3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『毛皮のエロス ダイアン・アーバス幻想のポートレート』


 裕福な毛皮商人の家に生まれたダイアン(ニコール・キッドマン)は、写真家のアラン・アーバス(タイ・バーレル)と結婚し、彼のアシスタントをしていた。2人の娘に恵まれよき妻・よき母でいようと努力していたが、息苦しさを感じていた。ある日、アパートの上階に覆面をした奇妙な男・ライオネル(ロバート・ダウニーJr.)が越してきた。彼に強く惹かれたダイアンは、カメラを手に訪問する。
 20世紀を代表する実在の女性写真家、ダイアン・アーバスを主人公としているが、いわゆる伝記映画というわけではない。彼女の作品や、彼女にまつわるエピソードからイメージを膨らませたフィクションだ。主演のニコール・キッドマンは相変わらず美しい。もう40代のはずなのに、時々少女のように見えるのがすごい(撮り方もいいのだろうが)。衣裳がどんどん変化していくのも楽しかった。
 ウサギや扇、鍵などあからさまに「不思議の国のアリス」を思わせるモチーフが多用されているし、ライオネルの造形やダイアンとの関係は「美女と野獣」のようだ。実在の人物が主人公ではあるものの、一種のファンタジーとしての側面が強い。ダイアンはウサギ穴を落っこちるのではなくて、螺旋階段を上って不思議の国へ足を踏み入れる。アリスを野獣がエスコートして不思議の国巡りをするといった感じか。しかしこのアリスは、ウサギ穴から出て行くことはないのだが。
 その一方で、「日常に不満を持つ奥様がミステリアスな男とのアバンチュールではっちゃける」という、ハーレクイン的な印象も否めない。後半、かなりセクシャルな描写が増えるせいでもあるのだが、ちょっと安っぽくなってしまったのが残念。ダイアンの写真自体が、セクシャリティを扱ったものである以上必要なことではあるのだが、もうちょっとメロドラマ度を下げたほうがよかったように思う。これだと、わりと普通のラブストーリーみたいで、なぜダイアンが写真家として開花したのか、フリークスたちを被写体とするようになったのかという過程がぼやけてしまった。
 もっとも、ダイアンは日常に飽きているのではなく、もともと両親、夫、子供たちとの生活に対して違和感を持ち続けている。それでもブルジョア家庭の妻・母としてうまく立ち回ろうとするが、どうしても不自然になってしまう。彼女にとってはライオネルの生きる世界の方がより生き生きとした、リアリティを感じられる世界なのだ。しかし、そんなダイアンは大変だと思うが、その家族も大変だ。特にダイアンを愛している夫アランにしてみれば、妻が妙な男と付き合い始め、夜な夜な遊び歩き、自宅にも奇妙な輩がおしかけてくる(これはダイアンが無神経すぎだ)。理解できるものならしたいが、妻のことがわからない、妻がどんどん遠のいていく。ダイアンの孤独より、アランの孤独の方が悲しく共感を呼ぶのではないかと思う。

『監督・ばんざい!』

  ギャング映画はもう撮らないと宣言してしまった映画監督・キタノは、新作のアイデアがわかずに悩んでいた。ヒットしそうなジャンルに次々手を出してみるものの、全て失敗に終わる。こすっからい母娘を主人公とした映画をやっと撮り始めてみるが。
 北野武監督の新作映画となる。前半は、「映画内映画」とでも言うべき、既存ジャンル映画のパロディが続く。小津安二郎風ホームドラマ、風忍者が活躍する時代劇、記憶喪失の男を主人公にした純愛映画、昭和30年代を舞台とした懐古趣味映画、古典的なホラー映画、巨大隕石が地球に激突するSF等、次々にどこかで見たような映画が現れる。これはそこそこ面白かった。特に昭和30年代ものは、「●丁目の夕日」を狙ったらリアルすぎて殺伐とした映画になったという、実際にありそうなオチがおかしい(この部分は映画の絵としても結構よくできているのでよけいに)。そりゃあ、育った場所によって大分違うよね・・・
 しかしけったいな母娘(岸本加世子・鈴木杏)と妙な思想集団が出てくる後半はまずい。わざと古典的なギャグを投入してはいるのだろうが、全く笑えない。あんなにきちんとコケる集団、ものすごい久しぶりに見た・・・。笑えないことを笑えるような構造になっていればいいのだが、単にスベっているように見えるので、寒々しいことこの上ない。映画としてどうこうというより、ギャグが笑えないというのが一番きつかった。客がいたたまれなくなる映画を作ろうという意図だったら大成功なんでしょうが。CGやコラージュも取ってつけたようで、なんだかしっくりこなかった。
 北野監督は、もう映画を撮る意欲がないのではないかと思う。しょうがなくて無理矢理撮ったんですよとでもいうような、やっつけ仕事臭さに満ちている。本人、どれだけ本気でこれが面白いと思ってるのかなー。そういえば武演じる「キタノ」も「吉祥寺」も、終始やる気のなさそうな、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。最後に医師が告げる「壊れています」とは自己批判か。でも壊れている自覚があるなら無理に撮らなくてもと思ってしまうのだ。ちなみにキャストは無駄に豪華。皆、ちゃんと演技してえらいなー(棒読み)。そんな中、井出らっきょが妙に生き生きしていたのが印象に残った。

『しゃべれどもしゃべれども』

 いまいち芽の出ない二つ目の落語家、今昔亭三つ葉(国分太一)。なりゆきで小学生の村林(森永悠希)、無愛想な美人・十河(香里奈)、元野球選手の湯河原(松重豊)に落語を教えることになる。しかし全員、一向に上達しないのだった。監督は『愛を乞う人』の平山秀幸。
 登場人物は皆真面目で、物事に真っ向から向かっていく。象徴的だったのが、冒頭、カルチャースクールでの十河の言葉だ。三つ葉の師匠である小三文(伊藤四郎)は、カルチャースクールで「話し方教室」を開く。十河もその教室に参加していたのだが、小三文が話し始めて数分で教室を出て行ってしまうのだ。不審に思った三つ葉は十河を問いただすが、彼女は「本気で話してないじゃない」と怒るのだ。確かにカルチャースクールでの小三文の話は本気中の本気、というわけではなかったかもしれない。しかし本気で話せばカルチャースクールの生徒が面白がるかといえば、そうでもないだろう。
 真っ向から取り組むのが常にベストとは限らない。その場その場に応じた本気というものがあるのだ。十河も、野球解説が下手な湯河原も、自分の言葉に対して誠実であろうとする。きちんと話そうとするのだ。しかしきちんとしようとすればするほど、言葉は自分自身から遠のいていく。湯河原はプライベートでは口が悪く、下手な選手はけちょんけちょんにけなす。「そのままで解説やればいいのに」と言われるくらい、反感は買うかもしれないが面白い。しかしいざ解説本番となると、言葉を選びすぎて試合のスピードに間に合わない。逆に三つ葉は言葉が早すぎ・多すぎで失敗する。「聞いて欲しくてしゃべっているんです」「わかってねぇなぁ」という師弟のやりとりが心に残る。
 じゃあどうすれば噺が上手くなるのか、どうすれば上手に喋れるようになるのかという答えは、実はこの映画の中では出ない。そもそも何故落語なのかという点も曖昧だ。彼らはそれぞれ一歩踏み出すものの、問題は残ったままだ。しかし、この人たちは大丈夫なんじゃないかなと感じられる。人生いろいろあるけど何とかなるよとでもいうような。
 ロケ地は浅草等の下町エリアなのだが(原作では武蔵野方面だった)、これがいい味を出している。やっぱり川のある風景は絵になると思う。そういえば、水上バスや電車等、移動シーンの多い映画だったなぁ。三つ葉が水上バスの上で噺を練習するシーンがなかなかよかった。ストーリーの詰めが甘いところがあるのだが、風景がいいからまあ許しちゃうよという気分になる。
 私は、実は原作小説にはそれほど感心しなかったのだが、映画は良かった。役者の力による所が大きかったと思う。三つ葉は結構怒りっぽく、一言多いキャラクターであまり好感持っていなかったのだが、国分太一が演じるとあまり嫌味にならない。国分には「役者」というイメージを持っていなかったのだが、キャラクターの良い部分を出してくれたんじゃないかと思う。

『帝王の殻』

神林長介著
 個人の分身とでも言うべきパーソナル人工脳「PAB」が普及している火星。火星を支配する大企業・秋沙脳研の社長が死んだ。新たな“帝王”となるのは誰なのか。自分の頭の中で考える代わりに、もうひとりの自分ともいえるPABに話しかける世界。対話により新たな気づきを得ることもあるが、結局どこまでいっても自分の中でだけ展開されている対話にすぎないという危うさもある。著者の作品の多くは「何をもって魂となすか」というテーマを孕んでいるように思うが、本作も同様だ。どこまでが自分なのか、本来の自分など本当にあるのか、自分の分身と対話することでさらにわからなくなってしまうという皮肉。17年前の作品だが、古びていない。父息子の確執という、古典的なモチーフが使われているせいもあるか。

『輝ける女たち』

 
ニースの老舗キャバレー「青いオウム」のオーナー、ガブリエル(クロード・ブラッスール)が急逝した。彼の息子のような存在であった手品師のニッキー(ジェラール・ランバン)と、その離婚した妻、そして子供達が久々に顔を合わせる。ガブリエルの遺言で、店はニッキーの息子である異母兄妹、ニノ(ミヒャエル・コーエン)とマリアンヌ(ジェラルディン・ベラス)に譲られることに。
 タイトルには「女たち」と付いているが、必ずしも女たちの物語というわけではない。むしろ物語の中心にいるのはニッキー、そして死んでしまったガブリエルだ。何も知らなかったニッキーは一貫して何も知らず、周囲に翻弄されるばかりだ。しかし当人は結構ちゃっかりとしていて、キャバレーの歌姫レア(エマニュエル・ベアール)を口説こうとやっきになっている。他の登場人物も、ガブリエルの秘密やニノの実母アリス(カトリーヌ・ドヌーブ)の登場により引っ掻き回されるものの、何だかんだ言って自分のやりたいようにやっているあたりが、フランス人的なのかもしれない。皆、悪びれないところがいい。ちょっとした会話や辛辣な言葉に、くすりと笑ってしまうシーンがたくさんあった。ニッキーの元嫁アリスと元カノ・シモーヌ(ミュウミュウ)が結託するあたりは、おかしいのだがちょっと怖い。したたかな女2人の前では、ヘタレ男には勝ち目がなさそうだもんね・・・。元嫁がカトリーヌ・ド・ヌーブだってのが迫力ありすぎて更に怖い。
 人間年をとっても、自分は誰かに愛されている・愛されていたのか、不安でしょうがなくなるものなのかもしれない。「この人は本当はあの人を好きだったのでは?」「あの人とこの人の過去に何かあったのでは?」「ていうか自分て愛されてなかったの?」と推測ばかりがどんどん先走っていく様は滑稽ではあるのだが、あー、あるよねこういうことって・・・と苦い気持ちにもなる。しかし、それをいつまでも気に病んでいてもしょうがない。何かをふっきって、一歩踏み出していく登場人物達の姿が清々しいのだ。人生、いくつになっても何が転機になるかわからない、嫌いな人を嫌いなままとは限らないという、ちょっと希望の持てる映画。ガブリエルとニッキーの最後のやりとりは泣ける。父と息子の物語でもあったのだ。やはり「輝ける女たち」ではミスマッチ。
 それにしてもドヌーブの貫録はすごい。この人、年をとってきてからビッチな女の役が似合うようになったな(笑)。こんな人敵に回したら、勝てる気がしません。ミュウミュウの一見おばさんぽいキュートさと対照的だった。また、エマニュエル・ベーアルが案外歌が上手い。吹き替えかと思っていた。女優達だけでなく、レトロなキャバレーの内装等、セットも楽しい。美術や衣裳のセンスが良かった。着ている洋服で、その人がどんな人かちゃんとわかる。特にマリアンヌが来ていた黒のケープがすごくかわいかった。ほしい!

『ベジタブルハイツ物語』

藤野千夜著
 部屋に野菜の名前のついたアパートの入居者と、その大家一家の日々。といってもお互いにあまり交わらないのだが。「こんな人なんだろう」と思っている他人についてもイメージが、実際は全く違ったり、家族や友人同士でもお互いに知らない・見せない面がある。そのおかしさと、すこしばかりの怖さが垣間見られる。人間関係上のだらしなさみたいなものを掬いあげるのが上手い作家だと思う。ベースにユーモアがあるのがいい。

『神秘のモーツァルト』

フィリップ・ソレルス著、堀江敏幸訳
 モーツァルトの一生、そして天才の謎を追う。といっても伝記小説でも研究所でもなく、モーツァルトに誘発された散文といった感じだ。軽やかな文体で、モーツァルトの音楽の核にあるものに直観的に迫っていく。冒頭、タクシーの中で運転手といっしょに「レクイエム」を聴くシーンが象徴的だ。一定のリズムによって運ばれていく雰囲気の作品。・・・と書いておいてなんですが、私モーツァルト作品はさほど好きではありません。ソレルス作品にも思い入れなし。一重に堀江の訳文が読みたかったの。

『あきらめのよい相談者』

剣持鷹士著
 法律事務所に勤める“イソ弁”の剣持鷹士は、不可解な相談があると友人のコーキに相談する。奴は論理的な謎解きにめっぽう強いのだ。それが実際に問題を解決するかどうかはさておき・・・。久々に私好みの安楽椅子探偵ものを読めた。小ぶりながらきちんとした王道本格ミステリ。謎解き、それ以上でも以下でもない控えめさに癒された。九州が舞台で方言出まくりという所が珍しい。巽昌章による解説も、安楽椅子探偵の特徴を的確に説明していてよかった。あと、作品内で剣持が作っていた梅干しパスタが美味しそうだった。これはちょっと作ってみようかしら。

『Gold Rush! ぼくと相棒のすてきな冒険』

シド・フライシュマン著、金原端人・市川由季子訳
 時はゴールドラッシュ時代。お金に困った叔母を助ける為、ボストンからカリフォルニアへ金鉱掘りに向かった少年ジャックと執事のプレイズワージィ。さまざまな困難を機転で乗り越え、だんだん執事という枠から抜け出していくプレイズワージィと、彼と対等になろうと奮闘するジャックがかわいい。が、どうも私は金原チョイスの作品とは相性が悪いみたいだわー。こじんまりしていていまひとつ記憶に残らない感じ。それこそ枠からはみ出ない、お行儀のよさが物足りないのか。

『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』

 ラスベガスで人気のマジシャン、今はギャングまがいのことをしているエースは、FBIに司法取引を迫られていた。ギャングと親しいエースを押さえれば、マフィアの大物・スパラッザを逮捕しファミリーを壊滅することができる。スパラッザはエースを始末する為に凄腕の殺し屋を雇ったという噂が流れ、それに便乗しようとあっちこっちから殺し屋達が集まってきた。
 あらすじや、タイトルロールの雰囲気、登場人物紹介の字幕のノリからは、『パルプフィクション』的な、なにやら軽快なクライムムービーなのかしらと思っていた。多分、制作側も作り始めた時はそのつもりだったのだと思う。しかし、クライマックスに向かうにつれてどんどん陰鬱かつバイオレンスになってきた。登場人物も、最初はコミックぽくキャラをたてようとしていたみたいなのだが、だんだん当初の設計図からずれていってしまったような印象を受けた。サブタイトルで群像劇プラスおバカ映画かと思っていたら大間違いだった。こんなサブタイトル付けなければよかったのに・・・。
 監督は「NARC」で好印象だったジョー・カーナハン。「NARC」はけっこう重くて硬派な警察映画で、個人的にはかなりすきなのだが、もしかして何撮ってもこうなっちゃう人なのだろうか。クールさ・軽妙さを目指したものの、本来持っている漢気と硬派な気質がだんだん表面化してきちゃったみたい。そしてこの手の作品に必須のユーモアセンスに少々乏しい。制作側からの要求もあったのだろうが、お題と監督の資質とがちょっとミスマッチだったみたい。結局監督の資質に映画が引っ張られてしまった感じだ。
 最後に2つ用意されているサプライズのうち、1つは途中で見当がつくが、もう1つはちょっと蛇足だったかもしれない。そもそもこの人のものでないといけない必要はあったのかな?確かに安全性は高いかもしれないけど、調達するリスクを考えると・・・。シンプルに謎1つでよかったんじゃないでしょうか。もっとも、ミステリー、サスペンスとして伏線を楽しむという類の映画ではなく(そういう映画かと思ったんだけど)、とにかく派手にドンパチやって血肉が飛びまくるのが見所の映画と思った方がいいのだろう。その手のものがお好きな方には、銃撃シーンはかなり派手(まあどこかで見たような映像ではあるが)なのでお勧め。ただ、ドンパチを見てスカっとするには少々後味の悪さが残った。人間、個人の感情の前には大儀は吹っ飛ぶのでしょうか。

『赤い文化住宅の初子』

 兄と2人暮らしの中学生・初子(東亜優)は、高校受験を控えた中学3年生。同級生の三島くんは、一緒の高校へ進学しようと勉強を教えてくれる。しかし初子にはお金がない。ラーメン屋のアルバイトもクビになり、兄(塩谷瞬)も勤務先の工場で乱暴をしてクビになってしまった。学費が払えず進学できないことを、初子は三島くんに告げられない。
 貧乏っぷりが身にしみてきて哀しくなっちゃったよ・・・。初子は電気代を払えず電気を止められるレベルに貧乏なのだが、「貧乏で高校に進学できない」というシチュエーションは、今の中学生にとってどのくらいリアルなんだろうとふと思った。卒業式間近、就職が決まった初子の前で、同級生たちは「最近家庭の都合で就職って多いんだってねー。でも働きながら資格取って正社員にとか、大検とか、色々あるんだってねー」という世間話をしている。しかしその話の内容は、初子の現実とは程遠く、カッときた初子は教室から飛び出してしまう。このシーンの同級生たちの「知ってるけど分かってない」感じが残酷だ。初子に好意を寄せている三島くんですら、この時の初子の心情には思い至らない。努力すればなんとかなる、とも言えるだろうが、経済力の差って、やっぱり決定的なんだよなとしんみりしてしまった。将来に対する自由度が全然違うもの。
 初子は母親が好きだった「赤毛のアン」を何度も読み返す。アンは大概な妄想娘さんだと思うが、初子もしばしば妄想する。この映画は大体、どこが現実でどこが妄想かきちんとわかるように演出されているが、基本的に初子の主観による光景なので、ひょっとするとここも初子の妄想なのでは?とも思う所も。初子は「赤毛のアン」が嫌いだと言う。皆がアンのことを好きになって幸せになるなんて出来すぎている、これは猩紅熱で死にそうな孤児・アンが見た夢なんじゃないかと言うのだ。そのセリフを踏まえると、特に三島くんとのやりとりは、「そうだったらいいのにな」という初子の現実逃避なんじゃ・・・と勘ぐりたくもなるのだ。
 しかし初子は徹頭徹尾無力ではあるが、逃げているわけでもないように思う。貧乏に対しても不幸に対してもじたばたしないだけなのだ。こういうタイプの方が、妄想を日々の糧にして案外しぶとく生き残りそうな気もする。担任教師に「誰かが助けてくれると思ってるでしょ」となじられるが、そうでもないのでは。将来とか幸運とかに対する期待度が極端に低そうだ。とは言っても、人生諦めた中学生というのは見ていてちょっと辛い。侘しい空気が漂いまくっている中で、初子と兄があやとりをする場面で少しだけ和んだ。

『ゲゲゲの鬼太郎』

 ひょんなことから、「妖怪石」を手にしてしまった人間の姉弟を守る為、我らがゲゲゲの鬼太郎(ウェンツ瑛士)が行く!原作マンガでおなじみの妖怪たちは登場するが、ストーリーは全くのオリジナル。
 子供が森を探検しているという導入部分は、これは子供向け映画なんですよときちんと提示していて悪くなかった。妖怪の造形はマンガっぽく、あえてリアルさから距離を置き、「マンガ映画」という立居地に徹しようとしていたように思う。が、子供向けとはいえ、いくらなんでも脚本がひどすぎる。
 冒頭で、アミューズメントパーク造成の為に森が破壊され、お稲荷さんが壊されてしまったという設定が提示されるので、これは自然を大切にネ!的なメッセージに着地するのかと思ったら、あっさり放置。その他もろもろ、30分前に起きたことを速攻で忘れているんじゃないかと思うような展開に唖然とした。素人6人くらいでリレー式にお話作ったらこんなんなっちゃったよ、みたいな突貫工事的ストーリー。天狐様降臨に至っては、出てこられるならもっと早く出て来いよ!と誰もが突っ込んだに違いない。お前がちんたらしてるから話がややこしくなったんだよ!
 ただ、小ネタはそれなりに面白かったと思う。原作「鬼太郎」には、色々と突っ込みたくなる、もしくは妖怪ポストに質問のお手紙を投函したくなる所(髪の毛針の本数制限はあるのかとか)があると思うのだが、それらの突っ込みに対して自ら回答、ないしはボケをかますという不思議な映画だった。
 CGのレヴェルはそれなりで、懸念していた目玉のおやじの出来はなかなか。あと一旦木綿のクオリティは高い。その他の妖怪にも概ね満足です(まあ日曜朝の特撮ものと思えば・・・)。で、肝心の鬼太郎だが、私は悪くなかったと思う。メインキャラクターの中で最もオリジナル度が高いキャラクターになっていたが、押しに弱い(子供に一方的に懐かれて憮然とする)鬼太郎というのは新機軸ではないでしょうか。猫娘(田中麗奈)と最終的にはいい感じになるのだろうか・・・と思っていたら最後まで迷惑そうだったのもおかしかった。ただ、映画としてはかなりぐだぐだなので、純粋に面白い映画を見たい人、原作に思い入れのある人には全くお勧めしない。

『ハイスクールU.S.A アメリカ学園映画のすべて』

長谷川町蔵、山崎まどか著
 アメリカのいわゆる「学園もの」映画(というジャンル名はアメリカにはないそうだ。ハイスクールを舞台とする映画という程度のとらえ方みたい)について、このジャンルにめっぽう詳しい2人が語りまくる。カバーしている範囲の広さも知識の豊かさもすごいのだが、何より学園映画に対する愛がほとばしっている。注釈と索引の充実っぷりがすごい。データブックとしても使えそう。それにしてもアメリカのハイスクールってどこの帝国?みたいな強固なヒエラルキーがあって恐ろしい。地味な不細工は死ねというのか!ティーン向けの映画から、アメリカ社会が垣間見えて大変面白い力作。

『きれいな猟奇 映画のアウトサイド』

滝本誠
 題名の通り、猟奇的な映画ばかりを扱った映画評論集。まずは『ツイン・ピークス』からでしょう!というわけでデイビッド・リンチへの愛にあふれています。これを読むとリンチ作品見てナイン・インチ・ネイルズ聴かなくちゃならない気になってくる。掲載誌がバラバラなのにも関わらず妙な統一感があるのは、内容の偏りっぷり故か。ミステリ・ハードボイルド・ノワール映画が好きな人は必読でしょう。著者の饒舌な語りがまた楽しいのだが、注釈までもが饒舌すぎてちょっと読みにくかった。面白さは抜群なんですが。英語タイトルは「THIS SWEET SICNESS」。この病は治りそうもない。

『孔雀の羽の目がみてる』

蜂飼耳
 日常の風景、本にまつわる話、旅にまつわる話と3部にわかれたエッセイ集。全く異種と思われていたものが一編の中に投入されて、ちぐはぐなような気もするが、やはりどこかでイメージが繋がってくるという所は、著者の本業である詩にも似ている。文章そのものに魅力のある一冊だった。思いがけなく「アラン島」(J・M・シング)の話が出てきたのがちょっとうれしかった。
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