3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『SAFE/セイフ』

 場末の格闘技場でファイターをやっているルーク・ライト(ジェイソン・ステイサム)は、八百長試合を失敗させ、高額の掛け金を失ったロシアンマフィアに報復として妻を殺され、自宅も追われる。人間関係を絶ちホームレス同然の生活をしていたルークは、マフィアに追われるアジア人少女メイ(キャサリン・チェン)を助ける。天才的な数学の才能を持つメイは、ある数列を中国マフィアに覚えさせられていた。監督・脚本はボアズ・イェーキン。
 ルーク側、メイ側、中国系マフィア側、ロシア系マフィア側と複数の側面へと、次々とシーンが切り替わっていく。カメラの動きと共にさっと次の場面に移る編集はスタイリッシュと見ればいいのかやりすぎと見ればいいのか・・・。ただ、物語前半は案外話が動かない。ルークとメイが出会うまでの助走が、結構長いのだ。2人が出あってから物語が一気に加速していく。ルークが何者なのかわかってくると、そのスーパーマンぶりが発揮されてクライマックスへと突き進んでいく。アクションは肉弾戦が多く、重力が感じられる動きが重めのもの。ステイサムには無骨なアクションが似合うし、まだまだ体が動くんだなーと実感できる。私は本作のような肉体の重さの感じられるアクションが好きなのだが、スピード感を強めようとしているのか、カメラががちゃがちゃ動いて個々の動きが良く分からなくなるのは残念だった。思い切ってカメラを固定して撮れば、かなり渋くなったと思うのだが。
 スピード感はあるが、脚本は結構粗い。ルークにしろマフィアの面々にしろ設定のひとつひとつはわりと大雑把だ。物語が加速するにつれ、設定の出し方がちょっと後だしじゃんけんぽくなっていくのも難点(特にラスボス的な人の出方とか)。ではあるが、見ている間は気にならなかった。気になるヒマなく話が転がっていくということか。
 ルークは追われているメイを助けるのだが、その理由が具体的に明言されるのは終盤になってからだ。ただ、見ている側にはなぜ助けたのかは何となくわかるし、明言のされ方もさりげない。そのわざわざ説明しない見せ方がいい。ルークがどういう人なのかということがよく現れている。自分の中の仁義みたいなものに従うところがかっこいいのだ。
 また、メイがさして美少女でもなく、数学の才能以外は普通の11歳女児なところもいい。最後も『レオン』のようなセンチメンタルさはなく、バディものとしてきっちり終わるところに好感を持った。




『演劇1』『演劇2』

 日本を代表する劇作家であり、劇団「青年団」主宰者である平田オリザを追ったドキュメンタリー。当初1本の映画になるはずだったのが収まりきらなくなり2本になったそうだ。1では主に劇作家・平田オリザと劇団・青年団の活動を追う。2では、その劇団を運営する為、演劇という芸術を生き延びさせる為にあらゆる業務を行う、劇団経営者であり演劇のスポークスマンとしての平田オリザの側面が浮かび上がる。監督は相田和弘。
 2本合わせて6時間近い超大作。私は映画は娯楽作であれ芸術性の高い作品であれ2時間以内に納めてほしいと思っているので、正直見る前は不安だった。しかし、これが時間を忘れる(というとちょっと言いすぎだが長尺があまり気にならないくらいの)面白さ!これは確かにこの長さが必要だと納得させられた。長さによって主題が成立する映画もあるということか。題名の付け方といい、相田監督はとうとう(映画の長さ的に)ワイズマンへの道を歩み始めたか・・・。
 本作で最も強烈に印象に残るのは、被写体である平田オリザの強靭さだろう。まず、劇作家であり文筆家であるから当然といえば当然なのだが、彼の思考と言語の強さ、明晰さに圧倒される。言葉の明晰さ、流暢(というと語弊があるのだが、リアクションの速さと的確さというか)さはワークショップや講演、交渉ごとが多く映される『演劇2』でより際立つ。その場に居合わせるよりも、撮影された映像で見た方が実感できる気がした。会話相手との対比で平田の言葉の強靭さが際立つのだ。対比されたほうはたまったもんじゃないと思うが・・・。頭のいい、言葉が明晰な人に対して表層的な、内実の伴わない言葉を使うとその軽さがすぐバレるんですよね。自戒しよう・・・。
 また、平田の演出法も強靭かつ明晰。正直、ここまで厳密だとは思わなかった。役柄の内面については言及せず、セリフを言うタイミングの早い・遅い、音の強い・弱い、手足の動きの大きさ・方向など、フィジカル面の調整が殆ど。それを何度も何度も繰り返す。同じことを何度でも再現できる能力を役者に強く求める演出法なのだ。『演劇2』ではロボットと共演する舞台もあるのだが、人間の役者に求めるものとロボットに求めるものがあんまり変わらない。(少なくとも演劇における)演技とは表層的なものだという思想が徹底されているように思う。
 そして更に、仕事量がすごい。仕事をしている姿をメインに編集しているから多く見えるというのもあるのだろうが、劇団の経理・税務や補助金審査用の書類の作成、海外のエージェントとの交渉等、事務的な作業も相当している。ちょっとした空き時間で新作を書き、国内外を巡業やワークショップで駆け回る。ちょっとワーカホリック気味なんじゃないかというくらいで、肉体的にも多分強靭なんだろう。寝つき&寝起きがすごくいい(カメラを向けられたまま休憩時間や移動中に寝ちゃう)ので体力回復が早いんだろうな~。羨ましい・・・。
 そんな平田オリザの破格ぶりを追うのが相田監督のカメラだ。相田監督は自分の作品を「観察映画」と名づけており、その手法は正に観察者として対象に干渉せず撮り続けるもの。なので、被写体に対するインタビュー等は原則としてやらない。しかし本作の場合、被写体である平田オリザも青年団も、見られることのプロだ。平田も青年団の役者たちも、ごく自然なふるまいながら、それが「平田オリザ」「青年団の役者」を演じている、というふうにも見えてくる。青年団の演技は会話・所作の自然さを極めたようなものなのでよけいに素と演技がシームレスに感じられるのだ。観察される側が「観察用」としての振る舞いをしている時、観察は成立するのか?という作家としての手法の根底にある問題にも関わってくる。監督も当然そういう問題には意識的だろう。その上で撮り続ける姿勢には若干の凄みすら感じる。
 そもそも、社会の中では誰もがその場に応じて多少は演じている、素の状態などないのでは(というのは平田オリザの持論として講演内容にも出てくる)?では演劇上の「演技」って何なんだ?と、「演技」を巡る世界にどんどん引き込まれていく。カメラが何かを積極的に提示しているというわけではない(ように見える)が、観客の思索を引き出していくという力作。




『推理作家ポー 最期の5日間』

 1849年、アメリカのボルチモアで密室で母娘が惨殺されるという事件が起きる。刑事フィールズ(ルーク・エヴァンズ)は犯行が作家エドガー・アラン・ポーの小説『モルグ街の殺人』を模したものだと気づく。その作家ポー(ジョン・キューザック)は、作家として一度は成功したものの小説のネタは浮かばず最近手がけた文芸評論は不評で、酒に溺れていた。ポーの作品になぞらえた犯行は続き、とうとうポーの恋人エミリー(アリス・イヴ)が誘拐されてしまう。監督はジェイムズ・マクティーグ。
 当時のポーは多分、推理作家というよりも怪奇小説作家というくくりだったんじゃないだろうか(推理小説という概念自体が多分まだ成立していないのでは)。ポーが探偵役というわけでもなく、中盤までは否応なく巻き込まれていく。むしろアルコール依存症で短気で、大分困った人として描かれている。それをおとぼけ顔のジョン・キューザックが演じるので、シリアスなシーンでも笑えてしまって困った(困ったことにポーご本人の肖像画にはかなり似ているのだが・・・)。ポーが右往左往して騒いでいるばかりで、あまり聡明に見えないのだ。刑事のフィールズの方が探偵ぽいしかっこいいので、ポーはいらないなぁと思ってしまうくらい。ポーの作品が軸になっており、彼の小説や詩、ポー本人のプロフィールに関わる部分もかなり取り入れているのにポーというキャラクターにあまり魅力が感じられなかった。単にうるさい奴っぽくてイライラしてしまう。これがキャラが立っていないというやつか・・・と妙に納得した。
 冒頭、密室であることを見せるくだりで、おおっ本格ミステリぽいぞ!とわくわくさせられたものの、その後は犯行エピソードが団子状につながるばかりで、推理の過程にある醍醐味は薄い。犯行現場や死体の見せ方もエレガントじゃない!ちょっと見世物小屋っぽい。特に「振り子」はダサい!このしょぼさが犯人像に繋がっていなくもないが、単に演出の不手際に見えるんだよなぁ・・・。なお、本格ミステリ的には1箇所なるほど!と満足感感じた伏線があった。当時の技術面を知っている人ならすぐわかるのかもしれないが。




『エコー・メイカー』

リチャード・パワーズ著、黒原敏行訳
 カリン・シュルーターは弟マークが交通事故に遭って意識不明だという連絡を受け、故郷に戻った。マークはようやく意識を取り戻すものの、カリンを姉とは認識できなくなっていた。カリンにすごく似ているけど違う、偽者だと言うのだ。彼はカプラグ症候群という、親しい人物のみその人物当人だと認識できないという珍しい症例を発症していたのだ。カリンは高名な脳医学者に助けを求める。パワーズは作品ごとに中心に来るモチーフを決めてくるという印象があるが、今回のモチーフは脳。マークはカリンをニセモノの姉と見なすようになり、徐々に政府が自分を監視しているという妄想に駆られるようになる。しかし、人間の認識と自己をつかさどるのが脳ならば、それを妄想と決め付けることができるのか?マークはカリンは脳医学者から見ると間違った認識を持っているのだが、それは間違いだと彼に納得させるのは至難の業だ。マークに姉と認めてもらえないカリンの無力感がひしひしと伝わってくる。また、脳医学者もマークに対処できず自分の業績に自信が持てなくなっていく。マークを含め、登場する人達は何らかの失望感を抱いており、その心もとなさが作品の全編に渡って、低音で響いているように感じた。マークと関わったことで、形は違うがカリンたちの世界も変容していく。それはいびつかもしれないし、逆に自然な形に戻るのかもしれないが、それぞれの世界のもろさ・たよりなさが物悲しかった。足元がゆらぐような、はかなさを感じさせる小説。




『アウトレイジ ビヨンド』

 前作『アウトレイジ』から5年後が舞台。抗争を経て加藤(三浦友和)が会長、石原(加瀬亮)が若頭として山王会を牛耳り、その力は政界にも及んでいた。そんな中、実は生きていた大友(北野武)が刑務所から出所する。刑事の片岡(小日向文世)が大友の死についてニセ情報を流していたのだ。片岡は山王会に恨みを持つ木村(中野英雄)と大友を焚きつけ、関西の暴力団・花菱会と引き合わせる。花菱会を大友らの後ろ盾にして山王会とぶつけ、その力を削ごうと企んでいたのだ。監督は北野武。
 前作は暴力ドミノ倒しみたいな一方向への流れが止まらない感じだったが、今回はピタゴラスイッチ的というか、あっちを押したらこっちが出っ張りあっちが落ちたらこっちが倒れる、みたいな、動きが各方面で連動していく感じだった。脚本は明らかに本作の方が練られている。その分、勢いや暴力により観客の側が脅かされるようなは削がれたが、前作より少しウェット寄りなので丁度いいかもしれない。
 若干ウェットになったのは、大友というキャラクターの変化によるところが大きい。前作の大友は暴力団組長とはいっても下請け企業の社長みたいなもので、荒事の受注が来たら即行動。「仕事」として躊躇がない。しかし今回は、大友はもう荒事は十分かな・・・という心境に至っているようだ。かつて痛めつけた木村にも「恨まれてもしょうがない」と物静かに接し、むしろ木村の子分の心配をするくらい。もう「ヤクザ」であることに疲れており、日本脱出すら考えている。彼が行動を起こすのは、一連の事態を終わらせる為だ。たけし本人が演じているだけに、その「終わらせる」行為は監督・北野武ともダブって見える。今回、今までのフィルモグラフィの中では例外的といっていいくらい筋立てが分かりやすく、あえてセリフを過剰に、説明的にしているが、それも何かの決意に見えた。
 出演者は相変わらず非常に豪華。全員、いい悪人顔で、オールドタイプからニュータイプ、外来種まで色々なタイプのヤクザを取り揃えましたがいかが、という感じ。今回キーパーソンとなった片岡を演じる小日向は、善人役も悪人役も上手いが、どちらを演じる時も基本のトーンは同じというところがすごい。また、木村役の中野は、今回相当おいしい。得したなぁ!




『佐渡の三人』

長嶋有著
ライターの「私」は祖父母の隣家に住んでいた「おばちゃん」の納骨の為、父、弟と共に佐渡島へ旅する。「私」一族の佐渡への納骨を描く連作短編集。タイトルは『ジャージの二人』と似ているが内容は関係ない(若干設定が似ている部分があるが、本作の「私」は女性)。著者の作品の中では、割としんみりした読後感の1冊だった。葬式、納骨という一般的にめでたくはないイベントを行う話だということもあるが、一族が段々歯抜け状態になり、年長の人たちを見送っていくことになるというぼんやりとした寂しさが染みてきた。連年ないしは数年ごとに佐渡で納骨をやるという連作なので、同じような行為をしているという既視感・連続性と、それでも逝ってしまう人と残された人たちは毎回変わっていくという変化との両面が描かれる。変わらないようでいて着実に周囲も自分も変わっていく、自分より年長の人たちが徐々にいなくなっていくということが心細く、足元が心もとない。私的な体験からもどうも身に染みる1冊だった。私自身が「私」と年齢が近く「私」と同じく弟がおり、自分が「世話する」側になるということに慣れていない。また、我が一族の中での私と弟は、ひきこもりである「私」の弟や同じくニートな親戚の青年に近い、何やってるのかよくわからないし生産性薄い存在と思われてるんだろうなと、身につまされる。




『花言葉をさがして』

ヴァネッサ・ディフェンバー著、金原瑞人・西田佳子訳
里親の元を転々としてきた孤児のヴィクトリアは、18歳で養護施設を出ることになる。彼女が信じるのは、幼い頃に里親エリザベスから教えられた花言葉と花の知識だけだった。その知識を使って花屋で働くようになるが、彼女のアレンジメントは幸せを呼ぶと徐々に評判になる。ようやく安心して生活できるようになったヴィクトリアだが。ヴィクトリアは頑なで非常に警戒心が強く、人との距離のとり方も独特。自分で自分をがんじがらめにしているようなところがある。自分に対する他人からの愛を信じない・自分がそれに値しないと考える彼女が、カップルや家族の「愛」の為に花束を作り評判になるというのが皮肉だ(他人が幸せになるところを見たい、というわけでもないところが仕事っぽくていい)。18歳と9歳、ヴィクトリアの過去と現在が交互に語られる。彼女は花言葉を拠り所にしているが、逆に花言葉=エリザベスとの記憶に振り回されているようにも見える。なぜ彼女がそういうパーソナリティになったのか、過去が語られるにつれ腑に落ちていく。彼女の問題は過去から繋がっているのだ。「子供」として大事にされることを経験しないと、他者を信頼するのも、「親」の役割を引き受けるのは困難なのかもしれない。愛するのも愛されるのも、許すのも許されるのも練習が必要なのね。




『まほろ駅前番外地』

三浦しをん著
便利屋の多田と行天の日常と彼らが巻き込まれる出来事を描いた、『まほろ駅前多田便利軒』の続編。前作は多田の視点から見た物語だったが、今回は今まで登場した人たちが見た多田と行天の姿も垣間見られる。チンピラの星や岡老人などおなじみの人たちも登場するが、あの人の私生活はこんななのか!という意外さも。特に曾根田のばあちゃんのロマンス話は、こういう話は苦手なはずなのに印象に残る。ばあちゃんの実体験なのかホラなのかわからない、本人もボケてるなりにそのへんわかって話している感じがする、何より、多田と行天にだから話した、という話の背景にあるものにぐっとくるのかもしれない。しかし、著者がメインヒロインとして描く女性はいまひとつ魅力がない(私にとってはだけど)んだよなぁ・・・(星の彼女や岡夫人を筆頭に端役は意外といい)。何かぴりぴりしすぎている感じがして。




『アルゴ』

 1979年、革命の熱気に包まれているイランでは前国王パーレビを擁護していたアメリカに対する反感が強まっていた。11月4日、アメリカ大使館が過激派に占拠され、居合わせた人々が人質になった。密かに脱出した6人の職員はカナダ大使私邸にかくまわれる。イラン側はアメリカに対し、がん治療の為に渡米したパーレビの引渡し。脱出した6人が見つかれば公開処刑は免れない状況だった。救出作戦担当になったCIAのトニー・メンデス(ベン・アフレック)は映画の撮影と称してイランに入国する作戦を発案し、SF映画『アルゴ』の製作発表をでっちあげる。監督は主演もこなしているベン・アフレック。
  『ザ・タウン』がなかなかの秀作だったアフレックの新作、今回も監督主演兼任とのことで楽しみにしていたのだが、期待は裏切られなかった。むしろ監督としての腕が上がっている!多分、原作の選択とそれを読み込む能力が高い人なんだろう(『ザ・タウン』の時も原作小説からうまく抽出してるなーと思った)が、面倒くさい時代背景や政治状況等、作戦のアウトライン等情報の整理整列の手際がいい。出しすぎず足りなすぎずで、ダラダラ説明しないタイトな作品になっている。編集ですごく上手い人がついているんだろうなという印象も受けた。ショットの切り替わりの思い切りがいい。
 冒頭のワーナーのロゴからして、映画ファン、特に当時を知るSF映画ファンにはたまらないくすぐりが色々と仕込んであるようだ(私は当時の映画には詳しくないので、細かいところはわからないのですが)。メンデスの別居中の息子の部屋にはスターウォーズのフィギュアが勢ぞろいしていて、ああそういう時代だったかと再確認した。ニセ映画の脚本『アルゴ』も、中東風の惑星を舞台としたSF。キャストにチューバッカやハン・ソロのパクりみたいな人たちがいるのがおかしかった。どう見てもB級映画でそもそも最初に「ひどい脚本」と言われているのがご愛嬌。このニセ映画の為に、ベテラン監督やプロデューサーが協力者となるのだが、脚本家組合との交渉や脚本読み合わせのマスコミ公開(こういうプローモーションあるのかと新鮮だった。ハリウッドでは一般的だったのかな?ちゃんと映画の衣装を着て最後まで脚本の読み合わせをやるというショー的なもの)等、ハリウッド内幕ものとしての面白さもある。このパートはオフビートなコメディぽくて、緊張感高まる救出作戦の中での息抜きにもなった。シリアスなサスペンスドラマでありながら、意外と笑いどころも多い。
 ストーリー展開や盛り上げ方、ドキドキさせる畳み掛け方等は案外オーソドックス(空港のシーンなどもう王道中の王道ぽい)なのだが、その一つ一つの手際がよく的確。また、個々のキャラクターがきちんと立ち上がってきてはいるが、個々の内面に入り過ぎない点も、映画の流れのスピード感を損ねずよかったと思う。妻子と別居中で仕事でも色々ぎりぎりな立場にいるメンデスの心情など、もっと湿っぽく悲壮に描くこともできただろうが、そこはあくまでドライに押さえている。
 それにしても、イラン側もアメリカ側も世論の炎上っぷりが空恐ろしかった。冷静に考えると非合理的なことを平気でやるようになってしまう。作劇上、当時の過激な部分を抽出しているというのもあるのだろうが、エンドロールで挿入される当時の報道写真等見ると、本当にこんなだったのか!と愕然とするところも。感情に流されちゃうのって怖いわ・・。




『最終目的地』

 コロラド大学で文学の講師をしているオマー・ラザキ(オマー・メトラリー)は、自殺した作家ユルス・グントの自伝に取り組もうと計画していたが、遺族から公認を断れてしまう。恋人ディアドラに助言され、遺族を説得する為に、グントの屋敷があるウルグアイへ向かう。その屋敷には、作家の未亡人キャロライン(ローラ・リニー)、作家の愛人アーデン(シャルロット・ゲンズブール)とその娘ポーシャ、ユルスの兄アダム(アンソニー・ホプキンス)とそのパートナー・ピート(真田広之)が暮らしていた。監督はジェームズ・アイヴォリー。原作はピーター・キャメロンの同名小説。
 屋敷のロケーションが、それこそ小説のようで美しく、ちょっと浮世離れしている。農地と森を抜けていくような郊外だ。そしてそこに暮らしている人たちも小説の登場人物のような浮世離れした(小説原作の映画だから変な言い方になるけど)、不思議な人間関係を築いている。オマーは生活感溢れるコロラドからはるばるウルグアイへやってくるのだが、一目でこの地に惹かれる。憧れの作家の家だからというのもあるのだろうが、オマーにとってはこの屋敷の方が本物っぽく感じられる、地に足が着いて生きている感じがするのだろう。大学も自宅も、彼にとってはいまひとつしっくりきていない。冒頭、あまり実務に器用な人ではないという様子が垣間見えるのだが、屋敷での彼を見せる為の前振りだったか。実務に長けて「完璧」な恋人のディアドラは、屋敷に来るととたんに色あせて、場違いに見える。屋敷の住人の中でも、キャロラインはこの屋敷が「最終目的地」ではないと感じているものの、なりゆきで動けなくなっているし、アダムはピートにとっての「最終目的地」がここでいいのかと気をもんでいる。
 その人が「はまる」場所、生き生きと出来る場所は本当に人それぞれだ。その場所が最終目的地ということなのだろうが、そこにたどり着けない人もいるんだろうなと、ちょっと切なくなった。むしろ、オマーやアーデンのような人は、本当にラッキーな数少ない人なんじゃないかと。
 キャロラインを演じるローラ・リニーの存在感が印象深い。魅力的だけど、この地とはいまいち噛みあっていない感じのクラシカルなファッションもよかった。ゲンズブール演じるアーデンの服装はあっさりとしたワンピースでいかにも南米の田舎っぽいのと対称的。あと真田がよく働く(笑)役なのも印象に残った。小回りがきいて気が利く、屋敷内の便利屋のような立ち位置。動きが多い役がハマる俳優だなとも思う。ピートがアダムに言う「私は今40歳で、あなたと会って25年になる」というセリフで、わー長い付き合い・・・ってちょっと待て!と年齢逆算して突っ込んでしまった(笑)




『インビジブル・レイン』

誉田哲也著
警視庁捜査一課の姫川玲子は暴力団下部組織の構成員が殺された事件の捜査に加わる。組同士の抗争の疑いが出ていたが証拠は出ず、調査は行き詰っていた。そんな中、警察上層部から「柳井健斗」という名前が捜査線上に浮かんでも追求するなという指示が出た。姫川は単身、密かに柳井を追うが。姫川シリーズ4作目になるのかな?TVドラマ化もされ、本著は映画化が決まっている。ストーリーラインがはっきりしており、何がどうなっているのかわかりやすく、確かに映像化には向いた作品だと思う。今回は姫川、そして彼女の周囲にとって大きな岐路が訪れる、折り返し地点的な作品でもある。ただ、ストーリーは面白いことは面白いのだが、ト書きを読んでいるようで小説としてのふくよかさには欠ける。プロット以外は何と言うか、のっぺりしてるんだよな・・・。正直、登場人物個々のキャラクターはドラマ化作品の方が立っていたと思う(役者の力が大きいんだと思うが)。




『ソハの地下水道』

 1943年、ナチス占領下のポーランドでは、ユダヤ人はゲットーに隔離され迫害は強まる一方だった。地下水道の工事・見回りをしているソハ(ロベルト・ヴィエツキーヴィッチ)は、ユダヤ人たちが地下水道へのトンネルを掘って逃げ込もうとしていることに気付く。ソハは下水道を知り尽くしていることを強みに、彼らを匿うかわりに金を取ることにするが。監督はアグニェシカ・ホラント。実話が元になっているそうだ。
 地下の息苦しさが、暗くて明瞭ではない映像のせいでより強く迫ってくる。私、地下とか潜水艦とかが舞台の映画はちょっと苦手(すごく息苦しくなってくるので)なので、思ったよりきつかった・・・。下水の臭いがすごそうなのもきつい。作中、下水道なんてイヤ!と収容所を選ぶ人もいるが、それも無理ないと思う。そういう環境に逃げざるを得ないくらい、迫害が厳しかったということなのだが。
 そんな環境であっても、逃げてきた人たちはそれほど一致団結するわけでもなく、お互いに不審に駆られたり、嫉妬したり(下水道にさあ逃げようというタイミングで夫・妻・夫の愛人で痴話喧嘩を始めるのには笑ってしまった)するし、セックスにも励む。また、子供達は遊ぶし、信心深い人はいつもどおり祈りを捧げる。良くも悪くも、人間らしさが失われないのだ。
 善人がかわいそうなユダヤ人を助ける、というようなわかりやすい構図ではなく、ソハもユダヤ人たちも、双方が様々な面を備え持つ、複雑な人間として描かれている。ソハは下水道の仕事の他、こずかいかせぎに空き巣をやっており、お金に対しては結構えげつない。ユダヤ人からはむしれるだけむしろうとするし彼らに対する偏見も(この時代の同国人としては一般的な程度に)ある。それでいて小悪人と言う感じでもなく、夫婦仲はいいし幼い娘のことも可愛がっており、年若い同僚に対する面倒見もいい。「タダで善行していると思われたくない」という所に、独自のダンディズムみたいなものすら感じる。
 ユダヤ人側もポーランド人側も、善ないしは悪一辺倒ではなく、愚かさと崇高さが同居する存在として陰影もって描かれており、細やかさが感じられた。ドイツ兵だけは、「兵隊」として描かれているのでその線引きが気にはなったが、ポーランド側の物語である以上、作劇上の都合でしょうがないかな・・・。




『盗聴犯 死のインサイダー取引』

 香港警察の刑事ジョン(ラウ・チンワン)、ヨン(ルイス・クー)、マックス(ダニエル・ウー)は株の不正取引の疑惑のある企業社長ローを、盗聴や隠しカメラで看視していた。しかし上昇予定株価のインサイダー情報を知ったヨンとマックスは誘惑に負けて株を購入してしまう。それを知ったジョンは激怒するが、2人を守る為隠蔽を図る。監督・脚本はアラン・マック&フェシックス・チョン。
 冒頭で、「この人はこういう事情を持っています」ということが端的に定時され、それが後々まで、彼らの行動原理となっている。いわゆる家庭の事情というわけではないジョンは、自分にやましさがあることから2人を強く責められず、いわば自分から巻き込まれていくのだ。彼らが「何の為に」行動するのかというところが早い段階ではっきりしているので、その後の畳み掛けるような展開の中でも筋を追いやすくなっている。また、「知られたくないことを隠す/探り出す」という行動で話が転がっていくので、目まぐるしいが統一感はある。
 人の弱さと欲がひきがねとなって取り返しのつかない事態になっていく、なかなかに苦い作品。この人たちの行動にいつ歯止めがかかるのかとはらはらするが、踏み出した以上、猛スピードで進み続けなければならない道だというのが辛い。投機をめぐる事件だという設定も、この「進み続けなければいけない」感を強めているように思った。一般の投機家(投資会社ではなく、複数の個人の投機家が会議室みたいなところにブースを構えて取引しているのだが、香港では一般的なのか?)たちの熱狂ぶりはそら恐ろしくもある。
 主役の3人は全員キャラが立っているのだが、特に年長のジョンは陰影がある。人の弱さを良く知っており、自分の弱さにも自覚がある。が、かといっていわゆる正しい行いをすることもできないという、煮え切らなさにイライラしつつも、でもそうなっちゃうよなーと思った。
 面白い作品で、宣伝も全然されていないのがもったいない。ただ、香港映画にありがちだと思うのだが、エピソード・展開を盛りすぎでかなりバタバタ感がある。そんなに長尺ではないのだが、体感時間は2時間越えくらいだった。




『マルドゥック・スクランブル 排気』

 賭博師シェル(中井和哉)の犯罪の証拠を得る為に彼が経営するカジノに乗り込んだバロット(林原めぐみ)と委任事件担当官である万能兵器ウフコック(八嶋智人)。最強のディーラーでありハウスリーダーであるアシュレイと、ブラックジャックで最後の勝負に挑む。原作は丁の小説。脚本も冲方が手がけている。監督は工藤進。3部作の完結編となる。
 1作目では脚本も映像もいまひとつこなれていないように思ったが、徐々にかみ合っていき、本作ではかなりこなれている。2部に引き続き、映像で面白く見せることがかなり難しいと思われるカジノでの対決で、ちゃんと見ていて気分が盛り上がり飽きさせない演出には感心した。私、ブラックジャックのルールは全然わかってないのに!ビジュアルは全般的に華麗で美しい。特に、バロットとボイルド(磯部勉)最後の対決は、アクションの見応えもあり、2人の能力の特性もよくわかる、美しいもの。特にバロットが卵から再度生まれるような演出は、作品テーマにも沿っていてよかった。ただ、原作を読んでいない人には、2人の戦いが最後どうなったかよくわからない見せ方だったんじゃないかなという気はした。
 ただ、アクションシーン以外でのキャラクターの演技はいまひとつ月並みで「どこかで見たアニメ」っぽくなってしまっているのは物足りなかった。また、音楽が時にデコラティブすぎて煩く聞こえるのが気になった。もっと引き算してもいいのに・・・。1部、2部ではエンドロールに使われ、3部では挿入歌だった『アメイジンググレイス』は、いい曲だけど本作にはミスマッチな気がする。
 林原めぐみ主演作を見るのは久しぶりなのだが、この人の声を聞くと、「うわーアニメだ!」という不思議な満足感がある。多分に刷り込みによるものなのだろうが、やっぱり安定感あるよなー。なお八嶋は声優演技は下手ではないが、最後まで耳に慣れなかった。「八嶋智人」として私が意識しすぎただけかもしれないけど。




『ライク・サムワン・イン・ラブ』

 デートクラブのバイトをしている大学生のアキコ(高梨臨)は、上司に頼まれ、84歳の元大学教授タカシ(奥野匡)の家を訪ねる。タカシは手料理でもてなそうとするが、アキコは寝入ってしまう。翌朝、タカシはアキコを車で大学に送るが、待ち伏せしていたアキコの恋人ノリアキ(加瀬亮)が声を掛けてくる。監督はアッバス・キアロスタミ。
 日本・東京が舞台。もちろんキアロスタミ監督にとっては初めての日本での映画撮影。日本語のセリフや風景には違和感は感じなかった。ただ、良く知っている場所が頻繁に出てくるのだが、車で移動するシーンでの場所と場所のつながり方が不自然な気がして気になってしまった。現地にあまり行ったことがなければ全然気にならないんだとは思うが。
 冒頭、バーでバイト中らしいアキコは携帯で話している。相手は恋人らしく、アキコは迷惑がっているがなかなか電話を切れない。一方、タカシも弟から電話で私用の翻訳を頼まれ、忙しい忙しいといいつつ電話を切らない。2人とも迷惑に思っていても電話を切れずに、相手に押し切られてしまう。基本的に2人とも優しいのだろうし、嫌われたくないんだろうなという感じもする。特にアキコは「断れない人」である様子が随所随所で出てきて、こういうタイプの人は私は苦手なのに、見ているうちになんだかかわいそうになってしまった。演じる高梨臨の、どこか自信なさげな立ち居振る舞い(と垢抜けない衣装)もよかったと思う。
 アキコとタカシは最初はアキコのバイトの流れで、後にとある事情でとある「振り」をする。その「振り」がだんだん彼らの立ち居振る舞いに浸透してきて、本物のように見えてくる。前作『トスカーナの贋作』と共通したテーマだが、本作では甘やかな空気が流れ奇跡起きるか!?というところでまさかのクライマックス。こうもあっけらかんとやられると、残酷さすら感じないのだった。




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