3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『主人公は僕だった』

 国税局職員のハロルド(ウィル・フェレル)は同じような毎日を繰り返す平凡な男。しかしある朝彼は、自分の行動を逐一読み上げる女性の声を聞く。その声は彼はもうすぐ死ぬと告げるのだ!どうやら彼は、何かの小説の主人公になってしまったらしい。運命を変えるべく奔走するハロルドだが。
 この手の余命タイムリミットものというと、ダメ人間だった主人公がやりなおそうとするというパターンになりそうだが、本作は主人公が至ってちゃんとした人間だという所が面白い。いい仕事(イメージは悪いかもしれないけど)に就いているし、きちんと仕事をこなして、自分の家も持っている。全然ダメじゃない。むしろ、ちゃんとしすぎていてルーティンから外れられないのだ。外れ方がわからないと言った方がいいかもしれない。とはいっても自分の命がかかっているから、ハロルドはあれこれやってみるのだが、やることが奇天烈なことではなく、やっぱりちゃんとしているのが面白いし、そこがいいなぁと思った。
 彼がやってみるのは、ギターを買う、友達とご飯を食べる、気になる女性と話をしてみるというちょっとしたことだ。しかし、そのちょっとしたことをやってみるだけで日常が輝き始める。月並みな主張ではあるのだが、ウィル・フェレルが大真面目な顔で演じると、これがやたらと説得力がある。私は今まで、フェレルをいまいち好きではなかったのだが、本作の彼はとてもよかった(セリフに関しては、字幕もよかったんだと思う)。話し方の丁寧な人というのが、ちょっと新鮮だった。ギター弾くところとか案外キュート。
 残念だったのは、作家(エマ・トンプソン)側のエピソードとの絡みが不消化だったこと。その解決方法は、作家としてのプライドとは相容れないんじゃないかしらと引っかかった。もうひとひねりほしかったなぁ。ハロルドが悟りきってしまうというのも唐突だったし。ハロルドと作家とが対面してからの展開が、少々バタバタしていたように思う。監督は『チョコレート』『ネバーランド』のマーク・フォスター。なかなか良心的な作品でした。
 

『文字移植』

多和田葉子著
 現代版ゲオルク伝説とでも言うべき小説を翻訳する為、一人バナナ農園のある島に滞在している「わたし」。しかし翻訳は遅々として進まない。翻訳すればするほど原文の本質からとおのいていくのではないかという怖れを抱きつつ、原文に忠実であろうとする翻訳のジレンマ。言語の齟齬が身体、そして日常生活に対する齟齬へと波及していく。言葉のずれの気持ち悪さがどんどん拡張されていく感じで、不穏だ。翻訳している物語と「わたし」が主人公である物語とは何もリンクしないという所が面白い。こういう設定だと、うっかり2つの物語を関連付けたくなりそうだが、そうはしないところに「そんなに都合のいいものじゃないよ」とでもいうような、翻訳という行為に対する著者の誠実さを感じた。

『春になったら苺を摘みに』

梨木香歩著
 著者がイギリスに留学していた頃のエピソードを綴ったエッセイ集。著者の下宿先の主人・ウエスト夫人が本当にこんな人がいるんだーという位のいい人で、著者にも大きな影響を与えているのだと思う。著者の小説には一種のかたくなさ、潔癖な所があってちょっと苦手でもあるのだが、エッセイだともう少し柔らかい感じ。ただ、やはりすごくまじめだし、生き難いタイプの人なのだと思う。世界に向き合う態度が真摯すぎて、少々息が詰まりそうにもなる。もっとユルく生きてもいいのに・・・でもそうしようと思ってもできない人なんだろうなぁ。

『バベル』

 モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本を舞台にした群像劇。監督は『アモーレス・ペロス』『21g』のアレサンダオロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。出演はブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子。
 監督のこれまでの作品と同様、それぞれの舞台の時系列はバラバラにされている。ただ、この部分があそこと繋がるんだなというパズル的な面白さを期待すると、肩透かしをくらうだろう。精緻な整合性の高い物語は目指していないように思う。むしろ、各エピソードが(ある要素によって繋がってはいるものの)散漫であることにこそ、この作品の核があるのではないかと思う。世界はばらばらでどこが繋がっているのかわからず、皆孤独であるという。まあ月並みといえば月並みなのだが、その孤独さがひしひしと伝わる映画ではあった。
 題名「バベル」の意図する所は、コミュニケーションの不可能性ということよりも、ある登場人物が口にした「悪人ではないの、愚かだっただけ」という所にあるのではないかと思う。この映画の中のエピソードはどれも、端的に言うと「うかつな人がうかつなことをやって酷い目に遭う」というものだ。本当に運が悪いだけなのは、アメリカ人夫婦くらいなのでは(その子供もアレでしたが)。そしてどのエピソードも、演出の仕方によってはコメディになりそうなものだ。特にモロッコのエピソードは、当事者をおいてけぼりにしてテロだ国際問題だとどんどん話が広がっていくという、考えようによってはかなり笑えるもの(そもそも救急車だヘリコプターだ言ってないで、途中で来た警官の車を使わせてもらえばいいのにと気になってしまった)。妻を狙撃された夫のヒートアップ振りと大使館の対応の慎重さの対比もおかしいし、テロリストに攻撃されると思い込んでパニックを起こす観光客たちもおかしいし、勝手に盛り上がるマスコミもおかしい。なんで笑いの要素を入れないのか不思議なくらいなのだが、この監督、生真面目なんだろうなぁ。前作『21g』でもやたらとシリアスで重っくるしかったしなぁ。『アモーレス・ペロス』も救いのあまりない話ではあったが、疾走感があった。しかし新作が出るごとにキレが悪くなっている。心配だ。監督としてこなれるにつれて生きの良さが失われていくのはしょうがないのかもしれないが、もうちょっと軽みというか、勢いがあればいいのに。また2時間半近い上映時間はちょっと長すぎるようにも思った。確かにどのシークエンスも美しいしそれなりに見どころがあるのだが、もっと切っても良かったのでは。
 さて、助演女優賞にノミネートされ日本では散々話題になった菊地凛子だが、確かに悪くない。かなり度胸のある女優なのではないかと思った。しかし、彼女が演じたろうあの女子高生のキャラクター付けには疑問がある(というわけで菊地凛子ではなく監督の問題です)。いくら寂しくて自暴自棄になっているとは言え、10代の女の子、とりわけ日本人の女の子がああいうことをするかなぁと。「それどこのエロゲ?」と突っ込みたくなったのは私だけではあるまい。むしろ笑うわ。「本当のモンスターを見せてやる」とまで言うんだったら、もっと別のことをしそうなものだ。だって見せ損じゃないですかあれ。ただ、刑事とのシーンからは本当に寂しい感じがにじみ出ていて良かった。その後にひとオチあるのだが、それがまた彼女の寂しさを浮き彫りにしていたと思う。

『あしたの私のつくり方』

 寿梨(成海璃子)と日南子(かなこ・前田敦子)は小学校の同級生だった。日南子は人気者だったが、ふとしたことでいじめられる側になってしまう。特に目立たない生徒だった寿梨は卒業式の日に日南子と交わした会話が忘れられなかったが、それっきり彼女と話す機会はなかった。高校生になった寿梨は友人から日南子が遠方へ転居したと聞き、彼女の携帯アドレスを聞き出し、別人を装ってメールを送る。
 寿梨は日南子に「ヒナとコトリの物語」という小説を携帯で送る。転校生としてやりなおそうとしていた日南子は、そのお話のヒロイン「ヒナ」を真似てクラスの人気者のポジションを得ていく。寿梨は日南子を人気者にすべく様々なルールを伝授していくし、それはそこそこ有効で彼氏まで出来てしまう。一方寿梨は、学校では目立ちすぎず大人しすぎずというほどほどのポジションをキープし、母親の前ではお母さんと2人で(両親は離婚している)頑張る娘、月に1度会う父親の前ではいつも元気な娘を演じている。素の自分を出せる場所がないのだ、2人とも素の自分なんてつまらない、別の自分になりたいと思っており、寿梨が作る物語がそのよりどころとなっている。
 人気者の自分を演じるのは楽しい。でもその演技をいつまでも続けられるかというと、それはどうなんだろう。日南子は「ルール通りに演じても、日南子は日南子のままだ」と自分の限界に気付いてしまう。一方寿梨も、「ヒナとコトリの物語」を作ったのは日南子の為ではなく自分が日常から逃げたかったからで、結局日南子を巻き込んでしまったのだと自己嫌悪に陥る。で、最後に日南子が起こすリアクションがいい。これは、実行するのは結構勇気がいると思うのだが。
 前作『あおげば尊し』を見た時にも思ったのだが、市川準監督は学校という場の描き方が上手い。賑やかなのだが閉塞感もある感じとか、生徒同士で同調することを強要している感じとか、パワーバランスのぎりぎり感とか。市川監督は多分60歳くらいだと思うのだが、そのくらいの年齢の人が、これだけ学校の雰囲気をきちんと再現できるというのは、えらいなぁと思った。多分、学校とか家庭とかに対する関心の強い人なのではないだろうか。きちんとリサーチもしているのだろう。もっとも、実際の10代の人が見たらどう思うのかはわからないが、わりと的確に今日の学校の雰囲気を掴んでいるのではないかと思う。寿梨と同級生とのメールのやりとりとか、場の空気の読み方とか、リアルに面倒くさそう。学校生活って、社会人とは別の形で四六時中気を使わなくちゃいけなくてきついなぁ。少女達の瑞々しさを良いなぁと思いながらも、小中高生には戻りたくないと思った。
 2人のヒロインはもちろんだが、彼女らの家族の描き方が、描く分量は多くないのだが上手い。そして対照的だった。寿梨の両親は、彼女が中学受験をしていた(結局落ちた)頃から喧嘩が絶えず、彼女が中学生の時に離婚する。2人とも娘のことを愛してはいるが、娘の「良い子」な振る舞いを真に受けて、内面や悩みにまでは考えが至らないようだ。彼女が抱える問題を何となく察しているのが兄なのだが、この配置が上手い。これで一人っ子だったら相当ヘビーだ。セリフは少ないが、兄の時々鋭い言動によって寿梨が多少救われているような所があったと思う(部屋にアイスクリームを持ってくる所とか、受験に失敗した寿梨にかける言葉とか、結構いいです)。ところで寿梨の両親を演じるのが石原義純と石原真理子なのだが、この人選に唸った。嫌な両親だな~(笑)。特に離婚後、彼氏が出来てからの石原真理子の服装ががらりと変わるのが生々しい。部屋のインテリアも柄物×柄物で、この母親の性格が窺えるところが上手い。一方、日南子の両親はあまり出てこない(父親なんて殆ど出てこない)のだが、数少ない母親の言動からは、娘が抱える辛さに対する理解と、辛さもひっくるめて娘を許容している様子が見て取れる。寿梨の両親は娘の大人な部分に甘えすぎなように思う。まあ大人気ない両親だし(笑)。
 所で、本作は若い層、実際の10代に向けて作られたのかなという印象を受けた。演出は極力わかりやすくしてあり、ちょっと気恥ずかしくなるようなストレートさが見られる。終盤の携帯電話での会話の演出など、上手く機能しているかというとちょっと微妙だが、真っ向勝負な感じはする。また、少女マンガ的な要素が結構あって面白かった。日南子の彼(かわいい)が川辺で取った行動はモロに少女マンガで、市川監督やるなぁと思いました。ベテラン監督だったら、「これはちょっとやりすぎだよな・・・」と赤面しそうなものだが、あえてやる。あと、寿梨が入部している文芸部の顧問教師がイケメンというところも少女マンガのお約束ぽい。客層絞り込んでいる様子が見て取れます。ちなみにドコモ全面協力なので、携帯電話出まくり。もちろんドコモ機種のみ。

『血と肉を分けた者』

ジョン・ハーヴェイ著、日暮雅通訳
 元警部エルダーが未解決の少女失踪事件を追う。犯人は仮釈放された青年なのか?サスペンスとしてはそんなに個性は強くないのだが、離婚したエルダーの娘に対する思いにぐっとくるものがあった。エルダーは娘が離婚を自分のせいだと思っているのではないかと心配し、パパがお前を愛しているのは知っているだろうと言うが、娘は「わかってる。でも、それはどうでもいいことじゃない?」「パパは、ママをもっと愛さなきゃいけなかったんだよ」と言う。きついわ。エルダーは元妻を愛していたことは愛していた(今も愛していないわけではない)が、自分自身や自分の仕事より優先させることができていたか?と葛藤する。しかし自分より、また自分の本能のようになっている仕事よりも常に家族を優先させなくてはいけないというのは、酷なことでもあると思う。家族をやるというのは、その酷なことに慣れていくということでもあるのだろうか。

『純にいちゃんの赤ちゃん』

うみのしほ著
 2つの全く同じストーリーがあったとして、どちらが面白いかと言うと、たとえば料理を作る過程とかその味とか、掃除の手順とかがきちんと書けている方だ。それがごく普通の日常を舞台にしたものであれ、ファンタジーであれ時代ものであれ、生活の姿に手応えがあると物語がぐっと立ち上がってくるように思う。本作も、普通の人たちがきちんと生活している手触りがある所がいい。小学4年生の女の子がこんなにしっかりしているかなぁとは思ったが、子供が家庭の欠けた部分を補おうと無理してしまうことはやっぱりあるのだろうし、その姿はいじらしい。主人公の兄とその恋人の選択については、ちょっと難しいところだと思うが、彼らを取り巻く人たちの存在にほっとする。こういうご近所の皆さんが、今必要なんじゃないかと。

『スパイダーマン3』

 町の人気者スパイダーマンことピーター・パーカー(トビー・マグワイア)。スパイダーマンの活躍で犯罪は減り、恋人MJ(キルスティン・ダンスト)との仲も順調だ。しかし新たな敵サンドマンの出現に加え、奇妙な生物に寄生されブラックスパイダーマンとなってしまう。MJとの関係にも影が。どうするピーター?!
 待ちに待ったシリーズ完結編だが、何かこれ延々と続けられそうな雰囲気になってきたな・・・。「続けられそう」というのは、主人公であるピーターが、まだ成長中の未完成なヒーローだからだ。1作目からピーターはちょっと情けない、冴えないキャラクターであることを強調され続けている。スパイダーマンとしては格好良く活躍できても、ピーター・パーカーとしてはぱっとしない。今作でも初っ端から、その冴えなさっぷりが強調されている。本人は「スパイダーマンは大人気!もうサエない僕じゃないぞ!」と思っているのでそのギャップがおかしい。授業中、古典的なからかわれ方してるしなぁ(しかしこの授業風景を見るまで、ピーターが実は頭の良い子だということを忘れていました)。このシリーズ、1作目から「スパイダーマンはかっこいいが、ピーター・パーカーはショボい」という点を徹底しているのが大変面興味深い。サム・ライミ監督は出来上がった(最初からかっこいい)ヒーローには興味ないのかしら。それとも青春時代に対する鬱屈した思いでも抱えているのかしら。
 今回、ピーターは寄生生物に取り付かれて悪の道に走るのだが、悪の道に走ってもショボい奴はショボい。道行く女の子に色目を使えば「何このキモメン」という目で見られるし、ファッショナブルに変身!と入ったブティックはちゃっかりセール中(しかも服変わってもイケてない)、挙句の果てに元カノMJが働く店にに新しい彼女を連れて行くという嫌がらせ。悪と欲望のスケールが哀しいほど小さい。庶民は所詮庶民なんだよ!MJがウェイトレス兼歌手のバイトをしているバーで、ピーターが彼女の面目を潰す為にピアノとダンスを披露するのだが、これが上手いのにかっこ悪いんですね。様になっていない。特にダンスに関しては、これほどダンスの似合わないハリウッドスターはいないのではないかというくらい似合わない。もう見ていていたたまれないもん。この似合わなさが素ではなく演技だとしたら、トビー・マグワイアはものすごい演技派だと思う。スターとしてはマイナスイマージになる演技ばかりですが。
 ショボい奴は何をやってもショボいというギャグではあるのだろうが、2作目とは逆の方向で、自分を見失うなという案外真面目なメッセージがこめられているのかもしれない。今回の敵であるサンドマンはある一点においては自分を見失わなかった男、そしてもう1人の強敵は、自分を見失い破滅してしまった男とも言えるだろう。
 とは言ったものの、2作目に比べると人間ドラマ部分は少々弱い。敵を増やすことで、テーマが拡散してしまったように思う。ブラックスパイダーマンだけでよかったのになー。しかしサンドマン誕生のエピソードは結構泣けるので、これを入れたかった気持ちもわかる。しかしそれにグリーンゴブリンの逆襲まで入れてしまうと、どうにもぎゅうぎゅう詰めな感が。もうねー、ゴブリンだけでいいくらいですよ!ていうかむしろもっとゴブリンを!もったいない!あと、MJのキャラクターが最後までぱっとしなかったのも残念。冴えない男女のラブストーリーだと思えばいいのでしょうか。しかしMJ、2の冒頭からの転落振りが思い切り良すぎる。だんだん不憫になってきた。
 最大の見所であるスパイダーマンの空中アクションシーンは、前作を上回る出来栄え。実写ではまず出来ない、目が回りそうな立ち回りを堪能した。冒頭、グリーンゴブリンとのチェイスなんてすごいですよ。やりたかったことに技術が追いついた!的な作る側の喜びが感じられる。ショットがだんだんマンガっぽく、ケレン味が強くなってきているのが面白い。アクションに関しては、アニメと同じ感覚(実際殆どCGだろうし)で作っている感じがする。
 

『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』

沢木耕太郎著
 沢木耕太郎でなければ許されない、こっ恥ずかしい題名。そのキザさも嬉しい、映画にまつわるエッセイ集だ。自分が見た映画がかなり多いのでちょっとうれしい。映画にしても本にしても、自分が見た(読んだ)時よりも、後になってその作品に関する誰かの文章(もちろん上手いもの)を読んだ時の方が、心が揺さぶられるのは何故だろう。映画本編を見た時は泣かなかったけど、その映画についてのエッセイで泣きそうになったりする。作品を反芻しているようなものなのだろう。本作を読んでいると、その映画を見た時の感情が鮮やかに再生され、また気付かなかった点にもああそういう見方があったのかと納得させられた。ところで本著の中に、本、特に小説を読んでも心が弾まなくなってきている、なるほどねという以上の感想が生まれにくくなっている、しかし映画にはまだ心を深く動かされることがある、ということが書かれている。これ、ものすごくよくわかる。もう小説読んでも強い感銘を受けたり、その小説について語りたくなることはあまりない。でも映画にはまだ何かがあるような気がするのだ。少なくとも映画の方が、意志的に見ることができる。

『目白雑記 ひびのあれこれ』

金井美恵子著
 悪口の上手な人が悪口を言っているのを眺めるのは楽しい。しかしお近づきになるのはどうかしら・・・。なまじお知り合いになってしまうと安眠できなさそうだなぁ。著者はおそらく文壇(というものに含めてしまっては怒られるかしら)トップクラスの悪口上手ではないかと思うが、悪口の言い方が上手なので、自分の意見とは違っても面白がって読めてしまう。個人名(特に文学関係)ばんばん出てくるが、厭味を言っているのにあんまり厭な感じではない。厭味が的を得ているからというのもあるが、腹くくっている感があるからかも。ちなみに文庫版は解説がつまらないのが難点。当たり障りのない線にするより、いっそ本作でいじられまくっている島田雅彦に頼んじゃえばよかったじゃないですか。

『失われた夜の夜』

ジャン=クロード・イゾ著、高橋啓訳
 マルセイユ中央警察の刑事ファビオを主人公とした3部作の1作目(2,3作目は未訳)。フランスのハードボイルドには独特の雰囲気がある。本作は小説としてはちょっとごつごつとした手触りで、読みやすいとは言えないのだが、20年前に袂を分かった幼馴染2人の死を追うファビオの姿には任侠映画の主人公のような趣がある。既に失われたものに対する律儀さ、ロマンチシズムのようなものにぐっとくる。そして移民コロニーであるマルセイユでの民族問題、人種差別の深刻さが深い陰影を与えている。続編も読みたい。

『パラダイス・ナウ』

 なんとも皮肉なタイトル。イスラエル占領地、ヨルダン川西岸地区の町ナブルス。自動車修理工場で働く2人の青年が自爆攻撃へ向かうまでの48時間を描く。監督・脚本はハニ・アブ・アサド。
 彼らは世間的にはテロリストとして扱われるのだろうが、常に過激なことをしているわけではなく、ごくごく普通に生活をしている。ごく普通に見える青年が何故テロリズムに走ったのかと誰もが疑問に思うだろうが、この映画はその疑問に何とか答え、またテロリストに対するステロタイプを覆そうとしていると思う。テロリストとなる青年たちは、別に非情ではなく、そう強くもなく、確固とした思想もない(信仰心は強いかもしれないが、映画の中では取り立てては触れられていない)、ただ、現状に対する苛立ちと怒りがある。選択肢の一つとしてのテロリズムではなく、他にやれることがないからテロを、という何だかもう出口なし的状態に暗鬱とする。青年がイスラエルを指して「被害者であることを確信している(が自分たちにとっては加害者)」、それを覆す為には攻撃するしかないと言う言葉が印象に残った。
 48時間を描くタッチはシリアスではあるが淡々としており、時にユーモアさえにじむ。犯行声明と遺言をビデオ撮影しているシーンで、気合を入れてスピーチしたのにビデオが回っていなくて憮然とする、しかも撮影の間他のメンバーはサンドイッチか何かをもぐもぐ食べているというシーンが妙におかしい。彼らがやろうとしていることは非日常的なことなのだが、それがごく日常的なものに囲まれて進行しているという奇妙さ。
 テロリストを1人の人間として描いている(その点に関して映画を見た人からの抗議も受けたらしいが)が、決してテロリズムを擁護する作品ではない。非常に客観的であり、イスラエルに対しての批評であると同時に、パレスチナに対しても批評的な態度であると思う。何らかの解決がもたらされるわけでもない。事態はもうここまでどん詰まりになっているんですよという態度にも見える。主人公サイードと親しくなる若い女性が登場する。彼女はフランス生まれでいわゆるリベラル派であり、また女性である(主人公とは異なる)ことから、一種の外部からの目になっている。が、彼女の自爆をやめろ、他に何か方法があるはずだという説得は少なくともこの映画の中では殆ど説得力を持たない。ただ、ある人物に対してのみ有効だったという所にわずかな救いがある。

『リンガー!替え玉★選手権』

実際には替え玉ではないんですが。お人よしの会社員スティーブ(ジョニー・ノックスヴィル)は会社の用務員スタヴィ(ルイス・アヴァロス)をクビにしろと指示されたものの、不法労働者で子供が5人もいる彼から職を奪えず、やむなく自宅の芝刈りに雇う。しかし芝刈り機の事故で彼の指が切断されてしまった!指をくっつける手術には大金が必要だ。そんな折、借金にあえぐスティーブの叔父ゲイリー(ブライアン・コックス)が、知的障害者のフリをしてスペシャル・オリンピックに出場し、金儲けしようという話を持ちかけてきた。しぶしぶ引き受けたスティーブだが、ボランティアスッフの美女・リン(キャサリン・ハイグル)に一目ぼれしてしまう。監督はバリー・W・ブラウスタイン、製作はボビー&ピーター・ファレリー兄弟だ。
 知的障害者をネタにしたコメディというときわどいのではないか、不謹慎なのではないかと思われるかもしれないが、これはいいコメディですよ!もっと毒を吐いているかなと思ったのだが、そうでもなかった。今回はプロデューサーに徹しているファレリー兄弟のバランス感覚の良さを感じた。多少きわどいギャグはあるのだが、不快にならないギリギリのラインを守っている(キワどさで言えば、ファレリー兄弟の前作『ふたりにクギづけ!』の方が高かった気がする)。
 スティーブと、彼を取り巻くアスリート達に対する目線がフラットである所に好感が持てる。スティーブは人はいいけど情けない男だ。しかし彼の仲間となるアスリート達もまた、情けなかったりこすっからかったり欲望を持っていたりする(特にスペシャルオリンピックの優勝者ジミーは鼻持ちならない奴で、他の選手から嫌われている)。どちらも人間である以上、善良な所も嫌な所もある。知的障害者を全面的に善良である、純粋であるように描く映画よりは、よっぽどヒューマニズムに溢れていると思う。ちょっと語弊はあるが、健常者も障害者も同じように笑いのネタにするというところがフェアなのだ。
 健常者が障害者を装うという設定により、相手が障害者であるか健常者であるかによって意図せずとも態度が変わってしまう、という所を上手くコメディ化していたと思う。それが最も現れているのが、スティーブと彼が片思いしているリンとのやりとりだ。リンはスティーブが障害者だと思っているからオープンに接してくれているし、スティーブは素面の状態だったら多分リンに声もかけることができないだろう(そして声をかけたとしても相手にされる可能性は低い)。スティーブはこれを利用してリンに近づき、リンの彼氏(浮気中)を遠ざけようとする(映画館の件は笑った)。障害者を演じているからこそ、ストレートに真摯に接することが出来る、しかし本来の自分だったら...というジレンマ。さてスティーブはどうするのか、というのがクライマックスになっているが、案外直球できたなという感じ。
 お客さんの入りは上々、反応も上々だったが、客が最も笑ったのが神父がらみのギャグ。ある意味、障害者がらみのギャグより悪意がありました。

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『こわれゆく世界の中で』

 建築家のウィル(ジュード・ロウ)は長年のパートナーであるリヴ(ロビン・ライト・ペン)とその娘ビーと暮らしているが、3人の関係はぎくしゃくしていた。ある日ウィルと友人サンディの合同事務所に窃盗団が入り、コンピュータ等が盗まれてしまう。しかも数日後にまた窃盗が入った。夜中、窃盗犯を捕まえようと事務所前で張り込んでいたウィルは、オフィスに進入しようとしていた少年を追いかけ、家を突き止める。少年の母親は自宅で仕立物をしているらしい。後日ウィルは、客を装い少年の母・アミラ(ジュリエット・ビノシュ)と親しくなる。
 アンソニー・ミンゲラ監督の新作映画となる。ジュード・ロウは監督の前作『コールドマウンテン』からの続投だ。しかし『コールド~』では一途な男役だったのに、本作では2人の女性の間でふらつく男役と対照的だ。ウィルはリヴとの付き合いは長いものの、結婚はしていない。ビーは情緒不安定でリヴはビーに付きっ切り。ウィルはそれにいらだっているし、疎外感を感じているのだ。そんな状態から逃避したくて、彼はアミラとの情事に溺れていく。一方から逃げ出して後先考えずにもう一方へ、というフラフラ加減だ。悪い人ではないが、あんまり頭よさそうではない(笑)し、自分勝手でもある。
 しかしこの映画、女性2人も結構したたかでエゴイストだ。結局3人が3人とも、寂しいんだ構ってくれ、自分の(家族の)心配をしてくれと主張しているだけにも見える。相手に対して何がベストか、自分に何が出来るかという所は、あまり念頭になさそうだ。普通こんな男女の三角関係だったら、ドロドロな雰囲気の嫌な話になりそうだが(冷静に考えると実際嫌な話ではある)、この映画は妙にさっぱりしている。これもミンゲラ・マジックなんでしょうか。最後も無理やりハッピーエンドに落とし込んだ感があるのだが、その無理矢理感についてとやかく言う気にならない。
 ぐだぐだな男女関係なのに不思議と希望が見出せるのは、本作のベースに妙にポジティブなものがあるからではないかと思う。娼婦と車の顛末とか、少年の処遇等、人間の善性に対する信頼があるのだ。これは一種のファンタジーでもあるのだろうけど。
 映画としては少々退屈ではあったが、音楽(ガブリエル・ヤレド&アンダーワールド)は良かった。女優2人があまり魅力的でなかったのがひっかかる。あの2人の間でフラフラってのは、あまり説得力ないなぁ・・・。ロビン・ライト・ペンはともかく、ジュリエット・ビノシュってどうかなぁ・・・。

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