3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『弾道の詩行』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。アルスター地方の詩と文学に対するオマージュ的なドキュメンタリー。シェームス・ヒーリーやトム・ポーリンなど、現代の詩人、文学者による作品の朗読やインタビューに、過去のアイルランドの映像を織り交ぜて構成されている。
 日本で言ったらNHKぽい雰囲気(ETV特集とか)。アイルランドの文学の一端に触れることはできるが、詩の翻訳の難しさを痛感する作品でもある。多分、英語圏の人が受ける印象とは全然違う印象を受けているんだろうなーと思ってしまうのだ。また、アイルランドの歴史をある程度知っていないと、詩の意味やなぜその部分が抜粋されたのか分からないので、ある程度知識のある人が見た方がより味わえるだろう。私はちょっと退屈してしまいました。アイルランド文学を勉強している人にとっては、一つの資料となりそうだが。

『シェルショック・ロック』


 北アイルランド映画祭で鑑賞。イディオッツ、ザ・アンダートーンズ、スティッフ・リトル・フィンガーズなど、1970年代のアイルランドパンクシーンを映したドキュメンタリー。1979年のジョン・T・デイヴィス監督作品となる。
 1960年代に勃発したアイルランド紛争が背景にあるそうだが、そのあたりにはあまり深くは触れられない。当時人気だったパンクバンドたちの演奏や彼らへのインタビュー、また当時の町並みやファッション等の情景を収めているので、資料としては貴重かもしれない。
 ただ、ドキュメンタリーとして面白いかというと、残念ながらさほどではない。パンクスたちに対するインタビューには中途半端な、「言わされている」感を感じた。彼らが自分自身の言葉で喋っているのとはちょっと違うんじゃないかと思う。そもそも、彼らは語るべき言葉を持っていないんじゃないかという印象を受けた。言葉が足りないから音楽にぶつけるんじゃないかなと。ライブシーンがあまり魅力的に撮れていないのは、致命的だったと思う。そもそも、パンクはリアルタイムで聴かないと機能しないタイプの音楽なのでは、同時代性が占める部分が非常に大きいのではないかと思った。この映画を見て、映画内の演奏や音楽二心打たれるかというと、ちょっと微妙だ。音楽ドキュメンタリーって難しいなー。
 とりあえず、当時のパンクバンドは演奏下手でもOKだった、今のバンドは素人でも結構演奏が上手いということはわかる(笑)

『おやすみベイビー』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。『デリー・ダイアリー』のマーゴ・ハーキン監督が1990年に撮ったドラマ作品だ。1984年のデリーに暮らす15歳の少女ゴレッティ(エマー・マッコート)は女友達とダンスチームを組んだりディスコに繰り出したりと青春を謳歌していた。ゲール語教室で気になっていたキーランと恋に落ちるが、キーランはイギリス軍に反抗した容疑で収容所に入れられてしまう。しかしゴレッティは妊娠したらしいことに気付く。
 前半は80年代のガールズムービーっぽいポップな雰囲気で、女の子同士のかしましいガールズトークも楽しい。このきゃいきゃいしたノリは万国共通なのか。しかしゴレッティの妊娠が判明してからは、一転して不安で重苦しい雰囲気になる。現代の視点から見ると、何故ゴレッティは妊娠したらしいのに病院にいかないのか、中絶するにしろ出産するにしろ何かの手立てをとらないのかと非常にもどかしい。しかし、当時のアイルランドでは中絶は非合法だった(83年にアイルランド共和国で中絶の是非を問う国民投票が行われ、中絶反対票が多数だった)。本作の時代設定がされている1984年には、15歳の少女が妊娠・出産した上衰弱死、その14歳の妹が自殺するというセンセーショナルな事件も起きていたそうだ。そういった背景を考えると、ゴレッティが親に相談できず精神的に追い詰められていく心境は分からなくもない。ちゃんと避妊しろよといいたくもなるが、避妊もタブーだったのかしら(ゴレッティたちが暮らすのはカソリック地域)。
 ゴレッティの同級生が、妊娠した他校の女子生徒のことを「あばずれ」と呼んでいたり、ゴレッティが「妊娠するよりガンになった方がマシ」と漏らしたり、当時の不本意な妊娠に対する見方が窺える。もちろん、イギリスやアメリカでも10代の妊娠・出産や中絶は白眼視されていたとは思うが、少なくとも中絶という選択肢はあったろう。一方でシンディ・ローパーやカルチャークラブを聞いて踊り狂い、お酒やタバコを楽しむ青春という点ではイギリスやアメリカと何ら変わらないという対比が不思議でもある。
 観客に問題を丸投げするような、歯切れの悪い形で物語は終わるのだが、あえてそうしたのだろう。公開された当時は賛否両論で、監督の元に非難の電話ががんがんかかってきたのだとか。

『眠れる野獣』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。BBC北アイルランド・ドラマ局が製作した、つまり元々はTVドラマ作品(35㎜ですが)なのだが、これは出来が良かった!映画としてのスケールを持っている。放送された当時はそのテーマもあいまって、大きな反響を呼んだそうだ。
 1990年後半以降、武装グループの停戦協定が締結され、和平への道が開けた北アイルランド。しかしロイヤリスト系のメンバーたちは無職状態になってしまう。コミュニティを守る為の兵士として訓練されてきた彼らには、他に生計を立てる手立てもなく、不満は溜まっていく。
 映画ではあまり描かれなかった、ロイヤリスト(プロテスタントの中でも過激派)を主人公に据えた点が珍しいそうだ。セリフの中でも「カソリックは駆逐すればいいんだぜ」「和平なんて温い」的発言がしばしば出てくるが、そういう背景があるのだ。和平=テロリストの失職というのは、言われてみればその通りなのだが、正面切って描かれると新鮮だ。生活と直結しているんだなーと。紛争によって食っている層が確かに存在し、和平交渉を進めるということは、そういう層に対する受け皿を作っていかなくてはならないということでもある。
 さて、この映画に出てくるロイヤリストメンバーたちは、組織内でも末端の人たちだ。で、何をやっているかと言うと資金調達の為の強盗とか盗品の横流しとかなんですね。やっていること自体はチンピラと同じ。しかも、政治的な組織に属しているにもかかわらず、(末端の方では)政治的な教育はされていない。地域社会と組織に忠実であれ、ナショナリストは敵だ、くらいの認識だ。そのくらいの方が兵士としては使いやすいのかもしれないが、笑うに笑えない。彼らの大義名分がよくわからない外部の者から見たら、普通に犯罪者だもん・・・。こういう組織を生んでしまった国内情勢がそもそもおかしいといえばおかしいのだろうが。
 主人公(スチュアート・グレアム)は過激なことはするなという上層部と、現状に我慢ならないという部下の板ばさみとなる。しかも部下は前述の通りチンピラみたいなものなので、心労が絶えない。無能な部下を持つと苦労するのは万国共通か。裏切り者の制裁役に抜擢されてしまった為、妻や仲間との関係も崩れ始める。この、主人公を含めた組織の末端部が崩れていく過程が生々しい。組織の指針が揺らいだことで、人間関係までもが壊れてしまうのだ。変化についていけない人たちの辛さというか、世間から零れ落ちてしまう感じが(外部からの視点で見れば愚かに見えると同時に)やりきれない。見放された感があると、人間は崩れていくのかもしれない。

『ガソリンスタンド・ブルース』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。町外れにぽつりと立つガソリンスタンドに、1人の男がやってきた。男はおもむろにガソリンを浴びる・・・。4分間のショートフィルム。監督・脚本はガー・レオナード。主演は『眠れる野獣』と同じくスチュアート・グレアム。私、どうもこの人の顔が好きなんですが。
 それはさておき、男がやろうとしていることは一目瞭然なのだがあまりにも哀しいオチが。び、貧乏人はそれすら思うようにはできないってことかー!緊張感の果てに訪れるしょぼしょぼ感は泣くに泣けない、笑うに笑えないものがあります。映像がざらっとしていて何となくかっこよさげな分よけいに。

『デリー・ダイアリー ブラディ・サンデーのその後』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。1972年、デリーで1500人が市民権を訴えたプロテストマーチにイギリス軍が発砲。13人が死亡した「ブラディ・サンデー」事件。この事件に関して1998年から始まった再調査と、遺族の声を追ったドキュメンタリー。監督のマーゴ・ハーキン自身がプロテストマーチに参加した当事者(当時は学生)だったそうだ。
 事件後、調査団が動いたものの、イギリス軍は無罪という結果に終わり、本格的な調査(サビール調査)が開始されたのは実に26年後。証拠なんてもう残っていないし関係者の記憶も薄れているはず、そんなんでまともな調査なんて出来るの?と思ってしまう。しかし遺族にとっては、事件に決着をつけるためどうしても必要なプロセスなのだということはわかる。映画は事件当時の映像、その後の遺族の映像、近年の映像を交えてされているのだが、事件直後の現場の映像が生々しい。報道機関による映像の他、当時、マーチの参加者(事件により死亡した)がまわしていた8ミリの映像を、その参加者の弟の許可を得て使っているそうだ。
 死亡者の多くが10代の少年であり、ここ数年で裁判は進んだものの最終的な報告書はまだ出来ていないというショッキングな事件だが、北アイルランド情勢に詳しくないとなかなか理解しにくい内容だと思う。私も事前にもっと予習してから見るべきだったなと反省。しかしそれでも、遺族にとっていつまでも事件が終わらないが世間的にはあっという間に終わったことにされてしまうというギャップが心に残る。遺族が声を上げ続けないとうやむやにされてしまうという状況が、もちろんおかしいのだが。そして、公的な結果が出されることと、遺族の気が済むこととはまた別問題なのだろうとも思った。政治的に正しい解決を望んでいるというのとは、ちょっと違うのだろう。
 しかしとにかく本格的な調査が開始されるまで、調査の結果が出るまでの年月が長すぎる!遺族の気力体力経済力への負担は想像を絶するものがある。監督の話によれば、遺族の中にはこの調査に携わること事態が生きる目的になってしまい、いざ調査結果が出たらその後どうすればいいのかわからないという人もいるそうだ。
 さて、監督は自身がマーチに参加しており、事件の現場にいた当事者だ。やがて自分自身も裁判で証言しなくてはならなくなる。しかもその証言は、遺族らの訴えを覆しかねない要素を含む。監督にとっては、取材対象との信頼関係を壊しかねないし、自分がやってきたことを揺るがすかもしれないという、大きなプレッシャーをはらんだ行為だったろう。自分が事件の当事者でありつつ、ドキュメンタリー作家として事件と対峙するというのは、精神的な負担が大きいのではないかと思う。対象との距離が近すぎると、作家としての視点を保つのが難しいのではないだろうか。それでも、遺族にとって調査がこの事件を消化する手立てであるように、監督にとっては本作を作ることが事件を消化していく手立てだったのだろう。

『7月、ある4日間』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。マイク・リー監督初期(1984年)の作品。7月12日に行われる、プロテスタント・オレンジ党員のパレードが迫る数日間。ロレーン(ポーラ・ハミルトン)とビリー(チャールズ・ローソン)、コレット(ブリッド・ブレナン)とユージーン(デズモンド・マッカリア)という2組の夫婦の日々を描く。
 2組の夫婦どちらもベルファストに暮らし、妻は妊娠していて出産予定日間近だ。しかしロレーンとビリーはプロテスタント、コレットとユージーンはカソリック。ビリーは地元の軍人だが、ユージーンは足が不自由で障害者手当ての小切手を頼りに生活している。2組の夫婦はお互いに接点も面識もない。しかし妻と夫の間のやりとりや、夫とその仲間とのバカ話と大量のビール、妻の初産に対する不安などは似通っている。ビリー夫妻とユージーン夫妻、2パートを交互に挿入し、それぞれの生活を対比させていく、そして人間の感情にはプロテスタントもカソリックも関係ないという視線を生んでいく構造が効果的。同時に、直接的には言及しないが、会話のちょっとした部分から、当時のアイルランド情勢、カソリックとプロテスタント双方のお互いに対する感情が見え隠れするあたりのさじ加減が上手い。
 最近の作品ももちろんなのだが、当時から会話の演出のセンスがよかったんだなと思った。人間の日常会話って、確固とした意味がある部分は案外少なくて、どうでもいいことをだらだら応酬していることが多々ある(本作だと、ユージーンと近所の仲間のなぞなぞとか、ビリーと同僚とのキャンプでのバカエピソードとか)。人の配置や距離感は、人間を良く見ているなと感じさせる。
 妊婦2人は、たまたま同じ産院に運ばれる。男たちは待合室でやきもきしつつ出産を待つ。ビリーとユージーンはここで初めて顔を合わせるのだ。もちろんお互いのことは全く知らないままで、単に妻の出産を待っている者同士としてだ。そして妻2人も、出産したばかりの母親として顔を合わせる。新米母親同士でにこやかな雰囲気ではあるが、子供の名前を出した時点で温度がすっと下がる。名前でプロテスタントかカソリックかわかるからだ。これが(当時の)現実なのだろうか。

『ハリーに夢中』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。料理トークショーの司会者ハリー(ブレンダン・グリーソン)はお茶の間の(主に中高年女性の)人気者だが、女グセ、酒グセが最悪でスキャンダルまみれ。妻にも愛想を尽かされ、離婚訴訟中だ。しかし離婚調停の前日、暴漢に襲われ意識不明に。奇跡的に意識を取り戻したものの、彼は25年分の記憶を失い中身だけ18歳に戻っていたのだ。監督はコンラッド・ジェイ。
 心は若返ったハリーは浦島太郎状態ですべてが新鮮。18歳当時に恋愛状態にあった妻への情熱も取り戻しているので、離婚を阻止しようと躍起になる。妻の方も、人が変わったようなハリーに悪い気はしない。このままとんとん拍子でハッピーエンド、人は変われるんだぜ!というオチに持っていくのかと思ったのだが・・・。そうはしないのがこの映画の大人なところだと思った。確かに妻の心は動く、しかしやったことをなかったことには出来ないんだよ、人間の本性は変わらないんだよというシビアな視線がある。しかしそれでもこの作品の後味が良いのは、変わろうと努力することはできるし、元通りにはならなくてもやり直すことは可能だという、地に足の着いた前向きさがあるからだと思う。こじんまりとしているがいいコメディだった。
 北アイルランドの映画ではあるが、地域色はそれほど感じない。海外に持っていっても普通にウケそう。ギャグの多くが万国共通の下ネタだからというのもありますが。ちなみに本作中で、おそらく中学生くらいであろうハリーの息子が堂々と飲酒喫煙しているが、いいの?子供に限らず、2000年の作品ではあるが男性も女性もスパスパ煙草をふかしていて、アイルランドではまだまだ禁煙文化は根付いていないんだなーと妙な所が気になってしまった。

『ジャンパーズ』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。18分のショートフィルム。監督はコンラッド・ジェイ。クリスマスも近いある日、にっちもさっちもいかなくなった男4人が飛び降り自殺を企てるコメディ。
 展開が強引で拙い感じはするが、それなりにおかしい。懐かしテイストのコントみたいな味わいあり。4人の男、特にサンタと交渉人が味のある顔をしている。クリスマス直前に経営難でデパート閉店というのはちょっと寒々しすぎて笑えないが・・・。無職・失職ネタに説得力がありすぎて凹む。年末にお金がないと、本当にわびしい気持ちになるもんねー。そりゃあ飛び降りたくもなるわなと。

『フローズン・タイム』

 美大生のベン(ショーン・ビガースタッフ)は恋人に振られたショックで不眠症に。時間をもてあました彼は、スーパーマーケットでの深夜勤務を始めるが、ふとしたことで時間を停止させる能力を身に付ける。
 失恋相手を忘れられず不眠症になるところとか、時間を留めておいてやることがスーパーの女性客を脱がせてヌードデッサンすることだというところとか、それどこの男子中学生の妄想?!と突っ込みたくなるに違いないと予告編及び事前情報を見聞きした時点では思っていた。実際、うっかりすると笑ってしまいそうにはなるものの、予想していたほどイタくはなく、意外にもチャーミング。多分に男子の性的なファンタジーではあるものの、さほど生臭くなく、楽しげな範囲に留まっていた。女性から見てあまりエロい女性のヌードがなかったのも一因か。監督のショーン・エリスは元々ファッションフォトグラファーとして活躍していたそうで、絵のひとつひとつはさすがにきれい。下世話になりそうでならないという匙加減はファッション関係の仕事で鍛えられたのか。
 物語は本当に男子の妄想的なのだが、ひとつひとつのエピソードやシークエンスが楽しげで、結構幸せな気持ちになれた。自分大好きなスーパーの店長を始め、男性キャラクターが全員小中学生男子っぽいアホさを備えているのに加え、舞台が深夜の大型スーパーといういかにも遊び甲斐がありそうな場所なので、小ネタにニマニマしてしまった。通路でレースって、一度やってみたいと思いませんか。
 さて、ベンは時間を止められるが、肝心な時に止められなかったり、止められたとしても問題を解決できるわけではない。モテないわけではないがヘタレで要領が悪い。激怒する彼女を前に状況を説明しようとするも、全く口を挟めず段々「もういいや・・・」という顔になっていく姿はリアルにヘタレすぎる。そこで退いたらダメだって!ファンタジックなストーリーだが、時々ああこういうことってあるなという手ごたえがあって、はっとする。ベンを振る彼女と新たに好きになるバイト仲間の女の子、どちらも美人と言い切るには微妙(笑)な顔をしているのだが、ベン視線でぶわっと可愛く見える瞬間があるんですね。おおこれは恋だと(笑)。この「急に可愛く見えちゃう瞬間」の演出がなかなかよかった。それまではむしろぱっとしない(スーパーの制服がまたダサい)のだが。ベンのサンドイッチを一口もらった時に、彼女の顔にピクルスがついてしまう。なかなかとれないのでベンが取ってあげるのだが、その間に「あれ、かわいくね?」と思うわけです。うーん甘酸っぱいなぁ。
 ところで、壁いっぱいに自分の肖像が展示されているって、女の子は危機感感じないんですかね。好きな相手が描いたならまあOKかもしれないけど、一歩間違ったらストーカーだよなぁ。好きな相手であっても、「いつの間にこれを?!」とひいてしまいそうだが。

『ヒトラーの贋札』

 第二次世界大戦中、ナチスによって大量の贋ポンド札が作られた。イギリス経済の混乱を目的とした「ベルンハイト作戦」と称されたこの計画に従事させられていたのは、強制収容所のユダヤ人達だった。その中心人物が贋札作りの天才・サリー(カール・マルコヴィクス)。実話を元にステファン・ルツォヴィッキーが監督・脚本を手がけた、スリリングな好作だった。
 ルツォヴィッキー監督の映画は、日本では本作が初公開(DVD等は出てるみたい)らしい。しかしなんだか手堅い。物語はテンポよく組み立てがしっかりしているので、極限状況での贋札作りというネタと相まってぐいぐい引っ張られる。冒頭、終盤に戦争直後のエピソードを持ってくるのも、最初は蛇足なんじゃないかと思ったんだが、映画が終わってみると主人公の内面の変化を示すいいエピソードになっていた。全般的に運びがスムーズという印象を受けた。
 登場人物のキャラクターの作り方とその見せ方が上手い。特に主人公であるサリーの造形が(実話が元だから本当にそういう人だったのかもしれないけど)面白い。いわゆるヒーロー(ないしはダークヒーロー)ではなく、基本実利主義の人でそもそも犯罪者、こすっからいことは山ほどやるが非人間的ではないという、重層的なキャラクターであることが段々わかってくるのだ。重層的なキャラクターであるというのはナチスの上官も同様で、収容者に対する飴と鞭を使い分ける冷酷な面と、家族に対する愛情、ごく普通の夫・父親としての面が両立している。そしてドイツ軍の雲行きが怪しくなると、サリーにあっさり偽造パスポート造りを頼んで逃亡を企てたりする。人間観察が確かな作品だと感じた。
 サリーはナチスに贋札作りを強要されるわけだが、周囲に「おべっか使い」「ナチスの勝利に協力する気か」と言われても自分、ひいては囚人仲間の命を繋ぎとめる為、ぎりぎりのところで立ち回る。その姿は、「とにかく生き残る」というタフな意思を感じさせるのだ。ルックスは全くタフそうではないのだが。彼が「仲間を裏切ることだけは絶対にするな」と言うのも、特定の仲間(例えば反骨精神溢れる印刷技師)を守る為、また道義的な問題からというよりも、極限状況にある集団の中で、パワーバランスがいかに重要か、一方方向へ力が流れることの怖さを熟知しているからと見た方がいいかもしれない。現に印刷技師が暴行を受けるのはしょうがないとしているわけだし。そんな人が芸術を愛すると言う共通項ゆえ、ちょっと頼りない青年をかばおうとしたりするからぐっとくるのだが。割り切れるところと割り切れないところがあるのがいかにも人間くさい。
 そんなキャラクターであるだけに、終盤、カジノでのサリーの振る舞いは痛々しい。あれだけこの世への執着を見せていた人がこんな行動をするというのは、彼の中の何か、金や女性の持つ意味が決定的に変わってしまったということなのだろう。その傷の深さにはっとする。彼のこの先の人生はどうなったんだろう。

『QED 諏訪の神霊』

高田崇史著
 相変わらずの歴史新解釈+現代の殺人事件解決シリーズ。もはやすごく面白いと思っているわけではないのだが読めばそれなりに面白いのでつい購入し続けてしまい、止め時を見失った。髙田先生、これいつまで続くんですか・・・。カードが出揃ってそろそろクライマックスな雰囲気はあるのですが。もっとも、今作は最近のQEDの中では、終盤の視点逆転が効いていて歴史解釈は一番面白かったかなと思った。現代の殺人事件解決は、相変わらずとってつけた感が否めませんがまあいい。ところでここ数作で作品内の時代設定が明確になった(本作は1998年)のだが、シリーズ当初との矛盾は生じていないのかちょっと心配。最初の頃はあまり具体的な情報ってなかったように記憶しているが。

『アイルランドの哀しき湖』

エリン・ハート著、宇丹貴代美訳
 解剖学者ノーラと考古学者コーマックを主人公とした、「アイルランドの柩」に続くミステリシリーズ2作目。前作はどことなく風変わりな作風だなーと思ったけど、本作もやっぱり風変わりだった。今回も前作同様、アイルランドの泥炭湿地から発掘された鉄器時代の遺体と、現代の遺体とがリンクしていく。前作ほど神秘主義っぽくはないのだが、登場人物がどいつもこいつも情緒不安定すぎます。考古学者とか解剖学者とかってもっと冷静なイメージがあるのだが・・・。特にアメリカ人という設定のノーラについては、こんなに不安定でアメリカの学会でやっていけるのかしら?と心配になってしまう(アメリカに対する妙な先入観が・・・すまんアメリカ)。ミステリとしては微妙だが、アイルランドの風土の雰囲気は楽しめるし、現地に行ってみたくなる作品ではある。

『動物、動物たち』

 1965年に公開中止されていた、パリ国立自然史博物館。4版世紀ぶりに再開することになり、大々的な改装が行われた。本作は'91~'94にかけて、博物館内の「進化大ギャラリー」における剥製の修復・展示過程を追ったドキュメンタリー。
 冒頭、象やらシマウマやら水牛やら(の剥製)がトラックに乗せられ田舎道をとことこ進むという、どことなくユーモラスなシークエンスが提示される。ナレーションや解説は一切なく、音楽も控え目。ごくごく静かな映画でうっかりすると眠ってしまいそうになる。が、冒頭のシーンのように、何故か全般的にユーモラスな雰囲気が持続する。
 このユーモラスさは、展示されるのが偽者の動物である、というところから生じているのかしら。私は剥製の展示は決して嫌いではない(というか子供の頃はかなり好きだった)のだが、大人が真面目な顔をして毛皮に詰め物をしてちくちくお腹を縫い合わせて、ぺしぺし叩いて形を整えて・・・という姿、あるいは剥製の保管倉庫で「あれはあるの?これは使える?こっちは?」と展示品選びをしている姿、動かない象やらシマウマやらをえっちらおっちら運んでいる姿を見ると、なんとなく人形遊びのようでおかしみを感じる。もちろんスタッフは大真面目にやっている(楽しそうだけど)のだが。
 ともあれ、剥製作りのほかにも、剥製ってこういうふうに保管しているのかーとか、展示の仕方についてのディスカッションとか、ガラスケースの素材選びとか、博物館での仕事の一面を垣間見ることが出来て興味深かった。『パリ、ルーブル美術館の秘密』と同様、一種のお仕事ドキュメンタリーとして見られる。博物館に行きたくなった。

『子猫の涙』

 メキシコオリンピックでボクシング・バンダム級銅メダリストとなった森岡栄治。この実在した人物を武田慎治が演じ、森岡の実の甥である森岡利行が監督、実話を元に映画化した。
 物語は小学生である森岡の娘・治子の視線で進む。これがよかったと思う。子供目線だから、大人の機微はスルーされてしまう。網膜はく離でボクサーを引退した栄治は定職にも就かず妻に養ってもらい、とうとうその妻も愛想をつかして出て行く。治子にとって栄治は「ダメなオヤジ」で、栄治の新しい愛人である裕子(広末涼子)も単なるビッチ。しかし映画を見ている側には、大人達の抱える事情とか如何ともし難い悲しみがわかる。そして治子も成長するにつれ、段々とそれを汲み取ることが出来るようになる。治子の視点と観客の視点が一致していくのだ。
 身内の話だから勿体無くて割愛できなかったのか、少々エピソードを詰め込みすぎかつ詰めが甘い感はある。武田真治が中学生から晩年(50代か?)の栄治を演じるというのも、特に晩年の姿が少々厳しかったし、広末に関しても同様。映画内時間が長年にわたる場合のキャスティングってほんと難しいな・・・。武田も広末も実年齢より若く見えるタイプなだけになおさらだ。しかしそれも大目に見てしまおうと思える好作。フラフラしているがボクシングと家族への愛という軸はブレていない栄治のキャラクターの魅力と、それを演じた武田の好演によるところが大きいと思う。武田はしっかり体を作っていて動きもシャープ。ちょっと見ほれました。ボクシングの試合シーンはもちろん、中学生の栄治が地元の不良と大喧嘩する時の立ち回りがかっこよくて、ちょっとしたアクション映画のようだった。武田の、2枚目は2枚目だが、ちょっとファニーな感じがするところも役柄に合っていたと思う。共演の広末もかなりいい線いっていて、この人演技できる人だったんだなと認識を新たにした。ただ、この人ルックスが平成なのよね・・・。もうちょっと昭和を引きずった感じのする顔の人の方がよかったなぁ。
 あと、撮影がかなり良い感じ(カメラマンの釘宮慎治は『ベルナのしっぽ』や『無花果の顔』を手がけた人だそうだが、どちらも私未見なんでなんともいえませんが)。色合いがビビットなのは監督の意向なのだろうが、ちょっと懐かしい感じのするかわいい絵になっている。ちなみにオリンピックの準決勝映像は、当時のTV中継をそのまま再現しているそうだ。

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