3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『フローズン・タイム』

 美大生のベン(ショーン・ビガースタッフ)は恋人に振られたショックで不眠症に。時間をもてあました彼は、スーパーマーケットでの深夜勤務を始めるが、ふとしたことで時間を停止させる能力を身に付ける。
 失恋相手を忘れられず不眠症になるところとか、時間を留めておいてやることがスーパーの女性客を脱がせてヌードデッサンすることだというところとか、それどこの男子中学生の妄想?!と突っ込みたくなるに違いないと予告編及び事前情報を見聞きした時点では思っていた。実際、うっかりすると笑ってしまいそうにはなるものの、予想していたほどイタくはなく、意外にもチャーミング。多分に男子の性的なファンタジーではあるものの、さほど生臭くなく、楽しげな範囲に留まっていた。女性から見てあまりエロい女性のヌードがなかったのも一因か。監督のショーン・エリスは元々ファッションフォトグラファーとして活躍していたそうで、絵のひとつひとつはさすがにきれい。下世話になりそうでならないという匙加減はファッション関係の仕事で鍛えられたのか。
 物語は本当に男子の妄想的なのだが、ひとつひとつのエピソードやシークエンスが楽しげで、結構幸せな気持ちになれた。自分大好きなスーパーの店長を始め、男性キャラクターが全員小中学生男子っぽいアホさを備えているのに加え、舞台が深夜の大型スーパーといういかにも遊び甲斐がありそうな場所なので、小ネタにニマニマしてしまった。通路でレースって、一度やってみたいと思いませんか。
 さて、ベンは時間を止められるが、肝心な時に止められなかったり、止められたとしても問題を解決できるわけではない。モテないわけではないがヘタレで要領が悪い。激怒する彼女を前に状況を説明しようとするも、全く口を挟めず段々「もういいや・・・」という顔になっていく姿はリアルにヘタレすぎる。そこで退いたらダメだって!ファンタジックなストーリーだが、時々ああこういうことってあるなという手ごたえがあって、はっとする。ベンを振る彼女と新たに好きになるバイト仲間の女の子、どちらも美人と言い切るには微妙(笑)な顔をしているのだが、ベン視線でぶわっと可愛く見える瞬間があるんですね。おおこれは恋だと(笑)。この「急に可愛く見えちゃう瞬間」の演出がなかなかよかった。それまではむしろぱっとしない(スーパーの制服がまたダサい)のだが。ベンのサンドイッチを一口もらった時に、彼女の顔にピクルスがついてしまう。なかなかとれないのでベンが取ってあげるのだが、その間に「あれ、かわいくね?」と思うわけです。うーん甘酸っぱいなぁ。
 ところで、壁いっぱいに自分の肖像が展示されているって、女の子は危機感感じないんですかね。好きな相手が描いたならまあOKかもしれないけど、一歩間違ったらストーカーだよなぁ。好きな相手であっても、「いつの間にこれを?!」とひいてしまいそうだが。

『ヒトラーの贋札』

 第二次世界大戦中、ナチスによって大量の贋ポンド札が作られた。イギリス経済の混乱を目的とした「ベルンハイト作戦」と称されたこの計画に従事させられていたのは、強制収容所のユダヤ人達だった。その中心人物が贋札作りの天才・サリー(カール・マルコヴィクス)。実話を元にステファン・ルツォヴィッキーが監督・脚本を手がけた、スリリングな好作だった。
 ルツォヴィッキー監督の映画は、日本では本作が初公開(DVD等は出てるみたい)らしい。しかしなんだか手堅い。物語はテンポよく組み立てがしっかりしているので、極限状況での贋札作りというネタと相まってぐいぐい引っ張られる。冒頭、終盤に戦争直後のエピソードを持ってくるのも、最初は蛇足なんじゃないかと思ったんだが、映画が終わってみると主人公の内面の変化を示すいいエピソードになっていた。全般的に運びがスムーズという印象を受けた。
 登場人物のキャラクターの作り方とその見せ方が上手い。特に主人公であるサリーの造形が(実話が元だから本当にそういう人だったのかもしれないけど)面白い。いわゆるヒーロー(ないしはダークヒーロー)ではなく、基本実利主義の人でそもそも犯罪者、こすっからいことは山ほどやるが非人間的ではないという、重層的なキャラクターであることが段々わかってくるのだ。重層的なキャラクターであるというのはナチスの上官も同様で、収容者に対する飴と鞭を使い分ける冷酷な面と、家族に対する愛情、ごく普通の夫・父親としての面が両立している。そしてドイツ軍の雲行きが怪しくなると、サリーにあっさり偽造パスポート造りを頼んで逃亡を企てたりする。人間観察が確かな作品だと感じた。
 サリーはナチスに贋札作りを強要されるわけだが、周囲に「おべっか使い」「ナチスの勝利に協力する気か」と言われても自分、ひいては囚人仲間の命を繋ぎとめる為、ぎりぎりのところで立ち回る。その姿は、「とにかく生き残る」というタフな意思を感じさせるのだ。ルックスは全くタフそうではないのだが。彼が「仲間を裏切ることだけは絶対にするな」と言うのも、特定の仲間(例えば反骨精神溢れる印刷技師)を守る為、また道義的な問題からというよりも、極限状況にある集団の中で、パワーバランスがいかに重要か、一方方向へ力が流れることの怖さを熟知しているからと見た方がいいかもしれない。現に印刷技師が暴行を受けるのはしょうがないとしているわけだし。そんな人が芸術を愛すると言う共通項ゆえ、ちょっと頼りない青年をかばおうとしたりするからぐっとくるのだが。割り切れるところと割り切れないところがあるのがいかにも人間くさい。
 そんなキャラクターであるだけに、終盤、カジノでのサリーの振る舞いは痛々しい。あれだけこの世への執着を見せていた人がこんな行動をするというのは、彼の中の何か、金や女性の持つ意味が決定的に変わってしまったということなのだろう。その傷の深さにはっとする。彼のこの先の人生はどうなったんだろう。

『QED 諏訪の神霊』

高田崇史著
 相変わらずの歴史新解釈+現代の殺人事件解決シリーズ。もはやすごく面白いと思っているわけではないのだが読めばそれなりに面白いのでつい購入し続けてしまい、止め時を見失った。髙田先生、これいつまで続くんですか・・・。カードが出揃ってそろそろクライマックスな雰囲気はあるのですが。もっとも、今作は最近のQEDの中では、終盤の視点逆転が効いていて歴史解釈は一番面白かったかなと思った。現代の殺人事件解決は、相変わらずとってつけた感が否めませんがまあいい。ところでここ数作で作品内の時代設定が明確になった(本作は1998年)のだが、シリーズ当初との矛盾は生じていないのかちょっと心配。最初の頃はあまり具体的な情報ってなかったように記憶しているが。

『アイルランドの哀しき湖』

エリン・ハート著、宇丹貴代美訳
 解剖学者ノーラと考古学者コーマックを主人公とした、「アイルランドの柩」に続くミステリシリーズ2作目。前作はどことなく風変わりな作風だなーと思ったけど、本作もやっぱり風変わりだった。今回も前作同様、アイルランドの泥炭湿地から発掘された鉄器時代の遺体と、現代の遺体とがリンクしていく。前作ほど神秘主義っぽくはないのだが、登場人物がどいつもこいつも情緒不安定すぎます。考古学者とか解剖学者とかってもっと冷静なイメージがあるのだが・・・。特にアメリカ人という設定のノーラについては、こんなに不安定でアメリカの学会でやっていけるのかしら?と心配になってしまう(アメリカに対する妙な先入観が・・・すまんアメリカ)。ミステリとしては微妙だが、アイルランドの風土の雰囲気は楽しめるし、現地に行ってみたくなる作品ではある。

『動物、動物たち』

 1965年に公開中止されていた、パリ国立自然史博物館。4版世紀ぶりに再開することになり、大々的な改装が行われた。本作は'91~'94にかけて、博物館内の「進化大ギャラリー」における剥製の修復・展示過程を追ったドキュメンタリー。
 冒頭、象やらシマウマやら水牛やら(の剥製)がトラックに乗せられ田舎道をとことこ進むという、どことなくユーモラスなシークエンスが提示される。ナレーションや解説は一切なく、音楽も控え目。ごくごく静かな映画でうっかりすると眠ってしまいそうになる。が、冒頭のシーンのように、何故か全般的にユーモラスな雰囲気が持続する。
 このユーモラスさは、展示されるのが偽者の動物である、というところから生じているのかしら。私は剥製の展示は決して嫌いではない(というか子供の頃はかなり好きだった)のだが、大人が真面目な顔をして毛皮に詰め物をしてちくちくお腹を縫い合わせて、ぺしぺし叩いて形を整えて・・・という姿、あるいは剥製の保管倉庫で「あれはあるの?これは使える?こっちは?」と展示品選びをしている姿、動かない象やらシマウマやらをえっちらおっちら運んでいる姿を見ると、なんとなく人形遊びのようでおかしみを感じる。もちろんスタッフは大真面目にやっている(楽しそうだけど)のだが。
 ともあれ、剥製作りのほかにも、剥製ってこういうふうに保管しているのかーとか、展示の仕方についてのディスカッションとか、ガラスケースの素材選びとか、博物館での仕事の一面を垣間見ることが出来て興味深かった。『パリ、ルーブル美術館の秘密』と同様、一種のお仕事ドキュメンタリーとして見られる。博物館に行きたくなった。

『子猫の涙』

 メキシコオリンピックでボクシング・バンダム級銅メダリストとなった森岡栄治。この実在した人物を武田慎治が演じ、森岡の実の甥である森岡利行が監督、実話を元に映画化した。
 物語は小学生である森岡の娘・治子の視線で進む。これがよかったと思う。子供目線だから、大人の機微はスルーされてしまう。網膜はく離でボクサーを引退した栄治は定職にも就かず妻に養ってもらい、とうとうその妻も愛想をつかして出て行く。治子にとって栄治は「ダメなオヤジ」で、栄治の新しい愛人である裕子(広末涼子)も単なるビッチ。しかし映画を見ている側には、大人達の抱える事情とか如何ともし難い悲しみがわかる。そして治子も成長するにつれ、段々とそれを汲み取ることが出来るようになる。治子の視点と観客の視点が一致していくのだ。
 身内の話だから勿体無くて割愛できなかったのか、少々エピソードを詰め込みすぎかつ詰めが甘い感はある。武田真治が中学生から晩年(50代か?)の栄治を演じるというのも、特に晩年の姿が少々厳しかったし、広末に関しても同様。映画内時間が長年にわたる場合のキャスティングってほんと難しいな・・・。武田も広末も実年齢より若く見えるタイプなだけになおさらだ。しかしそれも大目に見てしまおうと思える好作。フラフラしているがボクシングと家族への愛という軸はブレていない栄治のキャラクターの魅力と、それを演じた武田の好演によるところが大きいと思う。武田はしっかり体を作っていて動きもシャープ。ちょっと見ほれました。ボクシングの試合シーンはもちろん、中学生の栄治が地元の不良と大喧嘩する時の立ち回りがかっこよくて、ちょっとしたアクション映画のようだった。武田の、2枚目は2枚目だが、ちょっとファニーな感じがするところも役柄に合っていたと思う。共演の広末もかなりいい線いっていて、この人演技できる人だったんだなと認識を新たにした。ただ、この人ルックスが平成なのよね・・・。もうちょっと昭和を引きずった感じのする顔の人の方がよかったなぁ。
 あと、撮影がかなり良い感じ(カメラマンの釘宮慎治は『ベルナのしっぽ』や『無花果の顔』を手がけた人だそうだが、どちらも私未見なんでなんともいえませんが)。色合いがビビットなのは監督の意向なのだろうが、ちょっと懐かしい感じのするかわいい絵になっている。ちなみにオリンピックの準決勝映像は、当時のTV中継をそのまま再現しているそうだ。

『テラビシアにかける橋』

 4人の姉妹に囲まれた11歳の少年ジェス。家庭は貧しく、学校でも苛められっ子だ。そんな彼のとりえは足が速いことと絵が上手いこと。しかし転校生の少女に徒競争で追い抜かれてしまう。その少女・レスリーは、ジェスの隣の家に越してきたのだった。学校に馴染めない2人は、家の近くの森で魔法の王国を想像する。
 うっかりするとファンタジー映画のカテゴリーに入れられそうな雰囲気だが、いわゆるファンタジー映画(LOTRとかナルニアとか)とはちょっと違う。この映画に現れるファンタジーの世界はレスリーとジェスの目を通したものであって、あくまで現実世界と地続きだ。映像面にしても、CGでクリーチャーを登場させはするが、ごく控え目。特に最初のうち、ジェスがまだレスリーの想像の世界に乗り切れていないうちは、ちらっと見える程度に留まっている。
 しかしそこいらのファンタジー映画より、ファンタジーの持つ力を描くという点では優れていたのではないかなと思う。私は、ファンタジーは現実を支える、現実にフィードバックされるべきものであると考えているのだが、その点ではこの作品には好感を持った。2人が作り上げるファンタジーが、現実の生活を耐える為の慰めというだけではなく、ファンタジーの中での体験が現実世界にも影響を与える(いじめっこへの対応のように)という所は、正しく子供の成長物語だ。しかしファンタジーの力は大きい故に、人を引き込みすぎることもある。2人を襲った悲劇は「あちら側」へ足を踏み入れすぎたから起きたのかもしれない。優れたファンタジー作品には、こういったところがきちんと描かれていると思う。ジェスを引き止めるのが手のかかる妹であるというところも興味深い。本能的に兄の危うさを察知する感じが、小さい子どもならではなのかなと。ジェスの憧れである音楽教師が結果的にジェスとレスリーを引き離す要因であるというのも象徴的。
 ちょっと難点かなと思ったのは、レスリーが万能美少女すぎるところだ。もちろん、かわいいからジェスの中でアイコン的存在になったとも言えるのだが、レスリーの存在自体がファンタジーっぽくて生身の少年少女の物語という雰囲気が薄れてしまった。想像上の美少女が想像の世界を教えることでジェスを助けてくれた、というふうにも見えるのだ。レスリーとファンタジーの世界とがワンセットになりすぎなのね。

『大鴉の啼く冬』

アン・クリーヴス著、玉木亨訳
 CWA(英国推理作家協会)賞、'06年ダンカン・ローリー・ダガー賞(最優秀長編賞)受賞。日本でも「このミス」海外部門11位にノミネートされたそうだ。英国最北端のシェットランド諸島で、女子高校生が殺害された。過去、同じ村で幼女が行方不明になった事件と関係があるのか?シェットランド諸島の風土の描写が寒々しく陰影が深い。ミステリというよりも、全員顔見知り規模の村社会内でのしょうもない人間模様を楽しむ小説ではないか。ミステリとしてはどんでん返しが少々強引なので。アットホームさと窮屈さは紙一重であり、都会から引っ越してきたシングルマザーが感じるプレッシャーなどは結構生々しい。また彼女の元夫である地元の名士の、あくまで「地元の」名士である小物っぽさなど、ショボショボした感じの描写は上手いと思った。淡々としつつ、うっすら悪意がある感じ。でも「田舎の生活は窮屈でイヤ!」という意識は、読んでいる側にはあまり感じさせないところが不思議でもある。

『快盗タナーは眠らない』

ローレンス・ブロック著、阿部里美訳
 頭に受けた傷が原因で睡眠を取れなくなったタナー。趣味はあらゆる言語を習得することと、あらゆる団体に所属すること。ギリシア・トルコ戦争の際に集められた金貨を手にするべくトルコに乗り込むが、あっさり身柄を拘束されてしまう。しかし留置所で出されるピラフは妙に美味しいのだった。・・・あの、ピラフ美味しいっていうのは本当に本文に書いてあるんです。結構しっかりと。そんな感じの怒涛の展開なのに妙にのほほんとした小説。個人的には大いに楽しみました。タナーの、博識だがさほど強くは無く、妙にあっさりとした性格も好ましい。スパイ小説、冒険小説というよりもドタバタコメディ(時々若干ブラック)に近い味わいがある。しかし執筆されたのが60年代なもので、ユーゴスラビア情勢等、時代を感じてしみじみしました。マケドニアがまさか独立するとは思われていなかったのね。

『泣かない女はいない』

長嶋有著
 タイトルは小癪(笑)ですがいい小説。長嶋は上手いなぁとしみじみ思う。多分そこいら中の書評やら感想文やらで言われてそうだけど、特に劇的なことが起こるわけでもない日常の描き方が実に魅力的なのだ。魅力的な日常に見える、というのではなく描き方が文章として魅力的。あと、表題作は意外にしっかりとした会社員小説になっていると思う。仕事の内容を詳しく書く会社員小説ではなく、会社、特にさほど大きくはないしさほど収益が高いわけでもないであろう会社に勤めるという状況のニュアンスがきっちり出ているのだ。著者は会社員経験てあったのかしら(と思ってウィキペディアで調べたら、大学新卒で一般企業に就職してた)。ぱっとしないがのんびりとした感じが、個人的にすごくよくわかるんですよ。そしてその中で働く女性の悲喜こもごも(というほど華々しいものではないが)というのも。

『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』

  無実の罪で投獄され、妻子を判事に奪われた理髪師ベンジャミン・バーカー(ジョニー・デップ)。15年後、スウィーニー・トッドと名を変えロンドンに戻ってきたバーカーは、パイ屋の女主ミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム=カーター)の助けを借りて判事への復讐に乗り出す。
 みんな大好き、ティム・バートン監督&ジョニー・デップ主演の最新作はゴスの香り漂うスプラッタミュージカル。『ビッグ・フィッシュ』や『チャーリーとチョコレート工場』のカラフルさに物足りない思いをしていたファンには嬉しい作品になったのではないだろうか。バートンのダークサイドがもどってきたよ!舞台は霧深い19世紀ロンドン。色彩は極力控え目えにしてあり、ねずみ色まみれなのだが、噴出す血の色だけは鮮やかに赤くインパクトがある。
 トッドの復讐は元々は判事個人に対するものなのだが、途中から不特定多数に対する殺人鬼と化す。「俺が酷い目にあったのはこの世界のせいだ!俺が生きられない世界なんて嫌いだ!」という呪詛は一歩間違うと逆恨みっぽいが(殺された奴は大迷惑)、この一方的な怒り・憎悪には妙にシンパシーを感じる。こういう所はティム・バートンの芯の部分にあるんだと思う。今まではそっとこの世界を去ったり世界と和解したりとオブラートにくるんできたが、今回もろに復讐しちゃっているもんなー。世界に対する呪詛を吐き出してもエンターテイメントにできるぜ!という自信がついたということでしょうか(そしてちゃんと王道エンターテイメント映画になっている、怖ろしいことに)。
 後先考えないトッドの姿は残酷であると同時に滑稽でもある。手段と目的が入れ替わってきているようにも見えるのだ(「奥さんの顔も忘れちゃったんじゃないの?」と痛い指摘を受けたりもする)しかし残酷さ・滑稽さは彼の悲しみに裏打ちされているものだ。悲しみと過去への執着が強すぎイカレた男が破滅に向かってひたすら邁進する姿が、時にコント化する(ボケ=デップ、ツッコミ=ボナム=カーター)この映画をシリアスなものに留めているように思う。
 またトッドに恋するミセス・ラベットの存在も大きい。彼女は死体の始末に困ったトッドに「じゃあパイにしちゃえば無駄にならないわよ」と提案するくらいには狂っているが、トッドとの将来に対して抱いている夢は実に乙女ちっくだ。海辺のお家に2人で暮らして休日にはお友達を招待するの・・・とか夢見つつ人肉をミンチにしているわけですが。そのギャップがおかしさを通り越して哀しくなってきてしまう。なんか、直視できないイタイタしさがあるのよ。
 さて、トッドとラベットは、顔は白々とし目の周りにはクマ、唇もどす黒いという風貌だ。さながらゾンビ。他の人たちも同じメイクかというとそうでもない。町の人たちとか判事とかは普通の顔だ。トッドとラベットはこの世には最早いられない、死人に等しい存在であり、その象徴があの顔なのではないか。とすると、最後、下働きの少年の顔にもクマが出来ていたというのは興味深い。

『僕らの舞台』

 ニコラ・フィリベールレトロスペクティブで鑑賞。15人の演劇学校制が地元であるフランス、ストラスブールをテーマにした芝居を一晩で作ろうとする様を映したドキュメンタリー。・・・なのだが、これ全くのドキュメンタリーと言えるのだろうか。ドキュメンタリーとしては妙に構図がかっちりしていたり、演劇論争がいかにもいかにもだったりで、かなり演出しているのではないかという印象を受けた。学生たちを撮ったドキュメンタリーというより、学生たちが舞台を作ろうとしているという演技をしている役者を撮っている感じがするのだ。彼らが演じる舞台よりも、それを作ろうとするてんやわんやの方が演劇的に見えてしまうのだ。
 演出しているように見えるというのは、実際に演出しているのかどうかは置いておいて、撮影対象が演劇学校生であるという要素も大きいだろう。やっぱり、役者の卵である以上、見られることには敏感だろう。カメラがあったら多かれ少なかれ、必ず映っている自分を意識していると思う。
 しかし15人で即興劇っていうのは無理だろう・・・。5~6人ならともかく、10人越えたらお互いの動きを読んであわせるのは難しいと思う。そもそもなんで即興に拘るのか謎だ。しかも一晩で舞台作るってのは無謀だ。プランが進まず少々険悪な論争になるのも、そりゃあそうなるわなと冷めた目で見てしまうのだった。

『すべての些細な事柄』

 フランスの、独特な治療をすることで調べる精神科クリニック「ラ・ボルト」。その患者たちが病院スタッフと共に演劇を作り上げていく様を追ったドキュメンタリー。病院と言っても、昔のお屋敷のような雰囲気のある建物に広い敷地、患者は敷地内を自由に出歩くことが出来、1日のカリキュラムやスケジュールも特に無いというかなり自由な雰囲気(症状の軽い患者が主だからだろうが)だ。不思議なもので、演劇を指導する側と指導される側の違いは明確なのだが、一緒に演技していると、どの人がスタッフでどの人が患者なのか、(私がフランス語を分からないということもあり)意外とよくわからない。あんまり大きな違いが無いようにも見えてくる。
 といっても、それぞれ事情のある人たちが相手なので、指導・サポートする側はかなりの忍耐を強いられたのではないかと思う。フランス語には「我慢」という言葉が無い、つまり我慢と言う概念がないということなのだろうが、この映画に出演している病院のスタッフや演劇の指導者(女優のマリー・レディエ)は明らかに忍耐力がある。でも、丁寧だし時間はかけるけど、健常者に指導するやりかたとあんまり変わらない。
 患者や病院スタッフの背景には、映画は一切触れない。一定の距離を置いているのだ。もっとも、冷たいというのではなく、ほどよい親密さが感じられる。というより、物理的にかなり近づいて撮影する為には、心を許してもらわなければならないから、自然と親密になっていくのだろうけど。最後、患者の1人が「社会がぼくを病気にし、社会がぼくを癒した」「(ラ・ボルトにいることが)母親に守られているみたい」と話すのは、ちょっと出来すぎというか、そういったことを言ってくれるのを製作側が期待しているということを読み取られたんじゃないかと感じる部分もあったが。

『音のない世界で』

 ニコラ・フィリベールレトロスペクティブにて鑑賞。フランスのドキュメンタリー作家ニコラ・フィリベールの新作『かつてノルマンディーで』の日本公開を記念し、彼の過去の作品を一挙上映するという企画上映があったので行って来た。なんでも、以前MOMAで開催されたレトロスペクティブより充実しているそうです。やるなーテアトル。
 さて本作は1992年の作品。日本でも公開された。ろう学校の生徒を中心に、彼らの生活を取材した作品だ。フィリベールの作品は、説明が少ない。取材対象のプロフィールや社会背景は殆ど説明されない。インタビューでも、過度に突っ込まない。控え目である。しかし対象に対して非常に親密な、距離感の近さを感じる。撮影対象になっている人たちが、カメラを意識した動きをしていないんですね。特に子供だと、授業中にカメラが近くにあったらチラチラ見てしまいそうなものだけど、あんまり(気になる子はやっぱり気になるらしい
見ない。カメラがある状態に相手が慣れるまで、かなり時間をかけて下準備をしたのではないかと思う。
 ろうあ者たちの学習の現場、また労働し、結婚し、出産して新居を探すというごく日常的な姿を追う。彼ら個々へのインタビューはあるが、家族のプロフィールや、ろうあ者であることによる個人的な体験を淡々と話すに留まる。社会のこういう点が問題だ、だからこうするべき、という方向には持っていかない。それを考えるのは作品を見る側の問題である。フィリベールが提示するのは、これもまた世界の一つの姿であるということだ。そしてその世界は豊かであるということ。基本的に人間に対してポジティブな人なのではないかと思う。
 ところで、ろうあ者の人たちの話で、家族全員ろうあ者であるというケースがかなり多いのが意外だった。ろうあ者同士のコミュニティ内で結婚するケースが多いのだろうか。そういう家庭に育った人の場合、当然のことながら家庭内ではろうあであっても全く問題がない。むしろ、学校に通うようになって、他の子が自分と違ってびっくりしたという話が興味深かった。また、健常者の両親が、生まれて数年経つまで子供が聴覚に障害を持っていることに気付かなかったという話もあって、それはどうなのかと思った。幼稚園とか保育園とかに通っていないと気付きにくいものなの?ちなみに手話が生まれたのはフランスだそうだが、教育の現場で使用されることは長らく禁止されていたとか。冒頭の手話で「歌う」シークエンスが印象的だった。

『無垢から無常へ アート・アニメーションの転換点』

 ロカルノ国際アニメーションで上映された日本人作家の作品の、凱旋上映企画となる。初めてイメージフォーラムの3階に上がった!何か視聴覚室みたいでした(笑)。そして客は私含め2人のみだった・・・。作品は全て短編(最長でも十数分)だが、なかなか興味深かった。全作品簡単に感想述べます。

『鈴の名は』諸藤亨
 CGアニメーション。日本に出稼ぎに来ている人たちが交わす、日本語外国語取り混ぜた会話。人の姿が全て異星人のようでシュールなのだが、ストーリー自体は浪花節っぽくセンチメンタルなもので、意外にキャッチーだ。発されている単語と字幕とが(名刺とか)少しずらしてあって、それによってセリフの意味合いを広げている所が面白い。

『一寸法師』田名網敬一&相原信洋
 クレヨンぽい画材によるアニメーションなのだが、一寸法師がコンドームそっくりな形状。まあつまりそういうことです。セクシャルさがあからさますぎて芸がない。そんなにやりたいですか・・・と少々げんなり。

『お向かいさん』清家美佳
 向かい合う男女の会話を挿し木という形で表現。結構的を得た例えで、言わんとする所はわかりやすい。相手に絡んだり締め付けたりすると、あー今修羅場ですね・・・とわかるわけです。

『鼻の日』和田淳
 なぜ鼻・・・。ビジュアル面では、個人的には一番好みだった。シンプルかつ味わい深い。そしてちょっと不気味。郷愁を誘うが、その郷愁に浸りきろうとするたびに拒否されていくクールさがある。

『そういう眼鏡』和田淳
 『鼻の日』よりも洗練されている印象(こちらの方が新しいようです)。やっぱり何か変だけど。反復していく奇妙な心地よさもアル。絵のタッチが好み。ただ、ほのぼのとしているように見えるが不気味でもある。漠然とした不安感が。

『夜中の三時』野上寿綿実
 厚みがあってちょっと面白い質感だなとは思ったけど、内容的には少々漠然としていた。あんまり印象に残らない。

『忘』大野悟
 昔のカトゥーンのような味わいもあるシュールな絵柄だが、モチーフはセクシャルかつバイオレンス。すごく殺伐とした気持ちになります。生理的な気持ち悪さを意図しているように思う。

『影の子供』辻直之
 性的虐待を受けそうになった姉弟が父親を殺害して車で逃走・・・のように見える作品。鉛筆画を何度も描きなおした様なタッチが面白い。残像をわざと残しているところとか。子供の傷つきと再生というストーリー性が強くて面白かった。尺も長め。しかしやっぱり殺伐としているなー。

『IN IN』斉藤嘉野
 ホワイトボードに描かれた絵を実写とあわせたアニメーション。これは面白かった!アニメーション本来の「動く絵」としての側面を強く感じさせる。NHKの洋二向け番組で放送されてもおかしくない。今回上映された作品の中では荒削りながら一番健やかな感じ。

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