ウィリアム・フォークナー著、鹿島祥造訳
1937年、夫と2人の子供をもつシャーロットと恋に落ちたヘンリーは、2人だけの世界を求めてさまよい、海辺の別荘地にたどり着く。しかしシャーロットの肉体は危機的な状況にあった。1927年、ミシシピイ河の洪水に遭遇した囚人は仲間とはぐれボートで漂流する中、妊婦を助ける。「野生の棕櫚」「オールド・マン」2つの異なる物語が章ごとに交互に配置されるフォークナー中期の長編小説。
フォークナーてこんな作品も書いていたのか!当時(1939年)としてはかなり実験的だったのではないだろうか。巻末の解説によると、当初「野生の棕櫚」を執筆していた所、どうもこれだけでは何か欠けていると考え、「野生の棕櫚」をより際立たせるために「オールド・マン」を対比させる意図でこういった構成になったそうだ。執筆過程としても、最初から順番に、つまり「野生の棕櫚」の章を書いてから「オールド・マン」の章を書き、また「野生の棕櫚」を書き、という読者が読むのと同じ順番で進めていったようなので、制作の過程でもはっきりと対比・呼応させあうという意図があったと思われる。とは言え2つの物語は場所も時代も登場人物もストーリーも全く別物だ。男性と女性、妊娠、(規模は違うが)放浪、といった共通のモチーフはあるものの、物語としてリンクするわけではない。なぜ著者はこういう構成にしたのか釈然としないまま読んでいたのだが、徐々に対比の意図が感じられてきた。
「野生の棕櫚」の主人公であるヘンリーとシャーロットは2人の情熱のみで純化された世界を生きようとする。世間や社会的な規範からは遁走し続けるのだ。しかし生きている以上衣食住は必要で、貨幣の世界からは逃れられない。同時にヘンリーの場合、シャーロットとの関係にのみ生きたいのと同時に、いわゆる社会に適応して生きる、労働することへの恐怖と抵抗感が色濃く感じられる。2人のロマンスは時代がかっているのだが、ヘンリーのこの動けなさみたいなものは妙に現代的で面白い。そして、社会的な規範から逃れようとするのにシャーロットの妊娠と中絶をするか否かというもろ社会的な規範をはらむ問題に直面し、肝心な所で規範に拘ってしまい、ついにそこからも逃避し続ける(リミットがあることなので逃げてる場合か!と現代人ならずとも突っ込みたくなるだろう)。一歩間違えるとヒモ小説だ。いやヘンリーはヒモになる開き直りすらできない、中途半端な存在のままだ。
一方で「オールド・マン」の主人公である囚人は何らかの情熱や強い意欲を持っているかというとそうでもなく、危機を脱するのは生存本能と運、道中で妊婦を助けるのもたまたまで特に道義心に駆られるわけでもない。また脱獄のチャンスなのにちゃんと刑務官らのところに戻ろうとしており、社会の規範からずれた所にいるのに規範の中に戻ろうとする。彼は行くべき所ややるべき仕事があると安心し、世間をあまり拒否しない、というよりもそういうものだという納得の中で生きているように見えた。ロマンチシズムが皆無なのだ。この姿勢が2つの物語を対称的なものにしているように思えた。著者が当初重点を置いていたのは「野生の棕櫚」の方なのだろうが、通して読むとむしろ「オールド・マン」の方に妙な魅力を感じた。「野生の棕櫚」における妊娠と中絶の扱いが時代背景があるとはいえかなりひどくて、現代の視点で読むと退くいうのもあるのだが、こういうロマンチシズムとその敗北というモチーフが現代にはもう通じないという面もあるかもしれない。