲気があって楽しい。好きな人はハマる舞台装置だろうなと思った。
 とはいっても、あまり歴史的なイデオロギーは感じない。史実は踏まえ、しかしあっさりとした味付けだ。ソームスがスパイとしてあまり有能に見えないというのも一因なのだが(キューザックはいつまでたっても甘ちゃん青年顔で貫禄つかないが、本作にはそれでよかったんだろうな)、ソームスとアンナを中心とした男女の関係の方がよりクローズアップされている。
 ただ、描き方によっては相当ドロドロと利害関係と情念が入り混じりそうなところ、本作はやはり、ごくごくあっさり風味にしている。お互い非情になりきれず、敵になりきるには双方に某かの思いやりがある。普通だと非情な人物、敵役というポジションのタナカも、別れた妻への思いを断ち切れないナイーブさを示すし、タナカ本人が自分は(そしてソームスも)「ロマンティスト」だと認めている。ファム・ファタール的な役回りのアンナも、その役回りにしては脇が甘い。全員、どこかしら優しいしあまり強くはないのだ。このあっさりとした加減は、監督の持ち味かもしれない。ハフストローム監督の作品は『1408号室』しか見ていないのだが、ホラーとしてもっと陰湿にできそうなところを、あっさりまとめてしまったという印象があった。
 出演者では、コン・リーが印象に残った。彼女は本来、顔立ちは地味だし体型もぼってりしているのに、スクリーン上では華やかで妖艶。当時の衣装や髪型がすごくよく似合う。これぞ女優!という感じだ。また、渡辺謙は『インセプション』の時とあまり印象変わらないのだが(笑)、スターのオーラみたいなものはあった。




『東京の空の下、オムレツのにおいは流れる』

石井好子著
名著『巴里の空の下、オムレツのにおいは流れる』の姉妹編。これも文庫化したので合わせて読んでみた。時代は下って、海外の料理や食材がよりメジャーになった時代背景があるからか(「白ソース」が本著では「ホワイトソース」になっていました(笑))、異国の旅先での食事に関するエッセイが増えていた。名門リゾートホテルのビュッフェの記述がおいしそうでおいしそうで、この人間違いなく食べること大好きだな!と実感した。相変わらず気取りがなく、さっぱりとした文体だし、料理に関する記述にもいわゆるグルメぶったところがなくて好感が持てる。また、『巴里~』に比べると文章は格段に上手くなっている。何をどう見せるか、という部分に意識がいくようになっていると思う。文筆家としての意識が強くなったのではないだろうか(文庫版解説でも言及されているが)。






『特捜部Q 檻の中の女』

ユッシ・エーズラ・オールスン著、吉田奈保子訳
未解決事件専門部門として、コペンハーゲン警察内に新設された「特捜部Q」。ある事件で同僚を守れず、自身も傷を負ったカール・マーク警部は、この部署の統括を命じられる。しかし部下はシリア系の奇妙な男アサド1人だけ。ていのいい厄介払いかと憤然とするマークだが、自然死扱いになっていた女性政治家失踪事件の真相解明に着手する。デンマーク発の刑事小説だが、本国ではとても人気のあるシリーズだとか。ちょっと色物TVドラマっぽい題名だが、中身はしっかりとしたミステリ。メリハリがきいていて適度に派手な展開、そしてキャラの立ち方がしっかりしており、映像化にも向いていそうだ。マークは仕事は出来るがあんまり好感持てるタイプではなく(笑)、ちょっと尊大でイヤミ。でも家庭は破綻しており息子は口もきかないし別居中の妻にはお金をむしられ続けている。なんとも難点も苦労も多い主人公だ。一方、相棒のアサドは素性が分からないが気はよく有能。2人のかみ合っているのかいないのか微妙なコンビネーションが本作の味だと思う。最初やる気がなかったマークが、徐々に警官としての誇りと使命感を取り戻していく過程が、事件解決と平行して、もう一つの軸になっている。デンマークの警察事情(やっぱり予算苦しいんだ・・・)やノルウェー、スウェーデンへの微妙な距離感が垣間見られるところも面白い。




『巴里の空の下、オムレツのにおいは流れる』

石井好子著
シャンソン歌手であった著者による名作料理エッセイ。出版より半世紀を経て文庫化されたので、これを機にちゃんと読んでみた。'50年代当時のパリでの生活が主に語られているが、日本の食生活って多分60~70年代以降に激変してるよなと思った。本著に出てくるお料理や食材の中には、当時の日本では知られていなかったもの(例えばソフトシェルを「貝」と書いているが、当時は食材自体が知られていなかったんだろう)、高価で手を出しにくかったものも少なくない。ただ、それらが今現在の日本では全く普通に、安価で作る・食べることができる。ホワイトソースでなく「白ソース」という記述になっているというような、ちょっとしたことから時代の変化を感じた。それにしても、食べることが好きな人が書いた食べ物の話は、実に楽しそうでいいですね(笑)。レシピやお料理薀蓄があっても、文章がシンプルで、いやみじゃないところが強みだと思う。




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