3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ドライヴ』

 天才的なドライブテクニックを持つ「ドライバー」(ライアン・ゴズリング)は、自動車修理工場の工員やアクション映画のカースタントとして働く傍ら、強盗の逃走を請け負う裏の顔を持っていた。同じアパートに住む若い母親・アイリーン(キャリー・マリガン)に恋心を抱いた彼だが、アイリーンには服役中の夫スタンダード(オスカー・アイザック)がいた。アイリーンは家庭を守ることを選ぶが、スタンダードは服役中、ギャングに借金をしており、強盗を強要されていた。ドライヴバーはスタンダードを助けることにするが。監督はニコラス・ウィンディング・レフン。原作はジェイムズ・サリスの同名小説。
 予告編の段階でこれは自分が好きそうな映画だなぁと思い、原作を読んでその思いが更に強まったのだが、本編は期待を上回る好み度合いだった。よどみなく流れるような気持ちよさがあった。セリフは少なく、主人公であるドライバーの内面も特に見せない。普通の映画だったらここで盛り上げるな、というところ(特に心理ドラマの部分)をさらっと省略しているという印象だ。省略してはいるが、ちゃんと読み取れる。バイオレンスなシーンすら流麗で見とれた。暴力シーンは結構えげつない(力任せにやったりするので)のだが、それがエレガントに見えるという不思議。題名の通り、車を走らせるシーンが多い。その殆どが車内からのショットだ。車の映画ではなく車に乗る人の映画ということをよくわかってるなぁと思った。音楽も低音でモーターが廻っているような雰囲気のもので、ドライブ感を高めている。
 主演のライアン・ゴズリングはここ1,2年でいきなり主演作が増えた印象があるが、どの作品を見ても全く別の人に見える。際立った個性があるタイプの役者ではないので、こなせる役柄の幅が広いのだろう。何より、高い技術がある人なんだなと改めて思った。顔の表情の微妙な変え方、特に口元の動かし方が抜群に上手いと思う。
 「ドライバー」の行動は、「愛した女の為」といえばそうなのだが、ものすごく深い関係の相手というわけではないのになんでそこまで、というようなものだ。ただ、この行動を選ぶというところに彼の価値観が見える。アイリーンとの間に恋愛感情はあったのだろうが、恋愛感情からの行動というよりもむしろ、ある種の恩義を感じてのもののように思った。なんていうことない行為でも、それによって人生を救われることは多分あると思う。ので、ドライバーの行動にも個人的には納得がいくし、私にとってはすごく好きなキャラクターだ。




『スーパー・チューズデー 正義を売った日』

 原作は2004年の民主党大統領予備選で選挙スタッフだった、ボー・ウィリモンの戯曲。マイク・モリス知事(ジョージ・クルーニー)の大統領選挙キャンペーンで、キャンペーンマネージャーのポール(フィリップ・シーモア・ホフマン)の下、広報官をしているスティーブン(ライアン・ゴズリング)。彼はオハイオ州予備戦討論会の後、対立候補陣営の参謀ダフィ(ポール・ジアマッティ)から密会を持ちかけられる。監督はジョージ・クルーニー。プロデューサーの中にレオナルド・ディカプリオの名前があってちょっと驚いた。
 クルーニーは監督作『グッドナイト&グッドラック』が渋い秀作だったが、本作も渋い。選挙の内幕ドラマというともっとドロドロ・ギスギスしていそうだったが、直接的にドロドロした部分は見せない。激しい修羅場も見せず、割と控えめだ。そういった戦いがあったという気配のみがある。ネタがネタだけに下世話にしようと思えばとことん下世話に出来そうだが、品がいいのだ。こういう見せ方はクルーニーの好みなのだろう。
 予告編では、クルーニーやシーモア・ホフマンが主演格のような印象を受けたが、実際に主人公と言えるのは、ライアン・ゴズリング演じるスティーブン。有能だが、広報官としてはまだ若手だ。スティーブンの、やり手だが「若造」な部分が、彼を追い込んでいく。対敵陣営にしろ、対女性にしろ、肝心な所で詰めが甘く、とてもやり手には見えないこともある。特にダフィに密会を持ちかけられた時の行動は、それは絶対まずいだろ~と見ていたハラハラするようなもの。自分で事態を悪化させてしまっているのだ。
 スティーブンが損なってしまうのは、選挙結果への影響云々というよりも(もちろんそれもあるのだが)、自分自身の信用だ。上司であるポールは、忠誠に最も重きを置く人柄。信頼は一度傷が付くと取り返しがつかないと言うが、まさにそういう話でもある。クリーンな人物であるかどうかと、信頼し続けられる人物であるかどうかは、少々別問題というところが面白かった(スキャンダルがあるかどうかより、スキャンダルを表面化させてしまうかどうかが問題というか)。
 邦題ではサブタイトルで「正義を売った日」とついているが、これはちょっとミスマッチな気がした。本作に出てくる人達は、自分に正義があると信じて行動しているわけではなく、むしろ損得感情や私欲で動いている。「正義」と「(自分のポジションにとって)正しい」は違うのだ。
 ところで、選挙活動内の有権者との討論会で、モリスがカソリックであるか、宗教に対してどういうスタンスかが問われるというところが、日本では考えにくいシチュエーションで興味深かった。政治と宗教は別物というのが建前なんだろうが、実際はしぶとく結びついているんだなと。




『海燕ホテル・ブルー』

 刑務所から出所し、かつて自分を裏切った洋次(廣末哲万)への復讐を果たそうと、溶岩だらけの山に囲まれた海辺の町へやってきた幸男(地曳豪)。しかしそこでであった女・梨花(片山瞳)に魅了され、彼女から離れられなくなってくる。服役中に同房だった正和(井浦新)が幸男を慕ってやってくるが、同時に、町の警官(大西信満)も彼らに目を付け始めていた。原作は舟戸与一の小説。監督は若松孝二。
 ファム・ファタルに男たちが惑わされ、男同士の絆があっさり崩壊していく、ミイラ取りがミイラに状態のお話。しかしそもそも、「女がいる」というところからして怪しい。はたしてこの女は存在したのか?彼らが見たのは何か別のものではなかったのか?そんなことを思わせる幻想的な雰囲気だった。黒い砂漠と岩山、反対側には海という荒々しい風景がまた、非現実的な雰囲気を強めている。女の存在の曖昧さがいい味なので、最後は蛇足だったと思う。あれだと、女(の形をしたもの)側が主体的にたぶらかしてる感じがする。男たちが勝手にフラフラしているんで、女は単に触媒的な存在だと思っていたので違和感を感じた。なおこの女性、ファム・ファタルにしては、私にとっては魅力に欠けていて、「いい女」と言われるたびにいたたまれない気分になったのだが、男性から見るとどうなんだろうか(こういう役に起用されたということは魅力的だということなのだろうが)。
 女性に対する男性たちの視線は粘っこいのだが、それ以上に、男性間での執着・憎しみが粘っこい。幸男が洋次に向ける憎しみ(梨花の出現で霧散してしまうのだが)と、正和の幸男への思慕は方向性は異なるがくどくどしい。最初に過剰な信頼があるから裏切られた時の憎しみも大きい。正和は幸男を奪った梨花に嫉妬しつつ梨花に魅了されているから、さらにくどい感じになっている。若松監督は基本ねちっこい作風だと思うのだが、本作の場合背景が殆どなくて道具立てがシンプルなので、人の感情の粘りがより浮き上がっているように思った。リアルな感情というよりも、抽象的なねばっこさとでも言えばいいのだろうか。
 冒頭、雪景色の中を直江津線が走るシーンが、すごく魅力的だった。その後も雪国が舞台なのかと思ったら、全然違う風景が広がっていてちょっとびっくりした。半分くらいは風景の力で成り立っている作品ではないかと思う。なお、音楽はジム・オルーク。音楽もいい。




『高原のフーダニット』

有栖川有栖著
かつて解決した事件の関係者から「双子の兄弟を殺した」という電話が火村に入ってきた表題作、淡路島を舞台にトラベルミステリの趣もある『オノコロ島ラプソディ』、ミステリのパーツを使いながらも連作幻想小説的な『ミステリ夢十夜』の3編を納めた中編集。3編のうち、王道本格ミステリと呼べそうなのは表題作のみで、著者にしては変化球な印象の1冊だった。『オノロコ島ラプソディ』は、王道アリバイ崩しといえばアリバイ崩しなのだが、そのアリバイトリックがバカミス一歩手前、というかバカミスに一歩踏み込んじゃってる気はする。ただ、筋は通ってるというところは本格なんだけど・・・。この作品はなかなか旅情があるのも楽しく、1冊トラベルミステリのみの著者の中短編集も読んでみたくなった。『ミステリ夢十夜』は、題名の通り「こんな夢をみた」で始まる連作。ミステリ作家の頭の中ではこのようにアイディアが生まれては立ち消え、生まれては立ち消えているのではないかしらと思わせる。アイディアの断片も無駄なく利用していて経済的な一編(笑)。




『テイク・シェルター』

 土木工事会社で働くカーティス(マイケル・シャノン)は妻サマンサ(ジェシカ・チャスティン)と耳が不自由な娘ハンナと暮らしている。ある時からカーティスは、嵐が襲ってきたり油が混じったような雨が降るといった悪夢に魘されるようになる。悪夢のイメージは徐々に鮮明になり、カーティスはとうとう、庭に嵐から逃れる為のシェルターを作り始める。監督はジェフ・ニコルズ。
 カーティスは悪夢の恐怖に駆られて、周囲からは白眼視されるような、ぱっと見異常な行動に走っていく。彼はとにかく怖がっているのだが、自分が恐怖を感じていること、なぜ恐怖を感じるのかということを妻(関係はかなり良いように見える)にもなかなか言えない。恐怖は言語化ができないのだ。どんなに説明しても、彼が感じている恐怖そのものにぴたりとはまらないのだろう。また、その「言えない」理由を補強する為に、彼の母親の存在を出してくるところが上手い。後者については、おそらく彼はずっと昔から自分もこうなるのではという恐怖を感じてきたはずだし、それは相当苦しいことだと思う。この「大災害が起きるのではないか」、「自分は正気ではないのではないか」という2種類の恐怖が両立しており、カーティスが自分の主観を完全には信じられない、どんどん揺らぎが大きくなっていくというところが、また怖いのだ。
 決して派手な作りではないし、カーティスが悪夢にうなされて奇行に走るだけといえばそれだけの話だ。しかし、怖さの持続させ方、怖さの質のスライドのさせ方が面白い。ひたひたと強まっていく不吉さと不安定さに見ている側まで侵食されていくような、嫌な怖さがある。
 脚本が書かれたのは2008年、映画が製作されたのは2011年だそうだが、今の日本で見ると、製作側が意図したのと別種のインパクトがあるように思う。カーティスの行動は狂気と言えるのか?彼が間違っていると言い切れるのか?と突きつけられる。ラストシーンの恐ろしさは、本作冒頭からカーティスが襲われている恐ろしさとは質が異なる。彼は妻の信頼を取り戻したわけだが、状況としてはもうどうしようもない。コーエン兄弟の『シリアスマン』みたい。



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『マンガ食堂』

梅本ゆうこ著
人気ブログ「マンガ食堂」を書籍化したもの。これまでブログに掲載されたレシピから厳選されたものに加え、書籍化向けの新作レシピや書き下ろしエッセイも含まれている。個人的には料理レシピは紙(書籍)状態の方が使いやすいので、ブログは前々から愛読していたのだが、書籍も買ってみた。1冊の本として読むと、意外とマンガに関するエッセイ集としていい感じに仕上がっている。著者は当然マンガ好きなのだが、マンガ愛がコア過ぎずクドすぎず、あくまで一読者としての立場から読んでいる。おしつけがましくないところがいい。また、ブログ読んでいても思ったのだが、基本的に文章の品がいいし、著者の人柄のよさがにじんでいるんじゃないだろうか。実は本著に出てくるマンガの多くを私は読んだことがない(著者とはタイプの違うマンガ読みということになります)のだが、それでも面白かったし、このマンガ読んでみようかなという気になる。一番読みたくなったのは『ドカコック』!でもコンビニコミックなので入手は難しいかな~。なお、当然料理本としても使える。早速作ってみたのは、『のんちゃんのり弁』に出てくる、ゴボウを出汁で煮て梅干であえるもの。もちろんお弁当用に。




『後藤さんのこと』

円城塔著
めでたく芥川賞も受賞した著者の、2010年に発刊された短編集。先日文庫化され、表紙が市川春子だったので手にとってみた。著者の作品を読むのは『オブザベースボール』以来。何しろ難解だと評判な作家なのでついていけるか心配しながら読んだが、多分よくわかっていない。が、わかっていないけどすごく面白いしかっこいいことはわかる。他の作品も読みたくなった。表題作は、「後藤さん」についてその計上や生態が解説されていくが、だんだんスケールが大きくなっていく。「後藤さん」を使って様々な事象、世界のあり方を解説しているような作品だ。他の作品も、やはり小説という形態では表現し得ないと思われている領域を表現しようとしているようでもある。『速考』は文字列そのもの、『墓標天球』は時間軸を扱っているが少しリンクするようなところも。難解といいながら気持ちよく読めるのは、著者の文章力が相当高く品がいいからではないかと思う。涼やかな作風だ。




『イメージの歴史』

若桑みどり著
 元々放送大学のテキストだったものを加筆・再編集したもののようだ。いわゆるファインアートだけではなく、広告・記念碑等を含め、それが何のため、どのように描かれてきたのか、これをイメージの歴史として、ある図像が起用された背景には何があるのか、狭義の美術史には留まらずに探っていく。特に著者が長年取り組んできたジェンダー的・ポストコロニアル的なまなざしが注がれている。ざっくり言うと、なぜ裸の女性が美術のモチーフになるのか、というところから始まる。なまじ正統とされる西洋美術史教育をされていると、なぜ裸体?という疑問がそもそも出てこない、著者自身最初から疑問を感じていたわけではないというところに、歴史として刷り込まれた概念の強固さを感じる。以前の美術史は、作品は独立したものでその時代・社会的背景まではさほど考慮しなかった(というよりも背景を研究していくと別の学問として扱われる)そうだ。個々の作品の社会的な背景、そして次の時代にどう受け継がれていくか解説されていくが、美術を作る・見る主体として想定されていたのはずっと男性だったということがとてもよくわかる。それは当然、社会の主体が男性であったということだ。同時に、男性は男性でも勝利者側の男性によるものだということもわかる。なぜ自由の女神は「女神」なのか、植民地のシンボルは女性として表されたのか、という部分はそういばなんで?と思うところだろう。美術は(歴史や社会から、更に言うなら誰から見た歴史・社会なのかという問題も)独立したものではない、当然といえば当然なのだが、それを再確認した。




『ロゼッタ』

 キャンプ場のトレーラーハウスに母親と暮らす少女ロゼッタ(エミリー・デュケンヌ)。彼女は試用雇用されていた工場から解雇されたことに納得できず、大暴れする。家に戻ると母親がこっそり酒を飲んだり男を連れ込んだりでケンカに。職探しも、役所への休職届けも上手くいかない中、ワッフル売り屋台の店員リケ(ファブリツキオ・ロンギオーヌ)と知り合う。ダルデンヌ兄弟、1999年の作品。第52回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞、主演女優賞受賞作。
 日本公開時に見ているのだが、内容をかなり忘れていて、女の子が何か乱暴だったなーという程度しか覚えていなかったので、改めて見てみた。当時は多分あまり面白くなかったんだろうが、今見るとすごく面白い。また、俳優がこんなに体をはってたのかと驚いた。
 冒頭、ロゼッタがいきなり工場の事務所で暴れだすわトイレ(ロッカールームか?)に閉じこもるわで随分とエキセントリック。働いてお金をもらう、ということに対する拘りが異常に強い(というよりその表出の仕方が極端)。その後の職探しにしろ、母親やリケに対する態度にしろ、ぶっきらぼうで可愛げはないし、時に挙動不審だったりと、いちいち強烈だ。ロゼッタは決して不真面目な人ではないし、生活をちゃんとしなければという意欲はある(靴を履き替えるところとか、隙間風をトイレットペーパーで防ごうとするところとか、かなりいじらしい)。しかしその為の手段の選ばなさや、仕事を奪われた時の激昂の仕方は、普通の社会人としては、まあどうかしてい。普通は怒るにしろ何にしろ、もうちょっと角が立たないというか、周囲を納得させるような方向で動くだろう。
 しかし見ているうちに、彼女がなぜそんな言動になってしまうのか腑に落ちてくる。この部分は、以前見た時には気づかなかった。彼女と母親の関係が大分大きな要素になっているのだ。ロゼッタの母親はアルコール依存症で、当然まともに働いていないし、再入院しないとと言われると逃げ出してしまう。ロゼッタの振る舞いが大人として大分どうかしているのは、こう振舞えばいいというモデルが身近にいなかったからなのだろう。また、アルコール依存症である母親は、酒を飲む為ならどんなことでもする。ロゼッタの、仕事を得る為のなりふりかまわなさは、母親の行動とちょっと似ているのだ。ロゼッタ自身は母親のようにはなるまいと思って必死なのだと思うが・・・。ともあれ、この母親でなければロゼッタの生活はもっと違ったかもしれないと思わずにいられなかった。
 追い詰められたロレッタは、とうとうある行動に出る。が、それすらも頓挫してしまう。このタイミングがおかしくも哀しい。これ、ある行動が成功しちゃうよりもある意味やりきれないなと思った。そして、その境地に至ってようやく少し素が出るロゼッタを、ようやくいくらか愛おしいと思える。




『イゴールの約束』

 少年イゴール(ジェレミー・レニエ)は、不法移民の斡旋業者である父親・ロジェ(オリヴィエ・グルメ)の手伝いをしている。ある日、入国管理局の手入れから逃げようとし、アフリカ系黒人男性アミドゥ(ラスマネ・ウエドラオゴ)が工事現場から落下死した。ロジェは面倒ごとを恐れて死体をひそかに埋めるが、イゴールは死んだ男の「妻と子供を頼む」という言葉を忘れられず、まだ若い妻アシタ(アシタ・ウエドラオゴ)と赤ん坊を気にかけるようになる。ダルデンヌ兄弟、1996年の作品。本作は長編3作目になるそうだ。
 新作『少年と自転車』公開に先駆け旧作が公開されたので、未見だった本作を見に行った。『息子のまなざし』あたりに雰囲気近いのかなと思っていたが、意外とドラマティック。劇奏としての音楽は使わない、カメラは手持ちで画像は荒めというぶっきらぼうにも見えるが、ドラマの線が太く、くっきり物語が浮き上がってくる。
 イゴールとロジェの繋がりはすごく強い。ロジェがやっていることはまっとうな仕事ではない。イゴールには、整備工場で働くというまっとうな道もあるが、ロジェが何度も仕事の手伝いに呼び戻すので整備工場を辞めてしまう。また、イゴールはゴーカート作りが好きで、年下の子供達と一緒に遊んだりする。しかし、父親が呼びに来るとすぐに手伝いに戻らないといけない。イゴールはまっとうな大人になろうとする機会も、子供として振舞う機会も奪われているのだ。ロジェはイゴールにとって強い父性的な存在ではあるが、ロジェ自身は積極的に父親という役割を引き受けているのではないように見えた。自分のことを「ロジェ」という名前で呼ばせていることから垣間見えるように、親子というよりは兄弟・仲間意識に近いように思えた。そもそもちゃんとした親だったら自分の子供に不正な仕事はさせないのだろうが。それでもイゴールはロジェのことを慕っているように見える。
 イゴールとロジェとの関係を変化させるのが、若い女性であるというのは、物語としてはまあ典型的なのだろう。イゴールはアミドゥとの約束を守ろうとアシタの為に奔走し、その中で、父親とは違う価値観を獲得し、精神的に独立していく。ただ、この女性アシタがイゴールにとって全く異文化の存在だというところが面白い。男女云々の問題ではなく、別の国から来た、別の宗教・生活習慣・価値観を持った存在なのだ。夫の行方を鶏の内臓で占ったり、子供の発熱を先祖の霊のせいだといって祈祷を行う彼女にたじたじとなる。彼女にイゴールの言葉は通じない(フランス語が流暢ではないという要素も)のだ。アシタにとっては、イゴールもロジェも自分たちから搾取していく敵で、好感を持てるような相手ではない。イゴールはアミドゥに優しくしようとするが、的外れだったり、アミドゥが受け入れなかったりもする。ほのかに通い合うものがあったとしてもすぐ立ち消える。アミドゥの全身から拒否が発せられるようなラストシーンは強烈だ。




『イップ・マン 誕生』

 1905年、佛山市に暮らす6歳のイップ・マンは親元を離れ、義兄ティンチーと共にチェン・ワンスー(サモ・ハン・キンポー)の詠春拳武館に入門する。やがてチェン・ワンスーは病に倒れ、弟子のツォンソウ(ユン・ピョウ)が跡を継いだ。成長したイップ・マン(デニス・トー)は香港へ留学し、ティンツィー(ルイス・ファン)はツォンソウと共に武館運営に携わっていた。しかし佛山では日本の商人が幅を利かせるようになり、やがて武館にも乗り込んでくる。監督はハーマン・ヤウ。
 実在の武道家イップ・マンを主人公とした、一連のイップ・マンシリーズの前日譚とでもいうべき作品。イップ・マンがまだ修行中だったころを描いている。私の中ではイップ・マンは完全にドニー・イェンのイメージなので、キャストが変わった(10代20代頃の話だからしょうがないんだけど)本作は違和感あるのではと思っていたが、これはこれでいい!主演のデニス・トーは独特の清冽な雰囲気があって、イップ・マンという役柄に良く合っていた。香港留学時の洋服姿も似合う。そして何よりカンフーアクションのキレがいい!何よりもまずカンフー映画なのだ!という意気込みが感じられる。私はカンフー映画にはそんなに詳しくないのだが、知識が全然なくても十分に楽しい。デニス・トーは実際に詠春拳の使い手なので当然アクションは流暢なのだが、これがカンフー映画だ!的な意気込みのある作品だった。序盤のチェン・ワンスーとツォンソウの組み手から始まり、市場での乱闘、イギリス人とのケンカ、薬局の老人(演じているのはイップ・マンの実の息子だそうだ!もう90歳になるそうだが、壊れそうな机をひょいと支えるところなど、動きの滑らかさに唸る)との修行、そしてクライマックスの宿命の対決まで、要所要所でアクションシーンを配置しており澱みがないという印象だった。
 アクション映画としてはキレがいいが、ロマンスや兄弟・師弟愛など人間ドラマ部分はとても古風。イップ・マンと副市長の娘チャン・ウィンセン(ホアン・イー)、イップ・マンにずっと片思いしている幼馴染、幼馴染に思いを寄せるティンツィーの四角関係?は昔の少女マンガに出てきそうだ。また、この手のお話だとかませ犬ないしは道化ポジションになりがちなティンツィーが、武道家としても武館経営者としてもそこそこやり手、何より優しく、結構キャラが立っている。それだに、終盤での急展開は残念。そこに至るまでの伏線が大雑把なので、唐突な感じがした。何よりイップ・マンはそんなことで断定したのか!と突っ込みたくなってしまう。




『サウダーヂ』

 市街地の空洞化が進み、中心街はシャッター通りとなっている地方都市。不況の中、日本人はもちろん、出稼ぎに来ている日系ブラジル人やタイ人らの外国人労働者たちも職にあぶれていた。精司(鷹野毅)はこの街を地元として土方一筋に生きていた。彼の現場に、タイ帰りの保坂(伊藤仁)と新人・猛(田我流)が派遣されてくる。精司はタイ人ホステスのミャオ(ディーチャイ・パウイーナ)と付き合って楽しんでいたが、保坂のタイの話で更にタイへの憧れは強まっていた。一方猛は、所属しているHIPHOPグループ“アーミービレッジ”が日系ブラジル人グループ“スモールバーク”と衝突し、外国人への敵愾心を強めていた。監督は富田克也。
 舞台は甲府市なのだが、こんなに外国人労働者の比率高いの?なじみのない土地なんで、これがどのくらいリアルなのかよくわからない(監督へのインタビュー等々読んだかぎりではかなり肌感覚に近いようですが)。ただ、地域内の雇用が減少しており、すごく閉塞感があるのはわかる(ショッピングセンター建設予定があっても大手ゼネコンが全部手がけて地元の土建業に仕事は回ってこないとかリアル)。精司にしろ保坂にしろ、将来に対して明るい展望は持てずにいるし、そもそも将来なんてあるのか?というレベル。土木業界を見切った精司の親方は、経営自体を止めてしまう。でも精司や猛はこの土地より他に行くあてがない。
 精司はタイへ憧れ、猛は在日ブラジル人を始め外国人への嫌悪を募らせるという、対称的な立ち居地。しかし、どちらも見ていて居心地が悪い。好意・悪意の違いはあるが、2人とも相手(タイないしはブラジル人)のことを一方的に憧れ・敵視していて、彼らにどういう背景があるのかということは意識になさそうなのだ。自分のイメージの中で勝手に憧れ・敵を作っている感じで、なんでそういう方向にいくんだおうなーと不思議に思った。精司が日本国籍をとろうと思うというミャオに向かって言う言葉は無神経もいいところだし、猛のニワカ右翼もイタイタしい。猛の場合、ステージで面子つぶされたという恨みがあるのだろうが、そこから右傾化していくっていうのはどうもわからない。
 猛のニワカ右翼っぽさもイタイタしいが、彼の後輩であるまひるのイタイタしさは、かなり深刻だ。まひるは一旦上京したものの出戻って、クラブのイベントなどを企画している。昔は暗かったらしいが、今はやたらとポジティブ。彼女はブラジル最高!ブラジルの人ってピースフル!と言うが、それも猛の敵意と同様に幻想にすぎないのだろう。彼女のイタイタしさは、無理やり成功者である自分や、華やかな世界にいる自分を演出している、しかも馬脚が見えているところにある。こういう人って時々いるなぁと、本作の登場人物の中では一番リアリティ(実際にクラブでイベント主催しているとかではなく、そうせざるをえない心境に追い込まれているところが)を感じた。




『キートンの恋愛三代記』

 バスター・キートン、1923年の作品。当然サイレントだ。石器時代、古代ローマ時代、現代の都会という3つの時代を舞台に、その時代ごとの恋愛模様が描かれる。しかしどの時代でも、男はマッチョで経済力を持った者が女性の親から歓迎され、やせっぽちの小男で財産もないキートンは、相手にされないのだった。おそらくキートン自身を含む、非モテ男性の叫びが聞こえてきそうな設定である。この当時から現在に至るまで延々とこの手のネタが途切れないなんて、非モテ男子問題は実に根深い・・・
 キートン作品を見るのは恥ずかしながら初めてなのだが、今更だけど面白いんですね!今となっては非常にベタな笑いではあるが、ベタということは笑いの基本を押さえているということで、多分作られた当時から現代に至るまで、いつの時代に見てもそれなりに面白いのではないかなと思う。それくらい王道感がある。各々の時代の描写は、その時代に対するステレオタイプをパロディ化したようなもの。石器時代には毛皮を着てマンモスや恐竜(コマ撮りアニメーションを使っているのが意外)に乗って移動し、ローマ時代には4頭だての馬車・・・なのだがロバやポニーが混じっていたり犬がひいていたり。馬車を自転車みたいにチェーンで固定するのには笑ってしまった。個人的にはローマ時代ネタに一番笑いを誘われた。ライオンとの交流も妙にかわいい。現代(といっても20年代なわけだが)舞台のパートでは、「移動」が愉快!  
 動きといえば、キートン本人の体の張り方が結構なもの。多分スタントなし(というかスタントという職業が当時あったのだろうか・・)で本人がやっていると思うのだが、すごく身体能力の高い人だったのだろう。運動する身体は面白い、ということを深く理解していたコメディアンだと思う。




『アッシャー家の崩壊』

 ジャン・エプスタイン監督による、1928年のサイレント作品。原作はエドガー・アラン・ポーの小説。友人ロデリックに招かれ、彼が当主となるアッシャー家を訪れた男。ロデリックは取り付かれたように妻マドリーヌの肖像を描き続けていた。
 日本語字幕なしで見た。原作者エドガー・アラン・ポーはアメリカ人なので原語は英語のはずなのだが、映画自体はフランス映画なのでセリフ字幕はフランス語。原作は読んだはずなのだが記憶が定かではなく、話の詳細はわからず漠然と流れが見える程度。
 ボーっと眺めるような鑑賞になってしまったが、ホラー映画の原型みたいだと思った。思わせぶりな映像の反復は見ている側に緊張を強いる。また、カーテンやベールのゆらめき、霧の荒野などは、何ものかの気配に満ちている。幽霊話はこうでないとな~と言いたくなる雰囲気。荒地を風が吹きすさぶ光景は、音が聞こえてきそうだ。個人的に荒野の風景が好きだということもあるが、眺めているだけで楽しかった。
 あと、モノクロ画面だと目の色素が薄い人は、ちょっと人外ぽく見える。自分たちが黒い目を見慣れているせいかもしれないけど。




『サロメ』

 オスカー・ワイルドが1891年に発表した戯曲を原作にした、1923年の作品。監督はチャールズ・ブライアント。サロメを演じたのはアラ・ナジモヴァ。兄を殺して王の座を奪い、兄の妻ヘロディアを娶ったヘロデ王。しかし王はヘロディアの娘・サロメに魅せられる。一方サロメは投獄されている預言者ヨカナーンに邪険にされ、王の前で踊った褒美としてヨカナーンの首を要求する。
 サイレント映画見るのは初めて。劇場の判断で音楽をつけることもあるんだろうが、今回は本当に無音での上映だった。音のついている映画に慣れているので、なんだか奇妙な感じだった。観客が身じろぎする音がダイレクトに聞こえて居心地悪い・・・。
オスカー・ワイルド版が原作だからか、美術面にはビアズリーの挿絵の影響を感じた。衣装にしろセットにしろ、当時としては豪華なのだと思うが、装飾過剰気味で華美。そしてなぜかとてもゲイゲイしい(メイクなどはビアズリーの挿絵の雰囲気に合わせているのだと思うが)。当時はこういうのが流行っていたのか、それとも本作が異色だったのだろうか・・・受け止められ方が気になる。
 サロメ役のナジモヴァは決してスタイルが抜群とか美人とかいう風貌ではなく、むしろ小娘感が強い。サロメというキャラクターの方向性には合っていると思う。また、ヘロディアがすごく崩れた感じになっているのが、ちょっと衝撃だった。
サイレント映画の場合、俳優の演技はトーキーとは大分方向性が違うんだなと思った。当然ジェスチャー重視、パフォーマンス性が高いんだなと。同じ映画という形態ではあるが、トーキーとは別物の娯楽・芸術と思った方がいいのかもしれない。






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