3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『うわさのギャンブラー』

 出張ストリッパーのベス(レベッカ・ホール)は、ストリップ稼業に嫌気がさして憧れのラスベガスへ出てくる。ひょんなことから伝説的なスポーツ賭博師ディンク(ブルース・ウィリス)の下で働くことに。記憶力に優れて数字に強いベスは、ギャンブルの才能を発揮し始める。同時に、ディンクにも惹かれていくが、ディンクには気難しい妻チューリップ(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)がいた。監督はスティーブン・フリアーズ。実在の賭博師ベス・レイマーの自伝が原作。
 スティーブン・フリアーズの映画ってあっさりとしていてスパっと終わるという印象があって、そこが割と好きなのだが、本作もあっさりとしている。話はとんとんと進むし、ベスとディンクの不倫もそんなに泥沼っぽくないし、別れ方は唐突だがそんなに尾を引かない。これは、ベスが多分にファザコンぽくて、男女の仲がこじれているというより、父親と反抗期の娘みたいな感じに見えるからかもしれないけど。ハラハラする展開はあるものの、そんなに引っ張らない。人によっては物足りなく感じるかもしれない。私は、スターが出演しているのに妙に地味で、却って肩の力を抜いて見られるところに好感を持った。
 ベスは多分20代半ば~後半くらいだと思うのだが、髪の毛をいじる癖に見られるように、言動はかなり子供っぽい。優しくて気のいい、良い子なのだが、ギャンブルに対して無邪気すぎてリスクをよくわかっていない風だったりする。ディンクとの関係にしても、楽しければいい、相手の良い所(というか自分にとって魅力的で都合がいいところ)しか見ない。そんな彼女が他人の弱さや自分の「責任」に気付き、成長していく、他人を支えられる人間になっていく。ある男に電話で話す内容は、自分に言い聞かせているようでもある。自分の実感がこもった言葉だから、相手の心にも届くのだ。
 自分の「責任」に気付き、自分が誰かを支えるのだと自覚するようになるというところは、ディンクも同じだ。ディンクはさすがにギャンブルのリスクや苦さは熟知しているが、相手の、自分に都合のいい面ばかりを見る、相手の弱さを考慮しないという部分はちょっとベスと似ている。そのあたりも、男女というよりは父娘に見えてしまった一因かもしれない。
 アメリカでのスポーツ賭博のシステムを知らないと、最初ちょっと飲み込みにくいかもしれないが、見ているうちに慣れた。ちなみにウィリス演じるディンクはいつもハーフパンツに白いソックスというスタイル。これ、ラスベガスではアリなんだろうか・・・。いくらなんでもふくらはぎ丈の白ソックスはないんじゃないかと思って、すごく気になったのだが・・・。どういう意図でのスタイリングなんだ・・・。




『ペンギン・ハイウェイ』

森見登美彦著
小学校4年生の“ぼく”ことアオヤマ少年は郊外の街に住んでいる。ある日、街に突然ペンギンたちが現れた。“ぼく”はペンギンの出現に歯科医院のお姉さんが関係していると知り、不思議な現象を研究し始める。第31回日本SF大賞を受賞した作品。SFというよりもファンタジーに近い、が、“森”で起こる現象のシステムはやっぱりSFぽいのかなぁ。SFファンが本作をどのように読むか気にはなる。が、ジャンルがどうであれ、本作はすてきなジュブナイル小説であり、夏休み小説である。夏の朝、すごく朝早くに目が覚めてしまって、まだ静まり返っている街を散策する時のわくわく感を思い出した。何か、夏の匂いみたいなものに満ちている。世界の別の側面を垣間見るみたいな。世界を知っていく、という面では正しくジュブナイル。知的好奇心旺盛でやや理屈っぽい、「自分は自分」を確立しているアオヤマ少年は、スクールカースト底辺でたむろっていた文系少年少女にとっては夢を託せる子供なのかも。




『コックファイター』

 闘鶏トレーナーのフランク(ウォーレン・オーツ)はライバルのジャック(ハリー・ディーン・スタントン)に惨敗し、全国チャンピオンになるまで喋らないと誓った。しかし再び試合に破れ、トレーラーハウスをはじめ財産を奪われてしまう。フランクは再挑戦を誓い、弟夫婦の家を勝手に売って資金を調達する。監督はモンテ・ヘルマン。原作、脚本はチャールズ・ウィルフォード。
 B級映画の帝王と呼ばれるロジャー・コーマン製作作品(1974年作品)。当時、『断絶』が興業的に大失敗しハリウッドから仕事を干されていたヘルマンに対する救済措置的な企画だったが、またまた興業は大失敗だったという訳アリな作品だそうだ。
 フランクは闘鶏の世界(というのがあるんですね・・・。少なくともアメリカ南部では)ではそれなりに名前が知られているらしいが、何しろニッチな世界。婚約者に闘鶏を一度見に来てくれと頼むが、特に女性にとってはハードル高そうだし、そこに理解を求めるのはなかなかハードル高いんじゃないだろうか・・・。フランク自身は闘鶏に賭ける人生に疑いを持っている様子はない。彼にとってはそれが全てなのだ。
 本作の脚本はヘルマンではないが、『断絶』にしろ最新作の『果てなき路』にしろ、部外者には分かりにくい(共感を得にくい)情熱を抱く人が作品の中心にいるように思った。敗北しても敗北しても再度立ち上がるフランクの姿は、当時、赤字作品ばかりリリースしていたヘルマンの姿とダブる。ヘルマンは本作の数十年後に『果てなき路』でまさかの監督業大復活を遂げるわけだが、フランクの勝負の行方は、本作を見て確認して頂きたい。
 主演のオーツはセリフはごく少ないものの、表情が大変キュート。動作の一つ一つが、指の上げ下ろしに至るまで決まっている。いい役者は身体コントロール力が高いんだなと改めて思った。アメリカ南部を舞台としているが(ロケ地も南部なのかは不明)所々はっとするような美しいシーンがある。ちょっとテレンス・マリック監督『天国の日々』を思い出した。
 ちなみに闘鶏自体は結構迫力がある。ただ、鶏はほぼ使い捨て状態なので、動物保護団体から大ブーイングが起きそう。




『フランス白粉の謎』

エラリー・クイーン著、越前敏弥・下村純子訳
角川文庫・新訳版で読んだ。昔読んだはずだけど恐ろしいことにあらすじどころか真犯人すら忘れていた。おかげで新鮮な気持ちで読めました!ニューヨーク五番街の百貨店のショーウィンドウで女性の死体が発見された。被害者は百貨店社長夫人。現場からは夫人のものではないと思われる口紅が発見された。そして夫人の娘も行方不明に。クイーン警視の息子、エラリーが謎に挑む。この題名、国名付けたのは結構こじつけぽいな・・・そこもミスリードといえばミスリードなのか。添付の百貨店ビルの図やアパートメントの間取図の大味さもミスリードといえばミスリードなのかも・・・(謎解き自体にはあまり関わってこないが)。謎解きの流れがザ・本格!ぽい。そんなに謎の規模が大掛かりでないところが好み。実はある事実がわかった時点でかなり容疑者が絞られてしまう(というかほぼ2、3人になってしまうし、そもそもこの事実は無理やり挿入した感もあるのだが・・・。本作は結構そういう要素が多い)のだが、そこからの引っ張り方、気の散らせ方が流石。ラストのスパっとした終わり方には賛否があるみたいだけど私は賛で。潔い!なお、クイーン父子が相変わらずラブラブでややイラっとするレベル。




『ももいろそらを』

 高校生のいづみ(池田愛)は、30万円が入った財布を拾う。財布に入っていた学生証によると持ち主は男子高校生の佐藤。持ち主の家に一度は行ってみたいづみだが、思い立って図書館で新聞記事を調べると、財布の持ち主の父親は天下り官僚だった。財布を返す気が失せたいづみは、金策に困っている知り合いの印刷屋に20万円を貸す。監督は小林啓一。
 冒頭に、おそらくは未来のいづみによる一文が挿入されるが、見終わってみてもあまり効果的ではなかったと思う。全編モノクロなのは思い出の中だからとか、そういう解釈にもっていくことはできるかもしれないが。とはいってもモノクロにする意味もあまりないと思うんだよな・・・。モノクロゆえの美しさもさほど感じなかった。素直にカラーでいいのになと。
 いづみの喋り方は下手なべらんめぇ調とでもいうか、『男はつらいよ』の寅さんの真似っこみたいな感じだ。役者の技量の問題もあるのかもしれないが、あまりこなれていなくて聞いているとこそばゆくなってくる。自分のキャラを過度に誇張しているみたいで落ち着かない。こういう、妙な自意識持っちゃっている時期ってあったよなぁ・・・という、なかなかにイタイタしい気分になる。更に、自分は利口で他人はバカというような、若干世間をバカにしたような(新聞記事に点数をつけるといった)態度、明後日の方向に正義感を燃やして簡単に対立構造を作るようなところも、ああ若いな、10代だなとわが身を振り返ってもかなりイタ懐かしい。
 いづみとその友人の蓮実(小篠恵奈)、薫(藤原令子)、財布の持ち主である佐藤(高山翼)が、佐藤が落とした30万円をきっかけに、思わぬプロジェクトを繰り広げていく。最初当事者であったいづみがどんどん部外者みたいになっていく。下心があるにせよ、友人達の方が、あまり物事考えてなさそうな一方でけっこうちゃんと物事を進めていたり、地に足着いていたりして、この人こんなところがあったんだ、とはっとする。観客のはっとする瞬間は、いづみにとってのはっとする瞬間でもあるだろう。
 女性高校生の会話の、ちょっと悪ノリっぽいノリや、女子3人グループのバランス感はよく再現しているなと思った。ストーリーの運び方はあんまり上手くないように思ったが、ダイアローグ作りの観察眼みたいなものがあるなと思った。もっとも、ちょっと台詞多すぎなんじゃないかという気もしたが。




『96時間/リベンジ』

 元CIA工作員で今は民間のボディガードとして働いているブライアン(リーアム・ニーソン)。イスタンブールでの仕事が完了するのにのにあわせ、元妻レノーアと娘キムを呼びよせ、家族旅行を計画していた。しかし犯罪組織のボスが復讐の為、ブライアンと家族を狙っていた。その組織は以前キムを誘拐し、娘を救出しようとしたブライアンにボスの息子や部下が殺されていたのだ。ブライアンとレノーアは拉致され、危うく逃れたキムにも追手が迫っていた。監督はオリヴィエ・メガトン。
 リーアム・ニーソンがとにかく強い怒れるパパを演じるシリーズ2作目。前作では娘を助ける為に犯罪組織へ殴りこみをかけたが、本作では早々に自身が誘拐されてしまう。が、誘拐先での位置特定とか脱出方法とかが、アクションシーンよりも地味に(色々できすぎだろ!というツッコミ込みで)面白かった。アクションのみだったら前作の方が短時間に圧縮されている感じで気分が盛り上がったと思う。
 今回はブライアンがやったことのツケが回ってくる、敵もまた1人の父親であるというところで、前作ほどの爽快感はない。ブライアンも組織のボスも、どっちもどっちだ。どちらかが断念しないと復讐の連鎖が終わらないという陰鬱さがある。そして断念するのは容易ではないということも。父親の愛は傍から見たら理不尽なのかもしれない。
 理不尽といえば、ブライアンの娘に対する親心は、ちょっと行きすぎというか、色々とやりすぎだ。結果オーライではあるが、人によっては縁を切られそうなことをやっている(笑)。娘に対する愛はあるけど信用がない(職業柄か)というか、基本自分の尺度で行動する人なんだろうなと。ブライアンは仕事人としては非常に優れているが、それ以外の部分ではかなり難点が多いというのも本作の面白みかもしれない。元妻が現夫と不仲になったタイミングで声掛けるとか、結構セコいぞ!




『LOOPER』

 個人識別システムが発達した未来。個人の位置・生体反応がすべて管理されており、暗殺は不可能になっていた。そこで犯罪組織はタイムマシンを使って30年前の2044年にターゲットを送り、ルーパーと呼ばれる処刑人に暗殺させていた。ある日、ルーパーのジョー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の元に、未来の自分(ブルース・ウィリス)が送られてくる。老ジョーは若ジョーの隙を突いて逃亡。組織は老ジョーを追うが、彼にはある目的があった。監督・脚本はライアン・ジョンソン。主演のゴードン=レヴィットとはデビュー作『ブリック』以来のタッグとなる。
 タイムリープ、タイムパラドックスSFとしてはそれほど目新しくないし、タイムパラドックスの設定もよくよく考えるとちょっと微妙。SFとしては多分(私は詳しくないので)設定はユルい方だろう。ただ、この設定を利用したある拷問のやり方、メッセージの伝え方と、その「見え方」には、この手があったか!(よく考えると理論的におかしい気もしなくはないんだが・・・)と感心した。ロジックよりもインパクト重視なのはこの作品にとっては正解だろう。
 本作は一応SF、しかもちょっと昔のB級SF風のルックスだし、実際、物語前半に関してはどのジャンル?と問われればSF、と答えられる。が、後半は前半の雰囲気、また予告編から受けた印象とは雰囲気が異なる。SFというよりも、古典的な西部劇に近いように思った。サトウキビ畑に囲まれた人里離れた一軒やに、若い母子が2人きりで住んでいる、というビジュアルイメージもなのだが、ジョーが最後にたどり着く境地が、なんだか昔の西部劇の主人公みたいだなと思ったのだ。
 ジョンソン監督は『ブリック』で、昔ながらのハードボイルドのフォーマット(探偵がいて、街の顔役がいて、ギャングがいて、ファム・ファタールがいて、というような)を使って学園ドラマを作っていたが、本作も、あるジャンル映画のフォーマットを使って別ジャンルのドラマを展開する試みが好きなんだろうか。本作のキモはタイムパラドックスよりも、自分本位だった若ジョーが、誰かの為に何かをやる(奇しくも老ジョーが決意していたように)境地にたどり着くというところにあったように思う。その行為で未来が本当に変わったかどうかは分からない。が、彼がそれをやろうと思えるようになったというところが重要なんじゃないだろうか。
 ちなみに本作、タイムパラドックス設定といい女性の名前といい、ターミネーターシリーズへのオマージュかなとちらっと思った。だとすると、ジョーの決断にも納得。




『機龍警察』

月村了衛著
大量破壊兵器が衰退し、近接戦闘兵器として機甲兵装が台頭している近未来。日本警察は「龍機兵」と呼ばれる新型機を導入した警視庁特捜部を発足。龍機兵の搭乗員は外部から雇われた姿俊之ら、3人の傭兵だが、警察組織内ではよそ者として反感をかっていた。そんな折機甲兵装による立ても籠り事件が起き、特捜部はSATと激しく対立することに。近未来を舞台としたSF警察小説。シリーズ2作目から読み始め、めっぽう面白かったのでさかのぼって1作目を読んでみたが、ちゃんと1作目から面白かった。キャラクターの立て方など危なげがないのは流石。どうも各作、傭兵3人それぞれの過去の因縁に絡み、現在と過去を行き来する構成で統一しているみたいだ(傭兵は3人だからこの構成は3作で終わりかもしれないけど)。本作では姿の過去と現在の事件が呼応し、姿なりの職業倫理が垣間見える。本シリーズで描かれる犯罪の姿には、昨年末に公開された『007 スカイフォール』でMによって語られる「現在の敵」の姿を連想した。本作が発行されたのは2010年なのでスカイフォールよりも先だが、今、戦争の描き方を考えると、こういう形になってくるのかなと思った。なお本作、警察内の軋轢が苛烈。閉鎖的で同調圧力の強い組織特有のいや~な空気感を味わいたい方もぜひ。




『尋問請負人』

マーク・アレン・スミス著、山中朝晶訳
企業や政府、犯罪組織等から依頼を受ける拷問のプロ・ガイガー。彼は厳しいルールに従って仕事を完遂していたが、ある日緊急の仕事を依頼される。対象者は、ガイガーにとって「ルール違反」となる子供、画商の息子エズラだった。自他は思わぬ方向に動き、ガイガーはエズラを連れて逃げる羽目になる。サイボーグのように正確な仕事を規律に従いこなしていくガイガーが、徐々に逸脱していく。それと同時に、過去の記憶と向かい合っていく。ガイガーの仕事は非人道的だし言動も非人間的。それが、予想外の事件から徐々にほころび、それまでの生き方から逸脱していく。少年を守り、仕事上の相棒との関係に一歩踏み込んでいく。特にかかりつけの精神科医コーリーに対する信頼感の度合いの変化は、彼が本当に「信頼する」覚悟ができたんだと思わせる。彼が人間としてもう一度生まれ直す過程と、ある機密を巡る逃亡劇とが重なり、スリリング。常に冷静で強靭な「プロ」だが、過去の記憶を(自分では意識せずに)恐れているガイガーのキャラクターがいい。「わたしにはそれがいちばん納得できるのだ、とだけ言っておこう」というセリフが彼の人柄を象徴している。また、最初は打算的だった相棒のハリー、本当にガイガーの「友達」になっていく過程にもぐっとくる。




『さみしいネコ』

早川良一郎著
サラリーマン生活を長年続け、50歳から執筆活動を始めた著者によるエッセイ集。本作は定年後の生活に材を得た作品を主に収録している。決してモーレツ社員タイプの人ではなかったらしく、嬉々として無職生活を堪能している様子に和む。視線は鋭いが飄々とした、時にとぼけたユーモアがあって、えらぶっていない。著者はいわゆる教養人だったのだろうが、周囲に何かを教えてやろうという姿勢は見られない。会社でも、さほど出世はせず、社会的な上昇志向はあまりない、むしろそういった価値観とは距離を置いていた人のようだ。そのスタンスが好ましい。定年後、贅沢はないもののそこそこ楽に生活できている様子は、やっぱり高度成長期の話だなという感じはしたが、著者の人となりはあまり高度成長期的ではない(笑)。




『本当のことしか言ってない』

長嶋有著
著者初の書評集。小説はもちろん、歌集や絵本、ゲーム関連本の評もあるところが著者ならではか。掲載されていた媒体も様々。比較的若い作家(中村航や島本理生を度々取り上げている)の小説が多いところに、この人たちをもっと世に知らしめなければ!・・・というほどではないにしろ、正当に評価したい、紹介したいという暑苦しくない使命感みたいなものも感じた。予想外に熱を帯びている。このあたりはちょっと意外だった。もっと他人行儀というか、同業者とは距離を置くスタンスのような気がしていたので。小説家としての矜持と、同じ矜持を持つであろう同業者に対するシンパシーがあるのだ。小説とは何か、小説がなぜ必要なのかと考え続ける姿勢が、書評の根底にもあるのだと思う(小説家や書評家は皆そうなのだろうが)。特に最後の方に収録された、筒井康隆『秒読み』に寄せた評は、直球で「文学は何の役に立つのか」と語っている。なお本著、著者の交友関係が垣間見えて楽しい。川上弘美との長電話の内容には爆笑してしまった。




『悪魔からの勲章』

 私立探偵・阿久根(田宮二郎)は、モデルで妹分の典子とドライブ中、交通事故現場に遭遇する。大怪我している男を病院に運んだ阿久根だが、この頃から、彼の周囲を怪しい男たちがうろつくようになり、とうとう拉致されてしまう。彼らは阿久根が何かを隠し持っていると思っているようなのだ。監督は村山三男、原作は藤原審爾の小説。1967年作品。
 冒頭のシャワーシーンといい、ラストの水着姿といい、田宮二郎のアイドル映画か!と思わず突っ込むくらい、とにかく田宮がかっこいい。私にとって若い頃の田宮二郎は(見た作品が偏っているので)、いつもいい車に乗って女性を口説いて(ないしは口説かれて)銃を撃っているイメージなのだが、本作もそんな感じ。ただ、腕っ節が強いわりにはすぐに殴られて気絶したりする。このへんのうかつさ(笑)はフィリップ・マーロウ(だけじゃなくて昔のハードボイルド小説の探偵)あたりを彷彿とさせる。マーロウは本作の阿久根ほど女ったらしではないが。
 女優陣も、当時のファッションと相まって見ていて楽しい。特にファム・ファタール的女性を演じる江波杏子は、いかにも何か事情がありそうな色っぽさがあって魅力的。終盤のどっしりとした構え方などとてもよかった。溌剌とボーイッシュな典子と対称的だった。
 横浜のヨットハーバーが頻繁に出てくるのだが、キザなセリフといい派手な立ち回りといい、「あぶない刑事」のルーツを見た感があった(笑)。横浜のちょっと日本離れした雰囲気(実際、船便で海外から入国してくる人も多かったろうし)が、当時は特に際立って見えたのかなと思った。浮世離れしたドラマの舞台にしやすかったのだろう。




『父子草』

 1967年、丸山誠治監督作品。脚本は木下恵介。ガードしたのおでん屋で、酔った土工・平井(渥美清)は常連客の青年・西村(石立鉄男)にケンカを吹っかける。後日、おでんやのおかみ・竹子(淡路恵子)から、西村が働きながら大学受験の為勉強している苦学生だと聞いた平井は、彼に生き別れた息子の面影を重ねる。
 渥美主演作の隠れた名作といった感じ。ベタはベタな人情話なのだが、渥美演じる平井の、時に周囲をイラっとさせるが朴訥とした気のいいキャラクターが、イヤミに見えない。渥美のセリフ回しのリズム感、こぶしのきかせ方みたいなものは、やっぱり上手いんだなと実感した。今だったらウザイ!と嫌がれそうなキャラクターでもあるのだが(作中でもちょっと嫌がられてるけど)、必要以上に下卑た感じにならないのは渥美の力だろう。また竹子役の淡路も、正に江戸っ子の女性風で、さばさばしていていい。人情ものだけど、人情があんまりうっとおしくないのだ。
 平井が自分のことを「生きていた英霊だ」と言い、その過去が語られるシーンがあるのだが、このあたりで客席から鼻をすする音が続々聞こえてきた。「生きていた英霊」とは太平洋戦争時に出征し、終戦後なかなか帰国できなかった為に死んだと思われていた人のことを、当時そういう呼び方をしたらしい。最初「えいれい」という音だけではぴんとこなかったが、途中で腑に落ちた。平井は戦死したものと思われており、ようやく帰国すると妻は弟と再婚しており、故郷にも居辛く、あちこちの工事現場を渡り歩く生活をしていたのだ。映画を見に来ていたのは戦争を体験したであろう世代の方が多かったので、こういうエピソードはかなり身近なものだったのだろう。優れた映画は基本、世代や国を越えた普遍的なものだと思うが、ある時代を体験したことでより迫ってくるものというのはやっぱりあるなと思った。
 おでんやのおでんの中に、妙に黒くて長細い、蟹の手のような形状のものがあったんだけど、あれは何だったんだろう・・・練りものって感じでもないんだよな・・・。また、おでん種を入れてる調理器の脇に、熱燗用の湯煎容器が設置されていたりして、屋台の仕掛けが何か面白くまじまじと眺めてしまった。




『ポップ中毒者の手記(約10年分)』

川勝正幸著
昨年急逝したライター/エディターである著者のポップ・カルチャー・コラム集。私は著者については名前くらいしか知らなかった・・・と思っていたのだが、仕事一覧を見ていると、知らずに様々な仕事を目にしていたことに気付いた。それだけ仕事が多く、その幅も広いということだろう。本著に出てくるポップカルチャー(特に音楽)には私はあまり馴染みがないのだが、それでも「あっこれ知ってる!」っていうものがあるんだもんなー。収録されているコラムは80年代半ばから90年代半ばのものなので、古さを感じないとは言えない。ああこんな時代があったよなー、こんなもの流行ってたよなーとしみじみ。語り口も、ああこういうの流行ってたわ~と懐かしい雰囲気が。正直好みの語り口とは言えないし、著者が取り上げているジャンルに対して疎いのでどの程度鋭い視線なのかはわからないのだが、著者がポップの目利きだったことはよくわかる。また、コラム内のエピソードのそこかしこから、人柄がいい人だったんだろうことが窺われる。デニス・ホッパーに「あんなに良くしてもらったことは生涯で初めてだった」と言われるなんて、言われた方は大感激だったろうけどそのエピソード読むだけでもぐっとくる。




『サイド・バイ・サイド:フィルムからデジタルへ』

 映画が誕生してから約100年間、記録媒体としてはフィルムが使われてきた。しかし近年、デジタル技術が発達し、撮影、編集、上映も配給もデジタルが主流に。第一線で活躍するハリウッドの監督や撮影監督たちに、フィルムとデジタルの行く末を尋ねるドキュメンタリー。案内役はキアヌ・リーブス、監督はクリス・ケニーリー。私は映画の技術面については疎いので、色々勉強になった。
 マーティン・スコセッシ、ジョージ・ルーカス、クリストファー・ノーラン、ジェームズ・キャメロン、スティーブン・ソダーバーグら、錚々たるメンバーへのインタビューで、かなり豪華。それぞれのフィルムとデジタルに対する考え方、スタンスが垣間見られる。デジタル推進派の筆頭はルーカス。新しい技術をどんどん取り入れてきた人だから当然といえば当然だろう。キャメロンなども同様で、新しい映像体験を開発したいという指向の人と、ロドリゲスのようにとにかく早撮りしてその場で確認したい!という人は、やはりデジタルと相性がいいみたい。スピーディに撮りたい人には、一度現像しなくてはならないフィルムは確かにまだるっこしいだろうな。
またデジタル派には、フィルムの経年による劣化が許せない!というスダーバーグのような人も。ソダーバーグは結構なフィルムdisを披露するのだが、彼の美学では自分が撮った絵そのままが保存されていないと「作品」とみなせないってことなんだろう。私は、経年によって傷が増えるのもまた味だろうと思うのだが、作家としてはやはり納得いかないのかもしれない。
 フィルムに愛着を持っている人たちも、ほどなくほぼすべての映画がデジタル撮影・上映になるだろうとは認めているし、その流れは止められないと考えている。フィルムを使うのは特別な場合のみになるだろうと。ただ、保存に関してはフィルムの方に強みがあるようだ。デジタルの場合、再生機の規格が頻繁に変わって再生できないケースが多々あること、またデジタル情報であってもいつまでも保存できるわけではないという難点がある。ルーカスはそういう弱点はいずれ克服されると言っていたが。このへんの事情は、出版物と同じだなと思った。本も、保存に関してはまだ紙に強みがあると思う。
ただ、フィルム派であれデジタル派であれ、どちらかじゃないと絶対だめ!という人は案外いない。どちらもいいよね、という人が多い。どちらも同じく仕える環境が維持されるのが理想なのかもしれないが、それは難しいのかな・・・。
 案内役はキアヌ・リーブス。なぜキアヌ?と思ったが、これが案外悪くない。利口ぶったり変にでしゃばったりしないところが、「案内」に徹している感じでいい。人あたりも結構ソフトだし、自然体、かつ各方面に角が立たなくて、案内役としてはいい人選だった。




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