3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『強盗こそ、われらが宿命(さだめ) 上、下』

チャック・ホーガン著、加賀山卓朗訳
強盗を生業とする幼馴染4人を主人公としたクライムサスペンス。襲った銀行の女支店長を拉致したことから運命が狂っていく。読み始めたらいきなり悲劇フラグ発生。そして読めば読むほど悲劇フラグが増加していきます!きゃー!どう考えてもハッピーエンドにならんよこれ。しかし語り口がスピーディーなので、主人公らがずぶずぶ泥沼にはまっていくにも関わらず面白く読めてしまう。特に4人の中心となっているダグは、選んではいけない奴を友人にし、選んではいけない職業につき、好きになってはいけない女を好きになる。選択さえ間違わなければきっと幸せに暮らせたはずなのに・・・。しかもその選択はやむを得ず選んだというわけではなく、踏ん切りつかなくてそうなってしまったという側面が強いだけにやりきれないのだ。土地や、子供時代の記憶にがんじがらめにされる悲劇。銀行の女支店長クレアを挟んで(本人たちは知らずに)ダグと対立するキャラクターとして、FBI捜査官フローリーが配置されているが、彼視点のパートはあまり必要なかったように思う。ダグとその仲間の関係が中心にあるので、フローリーとの因縁があまり活きて来ない。

『クローズZERO』

 高橋ヒロシの人気漫画「クローズ」を、オリジナルストーリーで三池崇史監督が映画化した作品。不良の巣窟である男子校・鈴蘭高校に、一人の転校生がやってきた。その男・滝谷源治(小栗旬)は、ひょんなことから知り合った鈴蘭OBのチンピラ片桐拳の協力を得、不可能といわれていた鈴蘭制覇に乗り出す。そんな彼の前に立ちはだかるのは、最強・最凶と称される片桐多摩雄(山田孝之)だった。・・・あらすじ書いてみただけでも、ものすごく突っ込み甲斐のある設定(鈴蘭てどんなネーミングセンス)だが、そこに突っ込んではいけない。そういう世界なの!強敵(ライバル)と書いて盟友(とも)と読むの!
 冷静に考えると、学校というものすごく狭い世界(しかも3年間限定)で争っているスケールの小さい話のはずなのに、語り口のスケールは妙にでかいという不思議さ。もっとも、この手の設定は日本の漫画ではそう珍しくない。一般的になっちゃってるというのも不思議だが。アメリカとか中国とかにも「●●高校の帝王を目指す」みたいなパターンてあるのだろうか。強さによってのし上がるというストーリーは王道としてあっても、現代劇で、未成年が主人公で舞台が学校(ないしは何らかの限定された場)というのはちょっと思い当たらない。いわゆる学園ものというわけではなく、一種の戦国ものとか任侠もののようなファンタジーと言ってもいいと思うのだが、その舞台として学校が選ばれるという所が興味深い。原作の読者層が10代20代だからというのもあるだろうけど、ある程度閉鎖的な空間なのがいいのかしら。
 さて、本作の監督は三池崇史なのだが、この人は本当に男性集団の話を撮るのが好きだし得意なんですねー。ホモソーシャルな集団との親和性が妙に高い。本作には一応ヒロイン(黒木メイサ)がいるのだが、文脈上必要ないし、主人公がヒロインに惚れているということにはなっているのだろうが、それを示すような演出はなおざりだ。相手に対する愛着や共感、相互理解はむしろ男性間で示される。男女間の感情が妙に淡白なのに対し、男性間の感情は好意であれ悪意であれ濃い。ハーレム幻想とはまた違った形の男の子のファンタジーとも見える。
 所で、方々の映画館感想サイトやブログで「黒木メイサのライブシーンがひどい」という話を目にしていたのだが、これは確かにひどい(笑)。一番盛り上がるところでこれをもってくるなんて、やけっぱちにも程がある。「えーえー大人の事情に屈しちゃいましたよ」というやさぐれた臭いがぷんぷんします。歌唱力もないし曲のセンスも悪いのだが、そもそも黒木をきれいに撮ってやろう意思が殆ど感じられない。多分ディレクターズカット版出たら黒木がいなくなっているんだと思う。
 コメディ寄りのシーンが案外面白い。源治が泣き上戸なところと、「ソープ」のところがツボでした。あと、拳が出てくるシークエンスは総じてよかったように思う。監督的にもお気に入りのキャラだったのではないだろうか。

『ALWAYS 続・三丁目の夕日』

 日本中が涙した(多分)ヒット作品の続編。監督は前作に引き続き山崎貫。鈴木オート一家は、一平のはとこ・美加を預かることになり、茶川は淳之介を育てる為、もう一度芥川賞に挑む。
 冒頭のサプライズを筆頭に(予告編を見た時、堤真一が運転するの三輪オートのすっ飛び方が誇張されすぎで違和感を感じたのだが、そういうことだったのね)、風景にしろセットにしろ小道具にしろ実に良く作りこんである。当時を体験している人はもちろん、していない人にもよく出来たテーマパークで遊んでいるような楽しさがある。また、前作で登場した全ての主要キャラクターのその後が、分量の差はあるものの描かれていて盛りだくさんだ。もっとも、30年代の東京と言えばこれを見せなくちゃ!あの人に触れたらこの人にも触れなくちゃ!というサービス精神が強すぎたのか、映画としてはかなり長く、冗長になりかねない。茶川(吉岡秀隆)が川淵(小日向文世)に空港に連れてこられるシーンや、鈴木の妻(薬師丸ひろ子)が銀座でかつての恋人(上川隆也)と再会するシーンは、物語の展開上、あまり必要ない。当時の飛行機を、銀座を見せたかったということなのだろう。
 さて、その鈴木の妻と昔の恋人の再会シーンだが、いくらベタでも限度がある!というくらいにベタなものだ。どんな偶然だそれはと突っ込む一方で、なぜか「くるぞくるぞくるぞキターっ!」という満足感が沸いてくる。本作はこういった、いわゆる物語上の王道、お約束をてんこ盛りにしている。普通だったら「月並み」「ありきたり」「手垢が付いた」とけなされるような展開をあえてぼんぼん投入する姿勢はいっそ清々しいし、本作に期待されているのはそのベタ感に他ならないだろう。観客の予想と期待を何一つ裏切らないのだ。ご都合主義だろうが何だろうが「来るよ」と思った展開はだいたい来ます!ここまでベタが許される作品は近年稀だと思う。そういう意味では貴重。
 人気作の続編としては過不足無く、なかなかの良作と言えるだろう。しかし、見た後には幸せな気分を上回る寂寥感に襲われる。やっぱり過去を舞台にした物語って、それが幸せであればあるほど寂しくなってくる。この人たち(架空の人たちであっても)が期待した未来になっているのだろうかと思ってしまうのだ。本作の中ではお金の話、そして「お金より大切なものがある」という話が折に触れて出てくるし、それが作品のテーマでもあるだろう。物語の王道としては正しい。が、映画を作っている側が、「お金より大事なものがある」と信じて作ったというより、せめて映画の中だけではそう主張させてくれと思って作ったんじゃないかしらというような、微妙な悲壮感を感じるのだ。エンドロールで流れるBUMP OF CHIKENの『花の名』が寂しさを掻き立てるのかもしれないが。ちなみにバンプ起用は意外だったのだが、案外合いますね。

『眠り姫』

 非常勤講師の青地(つぐみ)は最近調子がおかしく、いくら眠っても眠り足りない。長年つきあっている恋人(山本浩司)との仲も停滞気味だ。同僚教師の野口(西島秀敏)には「顔が膨らんできた」と笑われる始末。
 内田百聞の短編小説「山高帽子」を原点とした山本直樹の漫画が原作、ってややこしーなー。ちなみに私はどちらも未読です。
 この映画のフレーム内には、人の姿が殆ど映っていない。主人公をはじめとする主要な登場人物が映らないのではなく、校舎内にいる生徒たちも映らないし、雑踏の人ごみも移らない。声とざわめきだけがある。姿は見えないのに気配だけあるので、幽霊たちのやりとりを聞いている様でもある。また、だんだん映画の中の時間軸がどういうことになっているのか、曖昧になってくる。既に聞いたセリフが違う場所で繰り返されてあり、青地と他の人との認識が微妙に食い違っていたりする。青地は夢を見ていたのか?そもそもこの映画における「私」は本当に青地のままなのか?といった、映画の主体が揺らぐような感覚を覚えた。揺らぎの果てにあるラストのショットは、ホラーなみに怖かった。これは誰が見ている風景なのかと。
 夜明け、夕焼けの映像が随所に使われているが、とても美しい。風景とセリフだけで構成された作品と言うと、一昔前のサウンドノベルみたいなものを連想するが、それとはまた違う面白さがあった。監督は七里圭。レイトショー上映だったが、ほぼ満席だった。

『自虐の詩』

 名作と名高い業田良家の4コマ漫画がまさかの実写映画化。貧乏で発行な幸江(中谷美紀)と、無口で無職な乱暴者イサオ(阿部寛)のカップル。イサオは金はせびるしちゃぶ台はひっくり返すしで、ろくな男ではないように見えるが、幸江はひたすら彼に尽くすのだった。監督は『トリック』の堤幸彦。
 実は私、原作漫画はあまり面白いと思わなかったし、あまり好きではない。幸江は客観的に見ると不幸なのだが、本人は不幸だとは思っていない。何たってイサオを愛しているのだ。しかし私はどうしても、幸江の境遇は不幸だと思ってしまうし、いくら良いところがあるにせよ、何でまたちゃぶ台ひっくり返す甲斐性なしと延々暮らしているのかと思ってしまう。映画の方では、幸恵が「自分は今幸せなのか?」と自問し「幸せになりたい」と思っていることで、原作漫画よりは多少とっつきやすかった。
 さて、堤監督と言えばエキセントリックで悪ノリとも取れる派手な演出が特徴だったが、今回はびっくりするほど王道な人情映画になっている。奇をてらった映像もあまりない(スローモーションによるちゃぶ台ひっくり返しシーンは力入っていたが)。ストーリーにしても「幸せは気付かないうちにすぐそばに」「貧しくとも幸せ」という王道中の王道(もっとも、物語的にはこれまでも意外にベタなものを持ってくる監督ではあったと思う)。いよいよ王道回帰ですかと思ったのだが、まだ何となく迷っている印象を受けた。これ必要ないんじゃないの?という映像(カメラ逆さだったり、妙にガーリーな逆光入り映像だったり)が所々にあって、あら監督てば昔の自分を思い出しちゃったのかしらと思った。もっと王道、ベタに徹してもいいように思うし、それができる監督なんじゃないかなと思っているのだが。ここが踏ん張りどころでは。

『タロットカード殺人事件』

 ロンドンの友人宅に遊びに来ていたアメリカ人学生サンドラ(スカーレット・ヨハンソン)は、マジックショーを見に行った時に敏腕記者ストロンベルの幽霊に遭遇する。彼は世間を騒がしている連続殺人事件の犯人は、イケメン青年貴族ピーター・ライモン(ヒュー・ジャックマン)だとサンドラに教える。スクープをモノにしようと、サンドラは奇術師シド(ウッディ・アレン)を巻き込んでピーターとの接触を試みるが。
 ウッディ・アレン監督の新作は、『マッチ・ポイント』に引き続きロンドンが舞台だ。すっかりイギリスになじんじゃったなー。そしてアレン映画のミューズも前作に引き続きスカーレット・ヨハンソン。今回改めて思ったのだが、アレンて微妙に品の無い女性が好みなのだろうか。ヨハンソンは美人でセクシー(最近の若手女優としては珍しく、小柄でムチムチしてますよね)だが、声がしゃがれたダミ声で、どんなにハイソな役柄でもビッチ感が拭えない(ヨハンソン本人が下品かどうかとは全く関係ありません。あくまでイメージです)。アレン映画お約束のペラペラ早口なセリフを喋らせるとそれが更に際立つ。前作『マッチポイント』で彼女をルックスはいいが性格に難ありな女に設定したアレンは見る目あるわ。私はビッチ感あってこそのヨハンソンだと思うので、この路線でどんどんやってほしいです。
 しかし今回のヨハンソンの役どころは、「一見地味な眼鏡っ子で服のセンスはダサいが、実はナイスバディで意外に尻軽」な、おいおいお前どんな妄想ですかそれ!という女子大生。あの体型でダサい服を着ているというマニアックさ。さすがアレン先生であります。更に、その体型で着る水着が野暮ったいエンジ色のワンピース(最早映画内だけでなく現実の店舗でも競泳用以外のワンピース水着を探すのが難しい世の中ですよ)だったり、「彼氏の家にお泊りした朝、下着の上に男物のシャツを羽織る」という一部(でもないか)男性がやたらと好む姿があったり、サービス満点である。いや監督がそういうのを見たいだけだと思いますが。
 それにしてもサンドラもシドもやたらとよく喋る。アレン作品の特徴ではあるが、若干イラつくくらい良くしゃべる。テンポがいいというより、テンポが速すぎて段々おかしなことになってくる感じが面白い。意味の無いマシンガントークのノリが苦手な人には苦痛だろうが。とは言え、しち面倒くさいことのない軽快なコメディなので、気軽に楽しめていい。アレン作品は極力意味ない方が好きだなぁ。ちなみに邦題では「殺人事件」と銘打っているが、謎解き要素はあまり強くないのでご注意を。あくまでコメディです。冒頭で小船に乗ってあの世に向かうストロンベルが登場するくらいですから。

『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』

シオドア・スタージョン著、若島正編
 スタージョン作品としては情感もいまいちSFとしてもいまいちで、どうも中途半端な印象を受けた。自腹切って失敗したかな・・・。ただ、「午砲」にしろ表題作にしろ、いわゆる男らしさに違和感を感じる男性が描かれているところは著者の作品らしい。特に「午砲」はしょっぱいというか切ないというか。実体験に基づいているのかしらとか思うと泣けてきますなー。でもこういう男性の方が多いんじゃないかと思う。

『花蓮の夏』

 台湾の田舎町で育ったジェンシンとショウヘンは親友同士だ。小学校の厄介者だったショウヘンに頭を悩ました先生が、優等生のジェンシンに「友達になってあげて」と頼んだのがきっかけだった。高校生になったジェンシン(ブライアン・チャン)とショウヘン(ジョセフ・チャン)は相変わらずつるんでいたが、2人の間に転校生の少女ホイジャ(ケイト・ヤン)が現れてから、2人の関係は揺らいでいく。監督はレスト・チャン。長編はこれが2作目になるそうだ。ちなみに岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』に影響を受けたとのこと。確かに映像の雰囲気似ています。
 台湾の映画を見ると、風景にしろ空気感にしろ、なんとなくああいいなぁと思うことが多い。本作も高校のある田舎の風景が、海があって水田があって、目にやさしい。水の豊かな風景っていいなー。そんな目にやしさい風景の中で目にやさしいルックスの青少年らが三角関係を繰り広げる。こういうキュンキュン切ない青春映画は私は苦手なはずなのだが、本作には不思議と苦手感を感じなかった。おそらく、3人の感情の発露がごく控えめだからだろう。いや、ショウヘンは好意をストレートに表すが、屈託なさ過ぎてあっさりしているのだ。ジェンシンとホイジャも自分の思いはひっそりと抱え込んでいる。3人とも若者らしい荒っぽさを垣間見せるが、どこか折り目正しい雰囲気があるのが不思議だ。青春映画としてはかなりベタだけど、いやみではない(岩井チックなキザさはご愛敬だ)。
 さて、何がびっくりしたって、ストーリーが非常にスタンダートなやおいのフォーマットにはまっているということです(やおいがわからない人は以降はスルーしてください)。えっ私この話知ってるんじゃない?どこかで読んだことあるんじゃない?と素で思った。終盤の展開なんて王道中の王道ですよ。最早BL大国になってしまった日本の映画ならともかく、台湾からこういう映画が出てくるとは・・・。マジでやおいのお手本みたいなのでびびりました。どのへんを客層に設定しているのか、これでメジャーを狙うつもりなのか、戦法が大変気になります。台湾ではどういう受け取り方をされているのだろうか・・・。日本ではゲイ&レズビアン映画祭に出品するなど、ゲイムービーとしての側面も押し出されているようだが、リアルなゲイムービーというより、むしろ少女漫画的。

『木曜の男』

G.K.チェスタトン著、吉田健一訳
 無政府主義者の秘密結社に潜入した主人公だが、幹部たちの意外な正体が次々と明らかに。へ、へんな小説だなこれ・・・。ミイラとりがミイラに、いや同じ穴のムジナ?冒険小説かと思ったら、思想小説みたいになってくるし、だんだん悪夢のような展開に。チェスタトンてこんなのも書いてたのか。ロジカルな短編の印象が強かったから意外だった。飲食店のテーブルがぐるぐる回転しながら秘密のアジトへ下降していくという設定は素敵だと思いました。わーアニメみたい!

『アフター・ウェディング』

  インドで孤児院を経営するヤコブ(マッツ・ミケルセン)は母国デンマークの実業家ヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)から巨額の寄付金の申し出を受ける。ただし、直接ヨルゲンに会いに行くことが条件。久々に帰国したヤコブはヨルゲンの娘の結婚式に招かれる。断りきれずしぶしぶ出席したヤコブだったが、ヨルゲンの妻は彼のかつての恋人だった。
 登場人物達は、皆大分身勝手に見えるが、それぞれその人なりの家族愛により行動している。家族への思いに最も強く(ある事情により)動かされているのはヨルゲンなのだが、この人お馬鹿さんなんじゃないかしらという思いがずっと拭えなかった。彼は家族によかれと思い、ある計画を立て着実に手はずを整える。しかし、「そんなことより先にやっとくことあるだろ!」と突っ込みたくてしょうがなかった。そういうのは、妻や娘が自分で解決することで彼が手を回しておくべきことではないし、回しておいてもしょうがないという側面もある。そんなふうに気を回されても、妻子は後で辛いだけだろう。彼のやっていることは妻子に辛い思いをさせたくないからではなく、自分が辛い思いをしたくないからだ(妻子はどっちにしろ辛い思いをすることになるのだから)。また、そこまで準備万端にしておくというのは、妻や娘を随分と見くびったことのように思える。彼女らは彼が思うよりも多分タフだ。何より、人間は思いも寄らないことをしばしばやる。準備万端にお膳立てしても、相手がそのお膳立て通りに動いてくれるとは限らないのだ。もっと事務的なところから順次片付けていくべきでしょ!というかそれをやっておいてくれないと一番困る!
 対して、ヤコブの選択はどうか。彼の選択には賛否あるだろうが、少なくとも、相手にとって何が必要かは的確に見極めていたのではないか。子供は案外タフなのだから。

『4分間のピアニスト』

  囚人にピアノを教えるクリューガー(ハンナー・ヘルツシュプルング)は、かつては天才児と評判だったが暴力的で、刑務所内でトラブルばかり起こすジェニー(モニカ・ブライブトロイ)を知る。クリューガーはジェニーとのレッスンに臨むが。監督はクリス・クラウス。
 いわゆる師弟愛や音楽の素晴らしさを詠った作品ではない。予告編を鵜呑みにしたら期待はずれになってしまうかも。本作の音楽は確かに素晴らしいのだが、それが映画の主題ではないと思う。また、クリューガーには戦時中に辛い過去があり自分を責め続けているが、そういった問題が中心にあるわけでもないだろう。この映画は強烈なインパクトがあるが、その強烈は2つの才能が持つエゴのぶつかり合いによるものだと思う。
 クリューガーとジェニーにはそれぞれ才能があり、お互いにその才能を理解している。が、その才能は交わらない。音楽を媒介に2つのラインが一瞬触れ合うことはあるし、特にクリューガー側はもう一歩踏み込みたいという思いもある。しかし彼女(ら)の中の何かが、もう一歩、に抗うのだ。その抗う部分が彼女(ら)の人格、そして音楽の根幹にあるものなのかもしれない。「私の美しい音楽」と「あなたの美しい音楽」は違うのだ。
 クリューガーは他人の過去には興味がなく、ピアノの運送人が元受刑者でも構わないと言う。他人に興味が無いというよりも、自らの過去の経験から、ある種の諦観を持っているように見える。一方、彼女の重い過去に対して、ジェニーは「どうでもいい」と切って捨てる。こういう世代がドイツに出てきたのかという思いもあるが、それ以上に、この人たちは音楽以外に興味がないのだろう。看守がクリューガーに対し、「なんで私には冷たいんです」となじるが、一重に彼には才能がないからだ。突出した才能とは残酷なものなのかもしれない。
 ジェニーのピアノの吹替えをしているのは日本人ピアニストだそうだが、これが素晴らしかった。最後の4分間も素晴らしいのだが、私がより撃たれたのは、看守に重傷を負わせたジェニーが手錠をかけられたままで演奏する音だ。ジェニーの姿は後姿がちらりと写るだけで、騒然とした刑務所内に音楽が響く。音の荒々しい存在感が圧倒的だった。

『ボビーZ』

  元海兵隊員のティム(ポール・ウォーカー)は喧嘩っ早さとマヌケさが災いして刑務所暮らし。そんな彼に、伝説的麻薬王「ボビーZ」の替え玉となって囮捜査に協力しろという話が持ちかけられた。失敗すれば命はないが、成功すれば自由の身だと言う。一か八かで話に乗ったティムだが、コトの裏には彼のあずかり知らぬ謀略があり、ギャングや捜査官に命を狙われる羽目に。
 原作はドン・ウィンズロウ著『ボビーZの気だるく優雅な人生』だが、それなりのボリュームのある原作小説に比べて、映画は大変コンパクトだ。予告編含めて2時間足らずという、今時珍しい短さ。この点は大いに評価したい。娯楽映画は短くあるべきだと個人的には思う。
 そして映画としてどうかというと、かなりユルい(笑)。主人公が叙勲されたこともある元海兵隊員ということで、それなりに(というかかなり)強く、アクションもそこそこ派手(爆破シーンとかは微妙にショボいですが)。しかし、アクションとアクションの間のエピソードの繋ぎ方がとりとめなく、盛り上がりに欠ける。ダラダラしているのだ。また、冒頭でティムのマヌケ振りが強調されるが、いざ窮地に立たされると、それほどマヌケじゃないし少年を守って大奮闘したりするし、この人が何で何度も刑務所入しているのかよくわからんわーということになってしまう。ヒロインと惹かれあう理由もよくわからないし、ストーリーがちぐはぐなのだ。コントとアクションが交互に挿入されている感がなくもない。コントと言えば、クライマックスのコテージ内での格闘は、コテージの作りがちんまりしている(ティムが伸び上がって天井に頭ぶつけたりする)ので、人形の家で暴れているようなちぐはぐ感があり、よけいにコントっぽかった。
 ではこの映画がダメかというと、まあダメと言えばダメ、というか出来は良くないのだが、私は嫌いではない。ボーっと眺める分にはこのくらい隙がある方が気楽でいいのよ。カリフォルニアの風景もカラっとしていて明るい気分になるし、音楽も適度にダサくて気が置けない映画という感じ。よく出来た映画だと、盛り上がるし充実感は得られるけど、リラックスにはならないのよね。
 主演のポール・ウォーカーはいまひとつ印象の薄い2枚目なのだが、彼のインパクト不足を悪徳警察官役のローレンス・フィッシュバーンの顔力が補っていた。フィッシュバーンて、見れば見るほどすごい顔してるよなー。顔だけで一つの才能だと思う。また、子役の少年が、いわゆるかわいい子役ではなく、体型はぽちゃぽちゃだし顔は情けないしで、ルックスいまいちなのが却って新鮮だった。こんな子、南米のどこかの国にはきっと普通にいるぞ!顔も体型もヘタレなのに言動は結構しっかりしている所もキュートでした。
 ちなみに監督のジョン・ハーツフェルドって他に何撮ってたんだっけと思ったら、『15ミニッツ』の監督・脚本やってたのね。『15ミニッツ』は結構スリリングで面白かったのに、本作はなぜにユルユル映画になってしまったのだろう。

『赤朽葉家の伝説』

桜庭一樹著
 山陰地方で製鉄所を営む名家の女三代記。あらー、桜庭上手くなってるわー。正直驚きました。普通に大河ドラマになっている。共感できる部分がなくてもきちんと面白く読めるのだ。これは勝負に来ましたね的な、著者にとって記念碑となる作品では。ただ、最後のミステリ要素は無理やりつけられたようで、必要を感じなかった。また、時代が現代に近づくにつれ徐々に生彩を欠いてくる。ストーリーやキャラクターのどこか神話的な性格と、時代背景とがかみ合わなかったように思う。語り手の自覚により神話から一つの家族の物語への引き下ろしを意図したのかもしれないが、そうするには各女性キャラクターが強烈すぎる。時代の雰囲気の描写が紋切形なのも、なぜ今これなのかとちょっと疑問ではある。

『魔のプール』

ロス・マクドナルド著、井上一夫訳
探偵リュー・アーチャーは、自分の不倫を告発する手紙の差出人を探してほしいという依頼を受ける。しかし依頼者の女の態度はどこか煮え切らず、彼女の家族も変わり者ぞろいでぎこちない。そして殺人事件が起きる。シリーズ初期の作品だからか、まだ路線が定まっていない感じがする。アーチャーが妙にタフぶっていたりアクションがあったりと、タフなヒーローが活躍する普通のアクション小説みたい。しかし家族の問題に対する関心はこのころから一貫していたようだ。エディプスコンプレックスやらエレクトラコンプレックスやら、現代ではすっかりポピュラーとなった(というかもはや陳腐化しつつある)言葉が新しいものとして持ち出されているあたりに時代を感じた。流行ってたのねー。

『ヴィットリオ広場のオーケストラ』

 近年のイタリア映画を見ていると、イタリアへの移民の多さを実感することがしばしばある。不法入国問題が関わる『13歳の夏に僕は生まれた』もそうだし、主題として扱っているわけではないものの主人公が東欧諸国からの移民である『題名のない子守唄』もそうだった。イタリア国内では移民が労働力として欠かせなくなっており、同時に元々居住していたイタリア国民は移民に働き口を奪われ、軋轢も生じる(映画の中にも、地元民の就職先確保の為の移民排斥を訴えるデモが映される)。ローマのヴィットリオ広場周辺は特に移民が多く、60以上の民族が暮らしているそうだ。その相互理解の為、ミュージシャンのマリオと映画作家のアゴスティーノ・フェッレンテ(本作の監督)は、広場にある古い映画館「アポロ劇場」を再生させようと、多民族・多国籍によるオーケストラ結成を目論む。しかし資金不足、メンバー不足、メンバー間のいざこざなど問題は山積だった。
 主催する2人が、かなりの見切り発車で企画を進めてしまうのには驚いた。メンバー足りない、お金も足りない状況でイベント出演にOKしてしまう。なんとかメンバーが揃ってもリハは1週間だけとか、楽天的なのかやっつけ仕事なのかわからない。これはイタリアの国民性なのだろうか。日本だったら、まず資金とか期間とかの目処がついてから着手しそうだ。
 そういうわけなので、オーケストラの練習風景、音楽的なところがメインのドキュメンタリーなのかと思っていたら、実際はメンバーが揃うまでに結構な分量を割いている。マリオとアゴスティーノがどんどん「もうダメ・・・」という顔になっていくのがおかしくも情けなくつい同情してしまった。また、もっと短期(1年くらい)のプロジェクトを追ったのかと思ったら、何と5年。映画の中に垣間見られる以上に難航していた様子が窺われる。それでもなんとかものにしちゃうやる気(資金なんて最初はスタッフの自腹ですよ)がすごい。やる気で実務的な問題がなんとかなってっちゃうという事例だったように思う。
 さて、音楽は国境を越える、言葉は通じなくても音楽で分かり合えるとよくいわれるが、本当にそうだろうか。確かにある程度は異文化同士でも通じるかもしれない。本作の中でも、楽譜なし(譜面に起こせない音が多いし譜面読めない人もいるので、アウトラインを録音したものを聴いて覚えるのだ)、人によっては言葉もよく通じない中、なんとかオーケストラは形になっていく。しかし音楽にもやはり、言語と同じように文法がある。あまりに基礎の文法が違うと、すり合わせすら困難なのではないかと思う。本作に出てくるオーケストラのメンバーの母国は欧米と中近東がメイン。ローマには中国系の移民も多いそうだが、東アジア地域のメンバーはいない。候補者がいたのかどうかは分からないが、中国とか韓国あたりの音楽だと、音楽の文法が違いすぎて一緒にやれそうもなかったというのもあるのではないかしら。
 ついでに、どんなに音楽の技能が高くても、プライドが高すぎたり神経質すぎたりすると、オーケストラでやっていくのは無理なのねということも分かるドキュメンタリーだった。どのジャンルであれ、集団で何かをやるには、ある程度のおおらかさやコミュニケーション能力が必須なのね。才能があればいいってもんじゃないのか。
 
 

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