3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『エマニュエルの贈りもの』

 アフリカ、ガーナに育ったアスリート、エマニュエル・エボワを追ったドキュメンタリー。彼は生まれつき右足が不自由という障害を負っていたが、自転車でガーナを横断し有名になる。これがきっかけでアメリカへ渡った彼は義足を手にいれ、さらにトライアスロンに挑む。
 ガーナでは障害者は呪いを受けた存在という迷信が根強く、障害を持っていると物乞いをするしか生きる道はなかった。また家族の中に障害者がいることを恥と思う人たちも多いと言う。エマニュエルの実父は、息子に障害があったために妻子を捨てたらしい(とエマニュエルは信じている)。つまり障害者は尊厳をもった人としてカウントされていなかったのだ。エマニュエルはこの状況をなんとか変えたいと奔走する。彼の意思の強さとまっすぐさには頭が下がる思いだ。
 もっとも、映画制作サイドが、少々彼をかっこよく見せようとしすぎだったとも思う。彼をガーナの障害者の地位向上の為の宣伝塔とするならその方向で正解なのだが、如何せんあまりにも「キメポーズ」が多くて失笑しそうになった。やらされてます感がもっと薄ければよかったのだが。
 ドキュメンタリーとしては非常にオーソドックスで、NHK教育放送で放送されそうなもの。お子さんからご年配の方まで幅広く、安心してご覧になれる。その反面、お行儀がよすぎて物足りない部分も。製作サイドがアメリカだからか、ガーナの状況を見る視線がどうしても「お客様」的なのが気になった。切実感が薄くて、エマニュエルが実行したことがどれほど大きかったかという影響力がいま一つ見えてこない。伝統の一つを覆してしまったわけだから、相当すごいことではあると思うのだが。
 興味深かったのが、ガーナでは政府よりも、伝統的な指導者である国王の方が民衆に対する影響力があるというところ。政府に障害者の権利を守る法を制定するよう訴えるよりも、王の関心をかって王宮に参拝し(従来障害者は王宮に入ることが許されなかった)、王から「障害者も健常者と同じく人として権利を持つ」という言質を得る方が、世間に対するアピールとなるのだ。国によって文化が違うんだよなぁと今更のように思った。

『海の仙人』

絲山秋子著
 宝くじを当て、会社を辞めて海辺の町・敦賀に暮らす河野。仙人のような暮らしをする彼の前に、ファンタジーという自称・神様が現れる。河野はいわば長い夏休みのような生活をしている。しかし夏休みは必ず終わるものだ。河野は達観しているように見えるが、結局は煮え切らない男なだけだ。肝心なことは皆、彼の周囲の女達によって決定される。仙人じゃなくて子供だよそれじゃ・・・。イラっとしました。ファンタジーが出現する必要も特に感じなかった。ちょっと浮世離れしたロードムービーぽくしたかったのかもしれないが、神様としてのファンタジーの言葉は却って上滑りしていたように思う。また、文章の人称が混乱しがちで気になった。急いで書いたのかという印象を受けた。

『3、1、2とノックせよ』

フレドリック・ブラウン著、森本清水訳
 連続強姦殺人魔が出没する町。犯人は今日も犠牲者を物色していた。一方、洋酒セールスマンのレイは、賭博で借金を重ね返済を迫られていた。2つのラインがたぶん交わっていくのだろうと見当はつくが、いったいどういう形で交わるのか。こちらはそれほど予想外ではなかったのだが、賭けをやめられないダメ男レイの顛末は思わぬ方向へ。いやーそうきたか!これは面白かった。しかしうろつく強姦魔よりも、レイが自己弁護を重ねつつどんどん泥沼にはまっていく様の方がある意味怖かった。言い訳を重ねつつ悪い方へ悪い方へと進んでしまう。ああそっちへ行ってはダメ~っ!

『あるスキャンダルの覚え書き』

 公立中学校のベテラン教師バーバラ(ジュディ・デンチ)は、新任の美術教師シーバ(ケイト・ブランシェット)に心惹かれる。シーバのクラスで起きた生徒同士のもめごとを収めたことがきっかけで、バーバラとシーバは親しくなる。孤独な日々から救い出されたように感じたバーバラだが、ある日シーバと生徒との不倫現場を目撃してしまう。バーバラはシーバの相談に乗る振りをしつつも、嫉妬を募らせる。
 他人の弱みを握ってそれとなく相手に対する影響力を持つ、支配するというのは、倫理的にはどうあれ一種の快感ではあるだろう。加えて相手も後ろ暗いところがあるからその関係から抜け出しにくい。どんどん泥沼化していきそうだ。バーバラ本人はシーバへの愛ゆえにやっていることだと思っているので、罪悪感も薄い。じわじわ首をしめられるみたいで実に怖い。履き違えた愛は実に迷惑だ。
 しかし、バーバラがやったことは相手にとっては酷いことなのだが、彼女を単純に憎めない自分がいる。彼女がシーバに対して過剰に感情を向けるのは、彼女の孤独さの反動とも見えるからだ。パートナーも友人も家族もおらず、猫だけを可愛がり、その猫も死んでしまう。彼女の孤独が他人事とは思えないのだ。自分もあのように孤独に侘しく老いていくのではないかとドキリとさせられる。切実にいやーな汗をかいた。
 また、シーバがあまりにも愚かだというのも一因だった。ダメだと思ってはいるけれど生徒との不倫をやめられない。バーバラの助言を仰ぐものの、結局従わない。奔放だが状況に流され意志が弱く、それじゃあひどい目にあっても自業自得だよと思ってしまう。なんで悪い方悪い方へと行くかなー!
 ジョディ・デンチの演技は、流石名優とうならせられるもの。貫録たっぷりだ。特に入浴シーンは、凄味のある孤独とでもいうものがじわじわにじみ出ていてちょっとぞわぞわした。あと、煙草を吸う格好が実に様になっている。対するケイト・ブランシェットも、ふわふわした女役が意外にうまい。もっと知的できりりとしたイメージのある人だが、幅が広いなぁ。監督は、デンチとは『アイリス』でも組んだリチャード・エアー。手堅い造りだった。

『キサラギ』

 マイナーなままこの世を去ったアイドル・如月ミキ。彼女が自殺して一周忌に、追悼オフ会が開かれた。集まったのはオフ会発起人の家元(小栗旬)の他、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、安男(塚地武雅)、スネーク(小出恵介)、イチゴ娘(香川照之)の5人。ミキの思い出話とそれぞれのコレクションで盛り上がろうとするものの、「ミキちゃんは自殺なんかじゃない」という言葉から事態は思わぬ方向へ。監督は佐藤祐一、脚本は「ALWAYS 3丁目の夕日」で脚色を手がけた古沢良太。
 舞台1ヶ所のみの室内劇で、複数の登場人物がある事件の真相を検討するという構図は、『12人の怒れる男』(いやむしろ『12人の優しい日本人』か)を思わせる。しかし、陪審員という立場上、事件とは確実に無関係な『12人~』に対して、本作の5人はネットで知り合った正体不明同士。もしかしてこのうちの誰かはミキと関わりがあるのでは?とほのめかされる。このうちの誰かが真犯人なのか?!とすると俄然本格ミステリぽくなってくる。実際、ミステリとしてなかなかよく出来ているのだ。普通のコメディだと思っていたのだが思わぬ拾い物だった。
 ミキの死の真相を推理するミステリである一方で、この5人は一体何者なのかというミステリが展開される。この2つのミステリが上手い具合に絡まっていた。男たちの正体が徐々に明かされることで、ミキの死の新たな側面が見えて推理が二転三転する。彼らの正体が、それまでの推理に対する裏づけもしくは否定になっていることで、ストーリーの転がり方がスムーズになり、二転三転の仕方が不自然じゃなくなるのだ。伏線をどんどん回収していくのも気持ちいい。あれがそこにくるか!という爽快さがある。このあたり、ミステリ小説を結構読んでいる人が作っているのかなという印象を受けた。「(皆が幸せになれるように)つじつまが合えば真実なんてどうでもいいじゃないか、そもそも本当に何があったのかは誰にもわからないんだから!」というある登場人物の主張は、ある意味本格ミステリの本質を突いている。しかも彼らが出した結論によって、ミキがアイドルとしての本分を全うするという、被害者(?)がアイドルであるという設定がきちんと活かされたオチになっている所は見事。捨て設定がないところがすごい。
 脚本がよかったことに加え、役者5人の健闘が光った。1人1人でもいい役者だとは思うが、それぞれの演技ががしっとかみ合って最大の効果を上げていると言っていいと思う。このかみ合い方はちょっと奇跡的で、思わず感動した。映画を見ている間、場内は笑いが頻発していたのだが、これは脚本に書かれたセリフや演出がおかしい、タイミングが上手いこと以上に、それをより面白く見せた役者の力が大きかったのでは。役者のテンションが高くてテンポが良いので、脚本に穴があっても乗り切ってしまう。振り返って確認する気にならないのだ。この現場は楽しかったんじゃないかなぁという雰囲気が伝わるほど出演者のノリがよかった。脚本、演出、役者の力が奇跡的にかみ合った、非常に幸せな映画だと思う。
 佐藤監督も脚本の古沢も、おそらくサービス精神旺盛な人なのだと思う。キャラクター全員に見せ場を作り、後味を良くし、オマケまでつける。オマケは少々蛇足だったが、エンターテイメントとしての映画に対して全肯定な姿勢には好感を持った。そして、基本的に人間に対してポジティブ。見るとスカっとした気分になれる好作だった。最後の渾身のオタ芸も泣ける!

『それでも生きる子供たちへ』

 メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、カティア・ルンド、スパイク・リー、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウーという7ヶ国7人の監督により、子供を主人公としたオムニバス映画。
 オムニバス映画はなかなか粒ぞろいといかないのが悩ましいところ。本作も、残念ながらすべてに大満足というわけにはいかなかった。題材は子供ではあるが、様々な国で環境は違えど苦境に立たされている子供たちなので、あまり不謹慎なことはできなかったのか、どの作品も少々お行儀良すぎてしまった印象を受けた。あくまで大人目線の子供、大人がこうであろうと想定した子供という範疇から抜けられなかったように思う。
 そんな中でキレが良かったのは、クストリッツァ監督作品。少年院から出所することになった、盗み常習犯の少年。今度こそ理髪師の叔父の元で更生しようと決意するが、窃盗の元締めである父親が迎えにきてしまう。塀の外より中での方が自由であり守られているという皮肉。それをコミカルに(そしてハイテンションに)描いている。唯一笑いが起きたのがこの作品だった。
 対照的だったのがスパイク・リー監督作品。HIVに感染している一家を描くが、ドラマ造りは手堅いのに題材の切り取り方が四角四面で面白みに欠ける。なんだかNHKの「中学生日記」みたいだなーと思った(いや、むしろ最近の「中学生日記」の方がアバンギャルドかも)。熱意が空回りしているように思う。扱われている問題が深刻であればあるほど、ユーモアが必要になるのではないか。もちろんシリアスな問題をシリアスに描く手法も正しくはあるが、私は映画は基本的に娯楽だと思っているので、どこかに面白みがほしい。リー監督といえば社会派、というイメージがあるが、彼の社会派作品といわれる映画は、私は正直言ってあまり面白いと思わない。
 一番のビッグネームであろうWスコット監督作品は、ちょっと叙情的すぎる。ロケ地(イギリスらしい)が美しいので目には優しいが、さほど新鮮味はなかった。また、やはりビッグネーム、というか何故貴方が?!という感が否めないジョン・ウー作品は、ネタはいいが料理がいまひとつという感じ。中国を舞台にした、裕福な少女と貧しい少女のストーリーだが、これがすごいベタなのよ。ベタなのはいいのだが、サービス精神が過剰なのか、わかりやすく演出しすぎなように思った。おじいちゃんが倒れるところとか、あの状況でああはならないんじゃないのかなー。最後も蛇足だったのでは。あ、教会もハトも出てこなかったですよ、流石に。
 ちなみにこの映画、子供が主人公ではあるがPG12指定。せっかく世界の子供を描いているのに当の子供が見られないんじゃもったいないのでは。
 

『プレステージ』


19世紀ロンドン。手品師のアンジャー(ヒュー・ジャックマン)とボーデン(クリスチャン・ベール)は共に修行に励む仲間だった。しかしアンジャーの妻で手品の助手をしているジュリアが、水中脱出手品に失敗、溺死する。ボーデンがロープをきつく結んだのが原因だと信じるアンジャーは、ボーデンを強く憎み、お互いに嫌がらせを繰り返すようになる。やがてアンジャーは演出の上手さでスターになる。一方ボーデンは画期的な「瞬間移動」を披露する。アンジャーはこれに激しく嫉妬するが。
 アンジャーとボーデンはライバルである所に加えて、アンジャーの奥さんが事故死したという事情もあって、仲は大変によろしくない。会えば火花が飛び散る険悪っぷりである。更にお互いの才能に対する嫉妬が話をややこしくしているのだ。お互いなんでそこまで、というくらいにやりあう。ガキの喧嘩みたいでおかしいのだが、お互いに結構な実害を被っているだけに笑えない。しかしもし、この2人のうちどちらかがこれほどまでに手品にのめり込んでいなかったら、事態はもっと簡単だったかもしれないし、アンジャーだって奥さんの事故を水に流す、とまではいかなくても延々とボーデンを憎むことはなかったかもしれない。2人が同じものに取り付かれ、同じくらい才能があったということによる悲劇と言えなくもない。
 2人が使った「プレステージ(偉業)」は、とっぴょうしもないので(原作はバカミスすれすれだもんなぁ・・・)拍子抜けする人もいるかもしれないが、男2人の確執ドラマとして面白かった。冒頭のシルクハットとラストにちらっとみえたある物が、ビジュアル面のインパクトとしても伏線としても効果的。影像面のトリックはもちろんだが、意外とシナリオ上のトリックもきちんと生きている。ボーデンの奥さんの言動の使い方も、なるほどと。トリッキーな映画『メメント』で一躍有名になったクリストファー・ノーラン監督が、同じく大変トリッキーなクリストファー・プリーストの小説『奇術師』を映画化しただけのことはある。あの長々としてややこしい小説をどうやって映画に、と思っていたが、これがなかなかよく出来ていた。原作の複雑な伏線をばっさりカットして、伏線もシンプルなもの(といっても一般的なエンターテイメント映画の中では複雑な方だと思う)のみ残してあった。このくらいすっきりしていると、カタルシスがあっていいなぁ。原作はあっちこっちこんぐらかっている上に、主人公2人がねちねち憎み合っているので大変疲れるのだ。
 ヒュー.ジャックマンもクリスチャン・ベールも熱演している。特にベールは中学生男子並の子供っぽい嫉妬や憎憎しい表情が似合う。いや似合っても嬉しくないだろうけど。あとヒロインのスカーレット・ヨハンソンは、ビッチ!な役が似合うなあ。
 

『大日本人』

 さえない中年男・大佐藤(松本人志)をカメラが追う。どうも大佐藤を追うドキュメンタリーを撮影しているらしい。大佐藤は実は、防衛庁から不定期に依頼される仕事をしているのだが、世間からの評判は散々なのだ。
 松本人志初監督作品。映画上映時間は2時間ほどだったが、目の前に虚無が広がるという経験を始めて味わっちゃったよ。ある意味すごい。つまらない映画というのは拷問なんだなぁと久々に実感した。私は松本人志の作る笑いが好きだし、「ごっつ」も「ガキ」も好きだ。が、この映画はいただけない。
 大佐藤の微妙に自己弁護を図る言葉の座りの悪さや、妙なかっこつけに漂うもの悲しさとわびしさ、カメラマン(姿は現れず言葉のみ)のいかにもテレビっぽいいやらしさは、松本人志ならではの味わいかもしれないが、これだと「ごっつ」のコント見てるのとあまり変わらない。映画だからこそというスケール感がないのだ。この内容だったら、それこそTVでコント番組1つ作って、その中で15分位づつ連続コントとして毎週放送した方がまだしも面白かったんじゃないのと思ってしまう。
 特に終盤のやっつけ仕事感はすごかった。何故ここで本当にコントが。ウルトラマン的ヒーローが実在したら結構迷惑だとか、日米関係を皮肉ってみましたとか解釈しようと思えば出来るが、その匂わせ方があからさま(だから多分匂いもネタなんでしょう)なことに加え、コントとしてあまりにつまらないので解釈する意欲もわかない。映画の終わらせ方を見失ってしまったのではないか。やはり松本に長編は無理だった(というか映画は無理だった)のか。全く見ていていたたまれないです。
 客が唯一ウケていたのは、大佐藤と板尾創路演じる怪獣とのやりとり。でもそれって、本当に「ごっつ」のコントそのものじゃないか。それをスクリーンで見せられてもなぁ。CGを駆使する必要は感じなかった。あれだったらきぐるみで十分。

『夜をゆく飛行機』

角田光代著
 4姉妹のいる、ごく普通の酒屋の一家。二女が家族をモデルにした小説でデビューした日から、一家に問題が頻出。ごく普通の一家、と書いてはみたものの、普通の家族って何だろう。どんな円満な家庭でも多かれ少なかれ問題は起こるし、逆にはたから見たら問題だらけなのに当の家族は全く自覚がなくごく平穏(に見える)な日々をおくっている家庭もある。本作に出てくる家族は、問題があることに気づいてはいるが、それぞれがそれを見ない振りをしている。二女が小説に書いたような普通の家族であり続けようとしているかのようだ。それを歯がゆく思う現実的な四女も、自分の恋と進路とで手一杯だ。壊れそうで壊れない、つながっていないようでつながっている家族の曖昧さがすくい上げられている。やはり家族を描くのが上手い作家だと思う。父親の弱さとか二女の脆さ、四女の不器用さなど、痛々しい。

『此処彼処』

川上弘美著
 いろいろな場所にまつわるエッセイ集。著者は今まで、土地の具体名は作品内には出さないようにしていたそうだが、今回初めて出してみたとか。しかし実在する場所にまつわる話ではあるのに、著者が描くと、実在の場所から宙に20㎝くらい浮いたような雰囲気になる。これが芸風というやつか。空き時間にちょこちょこ読んでほっとできるエッセイだった。ちなみに著者は銀座(北端はプランタン、南端は博品館、西端は電通ビル、東端は松屋)エリアが怖いそうだが、この感覚はちょっとわかるなー。私は怖いというほどではないけど、どうもあのあたりは落ち着かないのよね。相性が悪いのか。

『14歳』

 14歳の頃に学校で事件を起こして以来、精神科に通っている中学校教師・深津(並木愛枝)。ある日生徒の一原を家庭訪問した彼女は、中学校の同級生だった杉野(廣末哲万)に出くわす。廣末は一原家の向かいに住む少年・大樹にピアノを教えるアルバイトをしていたのだ。やがて深津はあることがきっかけで生徒からの「いじめ」にあうようになり、一方杉野も大樹への苛立ちを隠せない。
 夫婦の抜き差しならない関係を生々しく描いた『ある朝スウプは』が強烈な印象を残した、廣末哲万と高橋泉によるユニット「群青いろ」の新作映画ということで、見るのが楽しみでもあり気が重くもあり(『ある朝スウプは』は怖かった...)という、複雑な心境で見に行った。本作は『ある朝~』ほどではないものの、やはり緊張感に満ちていて息苦しい。今回は廣末が主演・監督、高橋が脚本を担当したそうだ。
 「14歳」というタイトルではあるものの、14歳の少年少女に対する視線はむしろ突き放したものだ。どちらかというと「14歳のことなんてわかんねーよ」と悩む大人達の方に、作る側の感情移入がされていたように思う。ただ、大人登場人物のキャラクターが少し誇張されすぎていたのではないか。深津に対する臨床心理士の分析は紋切り型(まあそんなものなのかもしれませんが)なのが気になったし、深津の先輩教師(香川照之)の奇行も極端で、保護者からクレームが出ていないのが不思議だ。また、一番普通の(安定した)人である杉野も、感情に乏しいというか、シニカルすぎるのではないかと思った。このキャラクターだと、最後の大樹に対する言葉が唐突すぎるように感じられる。シニカルさ、無表情さをもうちょっと小出しにしてもよかったんじゃないかと。
 ちょっとひっかかったのが、深津と杉野の「杉野君も14歳だったじゃない」「もう(14歳の頃を)思い出せないのかな」というセリフだ。この2つのセリフは連続して出てくるわけではないのだが、どちらも「大人になって自分が14歳の時の気持ちを忘れてしまったから、14歳の子供の気持ちがわからない」という文脈で使われている。2人は14歳の時に大人にされて深く傷ついた行為を、期せずして14歳の子供対してとってしまうのだ。でもその行為をする・しないということと、14歳の時のことを忘れてしまったというのは、あまり関係がないのではないか。2人がした行為は、14歳の時のことを覚えていなくても、多少の想像力と自制心があれば回避できた(ようするに相手が大人だろうが子供だろうが関係ない)ことだ。明らかに「おいおいそれはまずいだろう!」と突っ込みいれたくなるようなことだから。「子供の気持ちがわからなくて」という所を強調したかったのだろうが、大人だから失敗したのではなく、ちゃんとした大人じゃないから失敗したように見えてしまうのだ。これはストーリー作り(失敗があからさまなことも含め)上のミスだと思う。
 なかなかいいなと思ったところと、ちょといただけないなというところ(上記のような)との落差が激しく、作っている側も、14歳というテーマを掴みあぐねている感じがした。ただ、女子中学生・一原の造形は結構上手いと思った。自分より若干立場が下な友人を振り回す(要するにいじめる。いじめられる方も他に友達いないからしがみつかざるを得ない)様は見ていてとても腹立たしいと同時にイタい。しかし一原も自分がいじめている友人と同様、他に友達がいなさそうだ。放課後、自習の続きをしている友人を待っているんだけど、「待ってる間ヒマじゃん」と不満を言う。...だったら帰ればいいのに。他にやることないの?

『川に死体のある風景』

e-NOVELS編
 歌野晶午、黒田研二、大倉崇裕、佳多山大地、綾辻行人、有栖川有栖ら6人のミステリ作家が、「川に死体がある」ミステリを書き下ろした短編集。いろいろな川が登場するが、コロンビアを舞台とした佳多山の作品が一番変り種(ミステリとしてはわりとオーソドックスですが)か。ただ、どれも小粒な感は否めない。特に歌野、黒田の作品はトリックに難ありかも。それはさておき、江神さん(有栖川作品)とものすっごい久しぶりに再会した。10数年ぶりか?今年本当に長編出るんですか?

『メグレ罠を張る』

ジョルジュ・シムノン著、峯岸久訳
 パリの特定エリアで起きた、女性ばかりを狙った連続殺人事件。メグレ警視は犯人を追いつめる為罠を張る・・・ってタイトルそのままだわ。張り込みシーンから物語が始まるので、ちょっと実況中継ぽい。メグレシリーズは久しぶりに読んだが、ちょっとぶっきらぼうというか、ストイックな作風だと思う。メグレ自身があまり感情を外に出すキャラクターではないし、ストーリー展開でもサービスは控えめで地味。ところで、犯人の精神分析にはさすがに時代(1965年)を感じた。今では無理だろうこれは。まあ、こういうギャップも昔の作品を読むときの面白みではあるが。

『双生児』

クリストファー・プリースト著、古沢嘉通訳
 ノンフィクション作家のスチュワート・グラットンは、第二次世界大戦中に活躍したというJ.L.ソウヤーなる人物のことを調べていた。空軍大尉として爆撃機に乗りながら良心的兵役拒否者。そんなことがあり得るのか?「信用できない語り手」を使った小説は多々あるが、本作はその極北とでもいった感じ。双子の兄弟が語るストーリー、そして同一人物(と思われる)が語るストーリであっても、何かが少しずつずれ、奇妙に歪んでいくのが気持ち悪い。しかしそのずれが細かすぎて、大森望の解説がなかったら半分も理解できなかったよ!すごく手が込んでいて、今年の「このミス」では間違いなく上位にランクインされるだろう。しかし、正直言ってここまでやる必要があるのか、ここまでやらないと面白い小説にならないのかというと疑問だ。読者が気付かないような細かい伏線はすごいといえばすごいのだが、言われないと気づかない伏線てあまり意味がないんじゃないのとも思う。ちょっとひとりよがりな気がする。

『アークエンジェル・プロトコル』

ライダ・モアハウス著、金子司訳
 2076年、ある事件によりニューヨーク市警を辞めた女探偵ディードリの元に、ハンサムな依頼人が現れた。彼は本当に「天使」なのか?政界の陰謀に探偵が巻き込まれるというハードボイルドだが、世界観は個人が常時ネット接続(リンク)しているという、オーソドックスなSFのもの。加えてキリスト教が圧倒的な力を持つ世界という設定でもあり、宗教に対する皮肉にも満ちている(女性は短髪NG、ジーンズNGなんですよ!やってられっか!)。それなのに、結局「天使」に「救世主」というキリスト教的な世界観が最後まで基盤になっていてつまんないわー。せっかくなんだからそこを突破してくれないと。設定が先行して、ストーリーについていけなかった所があった。ディードリの心情がコロコロ変わるのにも、ちょっとついていけなかった。
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