3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ハイスクールU.S.A アメリカ学園映画のすべて』

長谷川町蔵、山崎まどか著
 アメリカのいわゆる「学園もの」映画(というジャンル名はアメリカにはないそうだ。ハイスクールを舞台とする映画という程度のとらえ方みたい)について、このジャンルにめっぽう詳しい2人が語りまくる。カバーしている範囲の広さも知識の豊かさもすごいのだが、何より学園映画に対する愛がほとばしっている。注釈と索引の充実っぷりがすごい。データブックとしても使えそう。それにしてもアメリカのハイスクールってどこの帝国?みたいな強固なヒエラルキーがあって恐ろしい。地味な不細工は死ねというのか!ティーン向けの映画から、アメリカ社会が垣間見えて大変面白い力作。

『きれいな猟奇 映画のアウトサイド』

滝本誠
 題名の通り、猟奇的な映画ばかりを扱った映画評論集。まずは『ツイン・ピークス』からでしょう!というわけでデイビッド・リンチへの愛にあふれています。これを読むとリンチ作品見てナイン・インチ・ネイルズ聴かなくちゃならない気になってくる。掲載誌がバラバラなのにも関わらず妙な統一感があるのは、内容の偏りっぷり故か。ミステリ・ハードボイルド・ノワール映画が好きな人は必読でしょう。著者の饒舌な語りがまた楽しいのだが、注釈までもが饒舌すぎてちょっと読みにくかった。面白さは抜群なんですが。英語タイトルは「THIS SWEET SICNESS」。この病は治りそうもない。

『孔雀の羽の目がみてる』

蜂飼耳
 日常の風景、本にまつわる話、旅にまつわる話と3部にわかれたエッセイ集。全く異種と思われていたものが一編の中に投入されて、ちぐはぐなような気もするが、やはりどこかでイメージが繋がってくるという所は、著者の本業である詩にも似ている。文章そのものに魅力のある一冊だった。思いがけなく「アラン島」(J・M・シング)の話が出てきたのがちょっとうれしかった。

『霧舎巧傑作短編集』

霧舎巧著
 デビュー前の作品も含めた本格ミステリ短編集。でも傑作というのはちょっと言い過ぎかも。’94年の作品である「手首を持ち歩く男」はさすがにちょっと苦しいし、他作品も文章がつたない。しかし書き下ろし「クリスマスの約束」を読むとなるほど、と。さすが伏線の鬼。しかしこの人の本領はやはり長編にあると思う。短編だと、得意とする伏線があまり活かせないのが物足りなさの一因か。文庫版解説が本格ミステリビギナーにもわかりやすいものなのでお勧め。

『めぐらし屋』

堀江敏幸著
 死んだ父親が暮らしていたアパートに片付けの為に出向いた蕗子。そこに「めぐらし屋さんですか」と尋ねる電話がかかってくる。父親はいったい何をしていたのか。著者は「何物でもない人」「どことも言えない場所」に対する愛着、思い入れを持っているように思う。蕗子の父親は世間一般から見たら決して人生の成功者というわけではないだろうが、本人の中では充足しているのだ。内向きとも言えるだろうが、そういう姿勢のまま他者とゆるやかな関係を結んでいく姿は、むしろ好ましい。そっと生きることの美しさがあると思う。

『黄色い涙』

 永島慎二の同名マンガを原作とした、犬童一心監督の新作映画。1974年にNHKで原作を同じくするドラマが放送されたのだが、犬童監督はこのドラマを好きだったのだとか。主演はアイドルグループ・嵐の5人。
 漫画家の村岡栄介(二宮和也)が暮らす6畳一間のアパートに、ひょんなことから知り合った歌手志望の井上章一(相葉雅紀)、画家志望の下川圭(大野智)、作家志望の向井竜三(櫻井翔)が転がり込んだ。近所の酒屋の店員・勝間田祐二(松本潤)や章一に思いを寄せる食堂の娘・時江(香椎由宇)に心配されつつ、彼らの共同生活が始まった。
 舞台は1963年の東京。セットにはかなり力が入っているので、当時の東京を知っている人にはとても懐かしいかもしれない。舞台が私の地元近辺なもので、(当時のことは当然知らないのだが)感慨深いものがあった。夢はあるけどお金はなく、そこいらのものを質屋に入れて食費に当てるという生活。しかし、貧乏臭さや悲壮感よりも、若い男の子ががやがや集まって楽しそうだなぁという雰囲気が強い。バーチャル貧乏とでも言いましょうか、実際に若い男の子が何人も部屋に転がり込んでいたら、もっと部屋が汚れるし、何か臭ってきそう(ごめんね男子諸君)な雰囲気がありそうなものだ。この映画は「貧乏」「汚い」という設定ではあるが、どこか小ぎれいでミニチュアールめいている。これが物足りない、ぬるいという人もいるかもしれないが、意図的にこぎれいにしているのだろう。原作が永島慎二とは言え、嵐が主演である以上アイドル映画であることは免れないし、観客の大半は嵐ファンの女の子だろう。リアルに貧乏くさく汚れていたら、ファンはひいてしまう。嵐ファンをひかせず、アイドルを立てつつアイドルのファン以外も楽しめるようにするという、犬童監督のさじ加減を見た。
 ただ、映画としてはちょっと冗長で、メリハリに欠ける。基本的に小さいエピソードの連続という構造なので、流れがだらだらとしてしまっているのだ。これは脚本の問題だろう。悪くはないのだが・・・。しかし展開上のメリハリはいまひとつだが、犬童監督はここぞという所で役者が魅力的に見えるショットを入れてくるので、それで映画がもっている感じがした。意外にアイドル映画には向いているのかしら。
 4人の男の子が同居する、いわば夏休み的な夏の日々は楽しげだ。しかし夏休みはいつかは終わる。この物語を通り一遍のアイドル映画と隔しているのは、これが基本的に夢敗れた人たちの物語だからだろう(映画の設定は『トキワ荘の青春』に似ているが、この点が大きく違う。トキワ荘の面子は将来のスターだもんね)。細々と自分のマンガを描き続ける村岡以外は、皆夢を捨て、生活の為にごくごく普通の職に就く。後味はほろ苦い。しかしそれを敗者とは呼ばないのがこの映画の優しさでもある。夢を捨てることが不幸になることというわけではない。ただ一人夢を語らなかった勝間田の故郷での姿が、それを雄弁に物語っているのだ。夢を追うこと、夢を諦めることを否定も肯定もしない姿勢が、むしろ誠実だったと思う。若いお客さんを意識してのことだろうか。
 嵐の5人はなかなか健闘していたと思う。ハリウッド映画に出演してしまった二宮は最早安全パイだろうが、ドラマ出演のイメージのあまりない相葉、大野も味があったと思う。特に大野が意外に良くてびっくりした。多分彼本来のキャラクターによるところも大きいのだろうが、天然でどんくさい(褒めてます)役柄にはまっていた。あと櫻井が潔く半ケツを披露しているので、ファンの皆さんはぜひ(笑)。

『主人公は僕だった』

 国税局職員のハロルド(ウィル・フェレル)は同じような毎日を繰り返す平凡な男。しかしある朝彼は、自分の行動を逐一読み上げる女性の声を聞く。その声は彼はもうすぐ死ぬと告げるのだ!どうやら彼は、何かの小説の主人公になってしまったらしい。運命を変えるべく奔走するハロルドだが。
 この手の余命タイムリミットものというと、ダメ人間だった主人公がやりなおそうとするというパターンになりそうだが、本作は主人公が至ってちゃんとした人間だという所が面白い。いい仕事(イメージは悪いかもしれないけど)に就いているし、きちんと仕事をこなして、自分の家も持っている。全然ダメじゃない。むしろ、ちゃんとしすぎていてルーティンから外れられないのだ。外れ方がわからないと言った方がいいかもしれない。とはいっても自分の命がかかっているから、ハロルドはあれこれやってみるのだが、やることが奇天烈なことではなく、やっぱりちゃんとしているのが面白いし、そこがいいなぁと思った。
 彼がやってみるのは、ギターを買う、友達とご飯を食べる、気になる女性と話をしてみるというちょっとしたことだ。しかし、そのちょっとしたことをやってみるだけで日常が輝き始める。月並みな主張ではあるのだが、ウィル・フェレルが大真面目な顔で演じると、これがやたらと説得力がある。私は今まで、フェレルをいまいち好きではなかったのだが、本作の彼はとてもよかった(セリフに関しては、字幕もよかったんだと思う)。話し方の丁寧な人というのが、ちょっと新鮮だった。ギター弾くところとか案外キュート。
 残念だったのは、作家(エマ・トンプソン)側のエピソードとの絡みが不消化だったこと。その解決方法は、作家としてのプライドとは相容れないんじゃないかしらと引っかかった。もうひとひねりほしかったなぁ。ハロルドが悟りきってしまうというのも唐突だったし。ハロルドと作家とが対面してからの展開が、少々バタバタしていたように思う。監督は『チョコレート』『ネバーランド』のマーク・フォスター。なかなか良心的な作品でした。
 

『文字移植』

多和田葉子著
 現代版ゲオルク伝説とでも言うべき小説を翻訳する為、一人バナナ農園のある島に滞在している「わたし」。しかし翻訳は遅々として進まない。翻訳すればするほど原文の本質からとおのいていくのではないかという怖れを抱きつつ、原文に忠実であろうとする翻訳のジレンマ。言語の齟齬が身体、そして日常生活に対する齟齬へと波及していく。言葉のずれの気持ち悪さがどんどん拡張されていく感じで、不穏だ。翻訳している物語と「わたし」が主人公である物語とは何もリンクしないという所が面白い。こういう設定だと、うっかり2つの物語を関連付けたくなりそうだが、そうはしないところに「そんなに都合のいいものじゃないよ」とでもいうような、翻訳という行為に対する著者の誠実さを感じた。

『春になったら苺を摘みに』

梨木香歩著
 著者がイギリスに留学していた頃のエピソードを綴ったエッセイ集。著者の下宿先の主人・ウエスト夫人が本当にこんな人がいるんだーという位のいい人で、著者にも大きな影響を与えているのだと思う。著者の小説には一種のかたくなさ、潔癖な所があってちょっと苦手でもあるのだが、エッセイだともう少し柔らかい感じ。ただ、やはりすごくまじめだし、生き難いタイプの人なのだと思う。世界に向き合う態度が真摯すぎて、少々息が詰まりそうにもなる。もっとユルく生きてもいいのに・・・でもそうしようと思ってもできない人なんだろうなぁ。

『バベル』

 モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本を舞台にした群像劇。監督は『アモーレス・ペロス』『21g』のアレサンダオロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。出演はブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子。
 監督のこれまでの作品と同様、それぞれの舞台の時系列はバラバラにされている。ただ、この部分があそこと繋がるんだなというパズル的な面白さを期待すると、肩透かしをくらうだろう。精緻な整合性の高い物語は目指していないように思う。むしろ、各エピソードが(ある要素によって繋がってはいるものの)散漫であることにこそ、この作品の核があるのではないかと思う。世界はばらばらでどこが繋がっているのかわからず、皆孤独であるという。まあ月並みといえば月並みなのだが、その孤独さがひしひしと伝わる映画ではあった。
 題名「バベル」の意図する所は、コミュニケーションの不可能性ということよりも、ある登場人物が口にした「悪人ではないの、愚かだっただけ」という所にあるのではないかと思う。この映画の中のエピソードはどれも、端的に言うと「うかつな人がうかつなことをやって酷い目に遭う」というものだ。本当に運が悪いだけなのは、アメリカ人夫婦くらいなのでは(その子供もアレでしたが)。そしてどのエピソードも、演出の仕方によってはコメディになりそうなものだ。特にモロッコのエピソードは、当事者をおいてけぼりにしてテロだ国際問題だとどんどん話が広がっていくという、考えようによってはかなり笑えるもの(そもそも救急車だヘリコプターだ言ってないで、途中で来た警官の車を使わせてもらえばいいのにと気になってしまった)。妻を狙撃された夫のヒートアップ振りと大使館の対応の慎重さの対比もおかしいし、テロリストに攻撃されると思い込んでパニックを起こす観光客たちもおかしいし、勝手に盛り上がるマスコミもおかしい。なんで笑いの要素を入れないのか不思議なくらいなのだが、この監督、生真面目なんだろうなぁ。前作『21g』でもやたらとシリアスで重っくるしかったしなぁ。『アモーレス・ペロス』も救いのあまりない話ではあったが、疾走感があった。しかし新作が出るごとにキレが悪くなっている。心配だ。監督としてこなれるにつれて生きの良さが失われていくのはしょうがないのかもしれないが、もうちょっと軽みというか、勢いがあればいいのに。また2時間半近い上映時間はちょっと長すぎるようにも思った。確かにどのシークエンスも美しいしそれなりに見どころがあるのだが、もっと切っても良かったのでは。
 さて、助演女優賞にノミネートされ日本では散々話題になった菊地凛子だが、確かに悪くない。かなり度胸のある女優なのではないかと思った。しかし、彼女が演じたろうあの女子高生のキャラクター付けには疑問がある(というわけで菊地凛子ではなく監督の問題です)。いくら寂しくて自暴自棄になっているとは言え、10代の女の子、とりわけ日本人の女の子がああいうことをするかなぁと。「それどこのエロゲ?」と突っ込みたくなったのは私だけではあるまい。むしろ笑うわ。「本当のモンスターを見せてやる」とまで言うんだったら、もっと別のことをしそうなものだ。だって見せ損じゃないですかあれ。ただ、刑事とのシーンからは本当に寂しい感じがにじみ出ていて良かった。その後にひとオチあるのだが、それがまた彼女の寂しさを浮き彫りにしていたと思う。

『あしたの私のつくり方』

 寿梨(成海璃子)と日南子(かなこ・前田敦子)は小学校の同級生だった。日南子は人気者だったが、ふとしたことでいじめられる側になってしまう。特に目立たない生徒だった寿梨は卒業式の日に日南子と交わした会話が忘れられなかったが、それっきり彼女と話す機会はなかった。高校生になった寿梨は友人から日南子が遠方へ転居したと聞き、彼女の携帯アドレスを聞き出し、別人を装ってメールを送る。
 寿梨は日南子に「ヒナとコトリの物語」という小説を携帯で送る。転校生としてやりなおそうとしていた日南子は、そのお話のヒロイン「ヒナ」を真似てクラスの人気者のポジションを得ていく。寿梨は日南子を人気者にすべく様々なルールを伝授していくし、それはそこそこ有効で彼氏まで出来てしまう。一方寿梨は、学校では目立ちすぎず大人しすぎずというほどほどのポジションをキープし、母親の前ではお母さんと2人で(両親は離婚している)頑張る娘、月に1度会う父親の前ではいつも元気な娘を演じている。素の自分を出せる場所がないのだ、2人とも素の自分なんてつまらない、別の自分になりたいと思っており、寿梨が作る物語がそのよりどころとなっている。
 人気者の自分を演じるのは楽しい。でもその演技をいつまでも続けられるかというと、それはどうなんだろう。日南子は「ルール通りに演じても、日南子は日南子のままだ」と自分の限界に気付いてしまう。一方寿梨も、「ヒナとコトリの物語」を作ったのは日南子の為ではなく自分が日常から逃げたかったからで、結局日南子を巻き込んでしまったのだと自己嫌悪に陥る。で、最後に日南子が起こすリアクションがいい。これは、実行するのは結構勇気がいると思うのだが。
 前作『あおげば尊し』を見た時にも思ったのだが、市川準監督は学校という場の描き方が上手い。賑やかなのだが閉塞感もある感じとか、生徒同士で同調することを強要している感じとか、パワーバランスのぎりぎり感とか。市川監督は多分60歳くらいだと思うのだが、そのくらいの年齢の人が、これだけ学校の雰囲気をきちんと再現できるというのは、えらいなぁと思った。多分、学校とか家庭とかに対する関心の強い人なのではないだろうか。きちんとリサーチもしているのだろう。もっとも、実際の10代の人が見たらどう思うのかはわからないが、わりと的確に今日の学校の雰囲気を掴んでいるのではないかと思う。寿梨と同級生とのメールのやりとりとか、場の空気の読み方とか、リアルに面倒くさそう。学校生活って、社会人とは別の形で四六時中気を使わなくちゃいけなくてきついなぁ。少女達の瑞々しさを良いなぁと思いながらも、小中高生には戻りたくないと思った。
 2人のヒロインはもちろんだが、彼女らの家族の描き方が、描く分量は多くないのだが上手い。そして対照的だった。寿梨の両親は、彼女が中学受験をしていた(結局落ちた)頃から喧嘩が絶えず、彼女が中学生の時に離婚する。2人とも娘のことを愛してはいるが、娘の「良い子」な振る舞いを真に受けて、内面や悩みにまでは考えが至らないようだ。彼女が抱える問題を何となく察しているのが兄なのだが、この配置が上手い。これで一人っ子だったら相当ヘビーだ。セリフは少ないが、兄の時々鋭い言動によって寿梨が多少救われているような所があったと思う(部屋にアイスクリームを持ってくる所とか、受験に失敗した寿梨にかける言葉とか、結構いいです)。ところで寿梨の両親を演じるのが石原義純と石原真理子なのだが、この人選に唸った。嫌な両親だな~(笑)。特に離婚後、彼氏が出来てからの石原真理子の服装ががらりと変わるのが生々しい。部屋のインテリアも柄物×柄物で、この母親の性格が窺えるところが上手い。一方、日南子の両親はあまり出てこない(父親なんて殆ど出てこない)のだが、数少ない母親の言動からは、娘が抱える辛さに対する理解と、辛さもひっくるめて娘を許容している様子が見て取れる。寿梨の両親は娘の大人な部分に甘えすぎなように思う。まあ大人気ない両親だし(笑)。
 所で、本作は若い層、実際の10代に向けて作られたのかなという印象を受けた。演出は極力わかりやすくしてあり、ちょっと気恥ずかしくなるようなストレートさが見られる。終盤の携帯電話での会話の演出など、上手く機能しているかというとちょっと微妙だが、真っ向勝負な感じはする。また、少女マンガ的な要素が結構あって面白かった。日南子の彼(かわいい)が川辺で取った行動はモロに少女マンガで、市川監督やるなぁと思いました。ベテラン監督だったら、「これはちょっとやりすぎだよな・・・」と赤面しそうなものだが、あえてやる。あと、寿梨が入部している文芸部の顧問教師がイケメンというところも少女マンガのお約束ぽい。客層絞り込んでいる様子が見て取れます。ちなみにドコモ全面協力なので、携帯電話出まくり。もちろんドコモ機種のみ。

『血と肉を分けた者』

ジョン・ハーヴェイ著、日暮雅通訳
 元警部エルダーが未解決の少女失踪事件を追う。犯人は仮釈放された青年なのか?サスペンスとしてはそんなに個性は強くないのだが、離婚したエルダーの娘に対する思いにぐっとくるものがあった。エルダーは娘が離婚を自分のせいだと思っているのではないかと心配し、パパがお前を愛しているのは知っているだろうと言うが、娘は「わかってる。でも、それはどうでもいいことじゃない?」「パパは、ママをもっと愛さなきゃいけなかったんだよ」と言う。きついわ。エルダーは元妻を愛していたことは愛していた(今も愛していないわけではない)が、自分自身や自分の仕事より優先させることができていたか?と葛藤する。しかし自分より、また自分の本能のようになっている仕事よりも常に家族を優先させなくてはいけないというのは、酷なことでもあると思う。家族をやるというのは、その酷なことに慣れていくということでもあるのだろうか。

『純にいちゃんの赤ちゃん』

うみのしほ著
 2つの全く同じストーリーがあったとして、どちらが面白いかと言うと、たとえば料理を作る過程とかその味とか、掃除の手順とかがきちんと書けている方だ。それがごく普通の日常を舞台にしたものであれ、ファンタジーであれ時代ものであれ、生活の姿に手応えがあると物語がぐっと立ち上がってくるように思う。本作も、普通の人たちがきちんと生活している手触りがある所がいい。小学4年生の女の子がこんなにしっかりしているかなぁとは思ったが、子供が家庭の欠けた部分を補おうと無理してしまうことはやっぱりあるのだろうし、その姿はいじらしい。主人公の兄とその恋人の選択については、ちょっと難しいところだと思うが、彼らを取り巻く人たちの存在にほっとする。こういうご近所の皆さんが、今必要なんじゃないかと。

『スパイダーマン3』

 町の人気者スパイダーマンことピーター・パーカー(トビー・マグワイア)。スパイダーマンの活躍で犯罪は減り、恋人MJ(キルスティン・ダンスト)との仲も順調だ。しかし新たな敵サンドマンの出現に加え、奇妙な生物に寄生されブラックスパイダーマンとなってしまう。MJとの関係にも影が。どうするピーター?!
 待ちに待ったシリーズ完結編だが、何かこれ延々と続けられそうな雰囲気になってきたな・・・。「続けられそう」というのは、主人公であるピーターが、まだ成長中の未完成なヒーローだからだ。1作目からピーターはちょっと情けない、冴えないキャラクターであることを強調され続けている。スパイダーマンとしては格好良く活躍できても、ピーター・パーカーとしてはぱっとしない。今作でも初っ端から、その冴えなさっぷりが強調されている。本人は「スパイダーマンは大人気!もうサエない僕じゃないぞ!」と思っているのでそのギャップがおかしい。授業中、古典的なからかわれ方してるしなぁ(しかしこの授業風景を見るまで、ピーターが実は頭の良い子だということを忘れていました)。このシリーズ、1作目から「スパイダーマンはかっこいいが、ピーター・パーカーはショボい」という点を徹底しているのが大変面興味深い。サム・ライミ監督は出来上がった(最初からかっこいい)ヒーローには興味ないのかしら。それとも青春時代に対する鬱屈した思いでも抱えているのかしら。
 今回、ピーターは寄生生物に取り付かれて悪の道に走るのだが、悪の道に走ってもショボい奴はショボい。道行く女の子に色目を使えば「何このキモメン」という目で見られるし、ファッショナブルに変身!と入ったブティックはちゃっかりセール中(しかも服変わってもイケてない)、挙句の果てに元カノMJが働く店にに新しい彼女を連れて行くという嫌がらせ。悪と欲望のスケールが哀しいほど小さい。庶民は所詮庶民なんだよ!MJがウェイトレス兼歌手のバイトをしているバーで、ピーターが彼女の面目を潰す為にピアノとダンスを披露するのだが、これが上手いのにかっこ悪いんですね。様になっていない。特にダンスに関しては、これほどダンスの似合わないハリウッドスターはいないのではないかというくらい似合わない。もう見ていていたたまれないもん。この似合わなさが素ではなく演技だとしたら、トビー・マグワイアはものすごい演技派だと思う。スターとしてはマイナスイマージになる演技ばかりですが。
 ショボい奴は何をやってもショボいというギャグではあるのだろうが、2作目とは逆の方向で、自分を見失うなという案外真面目なメッセージがこめられているのかもしれない。今回の敵であるサンドマンはある一点においては自分を見失わなかった男、そしてもう1人の強敵は、自分を見失い破滅してしまった男とも言えるだろう。
 とは言ったものの、2作目に比べると人間ドラマ部分は少々弱い。敵を増やすことで、テーマが拡散してしまったように思う。ブラックスパイダーマンだけでよかったのになー。しかしサンドマン誕生のエピソードは結構泣けるので、これを入れたかった気持ちもわかる。しかしそれにグリーンゴブリンの逆襲まで入れてしまうと、どうにもぎゅうぎゅう詰めな感が。もうねー、ゴブリンだけでいいくらいですよ!ていうかむしろもっとゴブリンを!もったいない!あと、MJのキャラクターが最後までぱっとしなかったのも残念。冴えない男女のラブストーリーだと思えばいいのでしょうか。しかしMJ、2の冒頭からの転落振りが思い切り良すぎる。だんだん不憫になってきた。
 最大の見所であるスパイダーマンの空中アクションシーンは、前作を上回る出来栄え。実写ではまず出来ない、目が回りそうな立ち回りを堪能した。冒頭、グリーンゴブリンとのチェイスなんてすごいですよ。やりたかったことに技術が追いついた!的な作る側の喜びが感じられる。ショットがだんだんマンガっぽく、ケレン味が強くなってきているのが面白い。アクションに関しては、アニメと同じ感覚(実際殆どCGだろうし)で作っている感じがする。
 

『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』

沢木耕太郎著
 沢木耕太郎でなければ許されない、こっ恥ずかしい題名。そのキザさも嬉しい、映画にまつわるエッセイ集だ。自分が見た映画がかなり多いのでちょっとうれしい。映画にしても本にしても、自分が見た(読んだ)時よりも、後になってその作品に関する誰かの文章(もちろん上手いもの)を読んだ時の方が、心が揺さぶられるのは何故だろう。映画本編を見た時は泣かなかったけど、その映画についてのエッセイで泣きそうになったりする。作品を反芻しているようなものなのだろう。本作を読んでいると、その映画を見た時の感情が鮮やかに再生され、また気付かなかった点にもああそういう見方があったのかと納得させられた。ところで本著の中に、本、特に小説を読んでも心が弾まなくなってきている、なるほどねという以上の感想が生まれにくくなっている、しかし映画にはまだ心を深く動かされることがある、ということが書かれている。これ、ものすごくよくわかる。もう小説読んでも強い感銘を受けたり、その小説について語りたくなることはあまりない。でも映画にはまだ何かがあるような気がするのだ。少なくとも映画の方が、意志的に見ることができる。
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