3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『SCORE』

特集上映「暴力(ヴァイオレンス)の90年代」@シネマヴェーラにて仮釈放になった腕利き強盗のチャンス(小沢仁志)は“大佐”と呼ばれる男(宇梶剛士)から宝石店強盗を強要される。彼の保釈金は大佐が出したものだったのだ。チャンスは3人のなかまと強盗を成功させるが、逃げる途中でイカれた日本人カップルに強盗犯だと気付かれてすまう。監督は室賀厚。1995年作品。
こういうシーンが撮りたい!あの映画のアレをやってみたい!という熱い思いがほとばしっている。が、思いが先走っていて内容がついていっていない・・・。熱意の空回りに苦笑いするしかないのだが、その直情さがほほえましくもある。映画愛がこじれて才能が伴っていないとこういうことになるんだなと、生ぬるく微笑みつつ鑑賞した。正直、結構きつかった。
撮りたいシーン先行で作られたような作品なので、脚本は大分ユルい。突っ込み所がありすぎて突っ込み疲れしそうだった。お前らどんだけ不死身ですか!あれやこれややりたいのはわかるけど、色々引っ張りすぎだ!そこまで引っ張るならあそこで撃たれるなよ(笑)!最後の最後に大どんでん返しも控えているものの、それまでにやりたい放題だし突っ込みつかれているしで、ああそう・・・くらいの感慨しか沸かない。




『極道黒社会 Rainy Dog』

 特集上映「暴力(ヴァイオレンス)の90年代」@シネマヴェーラにて日本を追われ、台湾に身を潜めたヤクザ・優児(哀川翔)は、現地マフィアのホウに殺し屋として雇われている。ある日、女から「あなたの子よ」と少年チェンを押し付けられた。一方、日本から優児を追ってきた殺し屋・本阿弥(田口トモロヲ)はもう3年も任務を果たせずにいる。ホウから対立組織のクー・チーピン暗殺を依頼された優児は、クーのアジトの向かいの娼館に寝泊りし機会をうかがう。1997年、三池崇史監督作品。
 映像の質感がすごくいいなと思ったら、撮影はエドワード・ヤン『カップルズ』を撮った李以順だった。すごく「台湾映画」っぽい透明感ある質感なのだ。全編現地ロケ、スタッフも俳優も現地の人が主力という事情もあるのだろうが、あまり日本映画っぽいビジュアルではない。三池作品の中では異色といえば異色なのだろうか。ともあれ、ロケ地選びとかセット(本作はオールロケだと思うけど)って大事なんだな・・・。台北の風景の中以外で同じことをやったら、てんで安っぽくてつまらなかったかもしれない。
 ストーリーは大味で、冷静に見てると妙なところ(というかあんまりよく練られていない、粗い)も多いと思う。優児が娼婦リリーとチェンを連れて逃げるくだりは、いやそんなことやってないで早いところ遠くへ・・・!と突っ込みたくなった。しかし、それらの粗さを乗り越えてくるクライマックスは魅力的だった。中盤までは結構ダラダラしているなーと思っていたのだが、最後はびしっと潔く締めていて、ハードボイルド度が高い。ずるずるひっぱらないところがいい。三池作品というと色々過剰、飽和している印象があったけど、本作は案外ストイックだった。




『東京家族』

 瀬戸内海の島に暮らす平山周吉(橋爪功)と妻とみこ(吉行和子)は、子供達に会う為に上京してきた。しかし開業医の長男・幸一(西村雅彦)も美容師の長女・滋子(中嶋朋子)も仕事が忙しく、一緒に過ごせる時間はわずか。二男で末っ子の昌次(妻夫木聡)が観光に付き合うが、舞台美術の手伝いで食いつなぐ昌次は周吉から見れば頼りなく、一緒にいてもぎこちないばかりだった。監督は山田洋次。
 小津安二郎監督『東京物語』を下敷きにした、というよりも現代に置き換えてカバーしたというような作品。ストーリーの大枠だけでなく、低いカメラ位置やセリフ回し等も小津作品を踏襲している。見る人によっては不遜だ安易だと怒り出すかもしれない。が、見ているうちにやっぱり山田洋次の映画にしか見えなくなってくる。山田の映画作家としての強靭さを垣間見た感があった。当然だが、小津版とは全く違う映画になっている。山田作品のビジュアルや台詞回しは決して現代に即したものではないと思うのだが、そういう部分が木にならないし、多分、後年に見直しても古臭いとは感じない(まあ最初から古臭いからとも言えるが)んじゃないだろう。もちろん、『東京物語』の物語としての型の強さ、普遍性もあるのだろうが。一方で、『東京物語』における原節子のような存在はもはやなく、立ち居振る舞いを長男の妻(夏川結衣)が、優しさを二男の恋人(蒼井優)が少しずつ担っているにすぎない。二男の恋人は優しいが、所在のなさを昌次に率直に愚痴ったりするし、その昌次のフラフラとした風情といい、多少現代的かなと思う。
 作中に東日本大震災にまつわるエピソードが2箇所出てくる。周吉の友人の妻に関する部分はそんなに違和感なかったが、昌次とその恋人が知り合うきっかけが被災地でのボランティアだったというところは、ちょっと唐突でやりすぎなんじゃないかという気がした。ただ、『東京物語』で出てくる太平洋戦争の記憶が、本作では震災の記憶に置き換えられているのかなと思い当たった。『東京物語』を今見て「こういう時代だったんだ」と思うように、本作を後年に見ると、時代背景の一つとしてするっと入ってくるのではないかと。震災の記憶はまだ(私の中では)「時代背景」にはなっていないんだなと思った。




『フラッシュバック・メモリーズ 3D』

 3D版で鑑賞。ディジュリドゥ奏者のGOMAは、2009年11月26日、首都高速で追突事故に遭い、記憶の一部が消えたり、新しいことを覚えにくくなる、高次脳機能障害が残ってしまう。後日、MTBI(軽度外傷性脳損傷)と診断されるが、一時はディジュリドゥが楽器であることも、自分の職業もわからなくなっていた。リハビリを続け、徐々に演奏活動を再開していく様子を追ったドキュメンタリー。監督は松江哲明。
 記憶事故後、GOMAは徐々に記憶を取り戻していくが、その記憶は断片的なものであって、線で繋がっていない。以前は当たり前だったものが抜け落ちたり、意外な部分が残っていたりする。自分を形作っていたはずのものがバラバラになってしまって、どことどこが繋がるのかわからないというのは、とても不安だと思う。また、GOMAが事故後に急に絵を描くようになった(今までは特に描いたことはなかったそうだ)、それも点描による鮮やかな絵ばかりを大量に描き出したというのは不思議。彼によると事故の直後に見た情景なのだというが、脳のどこかのスイッチが入ったのか。
 その記憶の断片である、過去の写真や映像、当人の日記や家族による日記、そして事故後に描いた大量の絵が、ライブをしているゴマの背景に流れる。過去と現在(2011年のステージだそうだが)がようやくGOMAという人を形作るものとして、一つの集合体になったようだった。このイメージを作る為の3D投入だったのかと思う。手前のステージ上のGOMAを取り囲むものとしての背景、という印象が強まる。GOMA自身はこのステージのことも忘れてしまうのかもしれないが、記憶が彼の外側で保管され、構築しなおされているみたいだった。記憶は必ずしも、当人の中になくてもいいんじゃないかと思った。特にGOMAの妻の日記からは、家族が彼の記憶の肩代わりをしている側面があると強く感じた。
 音楽映画としても素晴らしい。見るならぜひ3Dで、音響のいい劇場でをお勧めする。3D化もよくできていて、すぐそばにステージがあるような臨場感。3D映画は、舞台劇とかライブとか、臨場感が重要なコンテンツと相性いいんだろうな。何にせよ、GOMAによるディジュリドゥ演奏の表現の豊かさ、グルーヴ感が気持ち良い。爆音上映とか、オールスタンディングOK上映とかやってほしい。




『アウトロー』

5 人の男女が射殺される、無差別殺人と思われる事件が起きた。残された物証から元陸軍兵のジェームズ・バーが容疑者として逮捕される。しかしバーは「ジャック・リーチャーを呼べ」とメッセージを残した後、他の囚人たちから暴行を受け、昏睡状態に。現れたリーチャー(トム・クルーズ)は元陸軍の秘密捜査官だった。彼はバーの弁護士ヘレン(ロザムンド・パイク)と共に事件の調査を始める。監督・脚本はクリストファー・マッカリー。原作はリー・チャイルド
ストーリーといい映像の風合いといい、どことなく懐かしさを感じさせる。アクションシーンが、近年多くなったカメラが激しく動きショットが目まぐるしく切り替わるスピード感の強いものではなく、やや引き目で一連の動きを見せるものなのには、個人的には好感を持った。アクション自体も、ともするともったりとした、重さのあるもの。このもったり感がいいんだよなー。肉体感が強くて何か安心する。
一昔前の感覚といえば、主人公であるリーチャーの造形もそうだろう。彼は組織のしがらみから抜け出した、もはや非公的な存在であり、掲げる正義もあくまで私的なもの。正義の相対化が常識となり、ヒーローであっても組織内しがらみによる苦悩が描かれるようになった現代のヒーローから見ると、少々前時代的にも見える。ただ、最早相対化ゲームのようになってしまった正義合戦に、映画を見る側も造る側も疲れてしまったのかなとも思った。お前が善いと思うことをやれ、という気分がきているのかなと。
トム・クルーズ主演ということでスター映画、大作映画扱いだが、映画としてはむしろ小粒の、B級オモシロ映画感が強い。おそらくトム・クルーズも監督も、「オモシロ映画」と思って作ったんじゃないかと思う。妙に笑えるシーンが多いのだ。予告編でも使われている電話を怒りのあまり切って、思いなおしてまた掛けて、というくだりはコントっぽいよなぁ・・・。チンピラの車を奪っちゃう(にやーっとして乗るんだよなこれがまた)のとか、風呂場の格闘とかもかなりコントっぽい。笑っていいところだと思うんだけど。音楽がやたらと重苦しいが野暮に思えた。
脇のキャスティングがなかなか良い。ヘレン役のロザムンド・パイクは、美人と言うには微妙で垢抜けない感じが最高だった。バストのゆれが全くセクシーに見えないところも。何なんだこの残念感・・・。また、敵のボス役が何と映画監督のヴェルナー・ヘルツォーク!不穏な空気を撒き散らしていて素敵だった。




『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』

 インド系カナダ人パイ・バテルの元に、執筆に煮詰まったライターが訪ねて来る。パイは彼に、信じられないような体験談をする。パイ一家はインドで動物園を営んでいたが、16歳の時に、動物を連れてカナダに移住することに。しかしカナダへ向かう船が嵐にあって遭難してしまう。パイ(スラージ・ジャルマ)は一人救命ボートで逃れるが、そこには船から逃げてきたベンガルトラもいた。監督はアン・リー。原作はヤン・マーテルの小説。
 3Dで見たのだが、美しい!冒頭の動物園の様子から心を捕まれたが、3D技術の真価が発揮されるのは、やはり水中のシーンだろう。光の差し込み方、屈折の仕方や奥行きなど、表現したいものと技術とがしっかり噛みあっているように思った。CGによる水の表現の上手さは、最近見た映画の中では頭一つ飛びぬけている印象。また、トラはフルCGだと思うのだが、これもとてもリアル。毛並みのもっふもふ感がヒゲの堅そうな感じなど、生々しい(痩せて骨格が出ている様子がまた生生しい)。技術力アピール映画としても優秀だと思う。
 本作、予告編を見た段階では、前述のようにCGでここまでできる!3D映画の最先端はこれだ!的な「技術力アピール映画」だと思っていた。が、実際に見てみると、物語としての厚み、奥行きが結構ある。これは、「物語」についての物語なのかなと。
 パイは、複数の宗教に興味を持ち、アラーもキリストも同じように信仰している。宗教には、混沌とした世界に道筋をつける、ストーリーとして受容しやすくするという側面があると思う。パイはこの世に対する「なぜ?」がいっぱいあって、人一倍、そういった「物語」を必要する人なのだろう。
 ラストでパイの語る物語は全く違った側面を見せるが、それはあくまでも「側面」であり、パイにより語られた物語の一部でしかない。どれが真実でどれが嘘、といったものではないのだ。その人にとって理解できる話法をとればいい、パイ本人にとって「そういうもの」でなければならなかったなら、それでいいのだと思う。




『鉄と鉛』

 特集上映「暴力(ヴァイオレンス)の90年代」@シネマヴェーラにて。探偵(渡瀬恒彦)の元へ暴力団浜健組組長(平泉成)が訪ねて来る。探偵が依頼を受けて探し出した男が、依頼人の女に殺された。その男は組長の一人息子、女は息子の愛人で別れ話が拗れていたのだ。妊娠中だった女の妻はショックで産気づき、早産だった子供は22時間13分で死んだ。組長は復讐の為、探偵の命の期限を22時間13分後と宣告し、子分の矢能(成瀬正孝)を見張りに付ける。探偵は残り時間を使って、少女に依頼された兄捜しを始める。監督・脚本はきうちかずひろ。
 日本のハードボイルド映画はこれだ!と言いたくなる秀作。ハードボイルドものって本当は派手な銃撃戦もカーチェイスもなくていい、こういうあっさりしたのでいいんだよ~。本作では一応銃は打ち合うしカーチェイスっぽいものもあるが、どちらもそんなに派手ではない。何より、作品に流れる情感があっさりとしていて乾いている。この手の作品だと往々にして浪花節になりがちなのだが(それはそれでいいんだけど)、かなり抑制されていると思う。だからこそ、探偵と矢能の間に生まれる友情めいた絆や、組長が必死な矢能からの電話に応える一言が胸を打つのだ。全編熱気に満ちていたら、これらの感情はかき消されてしまったかもれいない。理屈の通じない相手になけなしの意地と職業倫理を支えにあたっていく、探偵のストイシズムがかっこいい。
 命のタイムリミットが迫るサスペンス、少女の兄捜しというオーソドックスな探偵物語、そこに麻薬がらみのいざこざと、冒頭で提示される謎の2人組強盗犯の犯行が絡み、ひとつひとつのエピソードはシンプルなのだが、それらが絡み合って(しかも決して巧みにとは言えない)妙に混沌としたものになっている。さらっとした情感の手ざわりとのギャップがあるが、意外と話がすいすい進み、ご都合主義的な展開もあんまりご都合主義に見えないところが面白い。
 ロケ地は都内と横浜あたりかなという雰囲気。古いビルの屋上に事務所があるという設定、この手の映画やドラマでよく見るけど、どの作品が元祖なんだろうか。本作の事務所も、なかなかいい雰囲気。




『ゴーストライダー2』

 瀕死の父親を救う為、悪魔と契約して自ら悪魔に取り付かれた「ゴーストライダー」になったジョニー・ブレイズ(ニコラス・ケイジ)。人目を避けていた彼の元に、僧侶モローが訪ねて来る。悪魔の“器”として生まれた少年を守ってほしいというのだ。自分に取り付いた悪魔を退治することを条件に引き受けたジョニーだが、少年とその母・ナディアを悪魔の手先が追っていた。監督はマーク・ネヴェルダイン&ブライアン・テイラー。
 シリーズ2作目だが1作目との直接的な繋がりはなく、本作から見始めて全く問題ない。冒頭でジョニーがゴーストライダーとなった経緯やゴーストライダーがどんなものかもさらっと説明されるので、初心者にもやさしい仕様。展開は非常にさくさくと進み、実にシンプル。話を進めるのに必要なことしかやっていないという感じだ。シンプルというよりも、エピソードを膨らませる技術がないという気もするが・・・。
 悪魔との契約関係にしろ強さの度合いにしろ、能力の条件にしろ、設定がかなりユルくて大味。かなり大雑把な映画ではある。ただ、好きか嫌いかと問われれば結構好きだ。上映時間がほど良い(2時間以下)し、バイクは結構見栄えするし、何よりケイジが楽しそうだ。ニコラス・ケイジのニコラス・ケイジによるニコラス・ケイジの為の映画と言っても過言ではない。ゴーストライダーに体を乗っ取られかけている演技など、間接カタカタプルプルさせすぎで、もうノリノリである。さすがハリウッド一(たぶん)アメコミを愛する男。今回はゴーストライダーの中の人もケイジが演じているそうだ。
 大味な映画ではあるが、懐かしいゴツゴツ感のあるカーアクションは結構楽しい。ちょっとタランティーノ監督の『デス・プルーフ』を思い出した。また今回ではゴーストライダーが乗った車輌は全部ゴースト仕様になるという事実が明らかになるのだが(笑)、炎をまとって疾走するバイクは結構かっこよかった。えっこれもゴースト仕様になるの?!と笑っちゃったシーンもある。ちなみにバイクはYAMAHA製品。バイクアクションには日本車が向いているのだとか。ジョニーは元バイクスタントマンという設定なので、子供を乗せて曲乗りする微笑ましいシーンもある。




『東ベルリンから来た女』

 1980年、東ドイツ。ベルリンから東ドイツの田舎町に赴任してきた医者バルバラ(ニーナ・ホス)。彼女は西側への移住申請が許可されず、実質は「赴任」ではなく左遷、しかもシュタージ(秘密警察)に監視されていた。西ドイツに住む恋人ヨルクの助けを得て脱出に備えるが、実直な同僚のアンドレ(ロナルド・ツェアフェエルト)や、患者の少女ステラの存在に気持ちは揺れていた。監督はクリスティアン・ベッツォルト。
 季節は夏、日差しも木々の緑も目に眩しく、田園風景は美しく長閑。風の音が印象に残り開放的ですらある。しかし、バルバラには常に監視者の視線がまとわりついている。悪意や敵意というよりも、お互いに監視し危険分子は密告するのが当然だから、それが共同体の為だからという世界なので、ひとたびこういうシステムに反感を持ってしまうと息苦しくて実にしんどそう。風景が長閑なだけに、より剣呑さが感じられる。田舎の狭量さというのとはまた違う鋭さなのだ。
 バルバラは西へ脱出する気満々なのだが、アンドレの医者としての情熱と誠意や、自分を頼りにしてくる少女ステラとの関わりで、その決意も揺らぎ始める。アンドレに惹かれたというのも一因だろうが、それ以上に、医者として、大人としての責任、使命感故に決意が揺らいだのではないかと思う。その過程を、シークエンスを丁寧に積み重ねて描いていく。バルバラがどういう人なのか、という部分もちょっとしたやりとりやしぐさから、さりげなく見えてくる。元々があまり周囲と慣れ合う人ではなく、言動はつっけんどんでフレンドリーとは程遠い。しかし傷ついた少女への思いやりは深いし、医者としての矜持もある。その果てにある選択には胸を打たれた。どんな選択が彼女にとっての「自由」なのか、より良く生きるとはどういうことなのかを思わせる、ラストシーンの表情が印象的。やることを見極めたからこそのこの顔なのだと。
 エンドロールの曲も、この表情を引き継ぐものだと思う。歌詞の日本語字幕はつかなかったのだが、多分かなり考えて選ばれた曲だと思うので、つけたほうがよかったんじゃないかなと残念だ。
 なお、当時の東ドイツの地方の生活の雰囲気が感じられるのも面白かった。病院の設備があまり充実していなくて自作の実験器具があるとか、勤務がすごく過酷そうだとか(夜勤が眠そうでね~)、人もお金も足りない感じが侘しい。




『ヴェニスを見て死ね』

木村二郎著
ニューヨークに事務所を構えている探偵の「おれ」ことヴェニス。ある日事務所を訪れた女性が、名前を確認するなり発砲してきた。反撃したものの、女性を死なせてしまう・・・。表題作を含む5短編を収録。著者はエドワード・D・ホックやジョー・ゴアズの翻訳で知られる翻訳家。本作は著者初の自作小説となるそうだ。マーロウやスカダーなどの探偵が活躍するハードボイルドを思わせる作風だが、著者自身は“スクランブルド”私立探偵小説と呼んでほしいとのこと。確かに、いわゆるハードボイルド小説の探偵よりも、職業としての「探偵」を思わせる主人公だ。地味といえば地味だが、ジャズや映画への(そしてもちろん海外ミステリへの)オマージュに満ちていて読んでいて心地が良い。舞台は1990年代のようだが、もう一昔、二昔の空気感。




『アルバート氏の人生』

 19世紀アイルランド。ダブリンのホテルで働くアルバート(グレン・クロース)はそつのない働きぶりで、オーナーのベイカー夫人や常連客からは信頼されていた。しかし彼はある秘密を抱え、孤独な人生を歩んできていた。ある日、ペンキ職人のヒューバートと出会い、アルバートの人生は大きく動く。監督はロドリゴ・ガルシア。
 予告編で既に明かされているので言及して支障ないと思うが、アルバートは実は女性で、生活するために長年男性として生きてきたのだ。当然、秘密を守る為に他人と深く関わることは避け、親しい友人も作らずにいたのだろう。仕事以外の場でのアルバートの対人関係の不器用さ、空気の読めなささは、人生の中に「相手」がいなかったから、対人関係のスキルが要求されるシチュエーションがこれまでなかったからなんだろうなと垣間見えてくる。また、アルバートの行動が時に暴走めくのは、自己完結していて相手の気持ちを慮る行為が抜けているからなんだろう。そういう部分からも、ずっと一人でいた人なんだろうなと思えてくる。
 ヒューバートによって、アルバートは、自分は一人でいなくてもいい、誰かと人生を分かち合える可能性があるということを示唆される。ただアルバートの場合、かなり思い込みが激しいので、他者に対するアプローチが妙なことになってしまうのだが。それでも、アルバートは一生懸命だし、ついには「誰か」の為に声を発し体を張ることになる。
 アルバートの人生を、ホテル付きの医者は哀れだと評する。しかし、本当に哀れだったかどうかは本人にしかわからない。人生の意味も価値も人それぞれだろう。ガルシア監督はこれまでの作品でも一貫して、そういうことを描いていたように思う。
 19世紀アイルランドの風景や、庶民の生活、職業が垣間見られるところも面白い。アルバートが男装していたのはお金をかせぐ為であると同時に、レイプ防止の為でもあったんだろうな・・・。セクシャリティの問題ももちろんあるんだろうけど、それよりも生活の問題の方が前面に出ている。あと、やっぱり階級社会なんだなと。上流階級の「秘密」は同じ階層の人たちに対して守られるべきもので、使用人に対しては、同じ人間じゃない、というと言いすぎかもしれないが、世界が違うから秘密の意味自体がないという感じ。




『失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選』

フリードリヒ・デュレンマット著、増本浩子訳
いつも乗っている列車が徐々にスピードを上げていく「トンネル」、独裁支配国家の会議の場で閣僚たちの疑心暗鬼と心理戦「失脚」、鄙びた村の宿に泊まることになった男の一夜を描く「故障」、年老いた巫女がかつて下した神託を振り返る「巫女の死」、4篇を収録。「トンネル」「故障」は似たような怖さがあった。事態がある一方向へどんどん押しやられていき、何か良くわからないうちに引き返せなくなっている。降りても地獄、乗り続けても地獄という逃げ場のなさ!特に「トンネル」は著者が少年時代に体験した戦時下の雰囲気を思わせる。おかしいなと思っていても周囲がそういうそぶりを見せていないというところがまた怖い。「失脚」は、執筆された当時ならソ連あたりを思わせるある国が舞台。人を動かすのでは欲ではなく恐怖だという部分は、「巫女の死」にも通じる。その「巫女の死」は2013年(実際に執筆されたのは1979年だが)「このミステリーがすごい!」海外部門第5位にノミネートされたのも納得な、優れた本格ミステリでもありギリシア悲劇のパロディでもある。本著の中では、私にとっては随一の面白さ。どの作品も一見悲劇的な結末、真相が待ち受けるが、それは人間の愚かさ、おかしさの結末として訪れるもので、喜劇的でもある。著者は自作は全て喜劇と位置付けていたそうだ。




『塀の中のジュリアス・シーザー』

 イタリアにあるレビッビア刑務所では、更正プログラムの一貫として、囚人達による演劇実習が定期的に行われている。完成した舞台は一般の観客が鑑賞する。今回は、演出家ファビオ・カヴァッリが手がけるシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』。オーディションが行われ、稽古が始まる。監督はパオロ・タヴィアーニ&ヴィットリオ・タヴィアーニ。
 映画は、舞台「ジュリアス・シーザー」のクライマックスから始まる。客席の喝采の後、俳優たちが退場し、画面はモノクロに。そして時間を遡り、オーディションから練習風景を追っていく。映画に登場する囚人たちは実際の受刑者たちで、実際に「ジュリアス・シーザー」を演じた(ブルータスを演じる人だけ既に出所してプロの俳優になっている)。ただドキュメンタリーとしてはかなり脚色しており(監督へのインタビューによれば脚本に沿って進めている)、明らかに出演者がカメラを意識した、カメラのために動くショットになっているし、フィクションとまぜこぜになっているという感じ。そこの曖昧さが、却って「演じる」という行為を感じさせて面白い。
 昨年見た(私の中では邦画ベスト1の)想田和弘監督『演劇1,2』を思い出した。『演劇1,2』は劇作家・演出家である平田オリザを追ったドキュメンタリーだが、人間は演じる生き物である、日常的に人は何らかの「演技」をしているという部分が、本作と被ってくるのだ。本作の場合、映画内言語はイタリア語で、私は音声としての言語のニュアンスは殆どわからない。当然字幕に頼ることになるが、文字列はフラットでニュアンスが出難いので、どこが芝居のセリフでどこが日常会話なのかわからなくなる時があった。なので、余計に芝居とそれ以外とがシームレスに感じられたのかもしれない(イタリア語圏の人が見たら、また違う感想が出るんじゃないかと思う)。
 また、「ジュリアス・シーザー」という戯曲自体が相当面白いということも再確認した。謀略と裏切りの物語を演じるのが、そういうものに近いであろう受刑者(罪状を見るとマフィア関連犯罪の人が結構多い)であるというところも、戯曲の内容と演じる人たちが重なっていく感じをより強めているように(安易な感じ方だとは思うが)感じた。「ジュリアス・シーザー」が自由を獲得しようとした側が敗北するという話であるのは、ちょっと意地悪だと思ったが。
 撮影は全て刑務所内で行われている。限られた空間の中でのショットの切り取り方が美しい。ミニマムさが演劇のセットとして意外と効果的だ。また、受刑者の房によって生活感の出方が少しずつ違うところが面白い。窓の外に洗濯物を干しているのには驚いた。




『夜の写本師』

乾石智子著
右手に月石、左手に黒曜石、口の中に真珠を持って生まれてきた少年カリュドウ。辺境の村で魔女エイシャに育てられたが、エイシャと幼馴染の少女が魔導師アンジストに殺されるのを目の当たりにし、復讐を誓う。やがてカリュドウは、本を媒介に力を発揮する“夜の写本師”を目指し修行を積むようになる。最近ファンタジー小説とは疎遠だったのだが、久しぶりに引き込まれて一気に読んだ作品。ファンタジーにしろSFにしろ、異世界を舞台とした小説の優れたものは、ことこまかに説明しなくても読んでいると目の前にその作品内の世界、その世界の価値観がぶわーっと立ち上がってくる。これでデビュー作というから驚き。そりゃあ評価高くなるわ・・・。数百年の時を越える執念に満ちた復讐譚でもあり、カリュドウも決して清廉潔白な存在ではない。魔術は常に闇を孕むという世界観で、いわゆる善悪・光と闇がぱっきりわかれているわけではない。が、その憎しみの流れを最後に断とうとする意思、人間の持つ美しいものにもう一度賭けようとする姿に希望が見える。




『みなさん、さようなら』

 1981年、小学校を卒業した渡会悟(濱田岳)は、一生団地の中だけで生きていくと決意する。中学校には通わず、読書に筋トレに団地内パトロールといった日課を規則正しくこなしていく日々。3年後、悟は団地内のケーキ店に就職。団地に住む恋人も出来た。しかし小学校の同窓生たちは徐々に団地から去っていく。監督は中村義洋。原作は久保寺健彦の同名小説。
 悟が団地から出なくなったのは、ある事件がきっかけだ。作中でも言及されるように、確かにショックな事件だろうけどそこまでするのか、と思う面もある。しかし、苦しさへの相対し方、人生との戦い方、そして折り合いの付け方は人それぞれだ。他人から見たら滑稽に見えるかもしれないが、本人にとっては真剣な問題なのだ。
 悟の同級生はどんどん団地から出て行って、彼は最後の1人になってしまう。しかし、本当は1人ではなく、ずっと一緒に戦ってくれていた人がいた。悟が一歩を踏み出すきっかけもその人だったというのは、月並みではあるが、納得出来るしすごく説得力がある。結局そこかよ!という思う一方で、やっぱりそれしかないかもなとも思うのだ。ストーリーの表面上には人物はあまり出てこないのだが、そこもまた、そういう存在のあり方として腑に落ちる。
 悟の小学校卒業時から青年時代までを一貫して、濱田が演じる。この人にしか出来ないだろう。最早特殊俳優の域に入っている(にもかかわらず全然普通の人の役もできる!)貴重な人材だよなぁと実感した。脇役もいい。特に、悟にとって大きな存在となる2人の女の子を倉科カナと波留が演じていて、それぞれ「こういう子」という雰囲気がすごく出ていたと思う。何年かにわたっての話なので徐々に風貌、ファッションも変わっていくのだが、その調整も良く出来ていたと思う。また、大人になった悟が仲良くなる少女の父親役が田中圭なのだが、この人最近こういう役ばっかりやっている気がするな!嫌な感じの出し方が上手い!
 悟の人生の物語であると同時に、団地の歴史を追う物語でもある。大規模に造成されていた当時は、夢を託されていたんだなぁと。ただ、その「夢」にはまりきれない、団地のような場所では行き難い人も少なからずいたと思う。悟の隣に住む女の子には、そういう側面を感じた。
 中村監督の仕事の手堅さ、安定性の高さを改めて感じた。正直、私にとってはあまりツボではないしさほど気分が乗る物語でもないのだが、それでも面白く見られたのは、映画としての基礎力の高さがあったからだと思う。




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