3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『子猫の涙』

 メキシコオリンピックでボクシング・バンダム級銅メダリストとなった森岡栄治。この実在した人物を武田慎治が演じ、森岡の実の甥である森岡利行が監督、実話を元に映画化した。
 物語は小学生である森岡の娘・治子の視線で進む。これがよかったと思う。子供目線だから、大人の機微はスルーされてしまう。網膜はく離でボクサーを引退した栄治は定職にも就かず妻に養ってもらい、とうとうその妻も愛想をつかして出て行く。治子にとって栄治は「ダメなオヤジ」で、栄治の新しい愛人である裕子(広末涼子)も単なるビッチ。しかし映画を見ている側には、大人達の抱える事情とか如何ともし難い悲しみがわかる。そして治子も成長するにつれ、段々とそれを汲み取ることが出来るようになる。治子の視点と観客の視点が一致していくのだ。
 身内の話だから勿体無くて割愛できなかったのか、少々エピソードを詰め込みすぎかつ詰めが甘い感はある。武田真治が中学生から晩年(50代か?)の栄治を演じるというのも、特に晩年の姿が少々厳しかったし、広末に関しても同様。映画内時間が長年にわたる場合のキャスティングってほんと難しいな・・・。武田も広末も実年齢より若く見えるタイプなだけになおさらだ。しかしそれも大目に見てしまおうと思える好作。フラフラしているがボクシングと家族への愛という軸はブレていない栄治のキャラクターの魅力と、それを演じた武田の好演によるところが大きいと思う。武田はしっかり体を作っていて動きもシャープ。ちょっと見ほれました。ボクシングの試合シーンはもちろん、中学生の栄治が地元の不良と大喧嘩する時の立ち回りがかっこよくて、ちょっとしたアクション映画のようだった。武田の、2枚目は2枚目だが、ちょっとファニーな感じがするところも役柄に合っていたと思う。共演の広末もかなりいい線いっていて、この人演技できる人だったんだなと認識を新たにした。ただ、この人ルックスが平成なのよね・・・。もうちょっと昭和を引きずった感じのする顔の人の方がよかったなぁ。
 あと、撮影がかなり良い感じ(カメラマンの釘宮慎治は『ベルナのしっぽ』や『無花果の顔』を手がけた人だそうだが、どちらも私未見なんでなんともいえませんが)。色合いがビビットなのは監督の意向なのだろうが、ちょっと懐かしい感じのするかわいい絵になっている。ちなみにオリンピックの準決勝映像は、当時のTV中継をそのまま再現しているそうだ。

『テラビシアにかける橋』

 4人の姉妹に囲まれた11歳の少年ジェス。家庭は貧しく、学校でも苛められっ子だ。そんな彼のとりえは足が速いことと絵が上手いこと。しかし転校生の少女に徒競争で追い抜かれてしまう。その少女・レスリーは、ジェスの隣の家に越してきたのだった。学校に馴染めない2人は、家の近くの森で魔法の王国を想像する。
 うっかりするとファンタジー映画のカテゴリーに入れられそうな雰囲気だが、いわゆるファンタジー映画(LOTRとかナルニアとか)とはちょっと違う。この映画に現れるファンタジーの世界はレスリーとジェスの目を通したものであって、あくまで現実世界と地続きだ。映像面にしても、CGでクリーチャーを登場させはするが、ごく控え目。特に最初のうち、ジェスがまだレスリーの想像の世界に乗り切れていないうちは、ちらっと見える程度に留まっている。
 しかしそこいらのファンタジー映画より、ファンタジーの持つ力を描くという点では優れていたのではないかなと思う。私は、ファンタジーは現実を支える、現実にフィードバックされるべきものであると考えているのだが、その点ではこの作品には好感を持った。2人が作り上げるファンタジーが、現実の生活を耐える為の慰めというだけではなく、ファンタジーの中での体験が現実世界にも影響を与える(いじめっこへの対応のように)という所は、正しく子供の成長物語だ。しかしファンタジーの力は大きい故に、人を引き込みすぎることもある。2人を襲った悲劇は「あちら側」へ足を踏み入れすぎたから起きたのかもしれない。優れたファンタジー作品には、こういったところがきちんと描かれていると思う。ジェスを引き止めるのが手のかかる妹であるというところも興味深い。本能的に兄の危うさを察知する感じが、小さい子どもならではなのかなと。ジェスの憧れである音楽教師が結果的にジェスとレスリーを引き離す要因であるというのも象徴的。
 ちょっと難点かなと思ったのは、レスリーが万能美少女すぎるところだ。もちろん、かわいいからジェスの中でアイコン的存在になったとも言えるのだが、レスリーの存在自体がファンタジーっぽくて生身の少年少女の物語という雰囲気が薄れてしまった。想像上の美少女が想像の世界を教えることでジェスを助けてくれた、というふうにも見えるのだ。レスリーとファンタジーの世界とがワンセットになりすぎなのね。

『大鴉の啼く冬』

アン・クリーヴス著、玉木亨訳
 CWA(英国推理作家協会)賞、'06年ダンカン・ローリー・ダガー賞(最優秀長編賞)受賞。日本でも「このミス」海外部門11位にノミネートされたそうだ。英国最北端のシェットランド諸島で、女子高校生が殺害された。過去、同じ村で幼女が行方不明になった事件と関係があるのか?シェットランド諸島の風土の描写が寒々しく陰影が深い。ミステリというよりも、全員顔見知り規模の村社会内でのしょうもない人間模様を楽しむ小説ではないか。ミステリとしてはどんでん返しが少々強引なので。アットホームさと窮屈さは紙一重であり、都会から引っ越してきたシングルマザーが感じるプレッシャーなどは結構生々しい。また彼女の元夫である地元の名士の、あくまで「地元の」名士である小物っぽさなど、ショボショボした感じの描写は上手いと思った。淡々としつつ、うっすら悪意がある感じ。でも「田舎の生活は窮屈でイヤ!」という意識は、読んでいる側にはあまり感じさせないところが不思議でもある。

『快盗タナーは眠らない』

ローレンス・ブロック著、阿部里美訳
 頭に受けた傷が原因で睡眠を取れなくなったタナー。趣味はあらゆる言語を習得することと、あらゆる団体に所属すること。ギリシア・トルコ戦争の際に集められた金貨を手にするべくトルコに乗り込むが、あっさり身柄を拘束されてしまう。しかし留置所で出されるピラフは妙に美味しいのだった。・・・あの、ピラフ美味しいっていうのは本当に本文に書いてあるんです。結構しっかりと。そんな感じの怒涛の展開なのに妙にのほほんとした小説。個人的には大いに楽しみました。タナーの、博識だがさほど強くは無く、妙にあっさりとした性格も好ましい。スパイ小説、冒険小説というよりもドタバタコメディ(時々若干ブラック)に近い味わいがある。しかし執筆されたのが60年代なもので、ユーゴスラビア情勢等、時代を感じてしみじみしました。マケドニアがまさか独立するとは思われていなかったのね。

『泣かない女はいない』

長嶋有著
 タイトルは小癪(笑)ですがいい小説。長嶋は上手いなぁとしみじみ思う。多分そこいら中の書評やら感想文やらで言われてそうだけど、特に劇的なことが起こるわけでもない日常の描き方が実に魅力的なのだ。魅力的な日常に見える、というのではなく描き方が文章として魅力的。あと、表題作は意外にしっかりとした会社員小説になっていると思う。仕事の内容を詳しく書く会社員小説ではなく、会社、特にさほど大きくはないしさほど収益が高いわけでもないであろう会社に勤めるという状況のニュアンスがきっちり出ているのだ。著者は会社員経験てあったのかしら(と思ってウィキペディアで調べたら、大学新卒で一般企業に就職してた)。ぱっとしないがのんびりとした感じが、個人的にすごくよくわかるんですよ。そしてその中で働く女性の悲喜こもごも(というほど華々しいものではないが)というのも。

『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』

  無実の罪で投獄され、妻子を判事に奪われた理髪師ベンジャミン・バーカー(ジョニー・デップ)。15年後、スウィーニー・トッドと名を変えロンドンに戻ってきたバーカーは、パイ屋の女主ミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム=カーター)の助けを借りて判事への復讐に乗り出す。
 みんな大好き、ティム・バートン監督&ジョニー・デップ主演の最新作はゴスの香り漂うスプラッタミュージカル。『ビッグ・フィッシュ』や『チャーリーとチョコレート工場』のカラフルさに物足りない思いをしていたファンには嬉しい作品になったのではないだろうか。バートンのダークサイドがもどってきたよ!舞台は霧深い19世紀ロンドン。色彩は極力控え目えにしてあり、ねずみ色まみれなのだが、噴出す血の色だけは鮮やかに赤くインパクトがある。
 トッドの復讐は元々は判事個人に対するものなのだが、途中から不特定多数に対する殺人鬼と化す。「俺が酷い目にあったのはこの世界のせいだ!俺が生きられない世界なんて嫌いだ!」という呪詛は一歩間違うと逆恨みっぽいが(殺された奴は大迷惑)、この一方的な怒り・憎悪には妙にシンパシーを感じる。こういう所はティム・バートンの芯の部分にあるんだと思う。今まではそっとこの世界を去ったり世界と和解したりとオブラートにくるんできたが、今回もろに復讐しちゃっているもんなー。世界に対する呪詛を吐き出してもエンターテイメントにできるぜ!という自信がついたということでしょうか(そしてちゃんと王道エンターテイメント映画になっている、怖ろしいことに)。
 後先考えないトッドの姿は残酷であると同時に滑稽でもある。手段と目的が入れ替わってきているようにも見えるのだ(「奥さんの顔も忘れちゃったんじゃないの?」と痛い指摘を受けたりもする)しかし残酷さ・滑稽さは彼の悲しみに裏打ちされているものだ。悲しみと過去への執着が強すぎイカレた男が破滅に向かってひたすら邁進する姿が、時にコント化する(ボケ=デップ、ツッコミ=ボナム=カーター)この映画をシリアスなものに留めているように思う。
 またトッドに恋するミセス・ラベットの存在も大きい。彼女は死体の始末に困ったトッドに「じゃあパイにしちゃえば無駄にならないわよ」と提案するくらいには狂っているが、トッドとの将来に対して抱いている夢は実に乙女ちっくだ。海辺のお家に2人で暮らして休日にはお友達を招待するの・・・とか夢見つつ人肉をミンチにしているわけですが。そのギャップがおかしさを通り越して哀しくなってきてしまう。なんか、直視できないイタイタしさがあるのよ。
 さて、トッドとラベットは、顔は白々とし目の周りにはクマ、唇もどす黒いという風貌だ。さながらゾンビ。他の人たちも同じメイクかというとそうでもない。町の人たちとか判事とかは普通の顔だ。トッドとラベットはこの世には最早いられない、死人に等しい存在であり、その象徴があの顔なのではないか。とすると、最後、下働きの少年の顔にもクマが出来ていたというのは興味深い。

『僕らの舞台』

 ニコラ・フィリベールレトロスペクティブで鑑賞。15人の演劇学校制が地元であるフランス、ストラスブールをテーマにした芝居を一晩で作ろうとする様を映したドキュメンタリー。・・・なのだが、これ全くのドキュメンタリーと言えるのだろうか。ドキュメンタリーとしては妙に構図がかっちりしていたり、演劇論争がいかにもいかにもだったりで、かなり演出しているのではないかという印象を受けた。学生たちを撮ったドキュメンタリーというより、学生たちが舞台を作ろうとしているという演技をしている役者を撮っている感じがするのだ。彼らが演じる舞台よりも、それを作ろうとするてんやわんやの方が演劇的に見えてしまうのだ。
 演出しているように見えるというのは、実際に演出しているのかどうかは置いておいて、撮影対象が演劇学校生であるという要素も大きいだろう。やっぱり、役者の卵である以上、見られることには敏感だろう。カメラがあったら多かれ少なかれ、必ず映っている自分を意識していると思う。
 しかし15人で即興劇っていうのは無理だろう・・・。5~6人ならともかく、10人越えたらお互いの動きを読んであわせるのは難しいと思う。そもそもなんで即興に拘るのか謎だ。しかも一晩で舞台作るってのは無謀だ。プランが進まず少々険悪な論争になるのも、そりゃあそうなるわなと冷めた目で見てしまうのだった。

『すべての些細な事柄』

 フランスの、独特な治療をすることで調べる精神科クリニック「ラ・ボルト」。その患者たちが病院スタッフと共に演劇を作り上げていく様を追ったドキュメンタリー。病院と言っても、昔のお屋敷のような雰囲気のある建物に広い敷地、患者は敷地内を自由に出歩くことが出来、1日のカリキュラムやスケジュールも特に無いというかなり自由な雰囲気(症状の軽い患者が主だからだろうが)だ。不思議なもので、演劇を指導する側と指導される側の違いは明確なのだが、一緒に演技していると、どの人がスタッフでどの人が患者なのか、(私がフランス語を分からないということもあり)意外とよくわからない。あんまり大きな違いが無いようにも見えてくる。
 といっても、それぞれ事情のある人たちが相手なので、指導・サポートする側はかなりの忍耐を強いられたのではないかと思う。フランス語には「我慢」という言葉が無い、つまり我慢と言う概念がないということなのだろうが、この映画に出演している病院のスタッフや演劇の指導者(女優のマリー・レディエ)は明らかに忍耐力がある。でも、丁寧だし時間はかけるけど、健常者に指導するやりかたとあんまり変わらない。
 患者や病院スタッフの背景には、映画は一切触れない。一定の距離を置いているのだ。もっとも、冷たいというのではなく、ほどよい親密さが感じられる。というより、物理的にかなり近づいて撮影する為には、心を許してもらわなければならないから、自然と親密になっていくのだろうけど。最後、患者の1人が「社会がぼくを病気にし、社会がぼくを癒した」「(ラ・ボルトにいることが)母親に守られているみたい」と話すのは、ちょっと出来すぎというか、そういったことを言ってくれるのを製作側が期待しているということを読み取られたんじゃないかと感じる部分もあったが。

『音のない世界で』

 ニコラ・フィリベールレトロスペクティブにて鑑賞。フランスのドキュメンタリー作家ニコラ・フィリベールの新作『かつてノルマンディーで』の日本公開を記念し、彼の過去の作品を一挙上映するという企画上映があったので行って来た。なんでも、以前MOMAで開催されたレトロスペクティブより充実しているそうです。やるなーテアトル。
 さて本作は1992年の作品。日本でも公開された。ろう学校の生徒を中心に、彼らの生活を取材した作品だ。フィリベールの作品は、説明が少ない。取材対象のプロフィールや社会背景は殆ど説明されない。インタビューでも、過度に突っ込まない。控え目である。しかし対象に対して非常に親密な、距離感の近さを感じる。撮影対象になっている人たちが、カメラを意識した動きをしていないんですね。特に子供だと、授業中にカメラが近くにあったらチラチラ見てしまいそうなものだけど、あんまり(気になる子はやっぱり気になるらしい
見ない。カメラがある状態に相手が慣れるまで、かなり時間をかけて下準備をしたのではないかと思う。
 ろうあ者たちの学習の現場、また労働し、結婚し、出産して新居を探すというごく日常的な姿を追う。彼ら個々へのインタビューはあるが、家族のプロフィールや、ろうあ者であることによる個人的な体験を淡々と話すに留まる。社会のこういう点が問題だ、だからこうするべき、という方向には持っていかない。それを考えるのは作品を見る側の問題である。フィリベールが提示するのは、これもまた世界の一つの姿であるということだ。そしてその世界は豊かであるということ。基本的に人間に対してポジティブな人なのではないかと思う。
 ところで、ろうあ者の人たちの話で、家族全員ろうあ者であるというケースがかなり多いのが意外だった。ろうあ者同士のコミュニティ内で結婚するケースが多いのだろうか。そういう家庭に育った人の場合、当然のことながら家庭内ではろうあであっても全く問題がない。むしろ、学校に通うようになって、他の子が自分と違ってびっくりしたという話が興味深かった。また、健常者の両親が、生まれて数年経つまで子供が聴覚に障害を持っていることに気付かなかったという話もあって、それはどうなのかと思った。幼稚園とか保育園とかに通っていないと気付きにくいものなの?ちなみに手話が生まれたのはフランスだそうだが、教育の現場で使用されることは長らく禁止されていたとか。冒頭の手話で「歌う」シークエンスが印象的だった。

『無垢から無常へ アート・アニメーションの転換点』

 ロカルノ国際アニメーションで上映された日本人作家の作品の、凱旋上映企画となる。初めてイメージフォーラムの3階に上がった!何か視聴覚室みたいでした(笑)。そして客は私含め2人のみだった・・・。作品は全て短編(最長でも十数分)だが、なかなか興味深かった。全作品簡単に感想述べます。

『鈴の名は』諸藤亨
 CGアニメーション。日本に出稼ぎに来ている人たちが交わす、日本語外国語取り混ぜた会話。人の姿が全て異星人のようでシュールなのだが、ストーリー自体は浪花節っぽくセンチメンタルなもので、意外にキャッチーだ。発されている単語と字幕とが(名刺とか)少しずらしてあって、それによってセリフの意味合いを広げている所が面白い。

『一寸法師』田名網敬一&相原信洋
 クレヨンぽい画材によるアニメーションなのだが、一寸法師がコンドームそっくりな形状。まあつまりそういうことです。セクシャルさがあからさますぎて芸がない。そんなにやりたいですか・・・と少々げんなり。

『お向かいさん』清家美佳
 向かい合う男女の会話を挿し木という形で表現。結構的を得た例えで、言わんとする所はわかりやすい。相手に絡んだり締め付けたりすると、あー今修羅場ですね・・・とわかるわけです。

『鼻の日』和田淳
 なぜ鼻・・・。ビジュアル面では、個人的には一番好みだった。シンプルかつ味わい深い。そしてちょっと不気味。郷愁を誘うが、その郷愁に浸りきろうとするたびに拒否されていくクールさがある。

『そういう眼鏡』和田淳
 『鼻の日』よりも洗練されている印象(こちらの方が新しいようです)。やっぱり何か変だけど。反復していく奇妙な心地よさもアル。絵のタッチが好み。ただ、ほのぼのとしているように見えるが不気味でもある。漠然とした不安感が。

『夜中の三時』野上寿綿実
 厚みがあってちょっと面白い質感だなとは思ったけど、内容的には少々漠然としていた。あんまり印象に残らない。

『忘』大野悟
 昔のカトゥーンのような味わいもあるシュールな絵柄だが、モチーフはセクシャルかつバイオレンス。すごく殺伐とした気持ちになります。生理的な気持ち悪さを意図しているように思う。

『影の子供』辻直之
 性的虐待を受けそうになった姉弟が父親を殺害して車で逃走・・・のように見える作品。鉛筆画を何度も描きなおした様なタッチが面白い。残像をわざと残しているところとか。子供の傷つきと再生というストーリー性が強くて面白かった。尺も長め。しかしやっぱり殺伐としているなー。

『IN IN』斉藤嘉野
 ホワイトボードに描かれた絵を実写とあわせたアニメーション。これは面白かった!アニメーション本来の「動く絵」としての側面を強く感じさせる。NHKの洋二向け番組で放送されてもおかしくない。今回上映された作品の中では荒削りながら一番健やかな感じ。

『カラマーゾフの兄弟』

ドストエフスキー著、亀山郁夫訳
 古典文学としては異例の売上だったという、光文社古典新訳文庫で読んでみた。全5巻。しかも5巻目は本編ちょっとだけ(エピローグのみ)でながーい訳者解説が。ちょっと辟易しちゃった・・・。しかしドストエフスキーに初めて親しむ人には、やはり新訳の方をお勧めする。私もドフトエフスキー作品には強い苦手意識があったのだが、こんなに面白かったのかと目からうろこがぼろぼろ落ちました。本来文章(特に会話文)にリズムのある、テンポの良い作品だったのかしらと思った。なんかねー、壮大なコントみたいなんですよ。文章が新しいと、やっぱり読みやすくなるものなのね。
 父親殺しと兄弟の愛憎というどろどろな物語なのに、妙にコミカルだ。登場人物が皆浮き沈みの激しい気質でやたらとよくしゃべり(ロシア人は皆よくしゃべるんですか)、全編躁状態と言ってもいいからかもしれない。おまいらもうちっと落ち着け!人の話を聞け!とやんわりいさめたくなりました。お互いボール投げるばかりで一向にキャッチしようとしない。ボールを受け取ったかのように見えて、実は相手が投げたボールと別種のボールを手にしているようなちぐはぐな感じもする。会話量は多いのにコミュニケーションが成り立っていないのだ。また、地の文は第三者視点ではあるが、カラマーゾフ一家と同じ土地に住むらしい「私」と設定された語り手であり、いわゆる神の視点のように全知ではない。●●がこう言った、ということは判明しても、それが真実かどうかを裏打ちしてくれる存在はないのだ。●●の狂言ということももちろんありえるし、冤罪ではなかったということもありえる。このへんの収まりの悪さは、訳者解説にあるように、続編を予定していたからかもしれないが。しかし続編があったら読んでみた以かというと、そうでもないんだよな・・・。

『犬猫 8㎜版』

 2004年に公開された井口奈巳監督作品『犬猫』の前身である、自主制作の8㎜版が本作。前々から見たいと思っていたのだが、やっと見ることができた。35㎜版『犬猫』は大好きな映画なのだが(ちなみに当時書いた感想はこちら)、本作はさすがに監督若かったんだなというか、モロに学生の自主映画で、画質は悪いし編集はぎこちないし役者も下手。あー若くて勢いあまっているとこういうシークエンス撮っちゃうよね・・・と恥ずかしくなる所もあった。しかし所々にはっとするようなシークエンスがありほのかに嬉しくなる。ヨーコとスズが、スズがフリマに出すという服を鏡の前で次々あててみるところや、縁側での爪きり、鉄棒でくるくるまわるヨーコなど、いい感じなのだ。これらのいいシークエンスは35㎜版にそのまま移行されている。驚いたことに、8㎜版と35㎜とはコンテが殆ど変わっていない。ロケ地もほぼそのまま。いらないシーンだけがそぎ落とされている。監督はよっぽどこのフィルムに思いいれがあるのだろうと思った。
 動作の一つ一つを丁寧に撮っていくなあと思った。ちょっと長回ししすぎなところもあるので、見る人によっては退屈してしまうだろう。しかし、人の動きをじーっと観察する面白さというものもあるので、人によってはぐっとくると思う。
 8㎜版主演の女優2人は、正直言ってさほどかわいくはない(特にヨーコ役の人は、ちょっと光浦靖子に似ている。いや私は光浦好きなんですよ)。とにかく普通なのだ。そういう人たちがヨーコとスズを演じると、かなり生生しい。ヨーコが片思いしているバイト先の男の子を自宅に誘うが断られる、しかし彼はスズの誘いには乗るというところとか、スズがその男の子に結構分かりやすくアプローチするところとか、ああいるよこんな子!ていうか俺か!くらいの勢いで生々しい。特にヨーコの振られっぷりがイタイタしすぎる。出演者のルックスはある程度良い方が安心して(距離感があるからね)見られるんだなぁと妙に納得した。

『夜顔』

 アンリ・ユッソン(ミシェル・ピコリ)は、コンサート会場で、かつての親友の妻、今は未亡人となったセブリーヌ(ビュル・オジエ)を見かける。彼女は逃げるように立ち去った。アンリは彼女が出てきたバーで滞在しているホテルを聞きだし、会おうとするがまたしても逃げられる。アンリは彼女の秘密を知っていたのだ。
 マノエル・ド・オリヴェイラ監督の新作(といっても製作は2006年)は、なんとルイス・ブニュエル監督の傑作『昼顔』の38年後という設定。いいのかよそれ!とうっかり突っ込みたくなるが、オリヴェイラ監督ほどの巨匠(なんと今年100歳になられるそうです)ともなれば許されるのでしょう。舞台はパリだが昔ながらの街並みのみを映し、豪華な使い方をされるクラシック曲とも相まって重厚な雰囲気をかもし出している。
 さてこの映画、映像は重厚かつ上品なのだが、アンリがやっていることは至って俗っぽい。彼はセブリーヌが夫を愛していながらも裏切り、娼婦として他の男と寝ていたことを知っている。彼はその秘密によってセブリーヌを脅迫しよう、ないしは彼女をどうこうしようというのではない。セブリーヌは、アンリが友人であった夫に自分の秘密を話したのではないかと疑っている。そして、話したのかどうかをどうしても知りたいと思っており、アンリと会うことをしぶしぶ承諾する。そんな彼女の前でアンリは答えを明示せず、ちらつかせるだけちらつかせて彼女をやきもきさせるのだ。要するにいじめて楽しむんですね。(アンリの弁によれば)『昼顔』は若い女性のマゾヒズムとサディズムの物語だったが、本作は年配男性のサディズムの話ということになるのだろうか。セブリーヌ役としてかつて演じたカトリーヌ・ド・ヌーブを起用しなかったのは、諸般の事情があるのだろうが、ド・ヌーブだと威風堂々としすぎていていじめられても屁とも思わなそうだからだったのかも。
 もっとも、必ずしもアンリがセブリーヌより強い立場にいるとは見えない所もある。双方老いてはいるが、なんかセブリーヌの方が人生充実してそうなのね(笑)。経済的にも恵まれているし、不安にさいなまれるだの何だの言っても、ショッピングも旅行も楽しんでいるだろうこれは・・・という雰囲気がするのだ。対してアンリはアル中で健康状態もよくなさそう(ゼイゼイ言ってる)。セブリーヌにちょっかいかけたのも、あまりにも暇かつ寂しかったからじゃないのと思えてくるのだ。全般的に、女性の方が老後を楽しんでそうですよね。

『レンブラントの夜警』

 レンブラント・ファン・レイン(1606~1669)。言わずと知れた17世紀を代表するオランダの画家で、自画像を多く製作したことでも知られる。彼の代表作と言えば「夜警」だが、この作品を発表した後、レンブラントに対する注文は激減、経済的には困窮したまま世を去った。果たして彼の周囲で何があったのか。
 ちょっと見レンブラントの伝記的映画のようだし、「夜警」には何が隠されているのかというミステリ仕立ての要素もあるが、いわゆるミステリ映画や美術史映画を期待して見ると肩透かしを食うだろう。何せピーター・グリーナウェイ監督作品だ。久々の新作となる。様式美(といっても俺様式なんだけど・・・)の強い作品を撮ってきた監督だが、本作は舞台演劇のスタイルを踏襲しているように思える。カメラを低い位置に固定したシーンが多く、客席から舞台を見るような視線となる。また、画面の奥行きが狭く高さがあり、これも舞台っぽい。大きな天蓋付きのベッドや書割のようなバルコニーなども、作り物めいた雰囲気を増幅している。
 さて、レンブラントの時代の肖像画は、払った料金に応じて人物(絵の依頼人)の大きさや露出を決めるのが一般的だった。集団の肖像画で全員一律でお金を払ったのなら、全員平等に露出するように描くわけだ。しかしレンブラントはこの決まりを無視し、「夜警」では人物の大きさも露出もまちまち、しかも一部の人物が滑稽に見えるように(と映画の中では言われている)描いた。彼は人物を記録する為の肖像画ではなく、人物(依頼人たち)を使って自分が見せたいドラマを読み取れるような絵画を作った。対象は画家の手駒でしかない。当然絵の依頼人たちは憤慨し彼を非難する。しかし絵画としては、普通の肖像画よりは圧倒的にドラマチックで面白く、印象に残る。そして実際、生きている間は不遇だったが、レンブラントは巨匠として後世に名を残した。画家が旧来のジャンルから踏み出し新しい表現を獲得していく過程とも見える。
 本作の中でレンブラントの絵画は「人間の肖像を描くのではなく芝居させている」と非難される。しかし社会の中で芝居していない人間などいるのだろうか。彼らは自分に課された身分、職業を演じる。それまでの肖像画だって、「それらしく」見えるように対象を演技させたものとも言える。そして前述したようにこの映画自体が演劇的。絵の中の演技、絵の外の演技、そして絵のモデル・作家を演じる役者たち、という入れ子のような「演技する人」を感じさせる作品だった。

『魍魎の匣』

 京極堂シリーズ2作目。といっても前作とはキャストの一部が変わり(関口役が永瀬正敏から椎名桔平へ変更)、監督も原田眞人に。ついでに言うと京極堂の自宅のロケーションが全く変わってるなど、あまり前作との関係は気にしていないようだ。原作の流れも大分アレンジしてある・・・と思うのだが、何せ原作小説は出版当時に一度読んだきりで、細部は記憶のかなた。えらく面白かったことだけ覚えている。
 さて、前作『姑獲鳥の夏』は実相寺昭夫監督独特のテイストが強く、キッチュな味わいのある映像だったが、今回戦後間もない東京を再現するために上海ロケを敢行したそうで、風景が魅力的だ。過去の日本というより、バーチャル日本というか、日本であって日本でない(土塀も瓦屋根も川辺の柳も明らかに中国ぽいのだが)、国籍不詳な雰囲気がかもし出されている。
 しかし映画としては前作に匹敵する珍作。原田監督はそこそこキャリアの長い中堅で、映画作りには慣れていると思うのだが、そんな人がなぜこんなことをやってしまうのか?と素人目にも首を傾げたくなるところが多々あった。まず、「●●と●●」というように、そのパートでメインとなる登場人物によって映画を章立てしてあり、それぞれの章で時間軸もずらしてある。時間を遡ったり先に飛んだりするわけだ。『魍魎の匣』という箱の中に更に小さい箱が入っているという構造にしたかったのかもしれない。しかし、この構造が上手く機能しているとは思えない。普通に時間軸どおりに進めた方が、原作見読者には分かりやすかっただろう。加えて、このパートとこのパートがリンクして全体像が見えてくる、ということもやりたかったのだと思うが、志半ばで挫折しちゃった感が。
 更に、物語が異常なスピードで進むので、原作を知らないと何が何やらわからなくなりそうだ。また、映画なのに全部言葉で説明しようとするのでよけいに慌しい(原作が饒舌ということもあるのでそれを言うのは酷かとは思うが)。そして展開が慌しいわりに妙なコントを長々とやる。ドリフかよ!
 しかしこの映画が全くつまらなかったかというとそうでもなく、好きか嫌いかで言ったらむしろ好き(笑)と言ってもいい。映画としては明らかに失敗作なんだけど何か憎めないのね。ミステリを放棄してどんどん戦隊モノ(最後はラスボスの巨大基地に潜入するしな)の如く進んでいく展開は妙に微笑ましい。特に、中禅寺(堤真一)、関口、榎木津(阿部寛)が座敷で喋る所は妙にノリがよく、現場は案外楽しかったんじゃないかなと思えてくる。男同士のぐだぐだしたおしゃべり(自分たちだけ楽しい)の描き方は案外上手いのだ。椎名は関口としてはどうかなと思ったのだが(上背も胸板もあるので、昔の洋装がハマってしまい貧相な感じが出ない)、テンパってわけわからないことを喋るうわずった感じは意外に良く出ている。あと、阿部寛にはときめきました(笑)。濃い顔好きなんだなー私。濃い顔と言えば、俳優としての堀部圭亮(青木刑事役)が見られたのがちょっとうれしい。

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