3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『僕がいない場所』

 養護施設で暮らす少年クンデルは、施設を脱走して母親の元へ向かう。しかし母親には恋人がおり、クンデルの居場所はない。川辺に留められた小船に住み着いたクンデルは、川辺の屋敷に住む裕福な少女と知り合う。
 ポーランド発の子供映画。子供たちは皆素人らしい(色々な学校や施設を回ってオーディションしたらしい)のだが、えらく上手いのでびっくりした(10歳くらいの子だと思う)。演技しているというより、彼(彼女)自身の中に役柄に近い部分がかなりあって、それをドロタ・ケンジェルザウスカ監督が上手く引き出したんじゃないかという印象を受けた。子供への演技指導は難しいと思うのだが、すごくいい表情を引き出している。主演の少年と少女が、子供っぽい顔をしている時と、非常に大人びた顔をしている時があって、その落差にどきっとする。いわゆる「マセた」表情ではなく、人生悟ってしまったかのような、疲れたような諦めたような目をするのだ。よくこんな顔引き出したなと思う。特に少女がいい。ボーイッシュな子で、お酒を飲んでバカみたいに笑ったかと思うと、真顔で「私のこと好き?」と聞いてくる。普段は少年のようだが、急に大人の女のような言動をする。この大人びた言動に関してはちょっとやりすぎかなという気がしなくもないが、彼女は決して美人ではなく、彼女の姉は美少女であるというあたりが切ない。将来何になるのと問われて「オールドミス」と答えるんですよ。それは切な過ぎるだろう!
 彼女はおそらく家庭内でも学校でもおミソ扱い(学校にいるシーンがちょこっとだけ出てくるが、あまり楽しそうではない)で、居場所がないのだろうということが窺える。少年はもちろん、母親から見放され居場所がない。居場所のなさが少年と少女の間に連帯感を生むのだ。大人と比べて、子供には居場所となるべき場所とか人とかの選択肢が大幅に少ない。そういう不自由さをしみじみと感じた。少年も少女も、幼い子供らしい部分と早くに大人になってしまった部分がアンバランスで危うい。そして少女の姉が、少女とはまた別の意味で大人であるという所にひやりとさせられた。
 子供の悲しみを描いた作品ではあるが、子供の生々しい姿と抽象化された姿が混在していて、良くも悪くもきれいにまとまっている。ちょっときれいすぎるかなという気もするが、あまり生々しいと気が滅入ってくるしな・・・。マイケル・ナイマンによる音楽も、救いのなさを中和していたと思う。

『エディット・ピアフ ~愛の賛歌~』

 歌手・エディット・ピアフの生涯を、「愛の賛歌」「バラ色の人生」等名曲盛りだくさんで映画化した作品。監督・脚本はオリヴィエ・ダアン。主演のマリオン・コティヤールが、若いピアフから晩年のピアフまで一貫して演じている。若い頃はともかく、腰が曲がりリウマチに悩まされるようになった晩年の演技がすごい。コティヤール自身はさほどふけ顔というわけでもなく、むしろキュートな顔立ちなのだが、ここまで老け役ができるのか!と唸らせられるものがあった。
 しかし本作は、役者、そしてもちろん音楽は見ごたえ・聞き応えがあるのだが、エピソードの組み立て方がいまひとつ分かり難かった。時間軸に沿った流れではなく、若い頃と晩年とが交錯するような形で次々とエピソードが明かされていき、徐々にピアフの全体像が見えてくるという、ちょっとミステリ的な構造なのだが、この構造に監督の手腕が追いついていないように思った。終盤に、ピアフの人生にとって非常に重要であったろう事件が明らかになるのだが、これ普通だったらものすごく盛り上がる所なのに、そこに至るまでにあっちこっち引っ張りまわされるので、一つ一つのエピソードのインパクトが薄れてしまったように思う。どのエピソードに関しても、もっと上手い見せ方があるんじゃないかなぁと惜しい。
 また、彼女を支える仲間たちも誰がどういう人なのかあまり説明されない(一応説明はあるんだけど、さらっとしすぎて忘れちゃうのよね・・・これは私の記憶力の問題でもあるが)。最後まで「えーとこの人誰だったっけ?」とすっきりしないところもあった。エピソードにしろキャラクターにしろ、印象付けや、この人はこういうポジションの人ですよという説明があっさりしすぎだったように思う。ピアフの人生について詳しい人なら別に問題ないのかもしれないが、ピアフという歌手について名前程度しから知らない状態で見ると、ちょっと厳しいかなと思った。
 さて、この映画を見る限りでは、ピアフは実に面倒くさい、困った人だったようだ。下品だしわがままだし、晩年まで悪癖を改めようとはしない。子供時代は恵まれず、若い頃も大変苦労した人なので、これだけ苦労していたらちょっとは学習するんじゃ・・・と思うんだけど全然学習しないし、年取っても人間が全く丸くならない(笑)。周囲の人間は大変だったと思う。しかし不思議なことに、彼女の傍には常に彼女を愛し、支えてくれる人たちがいる。子供の頃には身を寄せていた売春宿の娼婦たちが、若い頃は妹分が、歌手としてのし上がっていく過程ではスタッフたちが。やはり、才能だけでなく何か人間的な魅力があった人だったのかもしれない。彼女には生涯最大の恋人・ボクサーのマルセルがいたが、彼よりも仕事のスタッフらの方が、彼女を愛し理解していたように見えるのだ。
 前述した、終盤で挿入される重要なエピソード。(ネタバレになるので曖昧な言い方になりますが)ここで得られなかったものを埋め合わせる為に人に愛を注ぎ込み、注ぎ込まれたいという感情に突き動かされていたのかとも思うし、これがひっかかっていたから無茶苦茶な生活を続けていたのかとも思うと、何か腑に落ちるところはある。最後に腑に落ちさせる構造になっているだけに、途中の見せ方のヘタさがなお残念。

『さらばベルリン』

 第二次世界大戦終結直後のベルリン。ポツダム会議を取材するためにドイツへやってきたアメリカ人記者ジェイク(ジョージ・クルーニー)は、自分の運転手を務める米兵タリー(トビー・マグワイア)の愛人が、かつて自分の愛人だったレーナ(ケイト・ブランシェット)だということを知る。レーナの夫はドイツで著名な化学者の秘書だった。アメリカもソ連も彼を探しているらしい。そんな中、タリーが死体で発見された。
 スティーブン・ソダーバーグ監督の新作はレトロなモノクロ映画。「カサブランカ」や「第三の男」へのオマージュと言ってもいいであろう、40年代の名画を模したサスペンス映画だ。ポツダム会議という歴史上の一大イベントが背景にあるものの、歴史もの映画としての側面は薄く(この点あまり配慮していないようで、ドイツからはブーイングが出たらしいが)、あくまで「男と女」の話だ。かつての名画のように、男(マグワイアじゃなくてクルーニーね)はシブく女は謎めいて美しい。
 一方で、今日的かもしれないなぁと思ったのは、男があまりタフじゃないところだ。タリーは早々に殺されちゃうし、ジェイクはあっという間にボコられる(ジョージ・クルーニーがアトビー・マグワイアにボコられるというのも何だか奇妙ではあるなぁ)。タフで無口な男のかっこよさというものが、もう説得力を持たない時代になったのかもしれない。対して、タリーのこすっからさ、チンピラ臭さは、このタイプはいつの時代も一定数いるよなと。トビー・マグワイアが演じると、タリーに向けられた「子供みたいな人」という言葉にやたらと説得力がある。
 タイトルロールやサウンドトラックまで過去の名画っぽくした、こだわりを感じる作品だが、昔の映画になじみのない観客にはどう見えるのだろう。ご丁寧に音声にノイズまで入れてあるのだが、そのへんの遊びをわからない観客、またそういう遊びをしゃらくさいと思う観客も多そうだ。よくも悪くも見る人を選ぶ作品かもしれない。スターを使ってどうどうとそういう遊び満載の映画を撮れてしまうところが、ソダーバーグの強みだ。ほんと、この人いいポジションにいるよなー。趣味を本気でやったような作品。

『ストレンヂア 無皇刃譚』

 私がアニメーションを見る場合、ドラマやキャラクター造形よりも、絵がどう動くかに一番意識がいくらしいというのがすごく良く分かった。本作は映画としての比重が、後半に進むにつれどんどんアクション寄りになっていって、バランスとしてはあまりよくないのだが、その歪なところすら愛おしいです。物語なんて、「強い用心棒が子供を守ってめっさ強い奴と戦う」というただただそれだけだ。しかし、物語をシンプルに留めたことでビジュアルのインパクトが印象に残り、却ってよかったんじゃないかと思う。アクションが突出しているのに派手派手しい雰囲気にはなっていないところもいい。 
 安藤真裕監督にとっては長編初監督作品だが、アクション作画に定評のある人なだけあって(いやー本当にいいんですよこの人の作画!なんかもーぞくぞくすんのアニオタとしては!)キャラクターの動きには見ごたえがある。いわゆる名作・傑作の類ではないが、これをやりたいんだ!という意気込みが感じられる好作だった。特にちゃんばら映画を真面目にアニメーションでやろうとしているところには好感を持った。私は実写の時代劇はあまり見ていないのだが、アニメーションで剣を使ったアクションシーンをやろうとすると、(多分実写でもそうだと思うんだけど)一定のパターンに収まりがち、というかこれだけ古今東西アクション映画があったら、もうネタが出尽くしてしまっているだろうと思うのだが、本作ではまだ何か面白い見せ方があるんじゃないかと試行錯誤している様子が垣間見られる。実際、アクションシーンが良く練られていて、唸ったところも(前半の、古寺内での立会いとか、終盤の塔の高低を利用した上下運動とか。設定上、装置が大きすぎると思ったのだが、このアクションシーンのためだったか)。空間把握のセンスがいいんじゃないかと思う。
 キャストは、主人公「名無し」にTOKIOの長瀬智也。声優初挑戦だそうで大丈夫か?と思っていたが、息の入れ方とかが案外上手い。ぶっきらぼうな感じが出ていて悪くない。そして名無しと対決する異国の剣士に山寺宏一。いやーあれだね。わかってたけど本気の山寺は男前すぎますね。中の人が山ちゃんだとわかっていてもときめきますね。 

『プラネット・テラーinグラインドハウス』

 テキサスの田舎町。軍の研究所から生物化学兵器のガスが流出し、感染した町の人々は次々とゾンビに!ダンサーのチェリーは足をゾンビに食いちぎられてしまう。彼女のかつての恋人・レイは、保安官らとゾンビに立ち向かうが。
 60年代~70年代に流行った、インディーズ系低予算映画の2本立て「グラインドハウス」の再現として作られた作品。クウェンティン・タランティーノとドバート・ロドリゲスの共同企画作品なのだが、タランティーノ監督『デス・プルーフinグラインドハウス』と対になるロドリゲス監督作品が本作。昔のインディーズ映画ぽくするべく、フィルムには傷とノイズ、冒頭にはフェイク予告編まで入るという念の入れようだ。
 しかし残念ながら、『デズ・プルーフ』と比べると映画としては見劣りしてしまったように思う。このへんは、ゾンビが好きかカーチェイスが好きかという見る側の好みの問題もあるだろうが、タランティーノとロドリゲスだと映画の基礎体力みたいなもののレベルが違うんじゃないかと思った。『デス・プルーフ』はB級映画を模しているものの、映画度が高いというか、ショットの決まり具合がいい。だらだらした構成なのに終盤のカーチェイスは一気に盛り上がる。対して本作は、正しくB級ホラー映画のフォーマットに落とし込んであるが、本当にB級映画の枠からはみ出なくなってしまっている。映画から立ち上がっているプラスアルファがないのだ。
 ロドリゲス監督は、あまり映画のセンスが洗練された人ではないのだろう。本編は短い作品なのに妙に緩慢で、もっと短くならないかなーと思ってしまった。エンターテイメントとして王道なストーリーなのだが、作り方が野暮ったい。ストーリーの一部を「フィルム紛失しちゃった」で済ませてばっさりカットしちゃう大味さは嫌いではないのだが、見ていてぐっとくるショットがないのよ。映画としての気持ちよさがあまり感じられなかった。
 あと、音楽のセンスがタランティーノに大幅に負けているあたりもイタかった。ロドリゲス、サントラも自作しちゃうんだもんな・・・。そこがかわいいといえばかわいいのかもしれないけど。

『ヘアスプレー』

 60年代のボルチモア。TV番組「コーニー・コリンズ・ショー」が大好きなぽっちゃり少女・トレイシー(ニッキー・ブロンスキー)は母親(ジョン・トラボルタ)の反対を押し切りショーのオーディションに参加、番組のホストの目にとまり採用される。有頂天のトレイシーだが、金髪美女の番組プロデューサー(ミシェル・ファイファー)は、自分の娘を差し置いておデブなトレイシーが人気を得ていることが許せない。なんとか彼女を引き摺り下ろそうとするのだった。
 元々ブロードウェイミュージカルだということは知っていたが、そもそもはジョン・ウォーターズが1988年に撮った映画だったとは!道理で妙に下品だったり過激なネタがさらっと入れられていると思った・・・。ただ、本作は「これは楽しいミュージカルなんだろうなぁ」というのは分かるのだが、ミュージカル映画単体として面白かったかと言うと、少々微妙だった。ミュージカル映画のキモであろう歌って踊るシーンの見せ方があまり上手くない気がする。何と言うか、普通の映画と同じような感じで撮っているように思う。ミュージカルって歌って踊るんだからバストショットよりロングショットで全身を撮った方が見ていて楽しいと思うのだが・・・。それとも最近のミュージカル映画はそうでもないのかな?ともあれ、ミュージカルって、「なんでセリフの途中で歌いだすんだ!」的突っ込みをいかに早い段階で封じ込めるかがキモだと思うのだが、本作は出だしのエンジンのかかりが悪くて、トレイシーが普通にイタい子に見えてしまう(いや実際かなり妄想癖のある人なんですが)。見ていて、自分の気持ちが上手く音楽に乗っていかないのだ。ミュージカル部分とそうじゃない部分との繋ぎ方がちょっとぎこちないように思った。
 さて、舞台は60年代、まだ人種差別が一般的だった時代だ(TVショーが週に1回「NIGRO DAY(字幕ではさすがにブラック・デイとされている)」という黒人向けの日を作っていてぎょっとした)。そんな中、ブラックミュージックをかっこいいと言い、黒人のダンスを真似することは白人社会の中で生きていこうと思ったら致命傷だし、空気の読める人はしないことだったろう。しかしトレイシーはあっさりと「それかっこいいね!」と黒人グループに馴染んでしまう。トレイシー自身は政治的にリベラル派というわけではない(政治的な思想・主義主張は特に強くは持っていない子っぽい)。自分がおかしいと思うことはおかしい、かっこいいと思うものはかっこいいと、ごくごく正直な言動をとることが、結果的にアナーキーになってしまうという構造なのだ。空気の読めない人だからこそ偏見を吹っ飛ばせたという所が面白い。
 一方、別の意味で空気が読めていないのが、プロデューサー母娘だ。コリンズが漏らすように、時代は人種差別撤廃の方向に動きつつある。しかし彼女らは昔ながらの白人社会に拘り続け、時代が変わり始めていくことに気付かず失脚していく。
 ミュージカルであると同時に、60年代に対するオマージュになっている点が興味深いが、このへんのニュアンスはアメリカ人(しかも一定年齢以上のアメリカ人)以外にはちょっと伝わりにくいかもしれない。しかし、人種差別は(建前として)撤廃されたのにデブ差別は依然として根強いことにはがっくりですよ!

『サッドヴァケイション』

 かつて中国からの密入国者人身売買に関わっていた健次(浅野忠信)は、足を洗い、妹分で知的障害のあるゆり、なりゆきで連れ帰ってしまった中国人の少年と暮らしていた。運転代行で客を自宅へ送り届けた健次は、客の妻を見て愕然とする。それは昔、幼い自分とアル中の父を置いて家を出た母親・千代子(石田えり)だった。その客・間宮が経営する運送会社に住み込みで働くことにした健次は、復讐の機会を窺うが。
 青山真治監督の新作は、『Helpless』『EURICAユリイカ』に続く北九州サーガ完結編。主人公の健次は『Helpless』の主人公だったし、『EURICAユリイカ』でバスジャックに遭った梢(宮崎あおい)も登場する。あの人はこんな風に変わったのか、こいつもちゃんと生活していたんだなぁというような、感慨深いものがあった。本作単体でも問題は無いが、過去作品を事前に見ておくとより楽しめるかもしれない。
 さて、予告編によれば「女性賛歌」な側面が強いらしい本作だったが、見てみたらホラーですよこれ!母性という名のホラー。石田えり演じる母親が怖ろしくて怖ろしくてたまらなかった。周囲をどんどん引き込み、からめとってしまう母性のあり方は、愛と言えば愛なのだが、善悪とか倫理とかとは全く別の所にあるものだ。そういう愛が必要な時期もあるのだろうが、大人になるにはそれを振り切っていかなければならないだろう。そうしないといつまでたっても自分が母親の一部でしかなくなってしまう。実際、健次は母親を振り切ろうともがくが、いつのまにかまた引き寄せられてしまう。自分の女まで母親に絡めとられてしまうなんて!
 石田えりの、頭のネジが1本ゆるんでいるような演技もすばらしく、千代子という女の怖さを倍増している。健次に妙に甘えてくるところとか、「女」度が高くてぞっとする。過去を振り返らない、先のことだけ考えるという取捨選択の極端さや天然の狡猾さも、怖い、気持ち悪い、と同時に大変興味深かったです。生物としてのアビリティが、他の人より高いような感じがするのだ。殺しても死ななさそうというか。こんな女が母親だったら、息子は逃げ続けるか諦めて飲み込まれるしかないだろうなぁ。
 千代子は強烈な母性の持ち主だが、その夫である間宮もまた、父性というよりは母性的な人物だと思う。この映画には父性的な人物が殆ど出てこない。健次は父親的なものになろうと格闘していたと思うのだが、結局挫折する。『Hlepless』『ユリイカ』が父性の強い映画であったのと対照的だ。監督にどんな心境の変化があったのだろうか。
 とにもかくにも気になるのは、青山監督はどういう意図をもって千代子のような母親を描いたのかというところだ。これを是としているのか非としているのか、非としつつも立ち向かうことを諦めているのか。映画のコピーとしては女性・母親賛歌みたいになっていたけど、これを賛美したらダメだろう。特に息子はどこかで母親を(精神的に)切り捨てていかないといけないのではないかと思う。本気で女性賛美映画のつもりだったとしたら、それはちょっとまずいのでは。
 好き嫌いはともかく、映画としては面白かったし、青山監督にとっては快作と言っていいのでは。出口なしだがカラっとしていて、映画のごった煮みたいな感じがするところが面白い。あと、浅野忠信がおっさん体型になりつつあって、そのへんもぐっときました。

『真夜中に捨てられる靴』

デイヴィッド・マレル著、山本光伸訳
 この本を手に取るまで、著者が映画「ランボー」原作者の人だとは知りませんでした!こういう作品書いていたのか・・・。多分、映画は原作からはかけ離れていたんだろうなということが何となく窺われる。路上に定期的に靴だけが捨てられているという謎にとりつかれた中年警官を主人公とした表題作を含む、8編を収録している。各編の前に著者によるまえがきが添えられているのが珍しい。死んだ者に対する強烈な惜別や執着が描かれている作品が印象的なのだが、まえがきによれば著者は息子を亡くしているそうだ。そ、それを明かすのは反則技っぽいなー。よけい切なくなっちゃうじゃん・・・。「何も心配しなくていいから」とか切実すぎる。

『脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める』

築山節著
 本来は物忘れをしやすくなったり、思考力が衰え始めたと感じている中高年向けのタイトルなのだろうが、脳の働きの仕組みという面からは、いろいろと興味深かった。日々の習慣として、脳が衰えにくい生活にしましょうという話なので、若い人が読んでももちろん良いと思う。脳も臓器である異常、適度な栄養・休養・運動(脳の運動ということではなく、体全体を使ったいわゆる「運動」ということ)が必要というのは、案外忘れがちだと思う。しかし、この本に照らし合わせてみると、私は結構脳が老化しにくい生活をしているはずなのだが、何で記憶力が悪くて整理整頓ができないのでしょうか。

『姜尚中の政治学入門』

姜尚中著
 高校や大学で学んだ思想史をおさらいしているような、妙に懐かしさがあった。ルソーとかホッブスとか、うわあお久しぶりです!と思わず挨拶してしまいたくなる。お久しぶり、ということは実社会でこの人たちの思想に触れることがなかなかないということでもあるわけだが。「政治学」と名がつくとつい構えてしまうが、あくまで「入門」なのでそうややこしくは無いし、よく整理されていて時代の流れがわかりやすい。著者独自のカラーもそんなに強くないのは、やはり「入門」なところを配慮したのか。それでも在日コリアン2世という出自故か、周辺から眺めるような視点は一貫しているところが面白い。

『血と暴力の国』

コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳
 1ページ目を読んだだけで、ああこれはいい小説だなと確信できることがたまにあるのだが、本作はそうだった。でも小説内で書かれているのは「殺す・殺される」のみ。題名そのまんまの内容だ。にもかかわらず、読めば読むほど実にいい小説であり続ける。なんだこの魅力!文章が音楽的でいいんだよなー(翻訳の力も大きい)。悪人が、関わるもの全てをなぎ払っていく。関わってしまった側は、運が悪かったと諦めるしかないのだ。悪は天災のようなものなのか。いわゆる感動的な物語では全くないのに心揺さぶられるのは、登場人物があっけなく死んでいく、天災には抗いようが無いという諦観(というほど枯れていない感じなのだが)が根底にあるからかもしれない。殺しの場面は生生しいが、物語は抽象的だと思う。訳者解説の通り、「血と暴力の国」=アメリカであるのだが、むしろもっと大きな、普遍的な「悪」についての物語と言った方がいいだろう。

『獣の奏者 闘蛇編/王獣編』

上橋菜穂子著
 例えば科学者が己の研究に没頭している時、開発した技術がどのように使われ得るかということはあまり考えないのではないだろうか。本作の主人公である少女エリンは、人に慣れず強大な力を持つ生物・王獣に魅せられ、その生態研究に夢中になる。王獣を深く観察し理解しようとを試みるエリンの姿勢は正しく、聡明である。が、それが自分と王獣にもたらすであろう運命に関してはとんと思い至らない。彼女が人間の叡智と愚かさとの両方を体現していて、単純に少女の成長物語とは言えないところがある。むしろ、研究者の業の物語のようだ。とてもとても面白く苦い小説。相変わらず国家の政治体制とかバックグラウンドとか風土とか、物語世界がきっちりと構築されていて手ごたえがある。ただ、政界の描き方に関してはまたか、という感がなくもないのだが・・・。こういう部分がすごく気になる作家なのだと思うが、毎回毎回こういうの読まされるのもちょっとなぁ。

『題名のない子守唄』

 北イタリア、トリエステ。異国からやってきたというイレーナ(クセニア・ラパポルト)は、金細工職人であるアダケル家を監視し、周到に計画を立て、家政婦として家庭内に侵入する。彼女の目的は何なのか?彼女は何者なのか?
 『ニュー・シネマ・パラダイス』『海の上のピアニスト』のジュゼッペ・トルナトーレ監督の新作となる。お得意のセンチメンタルな感動大作と思いきや、今回は何とサスペンス映画。涙の嵐を期待した人は肩透かしをくらうかもしれない。
 カメラはイレーナがやっていることを追うが、彼女がどこから来た何者なのか、何が目的なのかはなかなか明かされない。フラッシュのように挿入される断片的な映像が手がかりとなるが、なかなか全体像は見えてこない。トルナトーレはもしかして、結構ミステリ好きなのでは?と思わせるような、ミステリとして上手い構成だった。「それは出来すぎだろう!」というところもオチも含めてミステリ小説ぽいと思う(ほめてますよ)。いやードキドキしました。
 さて、予告編を見る限りでは、これは母の物語なのかしら、という雰囲気が漂っていたが、いい意味で裏切られた。母性は母性だけどこれは・・・。唸っちゃうね。物語の核にあるのは(監督の意図とは違うのかもしれないが)、母性でも償いでもなく、イレーナ自身の言葉「殴られたら殴り返せ、殴った奴が誰だかわからなかったら手近にいる奴を殴れ」ということだったのでは。その「殴り返す」という一点に対する強烈な意思が物語を推し進めていく。一種異様な雰囲気すらかもし出しているし、彼女は結局あまりに意志が強くて道を踏み外してしまったのではないかとも思わせる。
 殴り返すことによってイレーナは生き延びたが、「手近にいる奴を殴れ」というのはどうか。彼女なりの生きる知恵ではあるが、その知恵、強烈な意志の強さによって引き起こされた悲劇もまたある。そして、手近にいて殴られた奴がまた彼女を殴りにくるかもしれない。殴る・殴り返すの連鎖が止まらないのではという嫌な予感を感じさせるのだ。一見感動的なラストだが、いやこれはもしかして・・・と深読みしてしまう。
 さて、トルナトーレ作品の常として、音楽はエンリコ・モリコーネ。しかし今作ではちょっと音楽がドラマティックすぎ、多用しすぎだった。これで音楽をもっと控え目にして音のないシーンを増やしたら、ハードボイルドなかっこよさが出たと思うのに。こんなところでサービス精神旺盛になられてもなぁ・・・。あと、トルナトーレ監督は相変わらず、女が酷い目に合う話が好きだなーと思った。『マレーナ』ではじけてしまったのでしょうか。

『ローグ・アサシン』

 ひさしぶりに、わかりやすく「なんちゃってJAPANテイスト」が出てくるハリウッド映画を見た。日本国内のヤクザの邸宅はともかく、アメリカの和食レストランの奇天烈な掛け軸や、何故か車の展示場みたいなヤクザのアジトの安っぽさがたまらない。それはわざと?わざとなの?!
 日本といえば、石橋凌がヤクザの親分役で出演している。日本庭園で子分・ケイン・コスギの耳をぶったぎったり、ジェット・リーと日本刀でガチンコ勝負したりしています。英語もちょっと話しているけど、そんなに悪くは無かったと思う(いわゆるジャパニーズイングリッシュなので英語圏の人にちゃんと通じるのかどうかは謎だが)。少なくとも、ジェイソン・ステイサムの日本語よりは通じるに違いない。だってステイサムの日本語(ヤクザ街担当の捜査官なので日本語が堪能という設定)よりも、英語字幕読む方が何言っているかわかるんだよ!私、多分中学生よりも英語わかんないのに!あと、石橋凌の娘がデヴォン青木なのだが、彼女のセリフは日本語吹替えになっていた。口の動きを見るとどうも日本語しゃべっているらしいのだが、あまりにヤバかったのでしょう。むしろ、端役やエキストラの皆さんの方が、実際に日系の方だったりするのか、比較的苦しくない日本語だった。
 映画の中に、ベースとなる言語(本作の場合は英語)以外の外国語が出てくる場合、「なんとなくニュアンス出てればいいか」ということになりがちだと思うが、それを外国の人(本作の場合は日本人)が聞いた場合、やはり微妙な感じになってしまう。海外配給が前提の作品の場合、このへんの配慮が難しいなと思った。ちなみにジャパニーズヤクザとチャイニーズマフィアの抗争が絡んでいるストーリーなので、セリフの他、タイトルロールでも数ヶ国語が次々現れるという工夫がされていて、これはちょっと面白かった。その工夫によって映画が面白くなっているのかと言うと、かなり微妙なんだけど・・・
 さてストーリー本筋だが、ポスターがある意味ネタばれ。驚愕のラストではあるのだが、ラストに至るための伏線をろくに張っていないので、もったいないことこの上ない。アイディアは(この手の映画としては定番のものではあるのだが)悪くはないのに、脚本家にミステリの素養が全くなかったらしい。オチが唐突すぎて笑えるぞ!

『めがね』

 ああこんな場所あったらいいな、こんな生活できたらいいなという、見ていて延々と心地よいユートピア感に満ちた作品だった。監督の前作『かもめ食堂』も、一種理想的な世界であったが、ほのぼのとした心地よさの中にも、ペーソスが漂っていた。このペーソスが登場人物、ひいては映画全体を手ごたえのあるものにしていたと思う。しかし本作では、そのペーソスが殆どない。登場人物達がどんな人なのかと言うことも具体的には語られない。もちろん、登場人物の背景を全てつまびらかにする必要は全く無いのだが、人間ドラマとしての手ごたえがないのだ。
 もっとも、それは全て監督が意図したところであるとは思う。いわゆる人間ドラマを描くことがこの映画の目的ではないのだろう。監督が作りだしたかったのは、おそらく漠然とした幸せ感とか、全体的な空気感のような、曖昧模糊としたものではないかと思う。その結果、映画としてはどんどん抽象化されているところが興味深かった。もたいまさこを母神とした神話のようにも見えてくる。
 ただ、映画の中の世界があまりに心地よいので、幸せ感を感じると同時に不安にもなる。「え?いいの?大丈夫?」とおろおろし始めてしまうのだ。思うに、人間、過剰な幸福感に耐えるには、ある程度のタフさが必要なのではないだろうか。私にはそのタフさはなかったようだ。幸福すぎて疲労します。根が貧乏性なので。また、映画の中に「皆で一緒に土を耕しましょう!」と妙に熱い、うさんくさい宿が出てくるのだが(宿の主を薬師丸ひろ子が怪演している)、彼らと、「ハマダ」に集う人たちとは、くくりの強弱があるだけで表裏一体なのではないかという疑念に駆られた。皆であるムードを共有し続ける、というのが何となく不安なのだ。
 なお、前作に引き続き、出てくる料理は大変おいしそう(ちゃんと料理監修の人がいる)。そしてもたいまさこアイドル映画であるので、もたいまさこファンは必見。それにしても、こんなにきれいな土地にいて「たそがれる」だけなんて、もったいなくてしょうがない。私だったらざぶざぶ海に入るし、わしわし岩にのぼるし、がさがさ畑に分け入るのに(畑に分け入るのはまずいだろう)。

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